影を歩く

影を歩く

古語辞典で「影」をひくと、筆頭の意味に「光」と出てくる。日の光、月光、光り輝くものを、古の人間は「影」と捉えた。月影とはすなわち月の光のことでもあった。いつから光と影とは明確に分かれたのだろう。二つを再び一つの混沌に戻してやることは可能だろうか。あるいは今、光のあたっているところを退かせ、影に入っているものらを前面に押し出してみるのは。(中略)影は影として、そっとしておいたほうがいい。そう思いながら、影へ踏み出す。低い声で語ろう。影が騒ぎ出さないように。(第1回目より)

 


  第八回(2017.12.06)

傷とレモン

 さびしいとき、少女のようにレモンを買い、二個でも三個でもテーブルにころがしておく。それをつかんだり、料理に使ったり、お湯に浮かべたり。そんなふうに物に寄りかかり、自分をなだめて生きる日もある。
 レモンには充実した確かな重みがあり、大きさもちょうどてのひらに収まるので、つかんでいるだけで虚ろが満たされる。こころとは、ときに宇宙大に広がるものだとしても、普段は片手で囲えるほどの小さな容量なのかもしれない。
 物は絵に描いてみるといい。レモンは何によって、レモンなのか。それが身にしみてよくわかる。
 一つは色だ。レモンイエロー。さわやかな黄色は、若い緑が成熟した色でもある。
 近くの店では、国内産のレモンが、半ば青いまま売られている。一個百円程度。ダンボールにごろごろ山のように入っていたのが、日に日に減っていき、やがて底のほうに青いカビの生えた腐りかけのものが見えてくる。ああ、よかった。レモンは腐る。国内産レモンには斑点もあるし、凸凹していて、かたちも不揃いだ。だがワックスや農薬の心配はない(そう、表示してあるので、とりあえず信じている)。
 かつて梶井基次郎が、小説のなかで描いたレモンには、確か、絵の具で塗り固めたようなという形容があった。だから黄色一色の、絵に描いたようなレモンだったのだろう。いま、そういうものを探せば輸入レモンになる。防カビ剤使用の表示が必ずついている。売れ残ったとしても、いつまでも腐らない。オブジェとして以外、使い道はなさそうだ。
 レモンが何によってレモンなのか。その二は形象だ。単なる紡錘形ではない。片方の先端が乳房の先のように尖っていて、もう一方の先端は凸凹に盛り上がり、ヘソに似た突起をつけている。それこそは枝がもぎとられた痕跡で、その部分を見ているとレモンの樹の全体が想像される。見えない樹はレモンを失ったが、レモンもまた、母体である樹を失い、樹から離陸してここまで来た。レモンの充実とは、そういう旅の果てにある。
 何かのかたまりを作ろうとするとき、それが詩であれ、掌編であれ、レモンは無意識のなかに置かれたひとつの基準となるだろう。あの大きさ、硬さ、香り、感触、酸っぱさ、苦み。美しいもののあの重さだったと、梶井は書いた。抽象的なそれが、するりと具体物になって眼の前に現れた不思議。とりあえずそれにはレモンという名前がついている。
 わたしたちは、どうしたって甘いものでなく、すっぱいもの、苦いものに真実を見出そうとする傾向がありそうだ。
 甘みというものに罪の意識が入るようになったのはいつからだろう。戦後、甘さは生きるために求められた。白い砂糖は、和食を作る上でも、庶民の家では必需品だったはずだ。今は違う。白い砂糖がいかに健康を損なうか。ネット上にはそんな情報があふれるように出ている。
 だが、悪いものを排除しただけのものは、料理にしろ、作品にしろ、いかなる場合も貧相でぎすぎすしている。要は配分で、微量の毒は精神を健康にする。あるいは少しの毒を許す構えが。ストレスがたまると、わたしは添加物の入った身体に悪そうなものが食べたくなってくる。そして実際、少し食べる。あらゆる市販品を裏返しては、成分分析表示を確かめる自分を、ふと検閲官のようだと感じるので、時にはそうしてジャンクフードを食べることで、精神のバランスをとっているのかもしれない。
