本が生まれた村

第十話(2017.12.18)

ナポレオンと密売人

 イタリアで仕事するようになって、四十年。興味深い人や事象に数多く出会う幸運を得たけれど、今回の面白さは図抜けている。
 本の行商人。
 本を読む楽しさを運んだ人たちの足取りを調べるうちに、いつしか時空を超えて旅している。

©Associazione “Le Maestà di Montereggio”
 アペニン山脈。イタリア半島の北部から南部までの、約1350kmに及ぶほぼ全域を縦貫(じゅうかん) する。イタリアの背骨だ。北・中央・南に区分される。本の行商人の故郷モンテレッジォは、北アペニンの真ん中に位置する。
 長年、貧しさに慣れてきた村だった。自給自足の暮らしに不足が出れば、男たちは北イタリアの農業地帯へ長期に働きに行った。しかし1816年の異常気象で北部イタリアの農業が壊滅(かいめつ)的な被害に()い、モンテレッジォにも大きな変化が訪れる。
  <他力本願では駄目だ。自分たちの力で生活を守らなければ!>
 しばしば不運は、底力と未来への好機を連れてくる。
 どん底で、村人たちは(かご)を担いだ。売れるものは何でも売ろう。買ってくれる人が見つかるまで、進もう。売り切れたら仕入れて、もっと前へ行こう。
©UNO Associates Inc.
 山に入り拾い集めた野生の栗。干しキノコ。わずかに採れる栗の蜂蜜。枯れ枝をまとめた束。栗を(いぶ)して()いた粉。教会から集めた聖人の御札や(こよみ)……。
 国境を越え、ベルギーやフランスまで足を伸ばした者たちも多かった。辛い農作業に慣れてきた村の男たちは、異国での肉体労働にも籠を担いでの行商の長旅にも、少しも屈しなかった。村で男たちの帰りを待つ女たちも、へこたれなかった。長い留守宅を(つま)しく気丈に守った。村は固く結束した。石のように。

 当時の村役場の記録を見ると、ベルギーでは鉱山で働いた者も大勢いたようだ。
 鉱石を採掘する際に出る岩や石の大半は、(くだ)いて建築資材などにするしか使いようがない。鉱山に出稼ぎに行ったモンテレッジォ出身者たちは、その石を拾ったのだった。帰郷の道すがら売り歩いたのかもしれないし、あるいは他所(よそ)を行商中の同胞を呼び寄せ、やってきた仲間が背負って他へ売りに行ったのかもしれない。
 その岩や石の中に、ジャコモとセルジォ・マウッチ親子の祖先が売った、砥石(といし)の原石もあったらしい。移住先のパリで剃刀(かみそり)を製造して成功した親戚の案で、刃を研ぐ砥石も売るようになったマウッチ家だったが、北イタリアの内陸の町に砥石の製造工場を作ったのは、そこで原石が採れたからではなかったのだ。
 ベルギーから原石を運んでくる村人、イタリアのマウッチ工場で石切した砥石を担いで発つ村人、別の町から次の場所へと売りに行く途中で立ち寄る村人……。
 それは砥石の工場であると同時に、モンテレッジォの副都心であり、仕事のサテライトオフィスでもあり、あるいは移動の途中にひと息吐いて情報交換するための寄り合い所でもあったのではないか。
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切りたての砥石を前に、故郷の栗の粉でニョッキを練り、皆で卓を囲んだことだろう。村の近況や家族からの伝言も受け取ったに違いない。
 人と利益、情報が交差する地点。
 まさにモンテレッジォが古来から(にな)ってきた役割そのものではないか。
 後年、マウッチがやむなくその工場を畳みモンテレッジォに引き上げた際、いの一番に自宅を開放して学校を開いたのは、単に蓄財があったからというだけではなかったのだ。文字通り、重荷を道連れに暮らしていた同郷人たちの拠り所を担ってきたマウッチ家として、未来への道標を作りたかったからだろう。

 引き続き、1800年代の行商人たちに発行された通行許可証の変遷(へんせん)を見る。
 1810年代に発行された通行許可証の職業欄にはまだ、<石、および雑貨の小売り>と記載されていたのが、1830年代になると<砥石と聖者の御札売り>と変わり、1854年発行のパルマ公国内の通行、滞在許可証には、<農業、歯科医および石売り、そして本も売る>と記載されている。
©Giacomo Moucci
 <そして本も売る>。
 この念を押すような追記は、行商の荷が石から本へと代わり新しい時代が始まる、という知らせのように読める。

 それにしても、印刷物といえば即ち<聖者の御札>や<暦>だったのが、<本>へと移行していったのはなぜだろう。いくらマウッチ家が学校を開いたり神父たちが祈りを教えていたとしても、1800年代というとまだ読み書きのできない人が多い時代ではなかったのか。誰が、何を読んだのだろう。そして、どのように行商人たちは本を探し当て、仕入れ、売り先を見つけ出したのか。

