愉快、痛快! スカッとする落語のことば(back02)

愉快、痛快!

スカッとする落語のことば


 その八(2017.08.23) 

 

“「伴蔵、野暮だぞ」「……ヘイ!」”
      (桂歌丸「怪談牡丹燈籠 お露新三郎出逢い」より)

 

 もう20年以上前から、8月は、桂歌丸の高座を見ている。東京・国立演芸場の中席(11〜20日)で、歌丸が三遊亭円朝作品の長講を演じ続けているからだ。
 興行初日の11日は圓朝忌なので、歌丸は谷中全生庵にある圓朝の墓所にお参りし、同寺で落語協会が営む法要にも顔を出す。その足で新宿の顕性寺へまわり、歌丸の最初の師匠で、前座時代(!)に圓朝物の手ほどきを受けた五代目古今亭今輔の墓参をする。そして隼町の最高裁判所脇にある国立演芸場で、圓朝作の長編怪談を演じるのである。
「仏様とお化けのはしごだよ。毎度のことだけど、この暑さには参ちゃうねえ」
 楽屋入りした歌丸の、いかにも「くたびれましたけど」という顔が面白かった。
 この「はしご」の習慣が、数年前から崩れてしまった。肺疾患などで入退院を繰り返し、元々50キロ前後しかなかった体重が30キロ台へと減った歌丸は、圓朝と今輔に不義理をしても、国立演芸場の高座に全体重、ではない全体力と全神経を集中させると決めたようだ。
 僕は今年、圓朝忌の法要に参列した後、谷中から歌丸がトリを取る国立演芸場へ回った。
 出番の前にいったん幕を下ろし、その間に高座に座って、再び幕を上げるという「板付き」が、いつからか歌丸の高座のスタイルになってしまった。
「歩けないことはないんだけど、あたしのペースで歩いていたら、40分たっても高座に着かないよ」
 そんなことを言って楽屋連中を笑わせる歌丸。実際、こっそり舞台袖で見ていると、本当に体調が悪いときは車椅子を使うが、普段はソロリソロリと高座の座布団のことろまで歩いていた。そんな少しの体力まで落語のために温存したいという思いなのだろう。
 さらに、口演中に呼吸困難になってはいけないからと、酸素吸入のチューブが両の鼻の穴に通っている。広い会場ではチューブの存在に気がつかない観客も多いだろうが、時々、歌丸の鼻の下がピカピカ光ることがある。舞台照明に照らされたチューブのいたずらだ。
 板付きと酸素吸入。高座から普段の立ち居振る舞いまで、万事きれいごとの歌丸にとっては、耐えられない恥ずかしさに違いない。
「うすみっともないとは思うんだけど、こうしないと落語をしゃべることができないんだよ」と語る。
 すべてを捨てて、落語にかける。そんな歌丸の覚悟に触れるたいから、僕は毎年の国立通いがやめられないのである。
 ただ、そんな歌丸に対する心配やら忖度やらは、歌丸が登場するまでのことだった。
 幕が開き、歌丸が喋り始めると、何もないはずの演芸場の舞台に、江戸幕末の薄闇が広がってくるのだ。
「今回は三遊亭円朝師匠のお作の中から『怪談牡丹燈籠』の発端の部分を」
 やや高調子の繊細な口調だが、一言一言は明瞭で、観客の耳にスッキリと入ってくる。
 取材の際、歌丸から「江戸っ子言葉や東京弁が出てくるネタはやらない」と聞いたことがある。
「あたしはね、横浜生まれの横浜育ち。『てやんでえ』と言う前に、『いいじゃん、そうじゃん』が出ちゃうんですよ」
 だから江戸っ子のタンカが出てくる噺は避けて通るのだ、というのである。だが、僕は知っている。歌丸が江戸弁で啖呵を切る唯一の噺を。それが、今回のテーマ「怪談牡丹燈籠」である。
 萩原新三郎とお露の実らぬ恋の果て。幽霊になったお露が、新三郎の元に通うには、窓や玄関に張った御札をがさねばならない。幽霊から百両の金をもらい、御札剥がしの片棒を担いで新三郎の死を招いた下男の伴蔵ともぞうは、女房お峰を連れて栗橋宿へ逃げ、荒物屋の主人に収まる。そこへ女絡みでゆすりに来た浪人に一歩も譲らない伴蔵のタンカに重みがある。
「十一の時から狂い出して、抜け参りから江戸へ流れ、悪いという悪いことは二三の水出し、やらずの最中もなか野天丁半のてんちょうはんの鼻っ張、ヤアの賭場までって来たのだ、今はひびあかぎれを白足袋で隠し、なまぞらを遣っているものの、悪いことはお前より上だよ……」
 二三の水出し、やらずの最中、野天丁半の鼻っ張は、いずれもいさかまが横行するインチキばくち。今は商家の旦那でも、悪事の底の底を見て来た男だ、見くびるんじゃねえぞと、凄味を利かす伴蔵がそれまでとはまるで違う顔を見せる印象的な場面だ。
 この伴蔵のタンカを演じたいばかりに、長い長い「怪談牡丹燈籠」を手がけたということか。実際、歌丸は、この場面がある「栗橋宿」を最初に演じて高い評価を受け、周囲の強い勧めもあって「怪談牡丹燈籠」を発端から演じだしたのである。
 江戸っ子のタンカが嫌いな、ハマっ子の歌丸。
「苦手だという意識があるから、江戸弁が出てくる場面は丁寧に丁寧に、『ああじゃん』『そうじゃん』が出ないようにと集中してしゃべっています」
 ときには本物よりも本物らしく聞こえる江戸弁は、歌丸の「集中」の結果なのだろう。
 本人は「ハマっ子」を強調するが、歌丸の考え方は江戸っ子、東京っ子に近いものがある。焼いたら塩が吹き出るような塩辛い鮭や、醤油でこれでもかと煮染めた佃煮をおかずに飯をかっこみ、寿司は鮪の赤身と、コハダ、赤貝しか食べない。これでぺろりと大酒を飲み干せば立派な江戸っ子だが、残念ながら歌丸は根っからの下戸なのである。
 心の中に「江戸っ子の了見」を秘めた歌丸の「怪談牡丹燈籠」は、本家圓朝よりも江戸っ子らしい。それがよくわかるのが、今回取り上げた新三郎と伴蔵のやり取りである。
「伴蔵、野暮だぞ」「……ヘイ!」
 初めて会って心を奪われたお露の顔をもう一度みたい。そう思い詰めた新三郎は、お露の屋敷がある新川付近に釣りに行くという名目で、伴蔵に船を出させる。いざ船を降りて、恋しいお露の元へ向かおうとする新三郎に、「どこへ行くのか、私もお供に」と願う伴蔵。万感の思いを「野暮だぞ」の一言にこめた新三郎の思いを、一瞬の間のあとに汲み取って、ただ「ヘイ」とうなずく伴蔵。ほんの短いセリフで、二人の表情や思いが鮮やかに浮かび上がらせたのは、歌丸の手柄以外のなにものでもない。
 この場面、原作である圓朝版ではどうなっているのだろう。新三郎の船が本所の横川に着いたところから、読んでみようか。
 <「伴蔵、ここはどこだ」「へいここは横川です」
と云われてかたえの岸辺を見ますと、二重の建仁寺の垣に潜り門がありましたが、これは確かに飯嶋の別荘と思い、
「伴蔵や、ちょっとここへ着けてくれ、ちょっと行って来るところがあるから」「こんなところへ着けてどちらへいらっしゃるのですえ、わっちも御一緒に参りましょう」「お前はそこで待っていなよ」「だってそのための伴蔵ではございませんか。お供をいたしましょう」「野暮だのう。色にはなまじ連れは邪魔よ」「イヨお洒落でげすね、うがすねえ」>
 言葉の数は明らかに、圓朝版のほうが多く、そこだけを見ればを江戸趣味も歌丸版より濃厚である。だが、奥手のはずの新三郎が「色にはなまじ連れは邪魔よ」なんて乙を気取ったセリフを吐くのが鼻につくし、何よりも喋り過ぎである。
 圓朝と歌丸、どちらが粋でどちらが野暮か。答えは明白だろう。
 トリの高座を終えた歌丸を、楽屋に訪ねた。病気報道が続いて以降は、関係者や取材陣が次々と訪れ、狭い楽屋はつねに満員状態である。
 あれだけ元気な高座をつとめられるのだから体調万全かと思いきや、歌丸は着替えの途中も「ハアハアハア、ああ苦しい」と酸素吸入を続けていた。全精力を高座で使い果たしたのだろう。声もかけられずにいると、ようやく正常な呼吸に戻った歌丸の方から、話しかけてくれた。
「来年の春には、ここ(国立演芸場)で『小間物屋政談』をやることになったよ」
「今興行が終わってないのに、もう次の芝居の話ですか」
「いや、あたしのようになると、次の目標を定めないとダメなんだ。それに向かって頑張るという気持ちにならないとね」
 歌丸は「怪談牡丹燈籠」の公演中に、81歳の誕生日を迎えた。「まだまだ、やりたいことがいっぱいある」という。励ますつもりが、励まされて楽屋をあとにした。


 その九(2017.09.25)

 

