暗澹小説祭

暗澹小説祭

  第一回(2019.11.12)

インコの替え玉––––パトリシア・ハイスミス『手持ちの鳥』

 

 猫を飼っていると、近くに動物病院があることがきわめて有り難く感じられる。予防注射だの不妊手術だの食欲がないだの、そういったときにキャリーに入れて連れて行くのは重くて手間である。遠ければ自動車となるが、半端に近距離だと却って面倒になる。歩いて五分のところに信頼の置ける動物病院がオープンしたので、まことに重宝している。
 先日、手術のフォローで猫を病院へ連れて行ったときのことである。待合室の隅に掲示板があり、犬や猫の引き取り手を探すチラシや、迷い犬・迷い猫のビラが貼ってある。時間を持て余していたので掲示板をじっくり眺めていたら、インコが逃げたので心当たりはありませんかという貼り紙があった。飼い主の手作りであろういかにも素人っぽいチラシで、真ん中にはピントの曖昧なオカメインコの写真が刷られている。
 特徴だとか逃げた場所、名前、連絡先などが書いてある。かなり外れた音程で「オーバー・ザ・レインボウ」のメロディーを歌うらしい。薄謝進呈となっているが、どれくらいの額なのだろうか。オカメインコはペットショップで二、三万円くらいで売られている(色で値段が違ってくる)。わたしが飼い主で、奇特な人がわざわざ鳥を捕まえて連れてきてくれたとしたら、封筒に一万円札を入れて手渡すだろう。それ以上だったら薄謝とは言わないだろうし。ペットショップでの販売価格に相当する礼金を渡すべきかもしれないが、正直なところ、ちょっと勿体ない。でも家族同然なのだろうから、ケチるのはよろしくあるまい。いやその前に、家に招き入れて紅茶とクッキーでもてなしつつ、どんな具合に捕獲したかとかそういった話を交わすのだろう。話は聞きたいが、鳥を届けに来てくれるような善人と長時間を過ごすのは気疲れしそうな気もする。
 チラシの文章で、驚かされた箇所があった。血統書つきのインコだというのである。それくらい貴重で大切だと強調したいらしかった。それにしても、インコに血統書? 一緒にいた妻と顔を見合わせてしまった。犬や猫、牛や馬ならば分かる。人間にも家系図がある。だが、小鳥に血統書なんてあるのだろうか。哺乳類ならともかく、交尾はしても卵から生まれる生き物に血統書なんて微妙に違和感がある。
 家に帰ってから調べてみたら、インコでも血統書はあるらしい。曾祖父くらいの代まで遡り、生年月日と羽根の色が記されていないと駄目らしい。世の中には小鳥の血統書すらあるのだなあと、軽い眩暈がしそうな気分になった。
 わたしが二十五歳のときに、雑誌の『ユリイカ』で読んだエッセイがずっと気になっていた。三十年くらい経ってから、偶然に、そのエッセイは詩人の辻征夫が書いたものと判明し(思潮社の現代詩文庫181『続続・辻征夫詩集』に載っていたのである)、読み返してみたら記憶にあるものそのままであった。題名は「場末のビトルビウス」である。
 辻が、谷津遊園地のプールへ一人で泳ぎに行って帰る途中、肥ったおばさんが道端に洗面器を三つ並べてヤドカリを売っていたのに出くわしたという。ヤドカリは、色とりどりのプラスチック製の「家」を背負っていた。

 ぼくの直感では、それはプラスチックのおもちゃの電話の、受話器の破片だった。そんなものに、ヤドカリはどんな具合に入りこんでいるのだろう。これはぜったいに見なくちゃ!

 そこで辻は、(いい歳をした大人なのに)しゃがみ込んでヤドカリおよびその「家」をじっくりと観察する。どうやら「家」は、受話器の破片などではなさそうだった。あたかも、ヤドカリ専用に作られたかのような完璧さを伴っていたのだ。辻は、ヤドカリを売っていたおばさんに尋ねてみた。
「これはヤドカリのために作られたものなの?」
「そうだよ」
 その会話のあとを引用する。

 ああ、場末のビトルビウスよ! とそのときつぶやいたのは、ささやかな大袈裟ごのみのぼくの癖である。この世間には、ヤドカリの家をつくって生計を立てているものもいるのだ。おそらく場末で。

