どうにも本が売れません(back4)

「どうにも本が売れません」
出版人のための悩み相談室

回答者
髙橋秀実
石原壮一郎

気鋭のノンフィクション作家・髙橋秀実氏と抱腹絶倒コラムニスト・石原壮一郎氏が、出版人のあらゆる悩みに回答します。今回は「『QA』談義」。二人が育てられたと言っても過言ではない平凡社の伝説の月刊誌について、二人が熱く熱く語ります(全3回)。


髙橋秀実(たかはし・ひでみね)
ノンフィクション作家

1961年神奈川県横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」 開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『定年入門』『悩む人』『道徳教室』『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』ほか。最新刊は『ことばの番人』(集英社インターナショナル)

石原壮一郎(いしはら・そういちろう)
コラムニスト

1963年三重県松阪市生まれ。月刊誌の編集者を経て、1993年に『大人養成講座』でデビュー。その後、念入りに「大人」をテーマにした本を出し続ける。大人歴10年を超えたあたりで開き直って出した『大人力検定』は、それなりにヒット。その後、検定をテーマにした本をあきれるぐらい出し続けるが、どれも今ひとつ。昨今は「コミュニケーション力」に活路を見出そうとしている。最新作は『押してはいけない 妻のスイッチ』。そのほか、故郷の名物を応援する「伊勢うどん大使」「松阪市ブランド大使」を務める。


撮影 落合星文



相談05
この仕事は将来に希望が持てません。この業界に未来はあるのでしょうか?

(28歳・書籍編集者)


第1回(全3回) 離婚するか、本を出すか


 ——今回は出版業界の未来についての深刻な質問です。聞く人をまちがえてるような気がしないでもないですが、かれこれ30年以上いちおう第一線でご活躍のお二人、よろしくお願いします。

石原 ちょいちょいシャクに障りますが、大人なのでズバリ答えましょう。

髙橋 私は、いい疑問だと思いますね。

 ——ほう。

髙橋 ただ、「将来とは何か?」「希望とは何か?」「未来とは何か?」という疑問のほうがもっといいんじゃないでしょうか?

 ——何を言ってるんでしょうか。

髙橋 QAです。大切なのは疑問の立て方。やっぱりQが大事ですよね、石原さん。

石原 すばらしい。『QA』と来ました。私が育てられた雑誌です。

 ——すみません。私も育てられたので知ってるんですが、読者の皆さん、ほぼ9割は知らないと思うので石原さん、『QA』のこと、教えていただけますか?

石原『QA』とは、1984年から1993年まで刊行された平凡社の月刊誌です。もともと平凡社の百科事典のおまけでできた雑誌と聞いてます。

髙橋 お、おまけだったんですか?

石原 当時、百科事典を買うと、半年ぐらい送られてきたそうです。おまけですから。

 ——おまけの話はいいです。『QA』は、どんな雑誌だったのでしょうか?

石原 おまけで始まった『QA』でしたが、百科事典がだんだん売れなくなって、会社から「『QA』を雑誌としてちゃんと独立させて採算を取れ」となったわけです。で、QとA、つまりクエスチョン、アンサー、「すべてはギモンに始まる 真実一路 思考全開マガジン」、吹き出しで、「毒入り」って書いてあるんですけど、その路線で始めた雑誌なんです。百科事典に載せられないような疑問に立ち向かうという、それは崇高な志の雑誌でした。

 ——志はどこにも負けませんでしたが、売れ行きでおおいに負けてました。

石原 失礼な。だけど、この雑誌で雑学という分野が広まったともいわれます。なにしろフォーマットが「Q」と「A」。「山伏になるにはどうすればいい?」「つわりはなぜ起きる?」「朝鮮学校を含む外国人学校が日本の学生スポーツに参加できないのはなぜ?」とか、かたいのからやわらかいものまで、社会問題を提起する疑問も立てられるし、「ゴキブリはどうして仰向けに死ぬの?」「恐竜の色はなぜわかる?」とか素朴な疑問もあるんです。しかも特集では、右翼とかやくざ、警察から天皇まで、「はて?」と疑問に浮かぶものはなんでもやってました。

