愉快、痛快! スカッとする落語のことば(back01)
愉快、痛快!
スカッとする落語のことば
その一(2017.01.30)
全体(ぜんてえ)ここの家が癪に障るってんだ。高慢な面ァしやがって、猫なんぞ飼やァがったって魚ァ買ってあてがったことがねえから、猫が近所じゅう行って泥棒する。大方お昼のおかずなんざァ、猫が稼いでくるんだろう。こんな物騒な猫が隣近所にいられた日にゃァ、長屋じゅう枕を高く飯を食うこたァできねえッ。
(八代目林家正蔵「二十四孝」より、八五郎と隣家の猫)
落語の登場人物は多種多彩だ。
「え~、八っつぁん熊さんにご隠居さん、人のいいのが甚兵衛さん、バカで与太郎・・・」
噺家の真似をしながらおなじみの名前を並べてると、与太郎の次あたりから、「人物」ばかりではなくなってくる。人を化かすのが狐と狸。子丑寅卯辰己午未申酉犬亥、十二支の動物たちも何かしら役を与えられているのだ。
訳あって(?)十二支には入っていないが、落語の中での猫の存在感は半端ではない。
「猫の災難」「猫久」「猫忠」「猫定」「猫怪談」に「猫と金魚」。思いつくまま「猫」がつく演目を挙げてみれば、おおっ、けっこうな名作ばかりではないか。
ただ、これほど重宝に使われていながら、われらが猫の役柄は、よそ様に自慢できるようなものが少ない。
落語の猫はたいてい主人公の「隣の家」に飼われていて、旦那が丹精込めた金魚を狙ったり(「猫と金魚」)するので、「泥棒猫」というありがたくない通り名をいただいている。
逆に、何も悪いことをしていないのにひどい目にあうこともある。「猫の災難」では、隣家の八五郎から「大事な鯛を盗んだうえ、一升瓶を蹴倒して逃げた」と濡れ衣を着せられるし、「金の大黒」や「船徳」では、腹減らしの町内の若い衆に食われてしまう(!)こともあるのだ。
寄席の定番である滑稽噺「二十四孝」は、長屋の乱暴者・八五郎と、隣の猫とのバトルで幕を開ける。活きのいい鯵を十三尾も手に入れた八五郎が「あいつを塩焼きにしていっぱい飲もう」と、勇躍、湯から帰って来てくると、事件が起きていた。十三尾の鯵が影も形もないのだ。家にいた母親や女房に聞いても「知らないよ」とつれない返事。
「向こうの屋根をひょいと見るとね、悪いことはできねえもんだな、隣の女所帯の泥棒猫、あれがお前さん、大あぐらをひっかいて、もそもそ食らってやがん・・」「猫が胡坐をかくかい?」「そう見えちゃった、あっしの目には。豆ッ絞りの手ぬぐいを肩にのっけて」「噓をつけ!」
話を聞かされた家主はあきれ顔だが、八五郎は怒り心頭である。「とんでもねえ猫だってんだ。魚ァ食やがった猫だから、猫を食っちまおう」と飛びかかったが、屋根までは届かない。いったん家に戻って出刃包丁を逆手に握ってまた飛び出した。
「さあ、この泥棒猫、尋常にこれへ降りて勝負しろッ」「そんなこと言って猫にわかるか」「ニャンとも言わねえ」
八五郎が出鼻膨張を物干し竿の先に結わえつけて振り回すと、猫は驚いて隣の家へ逃げ込んだ。そこで、八五郎が隣家に向かって大音声で叫ぶのである。
「こんな物騒な猫が隣近所にいられた日にゃァ、長屋じゅう枕を高く飯を食うこたァできねえッ!」
何だかわからないが、いいがかりのような啖呵だが、楽しみにしていた「鰯で一杯」を台無しにされた八五郎の怒りと落胆だけが実にストレートに伝わってくる。鰯、そんなに食べたかったのか。
八五郎の勢いに驚いて隣家からは何の反応もなし。逆に、八五郎の母親とカミサンが慌てふためいた。
「お隣には普段からいろいろご厄介になっているに、猫が魚をくわえだしたぐらいのこッて・・」