“ありがてえありがてえ、ここ(番台)へ上がってしみじみ眺めてえと思ってたんだ。さて女湯はいかがなるや……何だ、一人もへえってねえ。男湯のほうは入ってるねェ。一人、二人、三人、四人……七けつ並んでるよ。(中略)こいつらが出ちゃったら、入り口をくぎ付けにして男を入れるのやめて、女湯専門にしちゃおう。こうしてるうちに女湯も混んできて、中には俺を見初める女が出てくるよ。「あら、今度の番頭さんは本当に粋な人じゃないの」なんてんで、どういう女がいいかなあ、娘はいけねえや、別れるときに死ぬの生きるのと事が面倒になるからなあ。といって、女中や子守っはこっちでゴメン被るし、そうだ、後家なんかどうだろう。後家とくると、こっちも小遣い銭には困らないからなあ。しかし後家も三十二、三ぐらいなら色っぽくていいけれど、六十、七十とくると世話が大変だなあ。そうだ、芸者衆なら……”
                            (「湯屋番」より)


 

「湯屋番」は昭和の寄席では定番ネタで、一日客席にいると、若手、中堅、ベテランの区別なく、必ず誰かが演じてくれたものだ。
 勘当されても能天気な若旦那が近所の湯屋(銭湯)に奉公し、念願だった番台に座ったことから興奮はクライマックスに、「粋な年増の客に見初められ、家に呼ばれて盃のやりとり。すると、突然の雷雨で女が目を回し、介抱しようと杯洗の水の口移し」などと勝手に妄想をふくらませ、湯船の客をあきれさせるーー。明るく陽気で能天気、江戸の昔なら、どこの町内にも一人ぐらいは生息していた道楽息子の日常が、楽しく描かれている。
 こんな人気演目なのに、平成の現在、めっきり口演回数が減ってしまったと、噺家たちが口をとがらせる。
「一番の理由は、若旦那が一人で妄想にふける番台が、通じないからだよ」と、寄席の重鎮、柳家権太楼が言う。
「昔の銭湯は、ロッカーなんかなくて、カゴに衣類や持ち物を入れてたでしょ。それを狙って板の間稼ぎって泥棒が出る。そういうのを見張らなきゃいけないから、番台は女湯、男湯の両方を見られるように、湯船に向けて作られていた。今の銭湯では番台じゃなくてフロントっていうのかな、女湯、男湯の入り口に背を向ける形に作られている。若い子は銭湯なんか行かないし、たまに行ってもフロントでお金払うだけだから、番台自体を知らないのよ。『男と生まれたら、一度は番台に座るのが夢』なんてくすぐりは、まったく通用しない。噺の大前提がなくなっては、ウケるわけがない。だから、やらなくなるんだよ」
 そうか、若い世代は銭湯はかろうじて知っているけど、番台なんてわからないのか。そう嘆く僕らの世代だって、今銭湯に行くのは年に何回かだろう。
 若い観客に丁寧に説明すればある程度はわかるだろうが、面白さまでは伝わらない。そういえば、拙著『寄席おもしろ帖』の「寄席」を「キセキ」と読んだ書店員がいた。世代差と言えばそれまでだが、僕らと若い世代の「知ってること」には大きな差があるのを、寄席や落語に教えられているのである。
「番台知らず」に直面した権太楼は今、「湯屋番」同様に、江戸から明治の世相を色濃く反映した「藪入り」という噺に取り組んでいる。
 一人息子が奉公に出て、初めての藪入りで帰ってくるのを万感の思いで迎える、貧しい長屋暮らしだが正直一途のおとっつぁんとおっかさん。家族、親子の絆に思わずもらい泣きする人情編だが、この名作がちゃんと現代の観客に伝わるかどうかは、はなはだ心もとない。
「まず奉公という制度がわからない。藪入りを知らない。サゲに関わってくるネズミの懸賞なんて年配の人でも知らない。社会制度や何かがわからないために、『親子の絆』という普遍のテーマが伝わりにくくなっているのね。あたしは、『奉公』や『藪入り』を説明するだけではなく、そういう制度があった『時代』までひっくるめて説明するようにしている。だからね、本編に入る前のまくらが長くなった。あたしの『藪入り』は、ある意味、まくらで勝負してるんですよ」
 権太楼の意気や良し。しかし「幕末から昭和戦前ぐらいまで」という落語の背景となる時代から、年月が過ぎれば過ぎるほど、噺家たちの作業は面倒になっていくようだ。
 噺家や常連客が「こんなの知ってるのは、当たり前だよね」というような単語や事柄が、若い観客には通じない。権太楼は、ふと「うちの弟子は大丈夫だろうか」と考えた。
「おい、へっつい、知ってるか?」「知りません」「かまどといえばわかるか?」「ああ、それならわかります。居酒屋でしょ」「チェーン店だ、それは!」
 別の真打が、弟子に「天袋から魔法瓶を持ってきてくれ」と頼んだら、弟子はぼう然として立ちすくんでいる。彼は「天袋」も「魔法瓶」も知らなかった。師匠の指示がまったく伝わっていないのである。
 二年前の春に亡くなった人間国宝が、SF作家・小松左京との対談でぽつりといったそうだ。
「この頃は、火鉢が通じませんな」
 自分たちのやってることがどこまで伝わるのかわからない。やっかいな時代になったものだ。
 だた、今、世間では「落語ブーム」という言葉が独り歩きしている。「ブーム」という程の幅も奥行きもないのだが、今まで落語に見向きもしなかった人達が寄席や落語会に来るようになったのは事実である。
 初めて落語を聞く人が「何を言ってるのか、わからない」ということになれば、二度目はないかもしれない。
 ただ、こうした現状を、僕自身はそれほど心配していない。
 先にも述べたように、過去の制度や単語がわからなくなるのは、いつの時代でも同じこと。ちゃんと説明すればわかってもらえるだろう。「わからない言葉」はたしかに噺の理解を妨げるものだが、一つ一つは些末なことであり、噺そのものの根幹であるテーマとは別のモノである。
 吉原遊廓が消え、「恋患い」という病気がなくなっても、男と女の愛や恋は永遠に変わることのない。「藪入り」の親子の情も時代と共に変わることはないし、変わったら一大事だ。
 初めてでは無理かも知れないが、二度三度と落語を聞けば、「わからない言葉」を無視して聞いていれば、噺そのものは理解できるということに気づくはずだ。じっくり落語を楽しんだ後、まだ気になる言葉があったとしても、落語のネタにそんな複雑な概念があるわけではないから、ネットでも何でも使って調べることは容易なはずだ。
 それでも「わからない」「つまらない」という人には、「無理して落語を聞くことはない」と言いたい。今はまだ落語を聞く準備が整ってないだけなのである。落語以外にも面白いものはたくさんある。いろいろなものに触れているうちに、いつか必ず寄席に行きたくなったり、落語に興味がわいてくることがある。その時に、仕切り直しをすればいいのだ。
 落語家に「伝えたい」という思いがあり、観客に「聞きたい」という気持ちがあれば、落語がなくなることはない。あとは、根幹を崩すことなく、それぞれの時代に合うように噺をリフレッシュさせる噺家の了見と工夫にゆだねるしかないだろう。
「湯屋番」は、いかにも落語らしい、軽く愉快なネタである。


 その十(2017.10.26)

 

“お待どおさまじゃァねえや、早えじゃねえか、蕎麦屋さん、気が利いてるねェ、江戸ッ子は気が短えからねェ、あつらえる、催促をする、できねえとうめえものがまずくなる、しまいにゃァ食いたくなくなっちまう、まったくだよ(箸を取り上げ)偉いッ、感心に割り箸を使ってェる、これァ一番いいや。綺麗事で。割ってある箸は誰が使ったか判らなくてねェ、心持ちが悪くッていけねえ。(箸をぱちんと割って、丼を持ち上げ)いい丼だねェ、(中略)ものは器で食わせるッてねェ、中身が少ゥしぐらいまずくなって。いれものが綺麗ならうまく食えるじゃァねえか(つゥと汁を飲み)鰹節かつぶしおごったね(中略、そばをつまみ上げ)蕎麦屋さん、おめえとは付き合いてえなァ、太い蕎麦なんざあ食いたくねえや、ねェ。飯の代わりにそばを食うんじゃァねえからねェ、蕎麦は細い方がいい。(二三度たぐってすすり込み)うん、良い蕎麦だね、腰が強くッて、ぽきぽきしてやがら、近頃このくらいの蕎麦に出会わねえなァ、うん、いい蕎麦だ(竹輪をつまみ上げ)厚く切ったねェ、竹輪を。なかなかこう厚く切らねえで薄く切りやがってね、うん。食ってて痛々しいや(竹輪をもぐもぐしながら)食ったような気がしねえ、歯のあいだィ入るとそれでおしまい。あのくらいなら食わねえ方がいいくらいだ。(中略、ふうふう吹きながら蕎麦を手繰り、最期に残った汁をつゥと吸って、その手で鼻をすすり上げ)うまいッ。もう一杯(いっぺえ)かわりと言いてえんだが、実は他所でまずい蕎麦ァ食っちゃった、お前のを口直しにやったんだ。すまねえ、一杯で負けといてくれ”
                    (三代目桂三木助「時そば」より)