 ——ただの思い出話にならなければいいのですが……。

石原 ふふふ。困ったら伊勢うどんの話でもしましょうか。

 ——いや、いいです。

髙橋 今でもよく覚えているのは「あなたをもっと知りたくて」という特集。

石原 天皇のことですね。1986(昭和61)年2月号なので、昭和天皇の時代です。

髙橋 「天皇は日本国の元首なのだろうか?」という疑問がありましたよね。ただの疑問ではなく、問題提起ともいえる。だって日本国民の総意に基づく日本国民統合の象徴なんですから。それ以上エラい人がいるのかってことでしょ。

石原 それに対するAは、要約すると「法律的には元首とは言えないけど、そう思っている国もあるらしい」というものでした。微妙な立場ということを匂わせています。

髙橋 そうかと思うと「本屋に行くと、なぜウンコがしたくなるのか?」という疑問もありました。今でも本屋に行くたびに思い出すくらいなんですが、こういう疑問は毎月会議で決めていたんですか?

石原 月に1回、編集部全体で半日ぐらい会議して決めていました。読者ハガキで寄せられる疑問だけでなく、編集部員が10個ずつぐらい出し合ったり、ライターの方にも出してもらったりしていました。時効なので白状すると、読者からの疑問は記事になる疑問の2~3割でした。

髙橋 そうだったんですか。でも、あらためて考えると、現在のベストセラーも『QA』に近いような気がするんです。素朴な疑問に簡潔に答える。見開きで読み切れる。出版の未来を考えるためにも一度『QA』に立ち返るべきなんじゃないかと思うんです。

石原 そうですね。まさに灯台下暗し! まさに温故知新!


始まりは『QA』でした


 ——なんか、無理してませんか?

髙橋 お二人とも『QA』の編集者でしたけど、私もノンフィクションの始まりは『QA』なんです。

 ——石原さんも私も、髙橋さんまで『QA』から始まったことになりますが、それでいいんですか?

髙橋 いいも悪いもありません。これはひとつの運命なんじゃないでしょうか。

石原 髙橋さんは89年に『QA』で「見えない国境—TOKYO外国人裁判」という連載を始めました。これはどういう経緯で……。

※連載時の撮影は赤城耕一氏

髙橋 ちょっと話が長くなっていいですか。

石原 どうぞ、どうぞ。

髙橋 長いわりにあんまり面白くないんですけど。

石原 そのときは、ばっさりカットされるので大丈夫です。

髙橋 最初、私はテレビ番組の制作会社にいたんです。だけど、番組の企画書を書いても全然通らない。だったら企画書をそのまま原稿にすればいいんじゃないかと思って、編集プロダクションに入ったんです。そこで『週刊現代』のグラビアページなどを担当したりしていたんですが、そこで一緒に仕事をしたカメラマンの山口大輔さんが『QA』の編集長の石川順一さんを紹介してくれました。確か「東京の地下」というタイトルだったかな、山口さんと地下鉄の工事現場などを取材したときに、山口さんが「せっかくいろいろと取材したんだから、もっと長いのを書きなよ」と『QA』を勧めてくれたんです。それで地下についての記事を書かせてもらった気がします。

 ——初めての原稿なのに「気がする」ですか……。

石原 でも、その原稿が編集長に評価されて、連載が決まったわけですよね。

髙橋 石川さんに「他にやりたいことはない?」みたいな話だったと思うんですが、特になくて。ハハハハ。

 ——ないんですか。

髙橋 それで確か石川さんが「最近、外国人が増えているね」とつぶやかれて。「そうですね」とうなずいたら、「じゃあ外国人をテーマにどう?」ということになって、裁判を傍聴することになったんです。

石原 ほう、裁判。

髙橋 当時、東京地方裁判所の408号法廷が外国人専門の法廷だったんです。通称「外人部」。毎日のようにそこに通って傍聴していたら、「ズボンを万引きした」などの窃盗案件が多かった。それで万引きが実刑判決になったりするんです。通常、万引きは実刑はおろか裁判にもならないでしょ。しかも初犯だし。「そもそも裁判って何?」という素朴な疑問がそこでわきました。

 ——ここでやっと「Q」が登場。

髙橋 まさに「すべてはギモンに始まる」です。日本語を話せない外国人が被告人の場合、裁判では通訳が必要になります。ところがフィリピン人だと、タガログ語の通訳は1人しかいなくて、その人が警察の取り調べでも通訳してるんです。警察と検察と裁判所で同じ人が通訳している。つまり被告人は同じ人に向かって供述するんですね。実際、裁判で被告人が長々と証言しているのに、たった一言で訳したり、被告人に向かって「あなた、警察で言ったのと違うでしょう」とか「それ言わないほうがいいわよ」とか説教したり。通訳が自白を強要しているようなもので、これは深刻な問題だと気がついたんです。

