本が生まれた村

第八話(2017.11.13)

ゆっくり急げ

 本、本、本。
山に囲まれている。書棚にはもう入り切らず、テーブルの上にも空きはない。椅子の上に置こうとしたら、既にコピーの束が占拠していた。見渡す限りの紙の山は、山村モンテレッジォに関する資料だ。卓上の隙間(すきま)でワープロを打ち、インターネットで検索し、山の陰で電話をかけ、谷間でメモを取る。コーヒーもモンテレッジォに見守られて、飲む。パスタのトマトソースでも飛ばして借りてきた本に染みでも付けたら一大事、と、このところ食事はパニーニなど、乾いたものが多い。
 一応テーマごとに分けてある。
 食卓には、モンテレッジォ周辺の『郷土料理レシピ集』や『塩の貿易史』など。本と本の間には、村からの土産の栗や栗の粉で作った乾パン、干しキノコ、地産のワインが二、三本。
 村人が本の行商に向かった都市のそれぞれの郷土史や、北イタリアの荘園農業の歴史、映画『苦い米』の原作に『良家のお作法』。風刺漫画集もある。かつて流行った恋愛小説の古本や雑誌のバックナンバーの束、黄ばんだ商品のパンフレット。生活習慣や土地柄に関する資料は、居間に集めてある。
 仕事机の上には、古代から現代までのイタリア半島の歴史関連を積む。<古代>コーナーには、エトルスキもいればリグリア族もいる。紀元前の遺跡の写真に『石造建築』。古地図のコピーの隅には、<バチカン美術館所蔵>とある。古代ローマに神聖ローマ帝国。イスラム。教皇関連。ラテン語の資料とそのイタリア語訳。巡礼の道。十字軍。『シチリア 二つの王国の歴史』。

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 マラスピーナ家の研究書。『神曲』地獄篇、煉獄篇、天国篇の分厚い三冊。『山岳地方の疫病史』。ナポレオンにオーストリア。『イタリア独立運動と思想』。ジュゼッペ・ヴェルディのCD……。
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 ちょっとひと休みしようか。寝転ぶと枕元の、本の行商人たちの発注書のコピーや家族写真のコピーが目に入る。公文書として保管されることのない無名の人々の私的な記録だが、いずれも二つとない貴重な資料である。長い時を経て村人たちが保存してきたものだ。他愛ない領収書や売り上げの一覧の隙間から、過去に伸びる根を手繰(たぐ)り寄せ、数代に亘る名もなき行商人たちの物語を拾いあげて紹介していかなければ……。
 紙の山はそこに見えてはいるものの、未到である。高くて厳しい連峰だ。
©Associazione “Le Maestà di Montereggio

 中世史の本を読みながらウトウトしかけたところに、耳元で携帯電話が鳴った。
 <その後、モンテレッジォの取材はいかがですか。本の山で迷子になっているのでは? 息抜きにヴェネツィアへいらっしゃい。お見せしたいものがあります>
 古書店の店主、アルベルトからのメッセージだった。
 本に押し潰されそうになっているところを、書店主に救い出してもらう。

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 『アルド・マヌツィオ 神話ができるまで』
私が店を訪ねるなり、アルベルトは厚い本を差し出した。
 「私たちの先祖のことを調べてくださり、ありがとうございます。モンテレッジォの男たちが売り歩いた本は、この人のおかげで世に広がりました」
 また本である。