 

 花鳥風月、自然というものに縁がない、ゴミゴミとした東京の下町で育った人間は、負け惜しみではないが、季節の移り変わりを寄席の客席で感じるという離れ業を身に着けている。
 落語に季語はないけれど、寄席の高座に上がる噺家たちは、何よりも季節感を大事にする。鈴本演芸場で「長屋の花見」を聞けるようになったら、上野の山の桜はもうじきだし、浅草演芸ホールで毎日のように「たがや」をやっていたら、隅田川の花火大会が遠くない証拠だ。贔屓のベテランが「目黒のさんま」を始めたら……、言わずもがなだが、秋の足音が聞こえてくるはずだ。
 ただ、落語は季節の先取りなので、桜が満開になったら、もう花見の噺はしない。寄席で落語を聞いているより、花見に行った方がいいに決まっているからだ。
 寄席で僕が最も季節を意識する瞬間は、秋の終わり頃、柳家さん喬が「そば清」ではなく、「時そば」をやり始めたときだ。
 新そばの季節を境に、それまで「もり」ばかり食べていたのが、温かい「かけ」や「種もの」に変わる。もりそばを何枚食べるかの賭けをしていた「清さん」が退場し、夜鳴き蕎麦屋をいかに騙そうかと狙うの遊び人が、噺の主役に躍り出てくるのである。
 寒くなったなあ、そろそろ厚手のセーターを出しておこうか、などと考えながら、「時そば」を聞き終えて外に出ると、頬を撫でる風が昨日よりぐんと冷たくなっているのを実感するのだ。
 晩秋から冬の間じゅう、寄席に行けば必ずといっていいほど、ベテラン、中堅、若手の誰かが「時そば」を演じている。あまりに毎度のことなので食傷気味になるかと思えば、そんなことはまったくない。「冷えた夜に温かいそばを一杯たぐる」という誘惑は、噺の上のことであっても、この上なく魅力的だ。
「時そば」といえば、柳家の芸だろう。五代目小さんは、名人と呼ばれた三代目小さんの芸を継承した七代目三笑亭可楽、通称「玉井の可楽」から絶品の「時そば」を教わった。柳家ではないが、もう一人、「三代目小さん→七代目可楽」のルートで「時そば」を我が物にしたのが、五代目小さんの義兄弟になった三代目桂三木助である。
 元は同じでも、三木助は独自の工夫を加えて、小さんとは違う「三木助の時そば」を作り出した。冒頭のセリフを読めばわかるように、その噺の中には、歯切れのよい江戸弁と、江戸っ子の美学が溢れている。
「時そば」のストーリーは単純そのものだ。遊び人風の男が屋台の蕎麦を褒めまくり、巧みな言葉と時刻のトリックを使って十六文の代金の内、一文だけごまかしてしまう。それを見ていた少々マヌケな男が「俺もやってみよう」と翌日、遊び人と同じことをやってみるが、捕まえた蕎麦屋のしっぽくがべらぼうにまずくて褒めることができず、そのうえ時刻を間違えたためトリックが逆効果となり、何文か余計に蕎麦台を払うことになるというもの。
 とにかく、一日目の蕎麦を褒めまくる遊び人の江戸弁が、気持ち良いのである。
 蕎麦がすぐに出てくる、割り箸を使っている、丼がきれい、出汁を奢っている、蕎麦が細くて、竹輪が厚い。歯切れのよい江戸弁でさんざん持ち上げられた上、最後に「うまい!」と念押しされ、世辞とわかっていても蕎麦屋は舞い上がってしまうだろう。なるほどこれなら、一文誤魔化されたことに、蕎麦屋は生涯気がつかないだろう。
 ごまかしたのは「わずか一文」というのだから、遊び人が「本気の悪事」ではなく、「少々意地悪な遊び」であったことは明白。かくて誰も傷つかない完全犯罪(?)が成立するのだ。
 ところが、これを見ていた男がいた。翌日この犯行を模倣しようとしたものの見事に失敗するぐらいだから、かなりマヌケな男には違いないが、彼は、蕎麦屋を騙した遊び人を見て「何言ってやがる」と反発する。僕らが「江戸っ子そのもの」としか思えない遊び人の言動は、彼にとっては江戸前ではないのか。
「最初ッからしまいまでしゃべってやがら、あんなにしゃべらなくッちゃァそば食えねえのかなァ」「箸が割り箸で丼が綺麗で、汁加減がよくッて蕎麦が細くて、竹輪が厚ッぺらだッてやがら。銭を払うのにあんなに世辞ィ使うことァねえじゃァねえか」「食い逃げならつかまえてひッぱたいてやろうと思ったら銭払ってやがる」「いくらだい、十六文いただきます……てやんでェ、値段聞くことァねえ、十六文にきまってるもんじゃァねえか」
 そう、マヌケな男は、遊び人の江戸弁ではなく、了見に怒っているのだ。
「江戸っ子が夜鳴きそばをたぐるという時に、あんなに喋りちらし、あんなに下手に出るのはおかしい!」
 もちろん、後に犯行のための方便だとわかるのだが、マヌケな男にとっては「江戸っ子として見逃せない、はずべき行い」だったのである。
 翌日の夜、二番目の男は、彼の了見に反して、蕎麦屋を褒めたおそうとする。ところが蕎麦の出来がひどすぎて、褒めようとすると逆効果になるのが、この噺の聞き所である。
 蕎麦がなかなか出てこない、割り箸ではなく割ってある箸、丼はひびだらけ、出汁がまずく、うどんのような蕎麦で、月が透けて見えるほど竹輪が薄く切ってある(実は本物の麸!)。
 江戸っ子の了見を曲げてまで蕎麦屋を騙そうとしたのに、出てきた蕎麦が「蕎麦の了見」に反するものだったのである。
「時そば」は、江戸弁と江戸っ子の了見の、良いお手本と、最悪の例を教えてくれる。書いているうちに細くてぽきぽきの蕎麦が食べたくなった。


 その十一(2017.11.23)

 

「このクソったれ大家!」「フン、面白れえことを言うなァ。この広い世の中で、クソをたれねェ大家があるか」
              (『大工調べ』『三方一両損』など)


 

 いきなりの品のない会話で、誠に申し訳ない。「クソ」と「フン」という優雅なコトバの応酬で始まったやりとりは、もちろん江戸や明治の昔、裏長屋というごくごく庶民的な共同住宅にとぐろを巻いていた「江戸っ子」と、その長屋の管理いっさいを任されている大家(家主、家守とも)との大喧嘩に決まっている。
『大工調べ』では、ためた店賃(家賃)のカタに道具箱を取り上げられた大工・与太郎の窮状を見るに見かねて、棟梁が店賃の肩代わりをするのだが、「一両二分八百」のところ、手持ちの金が「一両二分」だったことが、噺をこじらす原因となった。
「棟梁、足りない八百はどうするんだ?」
「一両二分と八百のところを、一両二分持って行くんだ。あとの八百はあたぼうだ」
「あたぼうって何?」
「当たり前だべらぼうめ、ってんだ」
 棟梁は内輪の話のつもりだったが、少々足りない与太郎は、この「あたぼう」を大家の前でやってしまったから、さあ大変。怒り心頭の大家は「残り八百を持って来なきゃ、道具箱は渡せねえ!」と態度を硬化させた。慌てた棟梁が「与太郎の親孝行に免じて」と頭を下げても、頑として受け付けない。あまりの因業さに、棟梁の堪忍袋の尾が切れて、口をついて出たタンカの第一声が「このクソったれ大家!」なのである。
『三方一両損』も江戸っ子同士の喧嘩がもとになった。柳原で財布を拾った左官の金太郎が、持ち主とおぼしき大工の吉五郎の家に届けに行ったところ、受け取ろうとしない。
「俺の懐から勝手に出ていったものだから、いらねえ。金はオメエにやるよ」
「冗談じゃねえ。俺は金が欲しくてこんなところまで来たワケじゃねえや。力づくでも受け取らせてみせる」
 金にはきれいな江戸っ子だが、意地の張り合いになると、もう我慢がきかない。取っ組み合いの喧嘩になったところへ仲裁に入った家主が、自分の店子の吉五郎ばかりを「とにかくお前が悪い」と頭ごなしに叱るため、吉五郎がキレてしまう。タンカの始まりは、やっぱり「このクソったれ大家!」なのだった。
 二つの噺に限らず、江戸っ子と大家の喧嘩は「クソったれ」で始まることが多い。家主ばかりではなく、その家族との争いごとでも、江戸っ子はよく「クソを食らえ」なんて口走る。
 実は江戸時代、大家、家主と「クソ」(何度も書いてすまぬ)には、切っても切れない関係があったのである。
 家主は、裏長屋の所有者ではない。実際の持ち主である「地主」はよそにいて、その依頼によって長屋の管理いっさいを任されている代理人が家主なのだ。
 家主は店子から地代や店賃を集め、地主に納める。さらに自身番に詰めて、町役人としての仕事もする。そしてもう一つ、家主には大事な副業があった。
 長屋はトイレは惣後架そうごうかという共同便所であり、契約している農家の人がくみ取りに来る。当時、下肥は大事な肥料であり、農家は盆と暮れの年二回、家主にくみ取り料を支払うのである。
 日常的に「銀しゃり=白いおまんま」を食べ、口がおごっているのが自慢の江戸っ子が出す「クソ」は、上質の下肥であり、高く売れる。これが家主にとっては大きな収入源だった。
「大家、大家と威張っているが、俺たちの排せつ物で食わせてもらってるようなもんじゃねえか」
 いつも店賃で四苦八苦している江戸っ子にしてみれば、そんな思いが、腹の立ったときに「クソったれ」「クソを食らえ」というコトバになって出てきてしまうのだろう。
 大家のほうも負けてはいない。「クソをたれない大家がいるか」という切り返しは見事だし、その権柄尽くの言い方から、町役人としての権威とプライドがうかがえる。
『大工調べ』の大家も、棟梁のタンカにひるむことなく、悪役に徹するのであるが、タンカの続きが容赦ない。
「今は町役だの膏薬だの、大家さまとかすべったの転んだのって威張っているが、うぬはどこの田舎から転がり込んで来やがったのか。あっちこっちでお余りをもらっていたことを知っているぞ。そのうちに久兵衛番太の死んだ後へ後家の婆アを色深く張りに行きやがって、とうとう巧く婆を張り落としててその後へズルズルべったり入り婿になって。焼き芋を始めたってそうだ、久兵衛番太の自分は三丁も四丁も先から買いに来た。甘くって安いから。ところがテメエは薪を惜しむから薄っべってえくせに、いつでも生焼けでガリガリして食える訳のものではねえ。テメエんとこの焼き芋を食っちゃァ腹を下したものがいくらもあることを知ってるぞ!」(二代目柳家小さん)
 大家の旧悪(?)が次々と暴かれたうえ、お恐れながら南町奉行所へ訴えられて散々な目にあう。
 いい大家と悪い大家。落語にはどちらの大家も出てくるが、どちらも「クソと説教をたれる存在」である。