石原 すばらしい発見。

髙橋 しかも弁護士は基本、国選弁護人です。接見に行くにしてもその通訳に依頼しなきゃいけないので日程調整が大変だし、弁護の報酬も安いので独自に現場検証したり、情状証人を探したりするのも難しい。結局、裁判は検察の延長になるようで「人権とは何か?」という疑問もわきました。

石原 問題があることがわかって多少は改善するきっかけになったと思うんですけど、髙橋さんも有意義なことをした実感はあったんですか?

髙橋 告発にはなったかもしれませんが、有意義という感じではなかったような。

 ——ここは、あったことにしましょう。

髙橋 これは制度的な問題なんです。「制度的に問題がある」なら制度を直せばいい。ただ、私は個別のケースを取材しておりまして。それはフィリピン人が日本人を殺害した事件で、被告人が2人だったんです。1人がもう1人に脅されて日本人を刺したという話でして。実際に法廷で見ると、脅したとされるほうは大柄で見るからにふてぶてしい態度。「酒に酔っていて覚えていない」と開き直り、脅されたほうは小柄で「こわくて刺してしまった」と震える声で訴えたんです。弁護士とも相談して、ふたりの力関係から犯行に及んでしまった、という方向で弁護することになったんですが、結局2人とも有罪。実行犯のほうが刑は軽く、大柄の彼の刑は重かったんです。

石原 刑罰が偏りましたね。

髙橋 あとでわかったんですが、実は大柄の彼は頭の回転が鈍くて気も弱かった。彼のほうが逆らえない性格だったんです。実行犯のほうは口も達者で喧嘩っ早い。実際、刑期を終えて帰国すると、また殺傷事件を起こしていましたから。

石原 罪の軽かったほうが?

髙橋 そうなんです。だからルポルタージュとしても間違っていた。「人権」に気をとられて、人間を見ていなかった。これは失敗したなと。

石原 要するに、だまされちゃった。

髙橋 それで、もう一度最初から取材し直さなければいけないと思いました。ところが、私はその時、プロポーズをしたばかりで、結婚式を控えておりました。それで、妻から「結婚式までに本を出すように」と言われて。

 ——編集長のような奥さん。

髙橋 本の1冊ぐらいは出版していないと、彼女のご両親やご親戚の方々に格好がつかないということです。自分で言うのもなんですが、どこの馬の骨がわからない風来坊みたいな男だったものですから。「ちゃんと仕事をしている」ということをPRする必要があったわけです。結婚式までに出版して引き出物にする。それなのに、「もう一回取材し直したい」と言ったら、「それなら離婚する」ということになって。

石原 ハハハハ。「親に本を見せるほうが大事だろう」ということですね。

髙橋 そうなんです。結婚か仕事か、いや、結婚か自己満足か。どっちが大事なのかということで、これも疑問といえば疑問ですね。「私と仕事、どっちが大事?」と訊かれれば、もちろん「あなた」と答えるでしょ。これも定番のQAですよね。それで取材し直さずにまとめたのが『TOKYO外国人裁判』(平凡社刊 1992年)なんです。

 ——離婚回避のための出版……。

髙橋 結局、結婚式には間に合わなかったんですが、なんとか離婚は回避できました。それはそれでよかったと思っています。取材の不備があったとしても、それを挽回するために次の本に挑むわけですから。冒頭に言った「将来とは何か?」「希望とは何か?」「未来とは何か?」という疑問にも通じていませんか?

 ——……。


第2回(全3回) ライターかと思ったらボクシングトレーナー


 ——『TOKYO外国人裁判』の後、また連載を始めていますよね。

髙橋 しばらくして編集長の石川順一さんに会いに行ったんです。

 ——打ち合わせですか?