八五郎にだって近所づきあいの難しさは理解できるが、「因果と人間のカミサンに生まれて来ながら何も隣の猫の肩ァ持つ」のが気に入らない。
「十三の鯵を猫がどうして持っていくてんだ。まさかァ笊や味噌漉しを持ってきて、そん中ィさらいこんで、ぶる下げてく気遣いはねえ。口でくわえりゃ十三度(たび)、一人の猫が流しを出たり入ったりしてェるのを人間が二匹も居やァがって」
猫と人間の数え方が逆になるほど憤慨した八五郎は、あろうことか、母親とカミサンにまで鉄拳を振るってしまう。そのため、八五郎は家主から厳しく戒められ、もろこし(中国)の賢人の逸話「二十四孝」を引き合いに出しての説教を受けることになる。
「二十四孝」という噺は、これからが本題なのだが、八五郎のタンカがあまりに印象的なので、家主の説教でこの乱暴者が改心するとは思えない。ところが、噺の先を聞いてくと、八五郎は説教された後、母親に鯉やタケノコを食わせようとするなど「二十四孝」の逸話をなぞって、母親相手に孝行の真似事を始めるのである。もちろん、本気で改心したのではなく、賢人たちの孝心に感じるところがあったのではなく、「親孝行をするとお上から褒美が出るらしい」という高利的な理由が一番の動機らしい。
今日孝行の真似事をしても、明日になれば「この提灯婆(横にしわが寄っているから「提灯婆」。縦にしわだと「からかさ婆」だ)!」と母親に悪態をついて、家主に叱られるのだろう。
「毎日毎日、何をやってるのかニャ」
再び八五郎家の台所を狙いながら、隣の猫があきれ顔をしているのが目に見えるようだ。
その二(2017.02.22)
俺なんざア変な話をするやうだが、ここに居る婆さん、今ぢや皺くちや婆アだが、櫓下で姐さん株、此奴(こいつ)のお陰でとうとう勘当され、お前の親父だが弟が跡を取つて、僅か貰つた勘当金、其を資本(もとで)に一生懸命働いて好いた同志で夫婦になつて今ぢやア斯うして家主(おほや)とか何とか人に立てられて、一寸間違ひがあつても、済みませんけれどもどうか来て呉れと云はれ、俺が行けば何うにか斯うにか物が納まるといふ工合になり、貧乏ながら人の世話を随分して居る。汝は何だ、五十両といふ金を阿母(おふくろ)から貰つて出て、何所へ持つてつて捨ててきた馬鹿野郎、これからは俺がウンとたたき直してやる。人間は酸いも甘いも知らなくツちやいけねえ、汝の親父のやうでも困る、これから確かりやれよ。
(三代目柳家小さん「唐茄子屋」より、本所の伯父の意見)
落語の世界に登場する商家の若旦那は、どこか憎めない道楽者だ。
親旦那も心配するほどの堅物が、町内のごろつきに連れられ初体験。薬が効きすぎて、将来の道楽者を予感させるほどにのぼせ上る「明烏」のうぶな時次郎。
勘当されて裏長屋に落ちぶれても料簡は変わらず、幽霊の金を持ち出す手伝いをして儲けた百五十両を吉原で豪遊して一夜で使い果たす「へっつい幽霊」の銀ちゃん。
吉原へ行けぬよう家の二階に閉じ込められるが、自分の声色が得意な善公を身代わりに置いて脱出を果たす「干物箱」の孝太郎。
勘当されて職人宅に居候でも能天気は変わらず。湯屋へ奉公に出て、憧れの番台に座り妄想にふける「湯屋番」のあいつ。
どれもこれも名うての道楽者。江戸の昔だろうが平成の現在だろうが、一言ガツンといってやらなきゃ目が覚めない奴だ。
それなのに、どうしても、この連中を責めることが出来ない。