 その十二(2017.12.23)

 

 おめっちは、さっきから胡乱にこっちを見ちゃ詮索するが、おめえ、俳優わざおぎだろう。役者衆だな。おう、おめえたちはよく我々の姿を舞台に表すそうだが、痩せても枯れても三村新次郎、お旗本の端くれだぜ。もしもふざけた表し方をすると、その分には捨ておかねェぞ!
              (五代目三遊亭円楽『中村仲蔵』より)


 

 門閥のないものはどんなに優れた腕があっても出世が出来なかった時代に、大部屋の「その他大勢」から名題にまで上り詰めた初代中村仲蔵。実在した江戸の名優の“伝説”を落語化した「中村仲蔵」は、胸のすく芸談として根強い人気を保っている。
 苦労に苦労を重ねて名題にはなったものの、名家の御曹司にはバカにされ、楽屋内のねたみそねみにさらされる日々。名題になって初めての芝居「仮名手本忠臣蔵」でどんないい役がつくかと心待ちにしていたが、ついた役は「五段目・山崎街道」の斧定九郎だけだった。
「四段目・判官切腹」を満喫した観客が、「五段目」でほっと息を抜き、一斉に飲み食いにとりかかる。そんな「弁当幕」と揶揄される場面に登場するのが、斧定九郎。山賊のような身なりのやぼな侍で、とてもじゃないが名題の役者がやる役じゃない。
「こんな惨めな思いをするなら、上方へでも行こうか」とまで思い詰めた仲蔵が、女房おきしの励ましと叱咤に発奮する。
「五万三千石の家老の息子があんな格好をするのはおかしい。よし、俺が今までにない定九郎を作ってやろう!」
 気負って柳島の妙見様に願をかけたが、満願の日になっても何の工夫も浮かばない。雨に降られて駆け込んだ本所のそば屋で、奇跡が起きた。仲蔵がぼんやりとイメージしていた定九郎像にこれ以上ないほどピッタリの侍が、ずぶぬれで入ってきたのだ。
 この噺を得意にしていた八代目林家正蔵(のちの彦六)の口演速記に、その姿が生き生きと描写されている。
<(仲蔵が)食べたくもない蕎麦を口へ運んでいると・・。「許せよ」。ガラリッと音での腰障子が開いた。「ああ、ひどい降りだ」。傘ァたたんで土間へ投げ捨て、「いやァどうも、濡れた濡れた」といいながら、袂をこう絞る。乾いたそば屋の土間に時ならない絞りの模様>
<ひょいとみると年齢は三十でこぼこ。い〜い男です。髯の後を青々とさし(せ)て、月代さかやきが生い(え)ている。黒羽二重の衣類に茶献上の帯、着物の裾を端折って大小は掴み差し>
「これぞ淡島様の御利益、これを定九郎にしよう」と勢いづいた仲蔵が、「傘は?」「お召し物は?」「腰のものは?」「おつむはどのぐらい生やかしたんでございますか?」と質問攻めにする。さすがに不審に思った侍が、定九郎にポンと一本釘をさしたのが、今回の「落語のことば」だ。
 侍言葉は、もちろん町人の江戸弁とは違う。ただ、自ら「貧乏旗本」を名乗る三村は無役の小普請組で、将来への展望も目先の出世もないと諦めている。となれば、酒とバクチと女のどれか一つに(もしかしたら全部?)のめり込んでいるのだろう。付き合う人種は武士階級より、盛り場で袖すり合う事の多い江戸っ子たちのほうが圧倒的に多くなる。自然、言葉遣いも、よくいえばざっくばらんで柔らかく、悪くとるなら無頼に近いものになってくる。
「おめっち」で始まる冒頭のセリフも侍言葉に聞こえないでもないが、江戸城や屋敷内で耳にするものとは雲泥の差がある。
 実際、「ふざけた表し方をすると、その分には捨ておかねェぞ!」とすごまれた仲蔵は、「どうかご勘弁を!!」とそば屋の土間に土下座をする。侍の顔にはうっすら笑みが浮かび、「おいおい、シャレだ、シャレだ」と付け足しているのに、仲蔵は謝り続ける。二本差しも怖ければ、侍言葉と江戸弁がまじったような、ちょいと崩れた言葉の圧力に、腰が引けるのだろう。
「中村仲蔵」は昭和の大物、八代目林家正蔵(のちの彦六)の押しも押されもせぬ十八番だったが、これを教わった五代目三遊亭円楽が得意ネタに仕上げたことから、演者も贔屓客も飛躍的に増えた。芝居噺に熟達した八代目正蔵の魅力とはまたひと味違う、豪快かつ繊細な円楽の芸風が「中村仲蔵」という噺に向いていたのだろう。だから今回の冒頭の「ことば」は、円楽の速記からとらせてもらった。
 八代目正蔵の前名が「三遊亭円楽」であったことは、平成の新しい落語ファンにはあまり知られていないかもしれない。八代目正蔵は、1919年に三代目円楽となり、五代目蝶花楼馬楽を名乗った後、1950年に正蔵を襲名した。つまり、五代目円楽の「先々代」が、八代目正蔵なのである。
五代目円楽の師匠である昭和の名人、六代目三遊亭円生と、八代目正蔵はライバルであり、犬猿とまでは行かなくても、あまり仲がよくないのは関係者なら誰でも知っている。正蔵はその不仲の相手の一番弟子に「円楽」の名を譲ったのである。
「円楽ってのは、代々売れない名前だからね」
 たしかに八代目正蔵も円楽時代はパッとしなかった。「もう一つ」だった名跡を大看板にしたのは五代目円楽の功績であり、「中村仲蔵」もその躍進に手を貸したと言えるだろう。「中村仲蔵」はやはり出世物語なのである。
 仲蔵と定九郎のモデルとなった侍との劇的な出会いは、映画の題材にもなっている。内容はほぼ落語と同じだが、儲け役の侍は「貧乏旗本三村新次郎」ではなく、「浪人此村大吉」で登場する。此村というのは、落語でも「これから此村大吉の屋敷で寄合があるので、紋服ぐらいは着ていかないと」というセリフに登場する。本来は此村大吉で演じられていたが、映画に後れを取るのはシャクなので、あえて此村を脇に置いて三村という新しいキャラクターをもってきた、ということではないか。若い頃から跳ねっ返りで粋好みだった八代目正蔵なら、そのぐらいのことはやりそうではないか。
 ともあれ、戦前戦後のスクリーンの中では、阪東妻三郎、鶴田浩二らが、襤褸に身を包んでも侍の矜持は失わない此村大吉をさっそうと演じている。


 その十三(2018.02.04)

 

やかましいやいっ! てめえたちのところへ酒や飯をもらいにきたんじゃねえ。これ、ども安、てめえというヤツは失礼なヤツだ。礼儀を知らねえヤツだ。挨拶をして、頭ァ下げるのが当たり前だ。てめえたちはばくち打ちに成り上がったつもりか、成り下がったんだろう。とんでもねえ、身の程を知れ。なんてェ、てめえたちはわからねえヤツだっ!
   (三代目神田伯山「清水次郎長伝・次郎長とども安」より)


 