 ところでレモンは、近頃、塩とタッグを組まされている。大人気「塩レモン」がそれだ。飴から調味料まで、あらゆるところに塩レモンは顔を出す。塩レモンには、どこからも文句は出ないはずだというドヤ顔の風情がある。
 レモンがここまで食のメインステージにあがってきたのはなぜなのだろう。甘いモノを食するとき、わたしには、持たなくてもいい罪の意識のようなものがわくが、レモンはそれを、舌の上でも観念の上でも、やわらげる。
 罪を浄める聖なるレモン。突き上げるようなあの酸っぱさは、甘さばかりを求める精神に、否応なくムチを打つ。レモンがあるだけで、普段のテーブルも祭壇になる。
 もし水彩画で描くのなら、影をつけよう。そしてその影には青い色を使おう。黄色には青、紺がにあう。好みの問題かもしれないけれど、わたしはこの取り合わせに音律的な調和を感じる。色とは音のない音楽だが、黄と青の和音には、冴え冴えとした清潔な響きがある。
 阿部謹也(1935—2006)は、ヨーロッパ中世を研究しながら、日本の世間を考察した優れた歴史学者だ。「禁欲」とは、欲望とりわけ性欲などを捨てることでなく、それを上回る欲望によって、現世でのあらゆる欲望が色褪せてしまうことだと書いている(『ヨーロッパを見る視角』)。わたしにとっての詩を書くことがまさにそうだ。詩を書きあらわすことや、詩的現象の発見が、この世でのあらゆる欲望を凌駕する。麻薬といってもいいが、近頃では、生きる「癖」に近いものだと思うようになった。爪を噛むように詩を書いている。悪癖といってもいい。病いであろう。
 レモンにも禁欲主義のおもかげがある。なにしろ、台所のテーブルを聖なる祭壇にしてしまうのだし、わたしたちの多くが、甘みより、そこにある酸味や苦味に、価値あるいは安心を見出しているのならば、これはもう、社会全体を覆う、禁欲という名前の別種の欲望といっていいものかもしれない。
 阿部は同書でこうも書いている。「教会でいう禁欲とは、天国に入りたいという欲望のために現世のあらゆる欲望が色褪せていく状態を意味しています」。レモンの本質は過激なものである。梶井が書いたとおり、それはいつか爆発するだろう(と考えてみることが解放だ)。
 レモンといえば、こうしていつも梶井基次郎の「檸檬」だった。だが、イタリア人の作家、ピランデッロが書いた「シチリアのレモン」(『カオス・シチリア物語』に収録)という短編も忘れられない。
 かつて婚約を交わした相手、テレジーナが歌手として大成功。それを見届けて、自分との格差に身をひくフルート奏者ミクッチョの物語だ。
 運の開けた彼女に、はるばる田舎から逢いにきた彼。彼女の美声を最初に発見し、応援を続けたあげく、こうしてナポリまで留学させたのは、そもそもミクッチョだった。
 だがテレジーナの母、マルタおばさんは、彼を見ると驚き、いかにも申し訳なさそうに応対する。会わなかったあいだ、テレジーナとミクッチョの間には、本人たちにもどうにもならない深い溝が生まれていたのだった。
 テレジーナは帰宅すると、別室の広間で紳士たちと華やかにおしゃべり。ミクッチョは厨房に隣接した暗い小部屋で、マルタおばさんと向き合い、テレジーナが、自分とは違う世界に住んでいることをはっきりと知る。
 別れ際、彼女にと持ってきた一袋のレモン。その「袋の口をほどき、片方の腕で囲いを作って、みずみずしく芳しい果実を、テーブルの上に空けた」。その「女」はもう、自分の婚約者ではない。だから「これはぜんぶ、マルタおばさんだけにあげる」と言って。
