どうにも本が売れません(back)

「どうにも本が売れません」
出版人のための悩み相談室
back number


相談01:
「つくってもつくっても本が売れません。どうしたらいいでしょうか?」

(57歳・書籍編集者)

石原  あきらかに聞く相手をまちがってますね。
 ——相談にのってくれる人が、ほかにいないんです。

髙橋  あの、こういうふうにしたら売れなかったという話をしてもいいですか?
 ——はあ。

石原  そのなかに反面教師的なヒントがあるかもしれません。
 ——そうでしょうか

石原  そうにちがいありません。
 ——初回から不安でいっぱいです。

髙橋  このあいだ、高校の柔道部の後輩に大手町で会ったんです。「先輩の本、いつも読んでます。でも、先輩だから正直、言います。はっきり言って読むのがめんどくさいです」と言われました。
 ——いけませんね。

髙橋  でも、わかりました。それでは、めんどくさくないものにしなきゃいけないと思ったわけです。
 ——ほう。

髙橋  そのころ、もう一人からも私の作品を「読むのが、ちょっとつらい」と言われました。その方は女性で、仕事や家事に追われていて時間がない。読書に労力を使えないと言うんです。

石原  もっともなご意見です。

髙橋  彼女に「では、どういう本ならいいんですか?」と聞いたら、「パワースポットガイド」。

二人  ほう。

髙橋  「ああ」と思いました。見開き完結で、スポットは一箇所、伊勢神宮、次を開いたら出雲大社。写真も入る。

石原  文章は読まなくてもいいぐらいですね。

髙橋  こうすればいいのかとわかりました。読むのに負担にならないし、実際売れている。じゃあ次は、そうしよう。
 ——大転換しました。

髙橋  それで、本を出しました。
 ——出したんですか。

石原  不勉強ですみません。どういう本ですか?

髙橋  『パワースポットはここですね』(新潮社)という本です。けっこう自信作です。フフフ。実はもともとの企画は「世界遺産」がテーマでした。世界遺産を紹介して、読んだらそこに行った気になるような。日本再発見みたいな感じで「これは売れるかな」と思ってました。まずは白川郷に行って、そのあと富岡製糸場に行きました。
 ——順調なすべり出し。

髙橋  そしたら、つまんなくて。

石原  それはいけません。

髙橋  見ても「わあ」となる所じゃないんです。

石原  古いレンガの建物があって、まんじゅうやせんべいを売っているとか。

髙橋  最近の世界遺産の特徴は、何箇所にもわたって、しかもコンセプチュアルなんです。富士山とか法隆寺ではなくて「富岡製糸場と絹産業遺産群」。製糸場だけじゃなくて、四箇所か五箇所もあるんです。

石原  それを伝えようとすると、文字が多くなりますね。

髙橋  しかも、地元の人に聞いたら富岡製糸場に行ったことがないと言うんです。むしろ「なんで行くんだ?」と聞かれて、「世界遺産だから来たんです」と答えたら「ふつう、行かないですよ」と言われました。
 ——じゃあ、どこ行くんでしょう?

髙橋  地元の人が行くのは、パワースポットでした。群馬県には上毛三山、赤城山、榛名山、妙義山があって、パワースポットだらけなんです。
 ——出ました。

髙橋  つまり、ふたつのルートから「パワースポット」と言われたわけです。今までどうすれば売れるかをずっと考えてきましたが、これはもう天啓です。
 ——天啓ですか。

髙橋  それで世界遺産をやめて、パワースポットに行くことにしました。榛名神社や高崎の白衣大観音に行ったりと、全国のパワースポットを巡りました。
 ——では、相当パワーがつきましたね?

髙橋  まちがいない感じです。ただ、なんて言うのかな……。
 ——どうされましたか?