 自慢にも何にもならないけれど、演芸好き、ということに関しては他人様にひけをとることはない、かもしれない。
 小学校4年のときに初めて上野鈴本演芸場の木戸をくぐってから50年と少し。新人記者時代、初任地の宇都宮支局で「年中休みなし」「栃木県から他所への移動禁止」を言い渡されても、締め切りと締め切りの間のわずかな時間を使ってJR東北線に飛び乗って宇都宮―東京を往復、ちょっとだけ寄席を見て帰って「すみません、ポケベル(古いね!)が壊れちゃって連絡がとれず」と見え透いた言い訳をしたことも、今となってはほほえましい(?)思い出である。
 これまで僕が歩いて来た道の両側には、必ず寄席や演芸会があった。ないときは、ありそうな道を探して歩いた。
 大好きな演芸の中でもとりわけお気に入りは、やっぱり落語だろう。では落語の次に好きなのは……、何だろう? 講談、浪曲、漫才その他の色物と、時代時代によってランキングは変動したが、中年になって講談が「不動の2位」になった。きっかけは、1枚のCDである。
 忘れもしない1998年の春のことだ。
「こんなのを作ったんだけど、聞いてくれる?」
 今はなき講談専門誌「講談研究」の今は亡き田邊孝治編集人から、6枚組の講談CD「講談黄金時代」(コロムビア)をいただいたのである。
 収録されていたのは神田伯龍、大島伯鶴、六代目一龍斎貞山、五代目宝井馬琴ら、1940~60年代に活躍した、同時としても懐かしい名人上手ばかり。その中で一人だけ、ひと時代古い講釈師が僕の目を引いた。
 関東大震災から昭和の初め頃に「名人」といわれた、三代目神田伯山である。「次郎長伯山」の異名の通り、主要文献や先人の高座を元に、自らの手で一から作り直した「清水次郎長伝」で、売れに売れた。この伯山の「次郎長伝」を追いかけ回したのが、浪曲師の二代目広沢虎造だった。虎造は伯山ネタを取り入れた浪曲版「次郎長伝」で一世を風靡することになる。
 その伯山が6枚組「講談黄金時代」の1枚目に入っていた。「次郎長伝」の中から「次郎長とども安」。東海道で売り出し始めた清水の次郎長と、シリーズ中の代表的な悪役、「ども安」こと武居の安二郎の喧嘩始めという、威勢のいい演題である。
 時代が時代なので、当然のことながらSPレコードからの採録だ。13分前後と短い録音時間、そのうえ音質は悪く、さらに、あちらこちらに雑音も入っている。本物の高座がどんなに素晴らしいものだったとしても、この録音状態では、数段レベルが落ちるだろう。そう思って聞き始めたが、このひとことで、とりこになってしまった。
「やかましいやいっ!」
 極悪非道のども安が、これまたワルの代表のような子分・黒駒の勝蔵と自宅で碁を打っているところへ、次郎長が乗り込んでくる。
「ああ次郎長ってのはテメエか。碁が終わるまで、メシでも食ってろ」
 三下のような軽い扱いに、次郎長がキレた。そこで、尻をまくっての、一世一代のタンカが始まるのだ。
 相手の首根っこを押さえられるかどうかは、タンカの語りだしがすべてである。もう一度、書こうか。
「やかましいやいっ!」
 伯山の高調子で、ざらざらと荒れた怒声が、どーんと腹に響き、五臓六腑をゆらすのだ。伯山のタンカはこの後、録音機器も音質も雑音も吹き飛ばして、ぐんぐんとパワーを増していく。
「てめえたちはばくち打ちに成り上がったつもりか、成り下がったんだろう!」
 立ち上がった次郎長はバババッとども安たちに迫り、右の足を上げるやいなや、碁盤をパーンと蹴返した。ついでに僕もノックアウトされたのである。
 講談には学生時代から興味があったが、何しろ低迷期の長い芸能である。インターネットも情報誌もない時代、どこで何を聞けばいいのかわからない。東京で唯一の定席「本牧亭」に行けば何とかなるだろうと、おそるおそる出かけてみると、広くもない畳座敷に十数人、年配男性ばかりが座っているだけ。あきらかに全員が常連客で、座わる場所も決まっているらしい。突然舞い込んだ僕は、全員の冷たい視線を浴び、「なんだこいつは。そこは誰々さんの席だ。あっちへ行け」という感じで追いつめられ、気がつくと、高座に出ている釈台の真ん前しか座る場所がない! やむなくそこに座って、知らない講談師と面と向かい、聞いたことのない演目を浴びせられるのだから、たまらない。
 たまに行ってはアウェー感に襲われ、すごすごと撤退する。損なことを繰り返しているうちに、本牧亭は閉場してしまった。
 そんなわけで講談から遠ざかりつつあったとき、伯山のCDに出会ったのである。
「講談は面白い!」
 思い直した僕は、また講談の会に通い出した。その頃には、かつての年配常連客は姿を消していた。もう、ああいう「つわもの常連」は現われることはないかもしれない。
 一龍斎貞鳳が「講談師ただいま24人」という現実そのままのタイトルの本を刊行した時代に比べると、状況は少しだけよくなっている。講談師は3倍以上に増えたが、増えた分の大半が女流である、というのが現実だ。だが、数少ない若手男性講談師の中から、まだ二ツ目だが、神田松之丞というスター候補が飛び出してきた。
 かつて伯山の「次郎長伝」を、虎造が浪曲化して大ヒットとなった。今は、落語が講談ネタを取り入れている。「井戸の茶碗」「芝居の喧嘩」「柳田格之進」などは、もともと講談だったとは思えないほど、寄席や落語会の定番になっている。
 反対に落語から講談になったものもあるが、講談の落語化にくらべると「面白くなった」と思えるものが圧倒的に少ないようだ。
 それでも僕は、講談を聴き続ける。そして、講談の未来に希望を見いだすのである。
「やかましいやいっ!」
 この一言で観客をとりこにできる。これほど言葉に力を持たせることができるのは、講談しかないと思うからだ。


 その十四(2018.03.29)

 

“何だと? 他の者じゃねえ、弥太五郎源七が来ただと? 何を言ってやがんだ、べらぼうめ。弥太五郎源七がどうしたってんだ! ウヌが弥太五郎源七なら、俺も上総無宿の入れ墨新三だ。てめっちにけじめェくうかい。ふん、他人ひとが親分とか提灯とか持ち上げてやりゃァいい気になりやがって、ふざけたことを言うねえ。三年たちゃァ三つになるんだ。堅気な奴が来て『どうぞお願え申します』と言われりゃァ銭も金も取らずにけえしてやらあ。ウヌのような親分がった奴が来やがって四の五の言やァなお帰さねえや。悔しかったら、矢でも鉄砲でも持ってきやがれ”
             (六代目三遊亭円生「髪結新三」より)


 