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 1816年、<夏のない年>という天災に世界は打ちのめされた。生きるために人々の大移動が始まる。世の中が動く。
 天災と同時に、欧州全域に吹き荒れていた旋風があった。
 ナポレオン・ボナパルト。
 ヨーロッパの旧態依然を根本から(くつがえ)し、歴史の追い風となって時代の進化を速めた功労者だったが、またその特異な才能による成果は後続者に修正の余地を与えない、という弊害(へいがい)も残した。
 もともとの名を、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテという。イタリア名のようだ、と思いながら家系図を(さかのぼ)ると、十三世紀のイタリア、リグリアの町ルーニの出自、とある。紀元前にエトルリア人が大理石を採石して栄え、古代ローマが統治下に置いたあの町ではないか。モンテレッジォ村のごく近くの町だ。そうかイタリア人だったのか、いやリグリア人だったのか。
 1789年フランス革命勃発。1793年ナポレオンは二十四歳でトゥーロン包囲戦に出征したのを皮切りに、天才攻略家として革命後の各地の混乱を収拾していった。その後、軍事独裁政権を樹立しフランス帝国最初の皇帝となるまでの軌跡は、偉業と奇襲の一覧だ。
 ローマ皇帝の再来だった。優れた軍事や行政、司法の制度化に加えて、<自由・平等・博愛>というフランス革命の精神もヨーロッパに浸透させた。国民軍や荘園領主から解放された小作農、商店主などの小市民が、ナポレオン的社会の基軸となった。生命力の強い雑草が大地に根を張り、勢いよく繁っていくような光景だっただろう。底辺から上へ向けての発奮だ。
 ナポレオンを通してヨーロッパの諸民族は、他民族からの解放や国家統一の意味を肌で学んだのである。

 イタリアも例外ではなかった。ローマ帝国分裂以降、イタリア半島には常にさまざまな民族が侵攻を繰り返していたため、一つの大きな国としてまとまる時機を逸したまま千年余りが経っていた。そこへ、ナポレオンの登場である。イタリア半島じゅうに強い民族意識が再興した。それまで特権階級に限られていたことが、大衆の手にも届く時代が訪れたのだ。人々は目覚めた。
 <他力本願では駄目だ。自分たちの力で生活を守らなければ!>
 他国の支配から自由になり独立国家を築こう、という機運が高まった。1800年代のイタリア統一運動(リソルジメント)の始まりである。
 独立。どうすればよいのか。世の中で起きていることを知らなければ。もっと情報を。
 そして、本である。
  ナポレオン勢力圏では工業化が進み、暮らしにゆとりが出始める。それまでは、高額であり限られた内容だった本の購買層も少しずつ広がっていく。とはいえ、知識層に新入りした軍人や小市民たちは知識欲は旺盛でも、経済的な余裕はまだ十分にはなかった。
 <そして、本も売る>モンテレッジォの行商人たちの出番である。
 村人たちは、底辺の行商人だった。青天井で売る。町中の書店で売る本とは違っていた。価格も、格も、読者も。
 当時の出版社の多くは小規模で、印刷も行っていた。編んで、少部数を刷り、売る。在庫を抱えている余裕はない。モンテレッジォの人たちは、そういう版元から売れ残りや訳ありといった本を丹念に集めて、代わりに売りに歩き始めたのである。鉱山で掘り出されたまま放置されていた石や岩を拾い集めて売ったように。
 それまでの本を読む人たちとは異なる種類の人たちが、各地で行商人たちの運んでくる本を心待ちにした。書店は高価で難解な専門書ばかりで、敷居が高い。気軽に手に取り、好きなだけページを繰ってみたい。露店なら、いくらでも本に触れることができる。冒険や恋愛など、身近な内容の雑誌もある。気に入れば、自分たちにも買える本がある。何より、店主である行商人たちは丁寧に相手になってくれるのだった。各地を歩いて本を売っている村人たちの話は、臨場感があった。遠くまで行けなくとも、行商人たちと本を通して旅の道連れになった気分だった。皆、行商人たちの口上(こうじょう)に夢中になった。野菜とパンを買ったら、本の話を聞きに行く。書かれていないことも伝える。ページの余白や行間を読むように。
 青天井で本売りを重ねるうちに、行商人たちは庶民の好奇心と(ふところ)事情に精通した。客一人ひとりに合った本を見繕(みつくろ)って届けるようになっていく。客たちにとって、行商人が持ってくる本は未来の友人だった。
 高級ブランドの洋服は憧れだが、手頃な普段着は着るうちに肌に馴染んで手放せなくなるものだ。村人たちは、そういう本を売ったのである。読むことが、次第にその人の血肉となっていくような本を。