髙橋  「こっちに行ったら売れなくなる」というのが、なんとなくわかる。その境目みたいなものが何回かありました。たとえば、富士山はパワースポットですが、富士山を見てはいけないというパワースポットもあります。

石原  それは知りませんでした。

髙橋  雲見浅間神社です。富士山は木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)が祀られてますが、そのお姉さんが磐長姫(いわながひめ)で、美しくないんです。妹の木花咲耶姫は美人で、天皇家に嫁いで幸せになりましたというのが日本の歴史なのです。現代で言うと、眞子さま、佳子さまみたいなことですね。

石原  磐長姫は突き返されたんですね。「あなたはいらない」と。

髙橋  その磐長姫を祀っている神社が伊豆にあって、こっちもパワースポットです。本殿が山頂にありまして、登っている途中で富士山を見たり探したりすると、磐長姫が嫉妬して転落すると言われてます。いや、本当に険しいんです。
 ——嫉妬は歴史を動かします。

髙橋  そうじゃなくて、そのとき思いました。こっちじゃなくて富士山に行かなきゃいけなかった。やっぱり富士山に行かないと、売れないんです。
 ——では行ってない?

髙橋  行ってないです。行くべきだったんですが、悲しいことにパワースポットのコンセプトって、「そこじゃなくて、ここ」なんです。
 ——どういうことでしょう?

髙橋  たとえば出雲大社の神殿にはみんな行ったことあるけど、そこじゃなくて、手前の岩陰にある石、そこがパワースポットだったりする。

石原  伊勢神宮にもあります。囲ってあって、ここに手をかざすとあたたかくなるという場所があります。

髙橋  私も伊勢神宮に行ったとき、手かざしをしている人がいて「何やってるんですか?」と聞いたら「パワーもらってるんです」「あ、そうなんですか。こんな感じですか?」といっしょにやっていると、その人がいなくなって、別の人が来る。今度は私が「何してるんですか?」と聞かれて「パワーをもらえるみたいなんですよ」。そうやって口伝えされていく。口伝えのパワーって言うんでしょうか。それも本殿ではなくて、石が積んであるところなんです。

石原  それは自分だけが知っている。

髙橋  本殿の霊験については由緒書きに書いてあるけど、つまんないです。なんかうそっぽいし、意味がわかんないし。
 ——しかし、ますます本流からそれます。

髙橋  四国の八十八ケ所巡礼も、そうです。もとになった『四國徧禮道指南』(しこくへんろみちしるべ)などを読んでみると、寺と寺の間に川が流れていて、そこに置いてある石は長寿の石とか、水を飲むと長生きするとか書いてあって、じつはそっちのほうが人気というか、人の心を惹きつけている。寺じゃなくて石。まさに「そこじゃなくて、ここ」。富士山じゃなくて、雲見浅間神社。そういうふうにやってきたんですけど、「これって、売れないな」と感じたわけです。

石原  パワースポットを紹介するときには、富士山とか伊勢神宮が出てきたほうが、読者は安心しますね。

髙橋  自分が生きてきたことが、まちがいないと確認できます。だからそうじゃないほうにいくと、みなさんが歩んできた道のりを否定することになるので、売れないんじゃないかなあと。

石原  磐長姫の話はおもしろいんですが、そういうことは求められてないんでしょうか?

髙橋  求められてないような気がします。「みなさんこうだと思ってるでしょうが、じつはこうなんです」みたいな話をしても、だめかもしれません。
 ——そのわりには原稿にされてます……。

 ——さて、そろそろ本が売れないお悩みを解消してください。

髙橋  『大人養成講座』シリーズのなかで、石原さんが読者に「今までの『大人養成講座』を期待してるかもしれないけど、じつはこうなんですよ」ということをやっちゃうと、やっぱりいけないんじゃないかと思います。

石原  「大人」シリーズもたくさん書きすぎて、どんどん細道に入りました。「大人はこういうものです」という基本形は、一回言えばじゅうぶんです。すると、次の段階では「じつはこういう一面も大人にはある」と裏読みの裏読みをして、わけのわかんないことになる。すると、だんだん売れなくなります。

髙橋  売れたら、平然とそこに返って同じことをやればいいんですよ。

石原  それでいいんですかね?