梅雨小袖昔八丈つゆこそでむかしはちじょう」、通称「髪結新三」は江戸情緒が濃厚に漂う芝居として親しまれている。
 主人公の新三は、古くは五代目、六代目の菊五郎の当たり役だったというが、さすがに音羽屋二代の舞台を生で見たという人は、平成の現在、生存しているとは思えない。
 僕が覚えているのは、十七代目、十八代目の中村勘三郎父子である。とりわけ、2012年に57歳の若さでこの世を去った十八代目勘三郎の新三は忘れがたい。
 勘三郎は、不肖ワタクシと同い年だった。もちろん、生前は何の接点もなかったが、自分と同じ年齢のスターが気にならない人間は居ないだろう。
 彼は、勘九郎と言った子供の頃から舞台に立ち、以来ずっと大歌舞伎の第一線にたち、坂東玉三郎、坂東三津五郎ら新旧の名優と共演し、コクーン歌舞伎やら平成中村座など歌舞伎の世界を広げるような大仕事を成し遂げ、ついでに有名女優と浮き名を流し、酒と女と名声を手に自由気ままに人生を駆け抜けて、あれよあれよという間にあっちの世界に旅立ってしまった。
 勘三郎とは比べようがないフツーの日常をおくる僕は、同じ年齢のスターの活躍を励みに、悪戦苦闘しながら自分の道を少しずつ切り開いてきた。周回遅れどころか、5周も6周も7周も遅れながら、少しでも追いつこうとしている凡人をあざ笑うように、はははと笑って、手の届かないところへ行ってしまった――。
 いきなり本題から逸れてしまったが、その勘三郎がおそらく十八番の一つにしていた「髪結新三」は、たしかに江戸の商家や町並みや長屋がリアルに描かれた、楽しい芝居ではあったが、実際に舞台を見ると、主役の新三自体は「江戸っ子の代表」というほどかっこいい男とは思えなかった。
「髪結新三」という演目は、落語にもある。というより、落語の方が先にできたのである。江戸後期に出来た人情噺「白子屋政談」を、明治のはじめに河竹新七、のちの河竹黙阿弥が歌舞伎狂言に書き直したのである。
 落語版の「髪結新三」は、もっと冴えない存在で、どう贔屓目にても「少し目端の利いた小悪党」といった風情である。
 江戸でも有数の大きな商家だが、身代が傾きかけている白子屋。一人娘で評判の美人だったお熊が、両親から持参金当て押し付けられたで醜男の婿を嫌い、手代の忠七と良い仲になっている。そこに目をつけた廻り髪結の新三が、「2人の駆け落ちの手助けを」と言葉巧みに持ちかけ、お熊だけをさらって、慰みものにする。
 事を荒立てたくない白子屋は、地元の顔役、「葺屋町の親分」こと弥太五郎源七(名前が二つあるのは、今聞くと変な感じだが、大物の証拠なのである)に事態の収集を依頼する。
 源七が新三の長屋へ出向き、上から目線で「娘を解放しろ」と迫ってくる。あきらかに相手が格上なので、最初は下手に出ていた新三だが、「わざわざ源七が乗り出してきたんだ」「この源七が頼んでいるんだ」と権柄づくで畳み込まれ、我慢できずにブチ切れる。
 そして、冒頭のタンカになるのである。
 江戸でも名のしれた顔役にこんな暴言を吐いてただで済むわけはない。面目丸つぶれになった源七は思わず脇差しを抜こうとするが、白子屋の使いで車力の善八に「お店に迷惑がかかる」と止められ、怒りに身を震わせながら、捨てぜりふを残して帰っていく。
 ここで話が終わっていたら、新三の貫禄もぐっと上がるというものだろう。ところが、颯爽と言い放った新三のタンカを、跡形もなく吹き飛ばすような、さらに見事なタンカを並べる男が登場するのだ。どこの顔役か男伊達かという期待はすぐに裏切られる。
 源七と入れ替わるように新三の前に立ちはだかったのは、長屋の家主、長兵衛だった。
 金に細かく、意地汚く、どうにも風采の上がらないジジイである。新三も当然、家主を甘く見て、わずかの金で娘を解放しろといわれても、動じるふうもない。源七に対するよりも柔らかいが、「俺はただ者じゃねえ。上総無宿の入れ墨新三だ!」と胸を反らすばかりである。
 そして、2人の会談は決裂。ついにブチ切れたのは、新三ではなく、家主のジジイだった。
「この馬鹿野郎ッ! 何を言ってやがる。上総無宿の入れ墨新三だってやがる。おい俺の前でな、あんまり聞いたふうな口をきくなよ。何だそりゃ。弥太五郎源七はおめえに凹まされたかも知れねえが、家主長兵衛はてめえなんかに凹まねえぜ。てめえ、無宿てェのを何だか知ってるのか、えっ? 人別(戸籍)のねえことを言うんだ。入れ墨というのは、お上で首を打つところを、入れ墨をして命を助けて下さるんだ。そんなもの、何が豪気なんだ。いけ図々しい口をきくな。そういうことを言うんだったら、てめえはこの長屋へ置くわけにはいかねえ。今まで溜まってる店賃たなちん、耳を揃えてここへ払って、たった今店を空けろ。てめえみてえな奴を長屋へ置いてやったのは、てめえの肚ァ知ってるから俺が自費で置いてやったんだ。その恩も忘れやがって、てめえのような入れ墨のある無宿をな、承知の上で店ァ貸す家があったらどこへでも行って借りてみろ。てめえのようないけッ太え野郎は、この長屋から追い出しちまえば今度は俺が白子屋の方について召し連れ訴えに及ぶからそう思え。憚りながら両御番所はいうに及ばず、ご勘定から寺社奉行、火付盗賊改めの加役へ出ようと、どこの腰掛けでも、深川の長兵衛といやあ金箔付きの家主だ。ウヌのような太え野郎の首へ縄ァつけるのは、赤ん坊の手を捻るようなものだ。憚りながら、俺の向こうが晴れるもんなら張ってみろッ!」
 質量ともに、新三のタンカの倍以上はあるだろう。新三のよりどころであった「上州無宿の入れ墨新三」は、「無宿とは戸籍のないこと。入れ墨は打ち首を免れた犯罪者。どこが豪気なんだ」と完膚なきままに論破されてしまった。
 そのうえ、「長屋を追い出してやる。てめえを置いてやるような長屋はねえぞ」と引導を渡され、お上に訴え出るとまでほのめかされれば、新三の勝ち目は皆無だ。ついに全面降伏――。
 新三は、源七の持ってきた身代金よりも少ない金で手を打たざるを得なくなり、ついでに財布をはたいて買った初鰹の片身まで巻き上げられてしまう。
 見事なまでの江戸っ子の負けっぷり。これでは新三を褒めたことにはならないか。
 2012年の暮れ、NHKテレビの追悼番組で、「髪結新三」が放送された。勘三郎の新三に凹まされる弥太五郎源七役は片岡仁左衛門、逆に新三を押さえつける家主長兵衛は、「天王寺屋」中村富三郎が演じていた。


 その十五(2018.04.28)

 

「あたしゃ寅さんにみんな話を聞いたよ。若い女ができたんだろ、他所よそへ。それと一緒ンなるためにあたしを二、三年、どこかへ叩き売って二人でその金を山分けしようッてんだ。冗談言っちゃいけないよ。そんなことをされて、おたまりこぼしがあるかい。何だい、頭のてっぺんから足の爪先まで、あたしの世話になっていたんじゃないか、何を生意気なことを言ってやがんだ、なんだいその出刃庖丁なんぞ振り回して、そんなもなァこっちィ出しやがれ! さ、着物をお脱ぎ、着物を脱いでおくれ。これはあたしが拵えた着物なんだから。さ、お前さんには寅さんの脱いだ着物があるから、これを着てさっさと出ておいで。今日からあたしの亭主てェのはここにいる寅さんなんだから!」
                     (三遊亭円生「庖丁」より)


 

 高級官僚のセクハラ疑惑やら、アイドルグループの強制わいせつ事件やら、政治や業界の力関係を背景にさまざまなハラスメントが世間をにぎわしているーー。と、まあ、こんなまくらを振りながら、新旧、男女を問わず、落語家は「そんなことは珍しくも何ともない」とうそぶいている。
 そう、明治大正の昔から、寄席の楽屋にはハラスメントがいっぱいあるらしい。
 昔は女性の噺家なんていなかったから、まかり通っているのは、もっぱらパワハラだ。
 落語界はタテ社会の権化みたいな世界だから、目上の者の「黒」といったどんな色でも「黒」になるという。
「これは黒だな」「(あきらかに違うと思いながらも)黒ですぅ」「本当に黒だな?」「ま、間違いありません」「(弟子の顔をのぞき込んで)赤じゃないのか?」「……赤かもしれません」
 最初から違うと言えばいいのだが、それが言えないのである。
「どこかに師匠に小言を言われて、それが自分のことではないと思っても、『違います』とは言わない。とにかく『すみません』と謝っておく。のちに本当のことがわかれば、その師匠が『すまなかった』と言ってくれるかもしれないし……」
 こういう世界に、昭和も後半になってから、女流の弟子が続々入ってきた。そこにセクハラがないなんて、ありえないことだ。
 ただ、落語家の世界だから、陰湿という感じはさほどせず、むしろ、すべてが開けっぴろげ。「私はセクハラ発言をしています!」と世間に公言しているような、真っ正直なセクハラと言えるかもしれない。
 誰とは言えないが、僕もそういう場面を、けっこう有名な師匠が楽屋入りしてから引き揚げるまで、高座で落語をしゃべっている以外は、ず~っとタレ(女性)の話ばかりをしているのだ。会話の中には四文字言葉が頻出し、およそ女性の前では使わないというか、恐ろしくて使えないような語句がバンバンと登場する。もちろん、師匠のまわりでは、若い女性の前座たちが、お茶を入れたり、着物をたたんだり、黙々と働いているのだ。
 女性前座にこっそり話を聞いてみると……。
「初めは驚いちゃって、受け答えもできませんでしたが、最近は慣れちゃったというか、ついつい『師匠、カワイイ』と思うこともあります」
 男社会のまっただ中で「真打」という遠い目標を目指して修業する女流落語家は、落語家レベルの幼稚なセクハラなんか屁とも思わない強さを持っているといったら、ほめすぎだろうか。
 ベテラン落語家が「エロじじい」だとしても、彼らのしゃべる落語には、あきらかにセクハラと決めつけられるようなひどい噺はめったにないというのは、落語ファンなら身を以て知っているはずだ。とりわけ滑稽落語、長屋噺に登場するオカミサンたちはしたたかである。亭主よりもはるかに口が達者で、所帯のやりくりだって一枚も二枚も上である。
 たとえば、「熊の皮」のカミサンは、仕事を終えて帰ってきた亭主を家に上げず、水を汲ませ、自分の腰巻きでもなんでも洗濯物を干しに行かせ、米まで研ぐように命令する。「米ぐらいお前が研げよ」と亭主が口答えをしても「水を汲んできた人が米を研ぐほうが、お米が喜ぶんだよ!」と訳のわからない理屈でねじ伏せてしまう。こんな男女の間にセクハラは発生しにくいし、なんだか亭主がパワハラを受けているような気もしてくる。