 今でこそ書店や図書館に行けば、簡単に本を手にすることができる。多岐に渡る内容。国内外の有名無名の著者たち。多種多様な装丁に紙質やインク、書体、挿絵や写真、図表入り、と一冊ずつに各々の顔がある。
 ところが現在目にするような、手に取り(やす)い形と自由な内容の本が生まれたのは、そこそこ五百年ほど前のことだ。人類とその叡智(えいち)が伝承されてきた時間を考えると、それほど長い歴史ではない。
 ざっと駆け足で本の歴史を振り返ってみると——。
 原文字から文字が生まれ、体系化したのは紀元前五千年前の古代エジプトとされる。文字は、樹皮に書かれていた時代からパピロスへ、そして羊皮紙へと記されていく。
 パピルスや羊皮紙に書かれたものを、現在の本の形状に近い形で重ねて()じたものをコデックスと呼ぶ。古代ローマ時代には、もう作られ始めていたようだ。
 エジプトが利権目的でパピルスの輸出を禁じたためにやむなく羊皮紙を使うようになったが、重いし高価だったため、記録される内容は重要な外交親書などに限られていた。
 十三世紀に入りイタリアに製紙工場ができると、欧州じゅうに紙が供給されるようになり本が増えていく。本といっても、記される先がパピルスや羊皮紙、紙であっても、すべて手書きだった。写本である。誰もが書き写し、本を作れたわけではなかった。写本家という専門職業があり、依頼して写してもらったのである。専門家とはいえ、人間である。原典が同じでも、写し間違いや行飛ばし、ページ落ちは頻発(ひんぱつ)した。現代の校正漏れのようなものである。
 そして十五世紀にグーテンベルク登場。活版印刷(インキュナブラ)が始まり、本が広まったのでしょう?
Gutenberg-Bibel “B42”
 「はい、たしかにそうなのですが……。判型は大きくて重いし、書体はゴシックで厳しくて大仰で。持てないので、机に置いて恐る恐るページを繰る、という本でした」
 アルベルトが書棚からグーテンベルク関連の図録を抜いて、見せてくれる。
 ドイツ人のヨハネス・グーテンベルクが初めて活版印刷をしたのは、1439年頃とされている。あっという間にヨーロッパ各地に活字印刷は広まった。当時、交易で栄華の頂点にあったヴェネツィア共和国には、異国から未知の商材や情報が次々と上陸していた。買う人売る人、考える人が各地から集まってくる中、新規の商機を見つけようと、投資家たちも虎視眈々(こしたんたん)としていた。
 知識は、財産である。知識を入手し、まとめて、広める。それは、未来への確かな投資である。それまで手で書き写すか木版で印刷していた知識を、活版印刷のおかげで迅速に大量の部数を再生生産することができるようになったのだ。
 <これからのビジネスは、出版だ!>
 今私たちがノート型パソコンや電子デバイスを持ち歩くように、各々の活版印刷機を担いで出版人や印刷のプロたちが、本の元となる情報の拠点、ヴェネツィアに集り始める。こうして短期の間に、ヴェネツィアはヨーロッパの出版の中心となった。
「15世紀以降の本の部数」※注1
十五世紀の時点では約五百万冊の本が作られていたとされるが、活版印刷が導入された十六世紀には、一気に二億冊まで増えている。

 さて、書店主アルベルトが<本の恩人>と呼ぶアルド・マヌツィオは、ローマ近郊出身のイタリア人である。ラテン語にも古典ギリシャ語にも()け、教皇庁にも接点があった教養人である。
 <文芸を出版したい>
 世の中の中心、ヴェネツィアへ上がる。
『Bibliotecario(司書)』1566年頃Giuseppe Arcimboldo ※注2
さっそく出版人として活動を開始するが、当時、本としてまとめられていたのは、もっぱらキリスト教関係の教義書や医学書、法学書に限られていたうえ、すべてラテン語のみだった。グーテンベルグが大々的に知られるきっかけとなったのもやはり、ヨーロッパで初めての印刷聖書を活版印刷したからだった(1455年 『グーテンベルク聖書』 旧約・新約聖書 ラテン語版)。
 大きい。分厚い。重い。装飾華麗。高価。限られた人たち向けの内容。
 こうしたグーテンベルク印刷の特徴をすべて逆にした本を、アルド・マヌツィオは作ったのである。つまり、小さく、薄く、軽く、簡素な装丁にし価格を下げ、当時の人気書体を調査して流行写本家を雇い、美しいオリジナル書体を創り出した。
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出版社ブランドの始まりであり、著作権もここから生まれていく。
 他の追随(ついずい)模倣(もほう)を退けたオリジナル書体に加えてイタリックも考案し、一行に収まる字数を増やすのにも成功。手軽な形状ながらも、大型本に引けを取らない潤沢(じゅんたく)な内容を詰められるようにしたのである。
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 1501年ヴェネツィア、マヌツィオ印刷所が八つ折りのコデックスを刊行する。世界で最初の文庫本が誕生した瞬間だった。それまで本は、非常に高額の出版費用の援助を受けて、依頼のもとに印刷されていた。現代のオンデマンド出版や自費出版のようなものである。刷り部数も少なく高価な本は、依頼主である一部の富裕層や専門家たちが私設図書館で(うやうや)しく読むものだった。それがマヌツィオの考案した文庫版のおかげで、どこにでも気楽に持ち運びができて、歩きながらも読める本が生まれたのである。
 いつでもどこでも、読書ができる。
 劇的な出版革命だった。これを機に、広く若者や女性が本に親しむようになった。
 さらにマヌツィオは、意欲的に自社企画で詩も本に編み始めた。本が文学を運び、文学が読者を広い世界へと連れ出した。
 現在こうして自分が書店を営めるのも、ヴェネツィアの出版人アルド・マヌツィオのおかげ、とアルベルトは私にその本を贈ってくれたのである。
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 ページをめくると、(いかり)に勢いよく(から)むイルカが描かれている。
 <ゆっくり急げ>
 アルド・マヌツィオの本作りの気構えを象徴する書票だ。
 遠くモンテレッジォからトロバドゥールが、フェデリコ二世が、ダンテが、マラスピーナが、<いよいよ本の入り口まで来ましたね>とエールを送ってくれているような。