髙橋  それが大事だと思います。進化や成長なんていう幻想に惑わされちゃいけません。あの人がまた同じことを言ってる、バカなんじゃないかと思われるぐらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。

石原  「大人」を繰り返しやろうとする度胸は、われながらよかったと思うんです。ただ、いろいろ工夫しようとしたところにまちがいがあったんです。
 ——相談室ではなくて、反省会みたいになってきました。

髙橋  魚を獲るときに定置網だと、同じことをやっても魚は獲れます。

石原  待っていれば、魚は来てくれる。

髙橋  それなのに、毎回工夫して、網をいろいろと変えてみる。でもそれは、やっている本人は楽しいけれど、魚は全然獲れなくなります。

石原  そういうことが、われわれの話だけでなくて、出版界全体にもあるんじゃないでしょうか。
 ——こじつけますね。

石原  たとえばパワースポットとか日本百名城とか、レシピ本とか、ドル箱はいくつかあります。それをつくれば売り上げは立つけど、それでは飽きたらない。もっと文化的に何かがしたいとか、後世に残るものをつくりたいとか、大向こうをうならせたいとか、へんな誘惑にかられると、ろくなことはありません。
 ——でも、そういうところがおもしろいと思ってる人ばかりです。

髙橋  自分がやってると気づかないけど、人がやってるのを見ると、そういうことに気がつきます。自分がやっているとすごくおもしろいことやってるなと思うけど、同じことを人がやっていると「あなたはおもしろいと思ってやっているかもしれないけれど、全然おもしろくないですよ」。むしろ、同じものを何度も出している人をみると、すごいと思います。繰り返すだけの価値があるんじゃないかと思ってしまいます。

石原  僕も同じものを出せればよかったんですけど、そこでひねりを入れてしまうんです。しかも、今はもう世間に本は読まなくても死なないことがばれてしまいました。だからパワースポットとか役に立つものしか読まれなくなり、われわれのような芸風の者はひねくれた編集者が拾ってくれて、ますます「読むのがめんどくさい」人から嫌われていく。

髙橋  話は変わりますが、私は「どうしたらいいか」の糸口を探しに、映画を観に行きました。
 ——珍しく前向きです。

髙橋  観たのは『花束みたいな恋をした』です。コロナ禍なのに大ヒットしています。売れたいなら、あれは見なきゃダメです。大学生のラブストーリーです。二人がなんで恋に落ちるかというと、一致するんです。いろんなことが。たとえば今読んでいる本が同じ。履いている靴がいっしょ。聞く音楽も好きなものもいっしょなんです。二人だけで一致するだけでなく、観ている人とも一致する。しかも全部、固有名詞で出てくるんです。ゲームの名前とか、小説では今村夏子の『ピクニック』とか、全部出てくる。観ている人も「私もそう」「そうそう」というように、「あるある」と共感しまくれる。映画の感想のサイトを見ていて、いちばん印象的だったのが「首がもげるほど、うなずいた」。

一同 (爆笑)

石原  首をもげさせたら、とにかく共感させたら勝ちですね。

髙橋  読者をうなずかせる。ただ、われわれがあたりまえだと思っていることが、読者にはあたりまえではないかもしれない。「そうそう」とうなずけるようなことを出していかなくてはいけないんです。
 ——首がもげるですか。

髙橋  以前、『センチメンタルダイエット』(アスペクト)という本を出したことがあります。
 ——私が担当しました。

髙橋  あのとき、「ダイエットなら売れる」ということで、やりました。ダイエットした人に話を聞くのですが、当時、私も若かったのでダイエットを疑ってました。女性に「ダイエットしてますか?」と聞くと「してません」と言う。「本当はしなきゃいけないんですけど」。そうすると私は「いや、そんなダイエットなんて必要ないです」と言わざるをえない。そのあと必ず出てくるのが「でも、ダイエットすごくしている人を知ってます」。で、紹介してもらって会う。「ダイエットしていると聞いたんですが?」「いや、してません。しなくちゃいけないんですけど」「いや、しなくていいと思います」「でも、ダイエットのすごい人を知ってます」と、友だちの悲惨なダイエットの話ばかりで、三人か四人まできたときに、待てよ、これはだまされているなと。
 ——やっと気づきました。

髙橋  企画の大枠はまちがってません。ただ、「私はダイエットしてません。本当はしなきゃいけないんですけど」に、分かれ目があったんです。私が「今のままできれいですよ」と言ったのがまちがいだった。「ダイエットすべきですよ」と言って進むべきだったかもしれない。そこにこそ、売れる道があったのかもしれません。

石原  泣かせるぐらいのことを言って、「私だって、こんなにがんばっている」というコメントを引き出すとかですか?

