影を歩く

影を歩く

古語辞典で「影」をひくと、筆頭の意味に「光」と出てくる。日の光、月光、光り輝くものを、古の人間は「影」と捉えた。月影とはすなわち月の光のことでもあった。いつから光と影とは明確に分かれたのだろう。二つを再び一つの混沌に戻してやることは可能だろうか。あるいは今、光のあたっているところを退かせ、影に入っているものらを前面に押し出してみるのは。(中略)影は影として、そっとしておいたほうがいい。そう思いながら、影へ踏み出す。低い声で語ろう。影が騒ぎ出さないように。(第1回目より)

 


  第四回(2017.05.31)

清水さんは、許さない

 すれ違いざまの痴漢にあった。
 若い頃の話。夏であった。スカートの上から、いきなり下半身に手が押し当てられ、その手は下から上へ、ずりあげられた。
 男は悪気もなく、逃げるでもなく、そのままの速度で歩き去った。瞬間、氷付き、何もできなかった。ショックを覚えた瞬間というものは、ほぼ完全なかたちで冷凍される。こうした瞬間映像記憶保持能力というものは、特殊なものではなく、どんな人にもあると思う。ただ普段は忘れていて、それが何かの拍子に、顔を現すだけだ。
 背広を着て、黒いメガネをかけた、至極平凡なサラリーマンだった。背が高く、有能そうにすら見えた。優しそうな顔といってもよかった。仲間たちと連れ立っていたが、彼らは彼がすれ違った女に何をしたのかを、まるでわかっていないようだった。怒りと恐怖で振り返ったとき、その人は、へらへらとわたしを見て笑った。顔の細部は溶けてしまった、はずなのだが、へらへらというその笑い顔だけは、空気中を漂う微生物のごとく、思い出せば眼前に、ふわふわと現れいでる。焦点を結ぶ前に、わたしは振り払ってしまう。
 以来、「人とすれ違う」という行為の意味が変わった。すれ違うとは刺し違えるに等しい、どこか常に緊張を伴うものになった。