 「活版印刷といえば、十五世紀にモンテレッジォの北東にある山村で印刷所を開いた人がいたらしいのですよ」
 私がグーテンベルクやアルド・マヌツィオの話をすると、電話の向こうでジャコモがそう返した。
 行ってみましょう、ぜひ。
 また、山だ。

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 その村は、フィヴィッツァーノという。検索しても、ごく簡単な情報しか見つからない。
 中世以降ごく数年前まで繰り返し大地震に見舞われ、そのたびに大きな損壊を被ってきた。大雨による土砂崩れもあった。第二次世界大戦終了直前に、敵陣かあるいはパルチザンかに襲撃されて、大半の村人が殺戮(さつりく)された歴史も持つ。電車も通っていない。不運と時により、明るい未来から断ち切られてしまったような村のように見える。
 村のHPに、<印刷博物館>という名所案内が掲載されている。電話を何度もかけてやっとかかった役場は、「責任者は不在です」と、返した。
 本の行商人を主題にして歴史や背景を調べていること。そちらの村にはグーテンベルクと同じ時代の十五世紀にすでに印刷所があったらしい、と聞いたこと。印刷博物館をなんとか見学したいこと等々、私は懸命に説明した。
 「お問い合わせをありがとうございます。たしかに、十五世紀に村には印刷所が存在しました。本も出版していたのです。印刷博物館は、村の篤志家(とくしか)が私財を投げ打ち、歴史的な資料を集めて開館したのですが……」
 電話の向こうで、役場の男性は黙ってしまった。
 度重なる災害。人口流出。過疎。村は今、青息吐息(あおいきといき)なのである。博物館を建てた篤志家も他界してしまった。寄贈されたものの、村の財政はライフラインの整備で手一杯である。
 「『一時休館中』と、HPにはお知らせしていますが、残念ながらおそらく再開は無理かと思います……」
 粘る。篤志家の遺族に話し、なんとか訪問させてもらえませんか。
 訪問できないと知ると、ますます興味が募った。
 ダンテが過ごした山からも近い。ダンテの草稿などがその村で印刷され、人知れずに眠ったりしてはいないか。空想して、()れる。

 メディチ家は、フィレンツェ寄りの山奥にあるこのフィヴィッツァーノ村を、北イタリアの各地や海へと(つな)がる道の要の関所として力を入れて統括(とうかつ)した。人の往来があり、多様な情報が流れる。経済が動く。知ることは財産なのだ。知識を印刷して豊かになろうと考えた人が、十五世紀にこの山奥にもいたのは不思議ではない。
 早速、ジャコモに連絡をする。
 十五世紀の出版は、もっぱらヴェネツィア中心だと思っていた。それがモンテレッジォのすぐ近くにも、印刷所があったとは驚きだ。本の行商人が生まれた理由を知るためには、本に(まつ)わる話があれば些細(ささい)なことでも拾いあげたい。一つ一つは小さく無関係のようでも、欠片を組み合わせていくうちに点と線が繋がり、次第に形が見えてくるのではないか。だから、印刷博物館の見学が無理であってもせめて建物の外観だけでも見てくるつもり。
 そう私が話すと、
 「一日待ってください」
 ジャコモはそれだけ言い、いつものように素っ気なく電話は切れた。

 前夜からの大雨で、冷え込んでいる。あれからジャコモはその日のうちに、印刷博物館を村に寄贈した篤志家一族との接点を見つけ出して教えてくれた。早速連絡をしてみると、<ぜひ見学してくださいますように>と快諾(かいだく)してもらった。一族の家長は高齢のため、付き添い人を同伴して案内してくれるという。
 大山鳴動(たいざんめいどう)して(ねずみ)一匹、だったらどうしよう。
 卓上の紙の山がこちらを見ている。『行け、我が想いへ』だ。