 このエピソードがあったとき、辻は定職に就いていなかった。わずかな金銭を得るために、毎日近くの区立図書館に赴いては科学者の事績を百科事典の下調べとして調査するアルバイトをしていた。その一環で、ローマの軍人・建築家としてビトルビウスという人物を知り、その名が思わず口を衝いて出てしまったというわけなのであった。
 いっぽうインコの血統書を知ったわたしは、その伝でいけば「ああ、場末の丹羽基二よ!」とつぶやくべきだったのかもしれない。ちなみに丹羽基二(1919~2006)は苗字や家系に詳しい民俗学者で、柳田國男の弟子。日本家系図学会会長を、同会が再発足したときに務めていた。

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 パトリシア・ハイスミス(1921~1995)には多数の未発表作品があり、しかしそれらが既発表のものに比べて質的に劣っているわけではない。『目には見えない何か 中後期短篇集1952~1982』(宮脇孝雄訳、河出書房新社2005)には6篇の未発表作品が含まれており、そのひとつが今回取り上げる「手持ちの鳥」である。詳しい執筆時期は不明。
 ハイスミスの作品としては珍しいトーンの短篇である。なぜなら登場人物は不幸に陥ったり破滅したりしない。それどころか物語はハッピーエンドに近い。ならば素敵な読後感になりそうなものだけれども、思い返してみると次第に「読まなきゃよかった」という気分になってくる。なまじっか誰か登場人物が死んだりしたほうがよほど「たかが小説」と割り切れるものだが、どうもこの作品は妙に引っ掛かるのだ。
 主人公はダグラス・マッケニー。ニューヨークの老朽化したアパートに住む年金暮らしの老人で、妻に先立たれている。独りぼっちで貧しく寂しい日々を送っている。かつては土木技師であった。
 彼は三十年来インコを愛し、細々と繁殖を手掛けてきた。一羽につき五ドルの値がつき、それは年金暮らしにとって貴重な収入源となったし、妻が生きていた頃から飼っていたインコの末裔が手許にいるわけだから、幸福な思い出にもつながっていた。一時は四十羽のインコがアパートにはいた。
 だが数年前にインコの値段は暴落してしまった。半分以下の値段だ。マッケニーの生活を直撃する由々しき事態だった。しかし偶然が彼に奇妙なチャンスをもたらした。新聞広告が目に入ったのだ。グリニッチ・ヴィレッジの家から逃げたインコを見つけてくれれば十ドルの謝礼を出すという広告を。逃げたインコと同じ色のインコが、マッケニーの家にいた。おそるおそる、自分のインコを「彼の家の窓から飛び込んできた」と偽って、広告を出した家を訪ねてみた。疚しさがあったが、「ペットが戻って家族の顔がぱっと明るくなるのを見たら、少し気分がよくなった」。いや、気分がよくなったどころか味を占めた。

……しばらくすると、ミスター・マッケニーは、自分の鳥を少しばかり強引に売り込むことができるようになった。もし鳥が自分の名前を忘れていたり、何もしゃべらなかったりして、飼い主が不審に思ったら、ミスター・マッケニーは、うちでは返事をしていましたよ、地下鉄に乗ってきたばかりなので怖がっているのではないでしょうか、という。ミスター・マッケニーのインコが退けられることはめったになかったが、まれにそうなっても、「そうですか、似た鳥がうちの窓に飛び込んできたなんて偶然ですね」といえばいいのだ。

 思った以上に逃げたインコを見つけて欲しいという広告は多かった。ことに夏には、毎日のように新聞のどれかに広告が載る。だから彼はいくつもの新聞を買っていた。贋インコ・ビジネスで週に二十ドル、年金が週に二十一ドル、これでマッケニーの生活が成り立っていた。もちろん逃げたインコの飼い主が「これが、本当にウチのインコだろうか」と訝る場面は少なくない。が、大概はペットを案じる不安から逃れたいばかりに家族の誰かが「ウチのインコだ!」と主張し、すると疑問を感じていた者も喜びに水を差したくないという理由で同調してしまう傾向があった。彼は無意識のうちに人の心の弱みにつけこむようになっていたのである。ただしマッケニーには決して悪意はなかった。人々が顔に喜びを浮かべる光景を、彼は尊いものと考えていた。