落語の国の若旦那たちは、ただひたすら自分の気持ちに忠実なだけ。勘当されようが、汚い長屋に逼塞しようが、金に困って怪しい商売を始めようが、料簡を入れ替えるなんて殊勝なヤツは1人もいない。欲望の対象が「酒」「女」「ばくち」の違いはあるが、「いい思いをしたい」という一点だけはブレがない。これでは、真面目に生きてる我々の方が野暮に見えてくる。常識やら世間体やらに縛られてがんじがらめの現代人にとっては、そんな自由な生き方がうらやましくもある。つい小言の切っ先が鈍ってしまうのである。
そんな若旦那に敵対するのは、大旦那という名の父親か、その参謀である店の番頭か。だが、道徳や世間体ぐらいしか武器のない小言に、大した説得力がない。
「まじめにやれ」「孝行をしろ」「遊びは悪だ」「無駄遣いをするな」
そんなことを言ってる彼らだって、「確かに外で遊ばないが、家の奉公人に次々手を付ける大旦那」(木乃伊取り)「奉公人には厳しいが、自分だけはちゃっかり粋筋の女を囲っている番頭」(山崎や)等々、建前と本音をうまく使い分けている。自分を棚に上げての説教なんか、道楽者の若旦那の心に響くわけがないのである。
「勘当、結構ですね。あたしには花魁というものがおります。お天道様とコメの飯はどこへ行ってもついて回りますから」
「唐茄子屋」の主人公の伊之助は、こんな啖呵を切って生家である大商店を出ていった。だが、晴れて勘当の身の上になった伊之助を、花魁は歓迎してくれなかった。金の切れ目が縁の切れ間。やむなく友達の家を渡り歩くが、働きもせず日がな一日ごろごろしている居候の世話をやくお人よしなどいるわけがない。親戚縁者を訪ねても、すでに本家から「御構い無用」のお達しが届いており、敷居も跨がせてはくれない。「お天道様はついて回るが、米の飯が」
空腹を抱えて真夏の江戸をさ迷う伊之助。吾妻橋の上から隅田川の急流を見下ろした。
「何所へ行つてもお銭(あし)一文握飯一つ呉れません。食はずに居りやア死んで終ふんで、其位ならいっそ一ト思ひに川へ飛び込んで死んだ方が涼しく死ねると……」
ふらふらと橋の欄干に足をかけた伊之助を救ったのは本所の伯父さん。大店の主人である伊之助の父親の兄である。この時の伯父さんの啖呵が粋で親身で実に魅力的なのだ。
「馬鹿野郎、涼しく死ねるツて、死ぬのに涼しいも暑いもねえや、下らねえ事を云つてやがる。汝(てめえ)と思やア俺は止めなかつた。今手伝つて投込(ほうりこん)で遣るから死んでしまへ。俺も散々道楽をしたものだから横山町の家は全体俺が継ぐんだつたのだが、汝のやうに俺も勘当されて汝の親父が跡を継いだんだ。けれども俺は勘当されたつて、そんな意気地のねえ真似はしねえ、何だべらぼうめえ、食ふに困つて死ぬような料簡ならはじめツから道楽なんぞするな、サア飛込んじまへ、モウ俺は止めねえから」
目の覚めるような伯父の啖呵を聞いて、本当に目が覚めた。伊之助は本所中之郷の伯父の家に連れて行かれ、そこで散々説教される。それこそが、今回のお題。落語の中で、僕が勝手に最強だと僕が思っている、ほれぼれするような小言なのである。
今はしわくちゃ婆の伯母さんが、実は江戸の岡場所「深川七場所」の一つ、「櫓下(やぐらした)」の売れっ子女郎であり、伯父さんはこの女に入れあげて勘当される。それでも懸命に生きて、町内では人に頼られるほどの存在になったーー衝撃の事実である。
愛すべき過去の告白を交えながらの、矜持と自負に満ちた説教を聞かされれば、伊之助ぐうの音も出ないだろう。
一夜明けて、朝食の膳を前にしての、伯父さんの味噌汁談義がまた素敵なのだ。
「おいしい味噌汁だつて、あたりめえよ、汝の所の知るとは違はア、道楽をした人間だ、鰹節(かつぶし)だつて良いのを使つてるんだ。汝の親父なざア鰹節を汁の中へ入れると云ふと、肝を潰して居やがる、金ばかりこしらへたつて碌なものも食はずに居るナア生涯の損だ。汝もいくらか道楽をしただけこんなうめえ汁を吸うだけも徳だろう」