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 フィヴィッツァーノは、思ったよりも大きな村だった。ゆるやかな起伏の、表情豊かな(たたず)まいだ。石造建築や石畳に、中世からの時間が積み重なっている。バールや菓子屋もちらほらとある。住宅はよく手入れされていて、村の外郭(がいかく)には土起こしされたばかりの畑が見える。あいにくの雨で人通りはないが、八十余ある分村を合わせると八千人近い人々が暮らすという。
 待ち合わせに現れたのは、英国風のトレンチコートにレインハット姿の五十歳前後の女性だった。ラーニャ・エンゲルベルグスです、と強いドイツ(なま)りのR音混じりの自己紹介をされて、てっきり地元の人が来るのだろうと思っていたので驚いた。
 どういう因果でドイツからこの山村へ? と不思議がる私に、
 「そういうあなたも、なぜ日本からこちらまで、ですわね」
 と笑った。
 結婚後イタリアに移住して二十年余りになるという。子育てを終えて、ゆとりができた。若い頃、展覧会や音楽会などの文化事業の企画運営に(たずさ)わった経験があった。
 「各地のことをもっと知ろうと、<イタリア料理学会>に入会したのです」
 地域の特性を食を通じて国内外に伝える活動をする。全国の老舗料理店や郷土史研究家、農業、漁業、牧畜業関係者を訪ねて、知己(ちき)が増えた。若い頃の経験が買われ、地域の文化振興事業を手伝うようになった。
 食文化の伝統を調べることは、その土地の盛衰の歴史を知ることでもある。ハレとケの食卓。冠婚葬祭は、人間関係の縮図だろう。
 不思議な力に引かれてやってきた人がまた一人、ここにいる。
 ラーニャと話しながら、高台へと向かった。印刷博物館は、見晴らしのよいところにあった。形は異なっても、これもやはり監視塔には変わりない。華美な修飾はなくどっしりとして、真摯(しんし)な印象だ。私邸というよりは裁判署のような、学校のような、あるいは軍隊の駐屯所のような雰囲気がある。<ファントーニ・ボノーニ宮殿>。
 「もともとは、十七世紀に貴族ファントーニ家が私邸として建立したものでした」
 フィレンツェ共和国から派遣されたファントーニは、才覚ある文学者としても有名だったという。(みやこ)(いき)と教養を象徴するような人物だったに違いない。この自邸に文学者たちを招待しては、皆で古典を読んだり詩作したりしていたという。
 十七世紀のフィレンツェといえば、メディチ家全盛の時代である。文化のパトロンだったメディチ家は、山奥にまで詩を連れてきたのか……。
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 「ようこそ!」
 いざ博物館の中へ入ろうとすると、背後から声が掛かった。
 「ボノーニです」
杖に身を任せ白いパナマ帽の縁に軽く手を触れて、老館長が立っていた。手入れしたばかりなのだろう。鼻下の(ひげ)は美しく切り揃えられ、大きな目を覆うような眉毛とともに、銀色である。真紅の縁のメガネが、老人の眼差(まなざ)しを若々しく見せている。薄い灰色のスーツに同系色のベストを合わせ、レジメンタルのネクタイの赤が映える。
 この館で詩を詠んだファントーニ候のことを考えていたので、時を越えて当人が目の前に飛び出してきたのか、と思わず小さく叫んでしまう。
 老館長は笑いながら、
 「ようこそ<本と運命>の館へ!」
 再び恭しく、歓迎の挨拶(あいさつ)をした。
 え、本と運命、ですって?
 「博物館を創設した亡兄と私の、ライフ・ワークのテーマです」
 老館長は細い声を振り絞るようにして、荒れ放題だったファントーニの屋敷を自分たち兄弟で買い上げ二十年余り掛けて修復工事を行ったこと、そこへ村の栄誉ある歴史を収蔵し世の中に広く伝えていこうと決めたこと等々、訥々(とつとつ)と話し続けた。
 「フィヴィッツァーノは、本とそれを取り巻く運命を見守ってきた村でした」
 ジャコモやマッシミリアーノ、セルジォやミルコと同様、本に魂を捧げた人が、また一人……。