 ミクッチョが帰ったあと、ようやく会食が終わり、小部屋をのぞくテレジーナ。もうそこに、ミクッチョはいない。「帰ったの?」とびっくりするが、「かわいそうに……」と言ったあと、すぐにうち変わって笑顔になる。そうして彼が自分にレモンを持ってきてくれたのだと母から知らされると、「うわあ! すてき」。母が止めるのも聞かず、残酷にも華やかな客人たちの待つ広間へ声をあげながら走っていくのだ。「シチリアのレモンよ! シチリアのレモンですよお!」。
 哀しい話だ。あらすじでは、到底救いとれない複雑な感情が描かれている。ごろごろとテーブルに散らばったレモンの、その一個一個に、ミクッチョの感情が詰まっているような気がする。
 原題は、Lumie di Secilia 本文注には、「『レモン』の原語lumiaルミーアは、レモンによく似たシチリア産の柑橘類で『シトロン』に近い。果実は香りが強く、酸味と苦味があって飲料や香料として用いられる。ピンクの花をつける」と出ている。レモンにもいろいろな種類があって、ピランデッロが書いたシチリアのレモンは、このルミーアのようだ。
 ちなみに原題で探すと、この短編は、作者によってコメディ(喜劇)にもなっていて、ユーチューブには、字幕こそないものの映像があがっている。イタリア語がわからなくとも、短編を読んでおけばだいたいはつかめる。ただし、短編とコメディでは、味わいがだいぶ違う。短編にはレモンの酸っぱさ、悲しさがつまっているのに対し、劇のほうではミクッチョの怒りが押し出されていて、かつての婚約者同士もいがみ合う敵同士。だいぶ単純化されていて、がっかりする。レモンも小道具以上の存在感を示していない。モノクロだから、色も確かめられない。それでも物語の雰囲気や、家具とか部屋の構造などがわかって参考にはなる。
 ああ、だれか、この一本を短い映像にしてくれないか。ラストシーンでは、くれぐれもレモンを主役にしてほしい。
 何かの作品を映像化しても、たいていはがっかりすることのほうが多い。でも、タヴィアーニ兄弟がオムニバス形式で作った映画『カオス・シチリア物語』はすばらしかったことは付記しておこう。
 ピランデットの描く世界は、抽象と具象が入り乱れていて、読んでいると、さまざまなイメージが、下腹のあたりから、わいてくるのだ。
 婚約が破られたことを悟るミクッチョの悲しみに、レモンの取り合わせは効いている。わたしたちは、ミクッチョの感情を舌の上で想像する。そのときレモンの酸っぱさが、口中に広がり、喉を通過し、からっぽの胃を、きりきりと痛めつける。わたしも読んで傷ついた。けれどレモンは、まるで花のようでもある。彼の悲しみを祝福する花だ。  ならば傷は宝だろうか。どんな人も、言葉にしないが傷をもって生きていて、その傷は、束の間忘れることはできてもけろりと治るものではなく、おそらく一生、かかえていくものだろう。しかし最初、痛みでしかなかったそれも、歳月を重ねるうちには、いくぶん和らぎ、変容し、まぎれもない「自分自身」の一部となっていく。そこまで見届けることができたなら、もう甘い砂糖はいらないかもしれない。傷口にしみるレモンのほうが、むしろ甘く感じられるだろう。

 

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 小池昌代(こいけ・まさよ)
1959年東京生まれ。詩と小説に従事。津田塾大学国際関係学科卒。詩集に『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『ババ、バサラ、サラバ』(小野十三郎賞)、『コルカタ』思潮社(萩原朔太郎賞)などがある。小説・エッセイに『屋上への誘惑』岩波書店(講談社エッセイ賞)、短編集『タタド』新潮社(表題作で川端康成文学賞)、長編小説『たまもの』講談社(泉鏡花文学賞)などがある。