 自覚のあるなしにかかわらず、いずれ悪事には危機が訪れる。それは〈イブニング・スター〉紙の記者ジャック・ハリーの姿をとって登場した。
 記者は、街で起きる「ちょっといい話」の取材としてマッケニーの家を訪ねてきた。普段、マッケニーは贋インコを用いたささやかな詐欺において、本名は名乗らないようにしていた。犯罪なのだから偽名を使うのは当然のことだ。しかしヴァン=デル=モア夫人の家を訪ねた際には執事が出てきていきなり名前を尋ねた。その勢いに気圧されてつい本名を告げてしまった。結局、無事にモア夫人を騙し、喜んではもらえた。礼金も得た。ただし彼女はあまりにも喜び、結果としてハリー記者の耳に話が届いてしまったのだ。
 替え玉用のインコが室内に沢山いるのを記者に見られてはまずい。マッケニーはインコを隠し、ごく当たり前の静かな引退生活を送っていたらたまたま窓からインコが入ってきて、そのあとで新聞広告に気づいてモア夫人の飼っていた鳥だと分かったと説明した。べつに不審な点などない説明である。だがハリー記者は鋭かった。棚にはインコの餌(種子)や小鳥の遊び道具用のプラスチック玩具が沢山並べられている。インコなんか現在は飼っていないとマッケニーは言っているにもかかわらず。その疑惑についてはあえて問い質さず、さわやかな笑顔を残して記者は去っていった。
 その日の午後の版の〈イブニング・スター〉には、マッケニーの写真とともにインコを見つけた経緯が記事として載っていた。「ちょっといい話」として。それを見ながらマッケニーは、いくぶん動揺していた。
 およそ一ヶ月後、七月終わりの朝。意外なことが起こった。マッケニーのアパートに、「本当に」迷い鳥がやって来たのだ。「ロイヤルブルーにほんの少し緑色が混じった立派な雄のインコ」だった。彼は巧みにインコを捕獲した。インコの扱いは熟知しているのだから簡単だ。彼は外出して新聞を買いに出た。すると早くも〈ニューヨーク・タイムズ〉の遺失物欄に広告が載っていた。

インコ。フィリクス。多少緑色の混じった青。昨日四十八丁目東にて行方不明。最愛のペット。薄謝進呈。 (電話番号)

 フィリクス? と、そっと呼びかけてみると、インコは「フィークス!」と甲高い声で答える。「フィークス! ハ、ハ、ハ!」
間違いなかった。広告にある通りのインコだった。今度ばかりは相手を騙さずに謝礼をもらえる。早速電話をして住所を聞き、インコのフィリクスを鳥籠に入れてマッケニーは出掛けた。
 相手は大層な高級住宅に住んでいた。ドアを開けたのはメイドである。奥に招き入れられると、ブロンドの若い女が走り寄って来た。インコを見て狂喜する。本来だったら、マッケニーもその喜びを分かち合う筈だった。ところが――
豪華な室内には何名もの新聞記者たちが集まっていた。女性記者も二名いる。逃げたインコと再会を果たした女性を、何台かのカメラがフラッシュを焚いて撮影した。戸惑っているマッケニーに、記者の一人がささやいた。あの若い女性は今大人気のスターである、と。彼女にとってインコのフィリクスは幸運をもたらす存在だったらしい。だからその鳥が逃げたときは恐慌をきたし、また再び戻ってきたことに狂喜しているのだ、と。彼女は謝礼として百ドルもくれ、頬にキスをしてくれた。
 マッケニーは高額な謝礼に驚きつつも、ここを早急に立ち去ったほうがよかろうと直感していた。そしてその勘は正しかった。記者たちの中に、〈イブニング・スター〉のハリーがいたのである。玄関を出て辺りに誰もいない路上で、ハリー記者が追いついてきた。今度こそハリーは、マッケニーを追求してきた。「ずいぶん運よく何度もインコを見つけるんですね、マッケニーさん」と。記者はこれからマッケニーの詐欺を暴くつもりであると宣言する。

