影を歩く

影を歩く

古語辞典で「影」をひくと、筆頭の意味に「光」と出てくる。日の光、月光、光り輝くものを、古の人間は「影」と捉えた。月影とはすなわち月の光のことでもあった。いつから光と影とは明確に分かれたのだろう。二つを再び一つの混沌に戻してやることは可能だろうか。あるいは今、光のあたっているところを退かせ、影に入っているものらを前面に押し出してみるのは。(中略)影は影として、そっとしておいたほうがいい。そう思いながら、影へ踏み出す。低い声で語ろう。影が騒ぎ出さないように。(第1回目より)

 


  第九回(2018.02.09)

塩をまきに

「実は危篤なのよ」と母からは聞いていた。けれどその声にはどこかのんきな調子も漂っていて、実際、危篤と言われてからも、父は話したり微笑んだり、周囲の支えはあっても、一人で立ってトイレに行ったりした。
 一年前、妹が実家に戻ってくれ、終末医療を施してくれる地域の医療スタッフも見つかって、いわゆる自宅ホスピスとしての父のみとりが始まった。みとりといっても、その頃はまだ、みとられるひとも立って歩けた。わたしは思っていた。父はまだまだ、しばらく死なないと。
 ふがいない姉である。時折、実家に通うくらいで、何かしたというほどのことは何もしていない。大変だったのは、ひとえに妹だ。その彼女が言うにはそれぞれの役割があるのだから、おねえさんはおねえさんしかできないことで親孝行すればいいということだった。妹はときどき、その場にいる誰をも、一瞬で言いおさめるようなことを言う。
 それに甘んじたわけではないが、気が楽になったのは確かだった。わたしが文や詩を書くことを父はよろこんでいた。感想を言ったりすることは一度もなかったが、いつも無言の応援があった。
 親というのは、いやこれは、わたしの親に限ったことかもしれないが、批評家ではないので、中身や内容については立ち入らない。どこかに書いたという事実や、本になったという、目に見える結果だけをいつも静かによろこんでいる。批評家どころか読者にもならない。身内に読まれたら困るようなことをわたしは書いたから、読者になられてはわたしのほうが困るのだったが、その点、母も妹も無関心で、関心を示してくれるのは父だけだった。
 しかしたとえ読んだとしても、父は客観的に読むというのではないから、どちらかといえば「見る」ということになる。本の佇まい、あるいは掲載してある頁の佇まいを「見る」。あるいはわたしの名前をそこに確認して満足する−−―。
 数年前、わたしはある雑誌で、絵を描き、短文を書き、両方をあわせて載せるという、とてもめぐまれた連載をした。妹が言うには、父は最後、眠れなくなると、その雑誌の、わたしの描いた絵の頁を「見ていた」そうだ。絵は正真正銘、見ることのなかで完結する。しかし言葉は、読み、意味に変換し、イメージを立ち上げたりと、作業が複雑で忙しい。さらにそれが小さな活字だと、それだけでもう読む気を失う場合もある。絵と言葉があれば、言葉はこうして敗退し、よりプリミティブな位相にある「絵」が、末期の感覚にも、かろうじて訴えかける。
 死の床にある父に、わたしはかけるべき言葉がみつからなかった。それよりも、しわだらけの手の甲にクリームを塗ったり、懐かしい歌を歌ってみることのほうが、よほどに意味あることに思われた。言葉はそこでも、あたかかい沈黙に負け、無力なものとして退けられた。
 わたしの本やわたしの関係する雑誌の類が、実家にはたくさんあったが、それらは父が勝手に注文したり本屋で買い求めたものであった。同じものが何冊もあったのは、誰かに差し上げようとしたためだろう。だがそれも、父がいよいよ立ち上がれなくなれば、ただの無意味の山となる。
 そんなある日、わたしはできたばかりの、新刊書を持って、実家へ行った。
「お父さん、深川のことを書いた幼年記ができたのよ」
 枕元で父に報告する。生まれ故郷の深川を、誰よりも愛し誇りにした父は、話し好きで、べらんめえ口調というには、すこしばかり上品な物言いをしたが、「ひ」と「し」が混同し、顔つきからして、やっぱり最後の江戸っ子といっていい。わたしの幼年記は、そのような父の最期に、ぎりぎり間に合ったという安堵があった。
 しかし当人はこんこんと眠り続けていて、反応らしきものが返ってくるわけでもない。
「お父さん、わたしの本がもう、わからないみたいね」
 そう言うと、妹は、
「いよいよ最期となれば、本当に必要のないものと必要なものがはっきりしてくるのよ」
 妹は意地悪なことや皮肉を言う人間ではない。わたしの本などは、確かに父にとって、捨てられるべき地上の芥のひとつになったのだろうと納得できた。