味噌汁にこと寄せて、堅物の弟を揶揄し、道楽者の伊之助の肩を持っているのである。
実は、こうした本所の伯父さんの名セリフの数々が、現在の寄席ではほとんど聞くことが出来ないのである。
勘当息子の伊之助が市井の様々な生き方や真心に触れ成長していく姿を描く「唐茄子屋」は、すべての逸話を演じれば優に一時間を超す大ネタだ。寄席の持ち時間は、その日の主任であるトリであっても三十分余り。その制限の中で演じるには伯父さんの登場する前半のくだり、本筋にさほどかかわらない説教の部分をカットするのは仕方のないことだ。
かくいう僕も、ずっと本所の伯父さんの「過去」を知らなかった。商家の跡取りに生まれながら、本所で長屋暮らし。どうしてそんなことになったのか、堅物の弟と何があったのか。疑問が氷解したのは、明治末から大正にかけて「名人」と呼ばれた三代目柳家小さんの速記を読んでからだ。
三代目は、「唐茄子屋」の後半部分、伊之助が貧しい母子を助ける人情噺的な部分を演じないやり方なので、さほどの長講にはならないから、伯父さんの出番を縮小する必要がなかったのだろう。
本所の伯父さんは、死に損なって生まれ変わろうとしている伊之助の名指南役にピッタリのはまり役である。
「俺は何も吉原へ行くのがいけないといってるんじゃねえ。自分で働いた金で何をしようがかまわねえ。『伯父さん、これこれの仕事でこれだけ稼いだんで、吉原へ行きたいんですが』といわれりゃあ、俺も一緒に行ってやろうじゃねえか」「そんなら、さっそく今晩」「今晩じゃねえ!」
三代目の速記にはないが、平成の「唐茄子屋」にあるこんなくすぐりに、小さん流の「粋な伯父さん」のにおいがする。平成の後進たちは、この三代目風の伯父さんを克明に伝えてはくれないが、その料簡はしっかりと噺の中に根付いている。
その三(2017.03.25)
「(渡し船から、岸に置き去りにされた若侍へ)やいコノヤロウ、テメエなんざァなあ、こちらのお侍さまと立ち会うなんざァ生意気だァ。そんなに立ち会いたかったら、そこの柳の木と立ち会え。どうしても人間と立ち会いてえのか。俺が相手になってやるからここまで来い、ざまァみやがれ、バカー!」「お前ずいぶん強くなるね」「俺ァ、相手が来ねえてェと強えんだ。お前も何か言ってやれよ」「そうだな。やーい、いいこと教えてやろうか。両国橋渡って向こう岸まで来い。それまでにな、俺は家に帰って小便して寝ちまうんだから。俺の家なんざなァ、自慢じゃねえけど小せえから探したってわからねェぞ。ざまァみやがれ、宵越しの天ぷらァ〜」「なんだその、宵越しの天ぷらてェのは」「揚げっぱなしィ!」
(入船亭扇遊「巌流島」より)
隅田川を行き来する御厩の渡し。満員の舟に、無理やり若侍が乗ってきた。町人たちを隅に追いやり、舟の真ん中で大あぐらをかきながら、自慢の煙管をプカプカとふかしていたが、舟べりで煙管をポンと叩いたのが運の尽き、雁首が外れて川の中に落ちてしまった。商売っ気を出した船客のくず屋が、「残りの吸い口だけでも売ってほしい」と申し出るが、これが若侍の怒りに火をつけた。
「無礼なヤツだ。煙管の雁首を落としたから、お前の首も落としてくれる。遠慮をするな」って、これは遠慮をするだろう。
若侍は仲裁に入った老旗本にもくってかかり、ついには舟を左岸に戻して果たし合いをすることに。ところが老旗本の機転で、若侍だけが岸に置き去りされ、渡し舟はゆうゆうと対岸へ向かう。