髙橋 ではなくて、そのとき私は、川崎市にある新開ジムというボクシングジムのトレーナーになっていまして。

 ——ノンフィクション・ライターとしてデビューしたのに……。

髙橋 妻と一緒に『QA』編集部を訪ねたんです。彼女がフリーランスの編集者だったので、何か仕事はありませんかと。すると、石川さんに「何してんの?」とあきれられて。

石原 ライターかと思ったらトレーナー(笑)。

 ——そうか、取材のためにトレーナーになったんですね。

髙橋 違います。好きでずっとボクシングをやっていたんですが、ジムの会長から「もう選手はいいから、トレーナーになれ」と言われまして。日本ボクシングコミッションの認定を受けて、正式にトレーナーになりました。

 ——この話、『QA』の「A」から遠ざかり、放浪し始めております。

髙橋 実は会長から「この業界で英語ができるのは、ジョー小泉しかいない」と言われていまして。ジョー小泉、知ってますよね?

二人 ……。

髙橋 当時、ボクシング業界で英語ができるのはジョー小泉さんしかおらず、彼がすべての世界タイトルマッチを仕切っているとのことで、会長から「お前は英語ができるから、そこに食い込め」と命じられたんです(笑)。日本のドン・キングになれと。

 ——有望なノンフィクション・ライターだったのに何してるんですか?

髙橋 ハハハハ。

石原 ハハハハ。

 ——いや、笑ってる場合じゃなくて。

髙橋 自分としてはトレーナーでやっていくつもりでした。

 ——でも、記事を書いて単行本も出して「さあこれから」ではなかったんですか?

髙橋「さあこれからトレーナーでがんばろう」というつもりでした。マイク・タイソンのトレーナーだったカス・ダマトみたいになろうと。「怒りをパンチ力に変換せよ」とか言って。カス・ダマト、知ってますよね?

二人 ……。

石原 でも、石川さんはどう言われました?

髙橋 「冗談言ってないで、何か書きなさい」と。寝言だと思ったんでしょう。隣の妻も「放置したらダメ。ちゃんと仕事させないとダメ」と注意されていました。

石原 さすが、われらが尊敬してやまない石川編集長。

髙橋 いや、でも僕はトレーナーの仕事が忙しくて。

 ——この期に及んで抵抗……。

髙橋 すると石川さんは「じゃ、それを書けば?」と言いました。えっ、これ書くの? と思いまして。それで始まったのがボクシングジムのルポ、「打て、ドラゴン」という連載です。タイトルからして明らかにブルース・リーの影響を受けてますね。

二人 ブルース・リーはわかります。

髙橋 それまでノンフィクションというのは遠くに取材の対象があって、それに向かって調べたり書くものだと思い込んでいたんですが、対象はすぐ近くにある。というか、すでに対象の中にいる。石川さんからは構えずに「じゃ、それを書く」というスタイルを教えられたんです。以来、これは私の一貫した方法論でもあります。

 ——頭で妄想をひねりだす石原さんとは違います。

石原 失礼な(笑)。ま、そのとおりですけど。でも、私たち編集部員は、そんなこと一度も言われたことありませんでした。

 ——よほど期待されてなかったんでしょうね。

石原 私たちはともかく、髙橋さんはやる気満々のトレーナー。

髙橋 当時、ジムにはプロボクサーが2人しかいませんでした。「プロボクサーになりたい」生徒はいっぱいいるので、彼らをプロテストに合格させるというのが私のミッションだったんです。

石原 ちなみに当時おいくつですか?

髙橋 28、9歳ぐらいかな。

 ——石川さんに会わなければ、トレーナーを続けていたかも。

髙橋 たぶん。

石原 石川さんも「前途有望だと思って書かせてやったのに、何考えてるんだ」

髙橋 確かに自分でも「何やってんのかな」という感じはあって(笑)。

石原 つまり当時は気の迷いだったなと。

髙橋 新開ジムの会長も試合に行くと、「なんでオレたち、こんなことやってんのかな」とよくつぶやいていました。何か闘争ホルモンみたいなものが、脳の成長過程に一時的に分泌されるのかもしれません。

二人(爆笑)

 ——『QA』なかったら、今ドン・キング。

石原 そのほうがよかったんじゃないですか(笑)。

髙橋 そうなんですけどね。

 ——いやいやいや。

石原 でも、ボクシングの話を書いて、そのあとは何十冊も本を出されています。

髙橋 基本的なスタンスはボクシングなんです。何かテーマを見つけて、テーマに向かって取材ではなくて、テーマの中にいる感覚。

 ——ふう。やっと『QA』が基本の話になりました。 

石原(当時の連載を見ながら)ナンシー関さんがイラストを描いてます。

髙橋 消しゴム版画。この「しゅぶぶぶぶぶぶぶぶぶあ」という擬音なんか最高でしたよ。石川さんにも「しゅぶぶぶぶぶぶぶぶぶあ、がよかった」とほめられましたね。

一同(笑)

石原 この作品は毎回1人のボクサーを取り上げてたのですか?