髙橋  真実を浮かび上がらせようとすることに、まちがいがあったんです。それなら、ウソをつかせるダイエットの話を取材すればよかった。

石原  全員が友だちのこと話せばよかったかも。タイトルは『友だちのダイエット』。

髙橋  そっちにいくと売れない。でも、体がそっちに行くんです。
 ——そろそろ相談の回答をお願いします。

髙橋  さっきの映画に戻りますが、「首がもげるほど、うなずく」は不要不急ではなかったんです。求められていたんです。われわれが本を読んで、あんまり知らないことばかり書かれていたら、無知を責められているようで、いやになります。「そうそう」がないと、めんどくさい。だから、石原さんの「大人」を求めてくる人がいて、そのとおりのことが本に書いてあれば「石原さんて、おもしろい」となります。

石原  自分がもっとも素朴だった最初の『大人養成講座』(扶桑社)でいうと、「飲みに行きませんか」と誘ったときの顔の表情で本音を伝えることが書いてあるんですが、そのことが、わかりやすい「うなずき」だと思います。

髙橋  それ、いいと思います。「そんなのあたりまえだから、そうじゃない何かをと考える」のが、まちがいなんです。今、それ求められています。

石原  出版界は、売るにはひねることをやめたほうがいい。フィギュアスケートだって体操だって、ひねりすぎてわけわかんなくなってます。伊藤みどりのすばらしさを思い出せと。
 ——もうひとつ意味がわかりません。

髙橋  最近、私は出版の原点に気がつきました。
 ——なんでしょう。

髙橋  被取材者に買ってもらえるということです。たとえば、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』(新潮文庫)では、野球部員が二十人だから、親御さんは買ってくれる。するとだいたい五十部。あとはおじいちゃんとおばあちゃんで百部はいくだろう。これ、大事かなと。さらには、将来、結婚式の引き出物などのご進物にもなる。そういうことも考えていかなければいけないと思うんです。
 ——ご進物説ですか。

髙橋  本をつくることが文化というか、何か高尚なもので、人々に感動を与える抽象的なものと考えていることが勘違いだったんではないかなと。やっぱり贈答品とか、物として役に立つことが必要です。

石原  中小企業の社長がつくる自伝が、出版の原点かもしれませんね。パーティーでみんなに配りましょう。
 ——いや、売りましょうよ。

髙橋  こないだ、『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』(文藝春秋)という本を出したんです。これは、80歳ぐらいのマスターズの人たちに、競技の魅力を語ってもらった『ナンバー』の連載をまとめたものです。これが、被取材者に非常に受けたんです。
 ——さすが髙橋さん。文章がさえていた。

髙橋  違います。「撮影した写真が遺影に使える」と喜ばれたんです。私も経験がありますが、遺影って、なかなかいいものがないんです。ところがカメラマンが撮った写真が、またいい写真なんです。すごく喜ばれて、これまで仕事してきてこんなに喜ばれたことはなかったですね。
 ——写真ですか。

髙橋  そう。もちろん撮ったのはカメラマン。カメラマンが額縁に入れて送ってあげたりして。
 ——髙橋さんの記事にはお礼なし。

髙橋  文章というものは、抽象的なもの。記号ですからね。でも、具象的な写真は喜ばれました。だから、本を抽象的な高尚な文化だと思っていると糸口は見えないけど、物として、ご進物として考えていくと、そこから派生していくものがあるんじゃないかと思うんです。

石原  買わなきゃいけない必然性がほとんどの本にはありません。だから、その理由がわかりやすいものをめざしていくといいのかもしれません。

髙橋  そうですね。たとえば、新聞で地方紙がありますね。これが意外と生き残っていることに興味があってよく読むんですが、たまに同窓会の記事が出ています。どこのホテルでどこそこ高校の同窓会があった、で、集合写真も掲載される。これがけっこう見ごたえあるんです。
 ——ほう。

髙橋  みんな同い年でしょ。同い年ということ自体おもしろいし、同じ年なのに、年月がたつとこんなに違いが出るのかと感心します。この人ずいぶん若く見えるけど、しあわせな人生だったのかな、愛の力なのかなと思ったりして。
 ——そんなものでしょうか。

髙橋  だれかにとって響くことは、ほかのだれかにも響くんです。ご進物なのです。
 ——というわけで、本はご進物。みなさんまた次回お会いしましょう。


相談02:
「文章がうまくなるにはどうしたらいいでしょうか? こんにちは。髙橋さん、石原さんのファンのライターです。私は性格が素直なせいか、お二人のようなひねくれた、慇懃無礼な、でもおもしろい文章を書くことができません。どうしたら人を小馬鹿にしながら失礼にならない文章を書くことができるのでしょうか?」

(ライター・28歳)

(前編)

石原  この相談者は、すでにその技を会得してます。
 ——でもお二人は、世のライターの憧れの存在です。

石原  いやいや、持ち上げておきながら私たち二人をバカにしているみごとな相談です。
髙橋さん、なんかありますか?