ふう、ちゃんとあらすじを書くのは骨が折れる。
さて、船中では、それまで事の成り行きを見ながら「お年寄りが勝つかも」「バカ言え、若侍にかなうわけないよ。若侍がじいさんを斬って、ついでにお前の首も」「何言ってンだ!」など戦々恐々だった江戸っ子連中が、形勢逆転と見て、急に強気になった。
「船頭さん、あの若侍、泳げるかな」「泳げません!」「ハッキリ言ったねェ」「泳げるなら、もうとっくに川へ飛び込んでますよ」「そうか、泳げねえんだな。間違いねえな」
我が身の安泰を何度も何度も確認し、大丈夫だと確信する江戸っ子連中。ここでようやく、冒頭に揚げた「やいコノヤロウ」が始まるのだ。
「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し 口先ばかりではらわたはなし」
江戸っ子は反権力というわけではない。政治や社会制度の矛盾などにはさほど関心がなく、ただ「威張ってるヤツ」「偉そうなヤツ」が嫌いなのだ。とはいえ、侍にやたらにかみついては無礼打ちにあうだけ。自分の安心安泰を確認しつつ、それでも腰が引けた状態で悪態をつく。見栄と気取りと正直が身上だが、意外に小心な江戸っ子は、実に表情豊かな啖呵を切ってくれる。
とりわけ面白いのが「両国橋渡って向こう岸まで来い」という提案(?)である。
明治以前の隅田川にかかる橋は少ない。下流からさかのぼると、永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋に、千住大橋。わずか五橋である。御厩の渡しがあったのは、両国橋と吾妻橋の中間あたりだろう。してみると、このとき隅田川左岸、渡しの本所側に置き去りにされた若侍は、いったん両国まで南下し、両国橋を渡って、今度は蔵前橋を北上しつつ、「自慢じゃないが小さい」船客の家を探すのは、どう考えても無理だろう。江戸っ子の挑発に歯がみする若侍の顔が目に浮かぶようだ。
啖呵の最後、捨てぜりふとしか思えない「宵越しの天ぷら」「揚げっぱなし〜」は、この噺には必ずといってもいい位に登場するクスグリだ。明治大正の噺家が考案したというより、その頃の東京人がこうした他愛のない洒落を日常的に使っていたのだろう。
三代目三遊亭金馬の名著「浮世断語」に、「昔の噺家が使っていたシャレを集めてみた」として、同様の言い回しが大量に載っている。
「金魚のおかず」で、煮ても焼いても食えない。
「イワシ煮た鍋」=二人はくさい仲。
「木挽の弁当」=きにかかる
「やかんの蛸」=手も足もでない
「おでん屋のはんぺん」=そんなにふくれるな
「春の夕暮」=くれそうでくれない
こんな具合に、昔のシャレが数十も続き、最後は「迷子の鳳凰」で「きりがない」で締めくくる。
シャレを解説するのは野暮の骨頂だが、最後の「鳳凰」だけが分かりにくいので、一応絵解きをしておこう。
難しい話ではなく、花札の「桐」の絵柄を思い出してほしい。桐にとまっている鳥が、鳳凰である。この鳳凰が迷子になったのだから、シャレの意味は「きりがない」……、説明しない方がよかったか。
どう考えてもいまどきのシャレではないと思うのだが、明治から大正へ、昭和を越えて平成の現在まで、この噺を受け継いだ落語家たちは、まず間違いなく「宵越しの天ぷら」を叫んでいる。現代の観客にウケようがウケまいが、このクラシックなダジャレは「巌流島」という噺には切っても切れないクスグリなのだ。
昭和の名人、古今亭志ん生は数多くの音源を残したが、高座の映像はわずか四編しかない。その貴重な「絵」の一つが、1956年に演じた「巌流島」なのである。映像の中の志ん生は痛快な啖呵で喝采を浴び、「宵越しの天ぷら」でもしっかり笑いを取っている。