 もう少しシリアスなネタを見てみよう。
「庖丁」は、三遊亭円生の十八番である。地味な音曲ばなしに磨きをかけて、円生が高度な演技と音曲の素養が必要な「大ネタ」にしてしまった。あまりに難しい噺になってしまったため、円生没後四十年近くたった近年では、「庖丁」を「男と女のちょっと気が利いた噺」に戻そうという動きすらある。
 女たらしの久次が、久々にあった遊び人仲間の寅に、自分が一緒に暮らしている音曲の師匠お安喜あきを誘惑させようとする。実は他に若い女ができたため、邪魔になったお安喜に「間男」の濡れ衣を着せ、女郎屋に売り飛ばそうというのだ。
 あまりの卑劣な計画に鼻白んだ寅だが、目先の金ほしさに、酒の力を借りてお安喜を口説きにかかるが、手厳しく反撃される。
「何を言ってやがんだ、畜生め。いやらしい奴じゃないかねえ。なんだい、こっちも酔っていると思うから我慢をしていりゃァいい気ンなりゃァがって、何をするんだ。あきれかえってものが言えない。真っ昼間、独り身じゃない、亭主があるんだこっちァ。なんだい本当に。第一、女を口説くてえ顔かい。鏡と相談しやがれ、ダボハゼみたいな顔をしやがって!」
 ダボハゼと言われて、ほっぺたを二三発殴られた寅は、バカバカしくなって、お安喜に久次のたくらみをみんなバラしてしまう。そんなことは知らない久次は「そろそろ濡れ場が始まる頃だ」と庖丁を手に乗り込んでくる。そんな悪党亭主へ、お安喜の強烈なタンカを利かせるのである。
 お安喜は俺に惚れているんだから、なんでも思い通りになると甘く見ていた久次は、突然の鋭い反撃に目を白黒。身ぐるみ剥がされて追い出されてしまう。
 男が絶対優位の江戸でも、いや、江戸だからこそ、庶民の本音を語る落語の中では、強い女がぞろぞろいるのかもしれない。

「庖丁」と似たような展開の噺に「駒長こまちょう」がある。
 金に困ったお駒・長兵衛の夫婦が、お駒に傍惚れしている上方者の丈八に美人局を仕掛けるが、DV亭主の長兵衛より、丈八のほうがはるかに優しく、上があることを知ったお駒が寝返り、丈八と二人で駆け落ちをしてしまう。そんなこととは知らぬ長兵衛が駆けつけてみると、美人局の「現場」はもぬけの殻で、お駒の手紙だけが残っていた。その全文を紹介しよう。
「長兵衛さま 一筆書き残し申し候。貴方様とかねての御約束は、嘘から出た誠と相成り、丈八様を真に恋しいお方と思い候。それに引き換えお前の悪性、お前と一緒に添うならば、明ければ米の一升買い、暮れれば油の一合買い、つぎはぎだらけの着物着て、朝から晩まで釜の前、つくづくイヤになりました、ああいやな長兵衛面、チィチィパーパーの数の子野郎。丈八つぁんと手に手を取り、永の道中変わらぬ身もとと相成り候、書き残したきことは山々あれど、先を急ぐのあまり、あらあらめでたくかしく」(古今亭志ん生「駒長」より)
「庖丁」や「駒長」のようなネタを日々高座でしゃべっているのだから、楽屋では「セクハラ大王」に見えるベテラン落語家も、女性を怒らせたときの怖さを十二分に知っているはずだ。開けっぴろげのセクハラ発言を、女性前座が「カワイイ」と思うのは、彼女たちに弱い心の中を見透かされているからなのだろう。


 その十六(2018.05.30)

 

“もうちょいと前へ出なよ。『いったいいくらお出しすりゃあいいんでございますかねえ?』……。はァ(と、タバコ一服はたき)、ふざけたことをぬかすねえ! 出しゃァいいとは何だ、出しゃアいいとは。ええ、八五郎は乞食じゃねえんだ。だったらはなァ奉加帳を持って回った時に、何だって一両でも二両でも出してやらねえんだ、エエ? 第一な、てめえんとこの徳力屋は、死んだ八五郎の爺さまには大変な恩義があるはずじゃねえか。そんなもんが、よしんばなくったってよ、町内の厄介者が堅気になって商売始めようってんだ、金ェ出してやって誰が笑うやつがあるもんか。いいか、八五郎はたしかに一文の銭を投げつけた、法を犯したから五貫文の過料金を受けることになった。おめえんとこは法は曲げちゃァいねえ、法は曲げちゃァいねえが、人情に背いてると思わねえかい。大岡様はそこんとこを百もご承知でお裁きをしてくれたんだ、気がつくのが遅すぎるんだよ! いいか、おう、金なんてものはな、いくら蔵ん中に山と積んでいたって何の役にも立たねえ、使ってみて初めて金の価値が出るんじゃねえか。どんな大食いだって、日に一斗の飯は食えねえんだよ、百畳敷の座敷に一人で寝ていられるけ、チクショウめ! 帰って(主人の)万右衛門に言ってやれ、情けは金で買えるもんじゃねえとな。何だ番頭、何て顔してやがんだ、何とか言ってみろ。ぐうとでも言えるもんなら言ってみろ!」「ぐう」「あ、言いやがったよ、このやろう!」”
                      (柳家三三「五貫裁き」より)


 

 江戸南町奉行・大岡越前守忠相は、伝統芸能・大衆演芸の世界ではスターと呼ぶべき存在である。八代将軍徳川吉宗の治世、享保年間に名奉行として活躍、その見事な裁きの数々は、あることないこと落語、講談、浪曲、歌舞伎等の演目となって、300年後の我々を楽しませてくれる。
「あることないこと」などと、つい書いてしまったが、実際、忠相は「大岡裁き」とよばれる事件にあまりかかわっておらず、その大半は他の奉行、あるいは吟味方与力の功績だったりするらしい。
 見事な裁きがあれば、それはみんな越前がさばいたものーー。もしかしたら、大岡越前守忠相というのは、ひとりの独立した人物の名ではなく、奉行という職種についた大名・旗本の総称と考える方が正しいのかもしれない。
 いわゆる大岡政談は、忠相没後、江戸の講釈師たちが名裁きの数々をこつこつと集め、分類し、作品化していったものらしい。講談が面白いとなると、落語家も黙っていない。これはと思う事件が次々と落語化され、そんな動きが浪曲にまで広がったのである。
 本家本元の講談には数多くの大岡政談がある。中で人気の高い作品は、名奉行越前守と、江戸の闇を住みかとする稀代の悪人たちとの知恵くらべである。
 代表的な悪漢物語と言えば、吉宗の御落胤を騙った「徳川天一坊」、むちゃくちゃ腕の立つ殺人鬼「畔倉重四郎」、医者くずれの極悪人「村井長安」。越前守が「こいつらだけは許せねえ」と吐き捨てた、三人の悪行は、いずれも10席以上の連続講談に仕立てられ、講談の人気演目なった。現在では、「講談界の革命児」と自ら名乗る人気者、神田松之丞と、彼が所属する神田松鯉一門の精鋭がこの三作品を売り物にしている。
 落語のほうはと言えば、前述のとおり、講談から面白そうなところをちゃっかりいただいているというわけだ。ただ、講談で人気の極悪人の連続講談はなぜかほとんど落語化されていない。
 大岡政談をもとにした落語の代表と言えば、「三方一両損」「大工調べ」「小間物屋政談」に、今回の「お題」である「五貫裁き」を上げるべきだろう。どの噺も、幕府転覆を企てるような大悪党は登場せず、江戸っ子たちが、身近にある、「どうにも納得がいかねえや」「これだけは許せねえ」という事件や現象の数々を、名奉行の力を借りて解決していこうというもので、一席聞き終わった後は、ささやかな満足感、達成感に包まれるのである。
「五貫裁き」が人気演目になったのは、立川談志が好んで演じていたからだろう。
 長屋の鼻つまみ者・八五郎が、改心して八百屋になろうと決意したが、懐に一文の金もない。数少ない理解者である家主に奉加帳をこしらえてもらい、「まずは金持ちがいい」と町内の質屋、徳力屋萬右衛門の店を訪ねる。ところが、徳力屋や名うての吝嗇家であり、対応に出た番頭が奉加帳に「三文」と書いた。「いくらなんでも」と八五郎がねばっていたら、主人の萬右衛門が出てきて「一文」と修正し、怒って詰め寄ろうとした八五郎の額を煙管でたたきつけ、けがをせた。怒った家主が奉行所に訴えを起こすと、大岡越前守は、八五郎に「五貫文の支払い」を命じる裁きをおこなった。八五郎は落胆するが、奉行の深慮遠謀を見ぬいた家主は「これは面白いことになった」とほくそ笑むーー。
 1960年代から落語を聞き始めた僕の世代は、この噺は「五貫裁き」ではなく、「一文惜しみ」というタイトルで、昭和の名人、三遊亭円生のみが演じていたという記憶がある。円生は徳力屋の吝嗇りんしょくぶりに焦点を当て、「一文惜しみの銭失い」ということわざで噺を締めくくっていた。噺はたしかに面白いのだが、金勘定ばかりの展開なので、聞き終わっても、何か物足りない。爽快感にかけるのである。
 その後、先代一龍斎貞丈にこの噺を教わったという、立川談志が手掛けるようになると、がぜん面白くなった。
 談志は「鼻持ちならない金持ちにたてつく家主と八五郎」に注目し、その面を強調し、「吝嗇の噺」を「江戸っ子の了見をみせる噺」に変えてしまった。これが痛快なのである。
 大岡越前守の裁きで、一度は勝訴したと思いきや、実はその後の事務処理で莫大な損失を受けることを知った徳力屋は、番頭を使いに出して、家主と八五郎に示談を申し入れるが、この談になっても、金持ちの上から目線で噺をしたため、家主の怒りを買う。それが、冒頭のセリフになる。
「おめえんとこは法は曲げちゃァいねえ、法は曲げちゃァいねえが、人情に背いてると思わねえかい。大岡様はそこんとこを百もご承知でお裁きをしてくれたんだ、気がつくのが遅すぎるんだよ!」
「金なんてものはな、いくら蔵ん中に山と積んでいたって何の役にも立たねえ、使ってみて初めて金の価値が出るんじゃねえか。(中略)帰って(主人の)万右衛門に言ってやれ、情けは金で買えるもんじゃねえとな」
 胸のすくセリフの連続だ。これではさすがの徳力屋だって、ぐうの音も出ない……、あ、ぐうの音しか出ないだろう。
 この談志バージョンは、弟子の志の輔、談春らにも受け継がれ、今もさかんに演じられている。面白いのは折り紙付きだが、ただひとつ、噺の締めくくり方が気になるのだ。
 家主の啖呵と説教で、金を使うことの意義を悟り、人に施しをする快感に目覚めた徳力屋は、店の金を湯水のように施しに使い、結果、すっからかんになって店をたたんだ。徳力屋から大枚の示談金を得た八五郎も、持ち慣れぬ金をもって舞い上がり、酒とばくちにおぼれて、あっという間にもとの貧乏生活に戻ってしまうのである。
 まあ、現実はそんなものなのだろう。でもね、あれだけ痛快な啖呵を聞いた後は、気持ちよく噺を終わってほしいと思うのも人情だろう。
 そんなふうに考えてくれたのかどうかはしらないが、柳家三三の「五貫裁き」は気持ちよく聞ける。
 講談好きで、本物の講談師宝井琴柳から講談を習っていたという三三は、琴柳から小金井芦洲版の「五貫裁き」を教わっている。筋は談志版とほぼ同じだが、侠客物が得意な芦洲のものらしく、とんとんと弾むタンカが心地よく、サゲも善良な観客の期待を裏切らぬハッピーエンドになっている。
 講談の切れ味と、落語の楽しさを同時に味わえる三三の「五貫裁き」。ちょいと長いが、筋が通っていて、耳に心地よい啖呵は、幾多ある大岡政談でも他の追随を許さない。