髙橋  特にありません。これはもう石原さんの回です。どうぞ。

石原  慇懃無礼な文章を書こうと思って書いたことはないんです。
 ——ほう。

石原  むしろ一生懸命、誠実に書こうとしてます。人を小馬鹿にした文章と言われがちですが、なぜそうなってしまうのか、私が相談したいぐらいです。
 ——天性のものだったのですね。

石原  心の中で小馬鹿にしてるからいけないんでしょうか。
 ——やっぱりしてますか。

石原 「この人は小馬鹿にしちゃいけない」とは思うんです。だけど、真剣なきらきらした目で語っている人ほど、どっかで小馬鹿にできないかと考えてしまう。
 ——小馬鹿の天才。

石原  いやいや。小馬鹿というと言葉が悪いけど、読者に別の視点を提示できないかと思うわけです。言われたことを素直に信用できない体質なんでしょうか。ちなみに、文章の勉強はちゃんとしたことないので、文法とか間違っていないかいまだに不安です。
 ——……。髙橋さん、お願いします。

髙橋  今回は、うまく書くにはどうしたらいいかというご相談ですね。心がけとしては、とてもいいと思います。大体、うまく書けているという感覚で書かれたものは、ちょっと読むに堪えない。

石原  ああ、わかります。

髙橋 「うまく書けないなあ」と思って書いているものは、いいんです。だから「うまく書けないから、ぜひ相談したい」と思って書いてるものは、間違いなくいい文章です。
 ——今回も肩透かし感が……。

石原  だいじょうぶです。

髙橋 「俺、うまいよね」という文章って、よくあるでしょ。
 ——ちなみに誰でしょう?

髙橋  例えば幸田露伴。文章の完成度が高すぎて読む必要がない感じがします。あと、官僚とかにそういう人が多い。本をよく読んで勉強できる人たちは「自分は書ける」と思っているから、けっしてこんな相談はしません。

石原  そういう人の文章って、読みづらくて何言っているかわかんないことが多いですよね。

髙橋  酔っているというか、「自分はうまい文章が書ける人」だと思っている。そういう自意識があるんです。でも、文章をうまいかヘタかを判断するのは、読んだ人でしょ?
 ——きょうは、ひと味違います。

髙橋  いいか悪いかなんて、自分じゃわかんない。読んだ人に「おもしろかった」と言っていただければ、それがいい文章です。書いただけだと、いいのか悪いのか、わからない。完結してないからです。

石原  例えば官僚に「文章のここがおかしいです」とか言うと、激怒しそうです。

髙橋  そうそう。彼らは日本国憲法というベースがあって、法体系に沿っているかという整合性には絶対的な自信がある。だから、沿っているイコール「文章がうまい」。読み手が「よくわかんないんですけど」と言ったら「わかんないほうが悪い」。
 ——すみません。うまくなりたいという相談です。

石原  いい編集者につくと、文章はうまくなります。
 ——やなこと言いますね。

髙橋  それは絶対そうです。私の場合は、妻が編集者なので必ず読んでもらっています。それで「ダメ」とか言われます。
 ——けっこう言われるんですか?

髙橋 「わからない。書き直し」なんてことはしょっちゅうです。でも、それを経ないとダメなわけです。 

石原  うちの妻は、本になろうと何になろうと、いっさい読もうとしません。まったく興味がないんです。
 ——奥さんじゃなくて編集者です。

石原  たしかに編集者によっては「あの人に読ませるにはヘタなことは書けない」というのはあります。「この人には適当でいいや」というのもあります。あっ、そうじゃなくて、緊張感を持たなくてもいいというというか。