 まさに恐れていたことが起きたのだ。今まで繰り返してきたささやかな悪事が露見してしまうとは。しかもよりにもよって彼の振る舞いを心温まる善行として報道した新聞記者によって。
 老いた小市民であるマッケニーは絶望の縁に立たされる。彼は有名になることも、他人から賞賛されることも望んでいなかった。少額の礼金と、インコを取り戻した人たち、ことに子どもたちの笑顔を望んでいただけだったのだ。でも彼は他人の心を弄ぶ邪悪な詐欺師として新聞に告発されようとしていた。そうなったら、もはやこのアパートには住めまい。せっかく家賃が安かったのに、インコの礼金による収入を断たれ、昨今の住宅事情では新しい住処を見つけるのも難しいだろう。不名誉な立場に追いやられ、付き合いのあった隣人(いずれも恵まれぬ境遇の老人たち)から指弾されるのも耐え難い……。
 午後になって、再びハリー記者が訪ねてきた。遂に破滅の通告か。でもなぜか今度は朝のような敵意を示していない。なぜなら、少なくとも今回のインコ(フィリクス)の件はインチキでなかったのが判明したからだ。さらに記者は、以前、マッケニーが贋のインコを持参して謝礼を得た主婦のところへ赴いた顛末を語った。
「あなたが街じゅうで何度も同じことを繰り返していて、インコを持って行っては謝礼を受け取っているらしい、と彼女に伝えました。そうしたら彼女は、あなたのことを記事にするべきではないといいました。というか、記事にしないでくれと熱心に頼むんです。あなたがたくさんの家族を幸せにしているなら、そんなことはどうでもいいというんです。ほかにも二、三人から、同じことを聞かされました。ともかくマッケニーさん、ぼくも今ではそう思っています。だから、ちょっとお邪魔して、そのことをお伝えしようと思ったんです。ぼくが今朝いったことを心配なさっているといけませんから」
 事態は好転した! 驚いたことに絶望は消え失せた。マッケニーには邪悪なところがなかったのを理解してもらえたのだ。記者は言い足す。「サンタクロースみたいなものですね。サンタクロースだって嘘の話なのに、たくさんの子供たちを幸せにしている」と。再びマッケニーにとって世界は日光や親切に満ちているように感じられた。そして彼はどんな行動を取ったか? 逃げたインコの広告が載っていないかと新聞を買いに出たのだった。

 というわけで、この短篇小説は「孤独と心の触れ合いをテーマにした感動の物語」のように読める。最後にマッケニーが平然と新聞を買いに行くところがいかにもハイスミスではあるが、まあ心に弱さを抱えた善良な老人の物語とみなしてもよいのかもしれない。
 しかし、やはり釈然としない。ひとつには、こんなケチなことをマッケニーがせねばならない社会のありように、わたしたちは絶望と無力感を覚えずにはいられないからだろう。でもそれだけではない。彼の行ったことは、本当に「善きこと」だったのだろうか。
 マッケニーは、純朴な家族たちに替え玉を送り届けたのだった。インコはオブジェではない。生き物であり、名を持ち、家族の一員である。家族は彼が持ってきたインコに一抹の疑惑を抱いても、成り行きからそれを受け取ってしまう。やがてニセモノの疑念がますます顕在化してくるいっぽう、一緒に暮らす時間が累積していくから、事態は有耶無耶になっていくのかもしれない。そもそも替え玉という事実を家族は認めたくあるまい。そうでなければ、彼らの気持ちはいつまでも宙ぶらりんのままになるから。
 確かに広告を出した人たちの多くは、マッケニーを糾弾しないでくれとハリー記者に頼んだ。事態をそっとしておかなければ、今さら贋のインコとどう向き合うべきなのか。美談は美談として自分たち自身を偽りつづけたほうが、心の平和を維持できるではないか。
 しかしこれから先、自分で自分を騙しつつ替え玉と長く暮らしていくことはグロテスクな営みではあるまいか。そのいかがわしさ、逃げ去ったまま幸福に生き延びている可能性のきわめて低い「本物」のインコに対する後ろめたさ、安易に妥協してしまったことへの寝覚めの悪さ――それらは、じわじわと家族の心を蝕んでいくに違いない。
 替え玉と暮らすなんて、映画「ボディ・スナッチャー」さながらだ。予想以上に罪深いことをマッケニーはしでかしている。しかも懲りることなく延々と! うっすらとそんなことを想像すると、この作品に込められた作者の悪意にげんなりとしてくるのだ。


春日武彦(かすが・たけひこ)
1951年京都府出身。日本医科大学卒。医学博士、精神科専門医。産婦人科医として6年間勤務した後、精神科へ移る。大学病院、都立松沢病院精神科部長、都立墨東病院神経科部長等を経て、現在も臨床に携わる。藤枝静男とイギー・ポップに憧れ、ゴルフとカラオケとSNSを嫌う。
著書に、『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎新書)、『臨床の詩学』(医学書院)、『鬱屈精神科医、お祓いを試みる』(太田出版)、『私家版 精神医学事典』(河出書房新社)などがある。