「胸の空く」という程ではないが、調子が良くて、ちょっと弱腰の啖呵。俺でもいえるかなと思えるところに、江戸っ子の愛嬌がある。
その四(2017.04.28)
“何イ、ヤイ馬鹿野郎、モモンガ―、
(初代柳家小せん「五人廻し」より)
遊女に待ちぼうけを食わされた江戸っ子堅気のお兄さんが、見世の若い衆に不平不満をぶちまける長い長い喧嘩口上。古今東西、500席いや600席はあろうと言われる古典落語の中でも、これほど長い「啖呵」は聞いたことがない。
舞台は明治後期の吉原。三浦屋、角海老のような大どころではなく、小遣い銭で遊べる小見世だろう。安直なところだから、サービスもそれなりだ。女郎は同時に何人も客を取り、順番、時には気まぐれに客の部屋を訪れる「廻し」という遊び方である。
2階廊下を行き来する草履の音に心騒がせ、隣の部屋から漏れてくる睦言にいらだち、「東京駅から神戸までの急行列車の上がり高を皆貰いてえ」「僕も同感」なんて壁の落書きに呆れたり共感したり。起きて待ってりゃ「野暮だ」と言われるし、寝てたらよその部屋へ行かれてしまうーー。
「ああ今夜ここの楼でいくらか銭を使ふ位ゐなら質(屋)から
千々に乱れる男心をもてあましつつ、いつやって来るかわからない女をいらいらそわそわ待ち続け、ようやくやってきたと思ったら、何とも能天気な見世の若い衆だった。
「失礼ですがお一人様で」「どうもお淋しうございましたらうな」
ここまで来て、聖人君子とはほど遠い我らが江戸っ子東京っ子の兄さんは、ついに堪忍袋の緒をきったのである。
それにしても、すごい啖呵ではないか。
口開けは、おそらく当時流行していて、庶民に忌み嫌われていた病気がずらり。
病気以外の悪口にも、意味不明なものが多い。
珍鶏糖はおそらく「取るに足らないヤツ」という意味で、元は「珍毛唐」から来ているのだろう。
丸太ン棒は「目も耳も鼻もない、血も涙もないヤツ」か。
「糸ツ屑、馬穴、鱈の頭」あたりは、おそらく怒りにまかせて、思いついた「取るに足らないもの」を並べたのだろう。
「スツカラベツチヨ」になるとナニガナンダカワカラナイ。もうお手上げである。
悪口の後は、意外にも内容充実、傾聴に値する啖呵が展開される。
吉原の起源とその変遷、歴史は、ほぼ江戸っ子くんの言うとおり。おでん屋の蒟蒻の大きさや、犬のくその分別までは保証できないが、我ら平成の落語好きも勉強になるくらい。思いもしない博識の啖呵に面食らい、目を白黒させる若い衆の姿が目に浮かぶようだ。
演者の初代柳家小せんは、明治の末から大正にかけて廓ばなしでは右に出るものなしと謳われた俊英だ。
舞台となる吉原遊廓の「実地調査」も怠りなく、修業仲間で、いずれも「時代を担う」と期待された三代目蝶花楼馬楽、六代目金原亭馬生と一緒に吉原に乗り込み、13日間も居続けたというとんでもない逸話が当時の新聞で読むことができる。
「このままでは寄席をしくじっちゃうぜ」
金と体力を使い果たして廓を退散した3人だったが、途中の居酒屋でいっぱいやっているうちに、またぞろ遊びの虫が頭をもたげてきた。
「よし、腹蔵のない所を、手のひらに書こうじゃないか」
3人は、すずり箱を借り、各自の心の内を書いて、手を見せ合った。
馬生は「(吉原へ)行きたい」、小せんは「行くべし」。兄さん格の馬楽の手のひらには、何と「急行!」と書かれていた。
かくて3人は「連続2週間の登楼」というバカバカしい記録を打ち立てたのである。