髙橋  でも、そういう適当でいい人がたまに文句言ったりするんです。

石原  意外と、ちゃんと読んでる。

髙橋  そうそう。
 ——それより、編集者のダメ出しはどうです。

石原  ダメ出しはいいんです。ただ、いい文章と同じように「いい編集者にならなきゃいけない」と肩に力が入っている人が、どうでもいいダメ出しをしてくることがある。こっちもめんどくさいので、その人が言うように直したりします。で、けっきょく一番のキモが消えてしまったりする。
 ——消えましたか。

石原  なんか泳がせてくれる編集者のほうが、のびのびやれますね。でも、ちゃんと「ここが足りない」とか遠回しに言ってくれる。そうすると「油断はできない」という感じになります。
 ——じゃあ、ふだんは油断しっぱなし。

髙橋  いずれにしても自分ひとりで書く、あるいは自分の文章と考えると「うまくないからダメだな」と思う。編集者や私の場合は妻ですが、だれかと共同で原稿を書くつもりであれば、うまくなければ、相手に「じゃあ書いて」と言えばいい。
 ——丸投げ文章法。

髙橋  自分のものと思うから悩ましい。文章というのは人と人の間にあるものですから。例えば「著者」と言われますよね。あれが人を惑わすんだと思います。まるで「ひとりで書きました」と言わんばかりの表示ですけど、実際は編集者や校閲の人、さらには家族や親戚の人などもかかわっているかもしれない。例えばドストエフスキー。これはドストとエフスキーが書いたかもしれない。
 ——……。

石原  名前の出てない著者もいっぱいいるかもしれません。

髙橋  三島由紀夫とかが、ひとりで推敲もしないで短時間できれいに書いたみたいな伝説がありますけど、本当はいろんな人がかかわって、ああだこうだ言いながら出来上がったものに、著者名がついているだけ。だから、うまく書けないというのは、あたりまえと言えばあたりまえなんです。

石原  子どもは社会で育てるという言葉があります。子どもをどう育てるかを母親が自分の全責任と思ってしまうと、育児ノイローゼになるわけです。でも、じいさんばあさんもいれば、近所の人たちもいる。そういう人たちの手を借りながら、だんだんいい子になっていく。文章もそうですよね。

髙橋  うまくいかない、と思ったときは自分の責任ではなく、ダンナさんが悪い、ダンナさんのせいでこうなったと責任を転嫁する。これは大事なことですね。つまり、自分の文章だと思うから、うまくないとか行き詰まったりする。たとえば、私は取材して書きます。あまりおもしろくないなと思ったら、それは取材対象が悪いんです。
 ——エンジンかかってきました。

髙橋  とにかく、自分のせいにしない。人のせいにするという心がけ大事です。

石原  いい文章にしたいのに、取材対象がへっぽこのときはどうしようもないですよね。あとは、編集者の意図があいまいだったら、こっちが孤軍奮闘してもいい文章にはならない。ちなみに、読んでもらった人に笑ってもらおうとすることはあるけど、いま気づいたけど、いい文章を書こうと思ったことはありませんでした。
 ——相談者が途方に暮れてます。たぶん。

石原  でも、おもしろい文章もじつはむずかしいんです。「自分のシュートの曲がり具合を見てくれ」みたいな文章は、鼻につく。

髙橋  文章のおもしろさというのは、読んだ人が感じることです。書いた人が先に感じちゃいけない気がするんです。たから、なるべく文章はおもしろくないように書くべきだと思います。
 ——はあ……。

髙橋  文章自体がおもしろくなると、「おもしろい文章」ということになる。私なんかは取材系だから「取材対象がおもしろい」と思ってもらいたいわけです。例えば、私が石原さんを取材して書く。それで「おもしろい文章」と思われたらダメです。「石原さんはおもしろい人ですね」と言われなきゃいけない。文章はつまんなくしておかないと、取材対象のおもしろさが伝わらないんです。
 ——禅問答のようになってきました。

髙橋  たとえば『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』(新潮文庫)だと、彼らの取り組み方がおもしろいと思ってもらわなきゃいけないから、文章自体がおもしろかったらいけない。
 ——相談を離れて三千里……。

石原  僕の書いているコラムは取材対象がないので、何をおもしろがってもらうかはなかなかむずかしいことになってきます。「オレの技の切れ味を見ろ」というのがダメなことは薄々気づいていて、そうすると、読んでる人が「これに気づく私って、おもしろい」と自己満足を得てもらえるような、そういう共同作業で成り立つんじゃないかと。そのしかけを散りばめて、読んだ人が「この人、こういうことを言おうとしてるんだ」と気づいた自分に喜ぶ。そこで、おもしろさが生まれる。そうすると、いい文章を目指すんじゃなくて、姑息な文章とか、もたもたしている感じを読んでもらうとか、あんまりよくない文章に走りがちですよね。