髙橋 ジム全体を描きました。最後は負けたら引退勧告という追い詰められた選手の話でしたね。

 ——この連載は『QA』の休刊とともに終わりました。

髙橋 『QA』とともに去りぬ。

石原 単行本になったんですか?

髙橋 なりました(『ゴングまであと30秒』草思社刊 1994年)。

石原 連載を少なくとも8回は書いて、そのうちに「トレーナーをやるより、こっちのほうが楽しいな」とかならなかったですか?

髙橋 ていうか、トレーナーとしての限界に気がつきました。

石原 つまり?

髙橋 うちの選手が相手に打たれると、ついタオルを投げちゃうんです。「もういい」と思ちゃう。

石原 打たれた姿を見て。

髙橋 打たれるとダメージがあります。ジムの関係者なんて会長をはじめ、打たれた人たちばっかりです。その後の人生もあるわけだから、早めにタオルを投げるのが一番なんです。一発打たれたらガードが下がって連打を浴びますから。

石原 ダメージが倍になりますね。

髙橋 ボクシングの試合って、実は向き合ったときに、どっちが勝つかわかるんです。

 ——へぇ。

髙橋 パンチの質というか、「圧」というか。

 ——トレーナーにもわかる。

髙橋「あ、これはダメ」とわかります。

石原「そこをなんとかがんばれ」と言うのがトレーナーの仕事のはずですけど。

一同(笑)

髙橋 お恥ずかしい話、ひとりもプロボクサーに育成できなくて。たとえばボクシングを教えるとき、「体重を腰の回転の遠心力に乗せてパンチを打て」とかの理屈があります。

 ——わかるようでわかりません。

髙橋 みんな打ち合いより、そういう話が好きなんです。

石原 打ち合いより?

髙橋 打ち合いは痛いですからね。でも、格闘技ってそういうとこあります。格闘技好きは話好きが多い。しかもそんな人ほどプロテストに通らない。

石原 ライターもそうかもしれません。

 ——打ち合わせで盛り上がる人ほど原稿がおもしろくない。

石原 そういう図式は編集者も同じです。

髙橋 私も、みんなの語りたい欲望ばかり引き出してしまいました。

石原 インタビューは上手だから(笑)。

髙橋 やはり、できるトレーナーは余計なことは言わないです。

 ——そんなことをボクシングの連載をしているときに気づく。つまり向いてないと。

髙橋 これは向いていないと思いました。ただ、単行本にしたときにボクシング業界に「新開ジムは弱い」と知れ渡ってしまった。当時、そこまで現状を暴露した本ってなかったんです。

石原 強がりみたいなことを言う人ばっかりだったんですね。

髙橋 ボクシングといえば熱血というか、ファイティング原田物語みたいなものがベースだったんで、こんな本はないと言われました。だって登場する選手たちが誰一人勝ってないんですから。

二人(笑)

髙橋 これはまずいなと思ったんですが、出版後、試合の依頼が殺到したんです。「是非、ウチとやらせてくれ」と。

二人(爆笑)

石原 つまり1勝を稼ぐことができる。

髙橋 そうなんです。4回戦の世界だと「勝てる相手とやる」のが基本なんです。デビューして間もないのに、強い選手と当たって負けたらダメージも残りますからね。だから皆さん確実に勝てる選手を探しているんです。ジムの関係者たちは「ウチはびっくりするほど弱い」「宇宙で一番弱い」などとPRしながら相手を探す。そして弱いと見せかけて勝つというのが基本的なセオリーなんです。ですから「弱い」といっても大抵はウソ、罠なんです。

石原 試験前の「ゆうべ全然勉強しなかった」みたいなことを言うわけですね。

髙橋 ところが私のはノンフィクションですから。すべて事実なので説得力がありました。新開ジムは本当に弱い。いいのか悪いのかよくわかりませんが、ノンフィクションの強みを実感しましたね。

 ——それでノンフィクションに目覚めたわけですね?