こんなことを続けて、無事に済むわけはない。
馬楽は放蕩と奇行のを繰り返した末に心身のバランスを崩し49歳の若さで亡くなり、馬生は「四代目古今亭志ん生」という大きな名前を継ぎながら48歳で死んだ。
小せんは27歳で腰が抜け、29歳で失明。人力車で寄席に通い、元吉原のお職(ナンバーワン!)だった女房に背負われて寄席に通ったが、36歳で命の灯が尽きた。
ただ、彼ら3人の芸は、今も寄席の世界にきている。
馬楽の十八番だった「長屋の花見」は「決定版」として後進に受け継がれ、平成の現在もそのままの形で演じられている。
小せんの廓ばなしも、今回のお題である「五人廻し」のほか、「居残り佐平次」「明烏」「お茶くみ」「錦の袈裟」などの十八番が、今も寄席の主力ネタとして連日どこかで演じられているのだ。
小せんネタが後世に残ったのには理由がある。寄席に出られなくなった小せんは、自宅に有望な若手を集め、おそらく噺家では初めて金を取って落語を教えたのである。この「小せん学校」に通ったのが、三代目三遊亭金馬、六代目三遊亭円生、六代目春風亭柳橋、八代目林家正蔵など。のちに昭和の名人と呼ばれた彼らが、一連の小せんの廓ばなしを「寄席のスタンダード」として後世に伝えたのだ。
そういう歴史を踏まえて、改めて、長い長い「五人廻し」の喧嘩口上を読み直すと、いろいろなものが見えてくる。
廓遊びの楽しさ、廓全体への愛情と哀惜、遊廓の風俗文化への深い知識、そして吉原にのめり込む自分を見る醒めた目。
面白うてやがて寂しきーー。スツカラベツチヨな啖呵には、真実がある。
その五(2017.05.25)
「雪中に筍を得る。孝行の威徳によって天の感ずるところだな」「ま~た、感ずりやがったな。天道ってのは、危なくなると感ずりやがる。ババアばかりで感ずるんじゃなくて、たまには乙な年増と箱根やなんかで感ずれ!」
落語のテーマとして最もふさわしくないものといえば、まず「親孝行」をあげねばならない。 その六(2017.06.21) ヤイこの野郎、きたねェ真似をするねえ! 俺を一体、誰だと思ってやがる。浮世は夢の50年、夢と悟った市郎兵衛、面ァ見知って、あっ、もれえてェ~(と、反っくり返って見得を切る)。
「芝居の喧嘩」は、世の中がまだ昭和といった1980年代の後半に、春風亭一朝が、寄席のエース柳家権太楼から教わったという。 その七(2017.07.29) “イヤどうも呆れたねえ、
廓ばなしの舞台といえば、浅草の観音様の裏っ手にあった吉原遊廓に決まっている。 長井好弘(ながい・よしひろ)
(立川談志「二十四孝」より)
江戸の昔から、落語の基本(?)といえば
そうした江戸っ子たちの本音や願望、愛すべき日常をしゃべり倒してきた落語家が、いきなり「もっと親孝行をしましょう」と訴えても、説得力のかけらもない。
ところが、不思議なことに、「親孝行」が登場する落語の演目は、予想以上に存在するのだ。
「大工調べ」の大工与太郎、「
「忠孝」を道徳の基準とした江戸時代には「親孝行」が奨励され、落語も「アハハと笑いながら親孝行を庶民に周知させる」という役割の一端を担っていたともいわれている。
もっとも、落語好きはへそ曲がりが多いせいか、説教臭が漂う「親孝行」落語より、「親不孝」ネタに魅力を感じてしまうのである。
「二十四孝」の主人公である長屋の熊五郎は、親不孝の代表格だ。
まず第一に、自分のおっかさんを「ババア」と呼ぶ。それも、ただの「ババア」ではない。
「横にシワが寄ってるから『提灯ババア』、近ごろ縦にも(シワが)寄ってるので『唐傘ババア』、まんべんなく寄ってるから『象の耳ババア』。色が黒いから『干しブドウババア』……」