 1471年、村からヴェネツィアに移住した若者がいた。ヤコポという。グーテンベルク以降、活版印刷の好況に沸くヴェネツィアで本作りを習得するために上京したのだ。
 印刷と出版のノウハウを習得したヤコポは、ドイツ製の機械には頼らず、鋳造(ちゅうぞう)活字から印刷機までオリジナルを開発した。イタリア製の活版印刷機の第一号とされる。
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 ヤコポは意気揚々と故郷に戻るや、投資家から援助を得て印刷所を開業した。当時の売れ筋だった哲学や法学などをラテン語で出版するが、売れ行きは(かんば)しくなかった。一年で閉業。彼はヴェネツィアに戻ってしばらく働いた後、1477年にフィヴィッツァーノに帰ってきて印刷・出版業に再度、挑んだ。しかし、鳴かず飛ばず。
 その後二度と再び、ヤコポは故郷で印刷・出版業を営むことはなかった。廃業した翌年で、彼の足跡はぱたりと途絶えたままである。
 「進取の気性に富んだ若者だったのでしょう。たとえ最新機器で刷ることができても、企画の的が外れていたのかもしれませんし、山村では適当な読者が見つからなかったのかもしれません。印刷や綴じの熟練職人も必要ですし、印刷顔料や紙も高額でしたからね」
 ハードにソフト、コストパフォーマンス。十五世紀も現代も、本作りの労苦は同じでではないか。
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 薄暗い館内を、老館長と並んで歩く。上階の奥の部屋に着くと、彼は背を伸ばしてあるだけの力で北側の鎧戸(よろいど)を押し開いた。
 窓いっぱいの山。雨に湿った空気が、甘い緑の匂いを含んで流れ込む。
 「亡くなった兄は医者でしたが、文学者でもありました。心からヤコポを尊敬していました。それで、二万冊を超える古書を蒐集(しゅうしゅう)しましてね。<本と運命>というテーマで博物館として残そう、と半生を捧げたのです」
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 老館長の背後の壁には、大きくひび割れが入っている。建物は頑丈で倒壊することはないだろうが、自治体は安全のための修復工事を条件に一般公開を休止するよう命じたのだった。背を曲げ杖を突く老人の姿と重なる。
 この山奥でイタリア製の活版印刷機が使われていたことを知る人は、どれほどいるだろうか。堆積していく時の間に、名も知れない人たちの記憶が(はさ)まり、沈んでいく。
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 鋳造活字は、もう誰からも鑑賞されることもない。五百年余り前、このたくさんの文字型から、どのような本が印刷されたのだろう。編まれずに置き去りされた言葉が、拾われるのを待ち続けている。
 隣の部屋には、ずいぶん古めかしいタイプライターから現代のワープロまでが、ずらりとガラスケースに収納されてある。
 「1802年当時、この屋敷で暮らしていたファントーニ家の末裔(まつえい)アゴスティーノが、タイプライターを発明したのですよ。一族は代々、文学の才能に長けていた。アゴスティーノもその妹も、無類の本好きでした。ところが、妹は病のために失明してしまう。兄のアゴスティーノは、妹が書き(しる)せるようにと、この屋敷でタイプライターを考え出しました。世界で最初のタイプライター、と言われています」  キィを打つ音が、遠くから響いてくる。
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 紙に記されなかった言葉、散逸してしまった印刷の頁、一冊の本として綴じられることのなかった束、書棚に置かれたまま眠る古書……。
 <ゆっくり急げ>
 モンテレッジォへ戻ろう。






Thanks to:
Accademia Italiana della Cucina
Biblioteca Civica "E.Gerini" Fivizzano
Biblioteca Nazionale Marciana
Museo Della Stampa Jacopo da Fivizzano

注1:グラフ「15世紀以降の本の部数」
   資料出典: Buringh, Eltjo; van Zanden, Jan Luiten: "Charting the
   “ Rise of the West”: Manuscripts and Printed Books in Europe, A
   Long-Term Perspective from the Sixth through Eighteenth
   Centuries", The Journal of Economic History, Vol. 69, No. 2
   (2009), pp. 409–445 (417, table 2)
注2:『 Bibliotecario (司書)』1566年頃
   Giuseppe Arcimboldo 作
   Skokloster Castl, in Sweden 所蔵
   サイズ:97cm x 71cm
   油絵

(第九話 12月25日掲載)

『Webでも考える人』連載エッセイ〈イタリア・エクスプレス》

プロフィール
内田洋子 Yoko Uchida, Journalist

ジャーナリスト。イタリア在住。
1959年神戸市生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒業。
通信社ウーノ・アソシエイツ代表。2011年『ジーノの家 イタリア10景』で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『ジャーナリズムとしてのパパラッチ イタリア人の正義感』『ミラノの太陽、シチリアの月』『イタリアの引き出し』『カテリーナの旅支度 イタリア 二十の追想』『皿の中に、イタリア』『どうしようもないのに、好き イタリア 15の恋愛物語』『イタリアのしっぽ』『イタリアからイタリアへ』『ロベルトからの手紙』『ボローニャの吐息』『十二章のイタリア』『対岸のヴェネツィア』。
翻訳書にジャンニ・ロダーリ『パパの電話を待ちながら』などがある。

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