 むかし、といっても一九九〇年のことだが、「櫻の園」という映画があった。女子校演劇部のある日の数時間を描いたもので、普段は忘れている。変なときに思い出すのは、劇中に流れていた音楽のせいかもしれない。モンポウの「ショパンの主題による変奏曲」が使われていて、元になっているのが、ショパンのピアノ前奏曲七番イ長調。これは太田胃散のCMにも使われたから、広く知られている。時間のねじを狂わせるような陶酔感があり、実際、あの映画に流れる時間を、伸ばしたり、縮めたり、巻き上げたり、溶かしたりと、調整することに成功していた。話自体が、創立記念日の、芝居を上演するまでの数時間という設定だが、映画そのものの上映時間は、せいぜい一時間と少しだった。
 次のような場面がある。
 三年の女子二人が、先生から呼び出され、進路指導室で演劇部の顧問を待っている。一人は演劇部の部長、清水さん。もう一人は、数日前に校外でタバコを吸い、警察に補導された杉山さん。杉山さんのせいで、演劇部恒例の記念公演、チェーホフの「桜の園」の上演が中止されるかもしれない。二人はおそらく、中止か続行かの結論を待っているのだ。
 ふと、話の流れで、清水さんが小学生のころの思い出を話す。同級生の男子に、生理のナプキンをとりあげられ、皆の前でからかわれた。「わたし、一生、許さないの。彼がどんなにえらくなろうと、わたしにとっては、あのときのままよ……生涯、恨んでやるの」
 許せない、ではなく、許さない。意志的で、生真面目で、思い詰めたような言い方には冷水を浴びせるような厳しさがあり、彼女はその言葉どおり、生涯かけてその男子を許さないであろうと観ている者に信じさせる。
 それを聞いていた杉山さんは、ふと彼女の顔を見やる。二人は正面でなく、90℃の角度に座っている。杉山さんは落ち着き払った真顔で言う。
「許さなくっていいんですよ、別に」。
 同い年なのに丁寧語を使っているのは、清水さんがきっと優等生だから。
 清水さんは、喫煙でつかまるような杉山さんを(正確には、事件のおこったとき、杉山さんはタバコを吸っていなかったのだが、仲間が吸っていてつかまった)、今までよくは思っていなかった。けれど今は、そんな不良性にひそかにあこがれているようだ。それはたぶん、清水さんが恋をしているから。
 彼女は演劇部にいる、背の高い女の子、倉田さんがとても好きなのだ。恋する清水さんは、自分の殻を破ってはばたきたい。はばたきたいが、自分の翼をまだ使いかねている。そんな青春期の重たさを、中島ひろ子という役者がうまく演じている。彼女は実際、鳩のような顔をしている。
 杉山さんは、そんな清水さんのことを、実はひそかに好きなのだったが、清水さんが自分でなく、倉田さんを好きなことをよく知っていて、片思いのポジションをけなげに保持している。
 髪にパーマをかけてきた清水さんに、杉山さんは、似合いますねと言い、倉田さん、なんて言っていた? と問いかける。どうしてそんなこと聞くの? と清水さん。ちょっと飛ばして、会話を書き留めてみると、
「だって清水さん、倉田さんのこと、好きなんでしょう」
「どういう意味?」
「どういう意味って、言葉どおりの意味だけど。だって、いつも見てるし……あ、でも、別に、レズとか、そういう意味じゃなくって」
 こんな繊細な言い方を、杉山という子はする。そうね、レズビアンとか、そんな言葉を使うと、彼女たちの「あいだ」が、何か違うものに変節してしまいそう。彼女たちは、自分たちの感情を安々と名付けたくはない。更地にしておきたい。いつも何かに名前をつけるのは、外側から来る力。わたしたちは、最初はみな、祝福された名無しだった。なにものでもないものだった。彼女たちの会話は、わたしたちにそんなことまで思い出させる。  杉山さんの清水さんへの恋情は、どこにも収まる場所を持たない。しかし杉山さんは、むくわれないからといって、あばれるわけでもない。自分の感情を、自分の内に、船の錨をおろすように沈め、孤独を抱く。
 ああ、真性の恋って片思いのことだな。のんきな両思いなんか、恋のうちに入らない。わたしは切実に、そう思う。
 杉山さんを演じていたのは、つみきみほという役者で、この映画の彼女は、誰よりも輝いていた。
 ここで、清水さんの言った、「許さないの」というせりふまで、ちょっと場面を巻き戻してみる。
 これを書いている今、わたしにも、許さないと決めた清水さん的なもの、男性への処罰感情が、心の底に眠っていることを認める。女は(わたしは、と言ってもいいが)、実は男が嫌いで、男も女が嫌い。そしてだからこそ、その逆もある。
 杉山さんの「許さなくていい」という言い方は、非常にぶっきらぼうだが、底のほうには慈愛のようなものがあり、観ている者の胸に広がる。女の子たちは決意している。
 けれど「許さない」などと言う清水さんを、たいていの大人は「処女の潔癖さ」などという言葉で片付けたがるだろう。だが許さないのは処女だけではない。処女であった女たちも、皆、許さない。大人になるのは、許すことなんかじゃない。
 経験は積み重なっていくが、処女であったということも経験のひとつで、処女でなくなったとしても、処女であったところがぬりつぶされていくわけではない。処女であったという事実がなくなってしまうわけでもない。それはそのまま、ある時代の感覚として、一人の女のなかに保持されていく。消えるのではなく、肉体の感覚として、わたしの一部となり、残り続けていく。
 時間は一人の人間のなかに、どのように積み重なっていくのだろうか。少なくともそれは、物語のような「線」ではない。起承転結を持つ流れなどではない。いつ、どこで、五歳のわたし、二十歳のわたしの、ある日あるときの感覚が飛び出してくるか、わからない。とすれば、人の時間は、螺旋状、あるいは渦巻き状か、いや、時間なんてそんなもの、そもそも最初から「ない」んじゃないか?

 このあいだ、近所の、新しくできた美容院へ行った。わたしの髪は、白髪だらけだが、もういい加減、髪を染めるのが苦痛になってきた。できたらもう、染めたくはないんです。このままじわじわと年老いていきたいんです。そう言うと、まだ三十代と思える美容師は、「染めなくていいです。そのままでかっこいいです」とぶっきらぼうに言う。
 え、そうなの? このままでいいのね?
 言葉に出さずにわたしは驚いていた。わたしはわたしの希望を控えめに述べ、それを簡単に肯定された。ただそれだけのことなのに、喜ぶより前に驚いてしまった。初めて「染めなくていい」という人に出会ったからだ。
 自分の思ったとおりに生きているように思われているが、わたしはそうではない。わたしは許されたような気持ちになった。解放された。わたしは白髪頭のおばあさんになったが、別のあるときは処女かもしれない。不気味ですね。でもそういうものですよ。
「染めなくていいんですよ」
「許さなくていいんですよ」
 杉山さんの声が重なって聴こえた。

 

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 小池昌代(こいけ・まさよ)
1959年東京生まれ。詩と小説に従事。津田塾大学国際関係学科卒。詩集に『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『ババ、バサラ、サラバ』(小野十三郎賞)、『コルカタ』思潮社(萩原朔太郎賞)などがある。小説・エッセイに『屋上への誘惑』岩波書店(講談社エッセイ賞)、短編集『タタド』新潮社(表題作で川端康成文学賞)、長編小説『たまもの』講談社(泉鏡花文学賞)などがある。