 その十七(2018.06.29)

 

“おい、船頭さん、舟を上手うわての方にやっつくれ。これから堀ィ上がってペイイチひっかけ、夜は吉原なかへツーッと行くてェと、女が待ってて、「あらァ、ちっとも来ないじゃないか」「忙しいから来られねえンだ」「うそォおつき、脇にイイのができたんだろう」「そんなこたないよ」「そうだよ。あたしがこれほど思っているのに、本当に悔しいよッ」って食いつきやァがるから、「痛えッ!」って”
                 (古今亭志ん生「あくび指南」より)


 

 江戸の末から明治にかけて、娯楽の少なかった時代に暇をもてあました神田や日本橋あたりの若い衆は、こぞって稽古屋に通ったという。小唄、端唄、新内、常磐津に、「寝床」「軒付け」「猫忠ねこただ」「豊竹屋とよたけや」などでおなじみの義太夫。長唄はちょいとレベルが高いので、そこそこの喉と音感がなければ続かないーー。
 狭い町内にそんなにたくさんの稽古所があったのか。そんな文教地区(?)が江戸の真ん真ん中にあろうはずがない。これまでに挙げた各種習い事のほとんどは、一軒の稽古所で間に合ってしまう。「どれも音曲だから」と、同じ稽古所で同じお師匠さんが教えてくれる。「よろず指南所」という恐ろしくも便利な場所がどの町内にもあったのである。
 とはいえ、どれほどマルチプレーヤーのお師匠さんでも、「あくび」を教えようなんて酔狂な人はいない。そんなバカバカしいものを習おうとする人だって、まずいないだろう。だが、いるはずのない人が存在するのが、落語なのである。
 町内にできたばかりの稽古所が、何を教えてくれるのか。看板には「あくび指南所」と書かれている。
「えっ、あくびというのは、あの、口から出る?」「尻からは出ないだろう」「ほんとに?」
 というやりとりがあったのか、なかったのか。嫌がる友達を付き添いに頼み、江戸っ子のお兄ィさんは、「あくび指南所」の門を叩いたーー。
 と、あらためてあらすじを紹介するのも恥ずかしいほど、「あくび指南」は古くてポピュラーな落語である。寄席の客の大半は、導入部からオチまで熟知しているので、若手が勇んで高座に掛けたところで、爆笑なんて起こるはずがない。うまく演じたとしても、「クスクス」「ウフフ」というほのかな笑いがさざ波のように広がるぐらいだ。
 だが、それでも、「あくび指南」という噺が、寄席の高座から消えてなくなることはないだろう。物語は起伏に乏しく、笑いも少ないけれど、この噺の中が、どんなに時代を経ても変わらない人間の営みのスケッチだからだ。
 今、我々の周囲を見渡しても、江戸っ子や、「よろず稽古所」を見つけることはできない。だが、現代人は江戸っ子と同じように、退屈すれば「あくび」をするし、「何の役にも立たないもの我を忘れて熱中する、愛すべき大人たち」はいつの世にも存在するのである。
「あくび指南所」で教えるのは、「口の開き方」とか「声の出し方」といった、あくびそのもののテクニックではない。「いつ、どこで、だれと、どんなふうに」というシチュエーションの中での、「こうしたらカッコイイという、あくびのスタイル」なのである。
 春夏秋冬、季節によってさまざまなあくびがあるが、入門編は「夏のあくび」らしい。
 隅田川での舟遊びに飽きた通人が、ふと漏らすあくびには、どんな思いがこもっているのか。
 師匠のお手本は、こんな感じだ。
「おい、船頭さん、舟を上手の方にやっておくれよ。これから堀ィ上がって一杯やって、夜は吉原へ行って、新造しんぞ(遊女)でも買って遊ぼうか。舟もいいが、一日乗ってると……、退屈で退屈で……、はァああッ(とあくびを漏らし)ならぬ」
 これが元気いっぱいの江戸っ子の兄さんになると、まるで違ってくる。船頭を呼ぶ「おいっ!」の声が高くて大きく、後のセリフも、勢いがありすぎる。
 そればかりか、セリフの途中から、お手本から脱線し、「吉原なかへツーッと」というセリフが引き金になって、何度やっても、兄ちゃんと馴染みの女郎ののろけばなしになってしまうのである。
「堀から上がる」の「堀」は、隅田川右岸の今戸あたりから吉原方向へ流れる山谷堀のこと。「ペイイチ」は「一杯」を粋にひっくり返した物言い。「女」はもちろん、吉原の馴染みの女郎のことで、吉原を「なか」というのは、周囲をぐるりと囲まれた「廓の中」という意味である。どれもこの時代の兄ちゃんたちが普通に使っていた、いわゆる江戸っ子言葉だ。リズムよく読めば、啖呵にも聞こえるような、気持ちの良いセリフである。
 一日舟遊びに興じて、それにも飽きたら、舟を下りて吉原へ繰りだすーー。そんな贅沢を、町内の若い職人たちが気軽にできるわけがない。「あくび指南所」で教えてくれるのは、カッコイイあくびだけではなく、そんなあくびが自然に出るような「ちょっとリッチな通人生活」でもある。
「あくび指南」のまくら代わりに、同種の「変なお稽古」の小噺をつけることもある。喧嘩を教わりに行って、本当に怒り出した江戸っ子が、師匠から「お前は見込みがある」と褒められる「喧嘩指南」に、弟子が二階から釣り糸を垂らし、師匠がそれを引っ張って「何の魚だ?」と当てさせる「釣り指南」。「そんなやつはいないよ」と切り捨てられない、不思議な楽しさがある。
 人気者の三代目三遊亭金馬は「待っている友達(登場人物)より、聞いている客の方があくびをするように、ことさらまずく演じるのが口伝」だという。
 四代目柳家小さんは、「後でサゲのあくびが引き立つように、お師匠さんのあくびは、ごくあっさりとやるのがコツ」と芸談を残している。
 これらもまた広い意味での「あくび指南」だろう。

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長井好弘(ながい・よしひろ)
1955年、東京・深川新大橋生まれ。落語、講談、浪曲などの大衆演芸を核に、伝統芸能、大衆文芸、旅、グルメなどを加えた大人のためのエンターテインメントに関する著作活動を展開する。モットーは「面白くてためにならない」。鰻重(丼)と揚げ物全般が好物で、トマトとブロッコリーと高いもの(標高、値段とも)が苦手。読売新聞東京本社編集委員。日本芸術文化振興会プログラムオフィサー(伝統芸能・大衆演芸担当)。都民寄席実行委員長、浅草芸能大賞専門審査委員。「よみうり時事川柳」五代目選者。『僕らは寄席で「お言葉」を見つけた』(東京かわら版新書)、『落語と川柳』(白水社)など、演芸関連の著書多数。