髙橋  その書き切れない感じが大事だと思います。

石原  相談者はわれわれが「文章がうまい側」と思って相談してくれてますが、自分が文章をうまいと思うのはなかなかむずかしいですね。「まだまだだな」と思っているところが、むしろとりえかなとは思います。

髙橋  そうですよ。
 ——どこにも辿り着けない第2回前編終了。後編に続きます。お楽しみに。


(後編)

 ——第2回後編、始まりました。

髙橋 それにしても、文章がうまいというのは、なんかイヤですよね。人として。そういう人はあんまり好きになれない。やはり「自分は文章がヘタで」と言う人のほうが好感を持てます。

石原  あと、しゃべりがうまい人も嫌いです。
 ——相談が、人の好き嫌いに入ってきました。

髙橋 文章がうまい人って、会うとがっかりすることが多いです。

石原  文章がうまいと思っている人は「相手は自分の言いなりになる」と思っているところがあるかもしれません。自分が思ったことを伝えられるから「相手は感銘をもって受け入れるはずだ」という前提がある。

髙橋 受け入れられない場合は相手が悪い。相手の読み取り能力がないという判断となります。ここだけの話、取材の前にその人の書いた本を読むと、何を書いてるのか全然わからないくらいにヘタな人と、すごくうまい文章を書く人がいる。実際、会ってみると、ヘタな人のほうがおもしろいんです。「うまく書けない」という悩みをお持ちで、書けないけど、これは言いたいという気持ちがある。すると、話はおもしろくなるんです。
 ——話ですか。

髙橋 原稿って、書いたら「ちょっと違うな」という感じがつねにつきまとうでしょ。「あれっ? 違う」「あれっ? 違う」と進んで、最初は批判するつもりが、最後にはほめてたりします。自分の書いたものを目にすると、つねに違和感があります。それを抱えながら進めていく。でも、そうならない人もいます。

石原  そういう人が鼻持ちならないのは、ツッコミがないからなんです。自分の書いていることに疑問を抱かずに自信満々で突き進める。だから、イヤなやつだと思ってしまうのかもしれません。われわれ、迷いながら転びながら前に進んでいる。

髙橋 だから、宗教系の文章がつまらないのはそういうことです。「とはいうものの」がないんです。いざとなったら神が出てくる。統一されてて揺るぎなく、迷いがない。

石原  確固たる信念のある人の文章もつまんないですね。環境系だったり、教育者の文章もあまりおもしろくないですね。自分が言っていることは正しくて大切で、相手が一生懸命聞いてくれるという前提の文章だったりするんです。われわれは、相手に読んでもらえないと思って書いてますからね。どうせこんなもの、誰も読んでない……。
 ——慇懃無礼が、ただの謙虚に。

石原  そういうところからのスタートなので、われわれはサービス精神が違います。だから、無数のダメ出しをどこまでできるかが、おこがましいことを言えばプロと素人の違いですね。なまなかなところでは、満足しない。次の一行を書くのに、将棋指しではないけど無意識のうちに何百通りの選択肢があって、そこから選んでいる。本当にこれでいいのかを繰り返していくと、だんだん慇懃無礼になっていくと思います。
 ——慇懃方面に戻りました。

石原  だから、すらすら書けることなんてないんです。

髙橋 読むほうはすらすら読めますけどね。
 ——ちなみに、うまい文章に嫉妬することなんてあるんですか?