 だがそんな妹も、「お父さんが眠れないときに見ていたから、おねえさんの絵の載った雑誌、お棺のなかに入れたら?」と提案してくれた。
 該当頁を開き、花でいっぱいのお棺に、最後、雑誌をさしいれた。
 それに気付いた叔母の一人が
「あら、その絵、誰が描いたの?」と言った。
 絵が好きな叔母だ。自分では彫刻をやる。
「わたしよ」
「あら、まあ、あなた、こんなの描くの。知らなかったわ。ゆっくり見たいわ。これっきり?」
「まだ、まだ、たくさんあるわよ」
 実際、父が買い集めた同じ雑誌が、家にはまだまだたくさんあるはずだ。
 お棺の中の父の頭越しに、そんな会話を交わしてみると、わたしたちからは、確かに生きている者の俗臭が立ち上り、そして父は、もはや、いない。花に埋もれた父は別人のようだったが、そんな父の死に顔を、わたしはもう幾度となく想像して、知っていたような気がした。
 十年以上前のことだが、一度、ある文芸誌に、わたしについての文章が載ったことがある。父はそれを好意的なものとすっかり勘違いし、喜々として本屋へ行き、買い求め、読んだ。そして驚き、がっかりした。「ひどいねえ」と一言、母に言ったと聞いた。だがわたしには一言も言わなかった。本人よりも父のほうが、ずっと傷ついたのではないかと今も思う。
 最後、父の身体には、免疫力が極端に落ちたせいか、むごい帯状疱疹ができていた。水疱がつぶれてそれが赤むけのまま、ついに治らず、あの世へ逝った。相当に痛かったのではないかと思う。
 娘たちが支えようとしても、その手をうるさい、とはらいのけ、自分でトイレにたとうとしたが、一度、どうにも立てないとわかって、「あれ?」とつぶやき、実に不思議そうな顔をした。「あれ、どうしたんだろ、この自分が立てない」。きっとそう思ったのではないか。立てないということが、どうにも納得できず、困惑しているという顔だった。
 生まれてきたときも、人間はそう思ったかもしれない。「あれ? どうして、自分はここにいるのだろう」。
 立とうとして、ついに一人では立てない赤ん坊に、父の「あれ?」が、重なった。自分の無力をとことん知って、やせ細り、枯れ木のようになり、ひざに痛みのコブを作って、父は死んだ。八十八歳。畳の上で。
 妹もわたしも、親の死を初めて経験したのだった。葬儀社のひとがやってきたが、電話をしたのはわたしだ。電話をかけたから、やってきたのだ。身内だけのごく小さな葬儀にしたつもりだったが、気づくと、親戚が大勢、集まり、いやそれも、連絡したからやってきたのだったが、作られた祭壇は、ずいぶんと立派なものとなった。菩提寺の御坊様がやってきた。こちらは葬儀社から連絡が回った。通夜は息子さんのほう、葬儀はその父親のご住職がやってきて、続けてお経をあげてくださった。戒名も含めると、驚きの金額。驚いているうちに、御坊様に渡す「車代」というのを忘れ、通夜の客に渡す塩入りの挨拶状も忘れ。
「あ、お清めの塩がない」
 自分の家に帰り着いて、中に入ってしばらくたってから、そんなことを思っても遅い。
 そしたら、わたしのあとから家へ帰ってきた家族が、
「扉の前に白いものがきらきらとしているけど、何あれ? あ、そうか、お清めの塩か」などと言う。
「え? 塩は忘れちゃったのよ。皆さんにお渡ししなくちゃいけなかったのに」
「だったら、あれは?」
 というから、扉をあけて見てみた。するとほんとに我が家の前にだけ、白いものがきらきらと光ってる。アパートの、どの部屋の前にもない。わたしの家の前にだけ。
「誰がまいたのかしら」
「塩に見えるけど、氷の小さな粒だね」
 お父さんがやってきたんだわ、とわたしは思う。会葬御礼の塩も忘れた娘のところに、自ら塩をまきにくる死者ってのも、まだ死んでないみたいでおかしいわね。
 東京に、四年ぶりの大雪が降った、五日後のことだった。

 

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 小池昌代(こいけ・まさよ)
1959年東京生まれ。詩と小説に従事。津田塾大学国際関係学科卒。詩集に『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『ババ、バサラ、サラバ』(小野十三郎賞)、『コルカタ』思潮社(萩原朔太郎賞)などがある。小説・エッセイに『屋上への誘惑』岩波書店(講談社エッセイ賞)、短編集『タタド』新潮社(表題作で川端康成文学賞)、長編小説『たまもの』講談社(泉鏡花文学賞)などがある。