 村勢調査によれば、1858年時のモンテレッジォの人口八百五十人のうち七十一人が、<職業は本売り>と記載されている。
 「通行証には<石売り><雑貨売り>とだけ記載されていながらも本を売っていた人もいたそうですから、実際には本の行商人の数はもっと多かったでしょう」
 ジャコモは少し声を(ひそ)めて、
 「石や雑貨、御札や暦の下に、密かに詰めて運んだ本もあったらしいのです」
 聖なる下に性なるもの、とか?
 「モンテレッジォの本の行商人は、破廉恥(はれんち)な本は一切扱わなかった。皆が守った鉄則でした」
 ジャコモはきっぱりと誇らしげである。マエスタ(子を抱く聖母)であり、聖地巡礼の道程にある村なのだ。ダンテは『神曲』を書いているし、バチカン美術館へ石を送った山が見ているのだから。
 「石や御札の下に隠し、あるいは在庫処分本に混ぜて運んだのは、イタリアの独立を進めようとしていた各地の活動家たちの意見書や政治理念、民族主義や王政反対を唱える本でした」
  ナポレオンの勢力圏にあったときもオーストリアの統治下にあったときも、時の支配者たちは、イタリア半島に興りつつあった独立への民衆の決起を怖れ、高まる民族主義を鎮圧しようと必死だった。よもや独立運動家たちの書いたものが頒布(はんぷ)されれば、火に油を注ぐようなものだ。一触即発の状況の中イタリア半島の小国家では、頻繁(ひんぱん)に公安が出版社や書店、キオスクの検閲(けんえつ)を行い、相応(ふさわ)しくない書物を没収していた。
 「あらかじめ決まった道程もなく、露天で本を広げてはまた移動。居どころ不定。連絡はつかない。通行証には<石売り>。臨機応変で迅速な行動。口は固い。蛇の道にまで精通している。そういうモンテレッジォの行商人たちは、禁書を運ぶのに適任だったのです」
 文化の密売人、か。
 本を運んで、行商人はイタリアの歴史を底から変えたのである。

 どのような旅だったのだろう。
 五十年ほど前に村人たちからの聞き取りで、1800年代後半から1900年代前半にかけての行商の様子が記録に残されている。
©Associazione “Le Maestà di Montereggio”
 <春が訪れると、本の行商人たちは同じ日に全員が揃って村を発ちました。海側のラ・スペツィアから北イタリアの平野部ピアチェンツァを抜けて、ミラノ、ヴェローナへと続く峠道の決まった地点に、本の行商人たちが集合するのです。
©UNO Associates Inc.
 1920年5月14日。私は、やっと六歳。行商人たちを見送ろうと、他の子供たちと広場の隅に座っていました。父を含む大勢の村の男たちは、露店を広げる場所がかち合わないように、各自の行き先を念入りに振り分けました。売れ行きの良い本の題名を教え合い、それぞれ仕入れに行く出版社名を確かめていました。
 私は、その光景に見とれました。格好良かった。頑丈な靴で足元を固め、地味な色の服を着て質素で、全員が本の包みを自分の脇にしっかりと引き寄せて置いていました。持ち物はそれだけでした。本が父たちの宝物だったのです。
 各自の商い場所が決まると、男たちは荷物を担ぎ、握手を交わし、ちょっと冗談を言い合ってから、「じゃあ」と、手を上げてそれぞれの目的地へ向かって黙々と歩き始めたのでした>
 峠道で別れたあと、本の行商人たちはどこへ向かったのか。大半が、中央から北イタリアの町を目指したという。
 <行商人たちは、ラクイラから南へは行きませんでした。最初のうちはどんどん南下してローマまで行ったのですが、読み書きのできる人が全然いなかった。本は全く売れませんでした。ちなみに一番売れた町は、ボローニャでした。>

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 この頃の本の行商人たちは、各地の青空市場で商売をしていた。青果や生鮮魚、パンにチーズ、精肉、鍋や(ほうき)と並んで、台に本を積んで売ったのである。青空市場は毎週一度、町の決まった場所に開かれるものと、夏祭りなどの年中行事に付随(ふずい)して立つ大掛かりなものがあった。
 <私は十一歳でした。母について、遠くの知らない町まで本を売りに行きました。両親はミラノで露店を出していたのですが、あまり売れなかったからです。
 台も持たずに市場にやってきた私たちを見て、隣で店を広げていた人が吊るしていた売り物の絵を一枚(はず)して、「台代わりに使いなさい」と、差し出してくれた。私が最初に本を売ったのは、絵の上の1メートル四方の店でした。
 週中は両親がミラノで、土曜日曜は私も両親といっしょにその町まで出かけて行って売りました。何年かしてうちの台は20メートルにまでなり、店員は五人に増えました。一日に十七箱を売り尽くしたこともあったのですよ。
 毎朝四時に台に本を並べました。昔は、営業時間など決まっていませんでしたから。早々に台の前を農家の人たちが通るからでした。泥の付いた靴で立ち止まると、
 「『ピノッキオ』を一冊頼みます。一番きれいなのをお願いしますよ」
 『白雪姫』『シンデレラ』『赤ずきんちゃん』『長靴を履いた猫』など、子供向けの本はよく売れました。ことさらクリスマス前は売れました>