髙橋 う~ん。

 ——それで3冊目が『にせニッポン人探訪記 帰ってきた南米日系人たち』(草思社 1995年)。

髙橋 これは『TOKYO外国人裁判』のやり直し的な意味で、南米から日本にやってきた日系人を取材した作品です。

石原 95年ごろは、確かにたくさんの外国人が日本で働き始めていました。

髙橋 日系人は就労ビザが取れたので、それこそ民族大移動のように、いっぱい来日していました。彼らに取材し始めたんですが、一人ひとり、それぞれの事情があるので、キリがない。何かピンと来ませんでした。

石原 本音を語ってくれないとか。

髙橋 ウソをついているわけではないけど、「だから何?」みたいな話ばかりなんです。

石原 芯を食った話にならない。

髙橋 書き下ろしなので、本が出ないと収入がない。それでまた離婚の話が持ち上がる。

二人 ハハハハ。

髙橋 妻から「とにかく稼げ」と言われました。それで日系人が働いている、日野のトラック工場で働くことになりました。

石原 ちょうど取材にもなる。

髙橋 そう。アルバイトで入って、トラックのタイヤに防サビ剤をシューッとかける仕事をずっとやってました。

 ——つまり潜入ルポですね。

髙橋 トラック工場では上司が日本人で、同僚はみんな日系人でした。彼らと働き、昼ごはんも一緒に食べて、ナンパとか飲みに行ったりもしてました。

 ——なんか楽しそう。

髙橋 で、そんなときある日系人から「おまえはここに来ている者はみんな日系人と思っているかもしれないけど、中にはニセモノがいる」と聞いたんです。

石原 興味深いですね。

髙橋 当時、南米の日系人の大半は、おじいさんやおばあさんが日本人なんです。だから彼らは祖父・祖母の戸籍を取り寄せて就労ビザを申請するわけです。

 ——おじいさん、おばあさんは4人いますよね。

髙橋 日系度という言い方があって、4人全部日本人だと日系度100%。1人だと25%。ところが0%の日系人がいると知らされて。

石原 どこかで戸籍ごまかしたとか。

髙橋 戸籍は買えたんです。買って日本に来てる人がいたわけです。

石原「おじいさんが日本人」ってことにしとくわけですね。

髙橋 それを現地の言葉では「チーチャ(ニセモノ)」。日系チーチャっていうんです。

 ——ニセ日系人。

髙橋 「あいつがチーチャ」と疑われる人に訊くと「俺じゃなくて、あいつがチーチャだ」と教えられたりする。その人に訊くと「あいつこそチーチャ」と疑いが輪を描くように展開していくんです。それである人に「お前ならわかるだろ」と言われて。

 ——万引きGメンのようなニセ日系Gメン。

髙橋 25%と0%の違いなんてわからないですよ。南米のインディオもモンゴロイドだから日本人に似ていますし。それでどうやって見分けるかという問題になりまして。日本語ができるか。有名な歌を知っているか、折り紙ができるか、とか。どれも決め手に欠けていたんですが、ひとつだけありました。

 ——ありましたか。

髙橋 ラジオ体操ができるかどうかです。

 ——はあ?

髙橋 日系度が多少でもある人なら、日本人学校や日系社会に絡んでいるから、ラジオ体操を知ってるはずなんです。ラジオ体操の音楽を聞くと、自然に体が動き出す。そこでホンモノかニセモノかを見極めることにしたわけです。

二人 すばらしい。

髙橋 たとえばイスラエルを建国したときも同じような問題がありました。世界中に散らばったユダヤ人に「建国したからいらっしゃい」となったけど、誰でも受け入れたらユダヤ人国家をつくる意味がないわけです。そこでユダヤ教を信仰しているか、ヘブライ語ができるか、何か身体的な特徴があるかなど、ニセモノとホンモノを見極める基準が真剣に議論されたそうです。

 ——ラジオ体操どころではない。

髙橋 イスラエルと同じことが日本で起きていたわけです。少し大袈裟になるけど、そこに民族の本質があるような気がしたんです。民族という共同体、集合というものがどういうものなのかを考えさせられたのです。そこから「日本人とは何か?」という疑問が見えた。これを書けばいいのかと思ったんですね。

石原 ニセ日本人の本の骨格がくっきり浮かび上がったわけですね。

髙橋 そうです。「日本人って何ですか?」というQです。やっぱり「すべてはギモンに始まる」なんです。

 ——なんとか『QA』に戻ってきました。


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