髙橋 うまい文章には嫉妬しませんが、下手なのに胸を打つ文章には負けた気がします。

石原  もしかしたら、くやしさの別のあらわれかもしれません。たしかにいい文章だなと思うことはあります。でも、すごいなと思う前に「これ、たいへんだったただろうな」という気持ちがきます。これを書くには、おそらくこれぐらいの取材をして、これぐらいの時間をかけてやっているだろうなと考えちゃうから、素直にすばらしいとか、みごとだとかという思いにはならないですね。
 ——売れている本でひどい文章もあります。

石原  よくあります。
 ——これは嫉妬しない。

石原  いや、この人には自分にない何があるのかと考えますね。文章が上達すれば売れるとは、まったくかけらも思ってないです。売れる文章イコールうまい文章ではないです。

髙橋 売れてて文章がヘンな本と、売れなくてうまい文章の本があると、読み手としてはヘタな文章のほうが「この人、どういう人なんだろう?」とイメージが広がりますよね。うまい文章は完結しているから、イメージが広がらない。一方、てにをはもズレているような文章を読むと、「この人、どういう人なのかな?」と姿を浮かべてしまう。想像力が刺激されるんです。

石原  読んだけど、本当は何が言いたかったんだろうと。

髙橋 だから、文章がゴールかというと、ゴールではない。文章の先にまだあるんです。広告なんかもそうですが、読んだ人に商品を買わせるのがゴールです。だから、文章は途中なんです。途中のものとして考えた場合、うまくないとか、なんかヘンとかいうもののほうが、先がある。著者に対しても「こいつ何を言ってるんだ」「どういう人なんだろう?」となります。

石原  ヘタな文章は言いたいことは伝わってないけど、もっとほかの大事なものを伝えてくれているんですね。

髙橋 文章があんまりうまいと「あ、これ、だまされたかな」となるけど、ヘタだと、ある意味、恥をさらしているわけで、悪い人ではない気がします。例えば、聖書がありますね。
 ——ハレー彗星のように相談から離れていきます。

髙橋 新約聖書は、マルコとかヨハネとかがノンフィクションとしてイエス・キリストのことを書いているわけです。それを読むと文章がヘタで「なんか、つながってないよな」と思うわけです。だけど、そのことによって想像力が刺激されて、イエス・キリストはどういう人なんだろうかと思うわけです。完璧にうまい文章で、完成品として出されたら、キリスト教はここまで広まってないと思うんです。文章がヘタで、何言っているかわからないから「この人はどういう人なんだろうか?」とか、この部分をとらえればおそらくこうだろうけど、それと反対のことがこっちに書いてある。矛盾しているじゃないか。それは、イコール生きているということです。事象としては同じことを弟子たちがそれぞれにヘンな文章で書くから、そこにイエス・キリストが立ち現れる。大体、神のことなど我々にわかるわけがない、という話ですからね。
 ——聖書文章法。

髙橋 ベンジャミン・フランクリンというアメリカ合衆国の建国の父のひとりといわれている人がいますよね。新聞社とか出版社をやって「時は金なり」という言葉で有名な人。アメリカ経済をつくったせこくて鼻持ちならない人ですが、彼が言ったことで「そうかもしれない」と思ったことがあります。
 ——相談に近づきますように。

髙橋 彼の出版社に依頼がありました。ある人が「自分は歴史に名を残したい。ついては本を出したい」と相談にきた。すると「絶対自分で書いてはいけない。自分で書くと、歴史に名前を残せない」とベンジャミン・フランクリンは断ったらしいんです。自分で書くと矛盾とかいろいろ出てきて、読者に「あれは、おかしい」と間違いを指摘され、やがては人格も批判される。だから「誰かに書いてもらえ」とアドバイスしたらしいんです。誰かに書いてもらえば、間違いはその人の責任でしょ。矛盾があっても書いた人の理解が足りないということで、むしろ本人の評価が高まることもある。要するに、自分で本を書いたらアウトなんです。だからイエス・キリストもブッダもそうなんです。自分で書かなくて、で、書いたやつがちょっとヘタぐらいがちょうどいい。読んだ人が完璧には理解できず、「あれ、これ、おかしいぞ。さっき言ってたことと違う。反対のこと言ってるんじゃないかな?」、そういうことによって、自らの器の小ささに気づいたりする。はっきり言って、神とはヘタな文章が生み出したものです。神はヘタな文章に宿るんですね。
 ——すごい宿り先。

髙橋「文章がうまく書けない」という心がまえが大事ということです。「自分は文章がうまい」と思う人は相談なんかしません。そんな人は文章教室の先生になったりします。だから、「自分は文章がうまくない」という心がまえで、これからもがんばってください。その気持ちでいたほうがいい。そういう心がまえの人は、文章はうまいですよ。そのままでいいと思います。
 ——そのままでいいそうです。では、また次回をお楽しみに。

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