©Associazione “Le Maestà di Montereggio”
 朝早くから夜遅くまで、雪でも猛暑でも、本を待つ人がいるのなら(いと)わず露店を開けた。日曜も祭日もなしに働いた。行商人たちはいつでも本を山と積み上げた台の側に立ち、客が来れば丁寧(ていねい)に相手をした。客の質問や感想はひと言も漏らすまい、と熱心に聞いた。一生懸命、客たちの目と手と本の動きを追った。
 店舗を持たないので、かかるコストは自分たちの寝食費だけである。行商人たちは本を守るために露店を畳むと本を箱に詰め、傷まないように盗まれないように抱えて野宿したので、宿泊費もかからないのだった。そして費用の浮いた分、本の値段を下げたのである。
 「休まず働くなんて、神の教えに反している」
 「あんな破格の価格で売られては、こちらの商売上がったりだ」
 「本を売るのは、もっと教養のある人たちの仕事なのに」
 多くの一般書店は、村の行商人たちを敵視した。
 一方、出版社は規模や有名無名に関わらず、モンテレッジォの行商人たちを大変に重宝(ちょうほう)した。既成の書店からは決して知ることができなかった新興読者たちの関心や意見を、行商人たちのおかげで委細に把握できたからである。大きな町ならまだなんとか市場の動向も読めたものの、いざ地方の小都市ともなると販売網の外である。行商人たちは、自らの足で回って漏らさず拾い上げて伝えてくれた。道なき道を行くのは、村人にとって日常茶飯事のことだった。

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 自分たちの強みは、毛細血管のようにイタリアの隅々まで本を届けに行く胆力(たんりょく)と脚力である。本は、世の中の酸素だ。皆で手分けして、もれなく本を売り歩こう。それには、まず人材だ。
 本の行商人は、子供たちに本売りの魂を教えた。
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 <私はやっと小学校に上がったばかりでした。学校のないときは、両親といっしょに本の行商についていきました。冬の早朝、寒さで半ベソをかいていると、母が暖炉で焼いた小石を私の上着のポケットに入れてくれたのです>
 <十歳の夏、父から籠を渡されました。薄くて安い本がぎっしり詰まっている。胸元に掛けて浜を歩き、海水浴客たちに売ってくるように命じられました>
 <小学校低学年だった頃、家に帰るとすぐ倉庫から手押し車を出し、均一価格の古本を積んで売り歩きました>
 <オペラ劇場に出し物がある夜は、原作を担いで劇場前に店を張って観客に売りました>
 父親から子供たちは箱や籠を渡され、担ぎ方や歩き方、売り方のいろはを習った。
 他の町からモンテレッジォの行商人の元には、「鍛えてもらいたい」と、修行に送り込まれる子供たちも数多くいた。行商人たちは、見習いの子供たちに道順を教え、一人で歩いて本を売りに行かせた。仕事が終わったら皆で落ち合う場所を伝えて送り出したが、夜になっても見習いたちが約束の場所に来ないことはよくあった。道に迷ったり、辛い修行を放り投げて家へ逃げ帰ったりしたからである。

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 六歳の子が重い籠を背負って、夜の山道を一人で歩く姿を思い浮かべて胸がいっぱいになる。
 「モンテレッジォ人たちがしないで、誰がする。文化は重たいものなのです」





(次回 連載単行本化のお知らせ)

プロフィール
内田洋子 Yoko Uchida, Journalist

ジャーナリスト。イタリア在住。
1959年神戸市生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒業。
通信社ウーノ・アソシエイツ代表。2011年『ジーノの家 イタリア10景』で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『ジャーナリズムとしてのパパラッチ イタリア人の正義感』『ミラノの太陽、シチリアの月』『イタリアの引き出し』『カテリーナの旅支度 イタリア 二十の追想』『皿の中に、イタリア』『どうしようもないのに、好き イタリア 15の恋愛物語』『イタリアのしっぽ』『イタリアからイタリアへ』『ロベルトからの手紙』『ボローニャの吐息』『十二章のイタリア』『対岸のヴェネツィア』。
翻訳書にジャンニ・ロダーリ『パパの電話を待ちながら』などがある。
『Webでも考える人』連載エッセイ 《イタリアン・エクスプレス》

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