たった一人のおっかさんの呼び名は、かくもバラエティに富んでいるのだ。
湯上りの酒の肴にと熊公が買っておいた十三匹のイワシを、隣の猫にかっさらわれてしまった。
熊公が家人に問うと、「そういえば、さっき台所がガタガタしてたねえ」と、かみさんが他人事のように言い放ち、「あ〜ら知らないよ〜」と、おっかさんが妙な節をつけて答える。熊公の怒りは、二人に向けられた。
「魚は十三匹あるんだ。一匹ずつくわえたって十三たび来るんだよ。仮に二匹ずつくわえたって六たび半(猫が)来るってんだ。そのたんびにガタガタしてんだから、気づかない法はねえ。
猫が「一人」で、人間が「二匹」。もはやカミサンとおっかさんは、人間の勘定にも入っていない。
熊公は猫が逃げ込んだ隣家へ「あんな泥棒猫がいたんじゃ、長屋中まくらを高くして飯が食えねえ」と変な文句を叫び、止めに入ったカミサンを殴り倒し、「女房を殴るなら、あたしを殴れ」と叱るおっかさんを蹴り倒したうえ、勢いをかって家主宅へ「かかあとババアに離縁状を二本かけ」とねじ込んだ。
ところが、意外に喧嘩の強い家主は動じることなく、唐土(もろこし=昔の中国)の孝行者二十四人の故事を集めた「二十四孝」を持ち出して、熊公を改心させようするのである。
「孟宗の母親が寒中にタケノコが食べたいというので探しに行くが、雪に埋もれて見つからない。孟宗が『これでは母に孝行ができない』と藪の中ではらはらと涙を落とすとアラ不思議、雪の下からタケノコがにょきにょき」
「王祥の老母が鯉を食べたいと願うが、貧困のため鯉を買うことができない。氷の張った池に裸で寝ころぶと、肌の温もりで氷が解け、その穴から鯉が飛び出してきた」
今聞けば、ばかばかしい限りの「親孝行の奇跡」である。これを江戸の人々がありがたがったとは思えないが、さすがの熊公も「オカシイ」と思ったのだろう。
「唐土のババアはタケノコだの鯉だのと食い意地が張っていけねえ。たいたい雪の下からタケノコが生えるわけはないし、氷が解ければ自分がまず池に落ちちまうだろう」
熊五郎の真っ当は疑義に対する家主の見解は、あっぱれといえばあっぱれだろう。
「それが親孝行の威徳によって天の感ずるところだ!」
「二十四孝」の逸話は、「忠孝」が道徳の第一とされた江戸時代には続々と出版され、幕末には草双紙の『絵本二十四孝』がベストセラーになったという。これが本当なら、「二十四孝」を知らない人間は江戸期にはいなかった、ということになる。
しかし、そういう背景のもとに作られた落語の「二十四孝」は、とても親孝行の「教材」にはなりえない代物であり、親不孝の代表として描かれる熊公の「(二十四孝の逸話のような)そんなべらぼうな話があるか!」という啖呵に、われわれ観客はついつい拍手を送りたくなってしまう。
だが、「二十四孝」という落語を聞いて「親孝行なんてナンセンス」と思う人間はいない。それは、実の母親を蹴り倒すような乱暴者の熊公の言動の底辺に「おっかさんへの愛情」が見え隠れする。熊公がおっかさんを乱暴に扱うのは、母親に対する甘えにちがいないことなど、落語ファンにはお見通しなのだ。
明治大正のころ、「二十四孝」にはいくつものサゲがあった。「六孝かける至孝で、四六の二十四孝」、「(雪中のタケノコは)今さら駆け出しても、もうそう(孟宗)はない」、「今度は豆腐が食べたい」「俺の教わった『二十四孝』にはそんなのはない」など玉石混交のサゲの中から、柳家小さん系が使ったサゲだけが現代まで伝わっている。
「夏の夜、母親が蚊に刺されないよう、酒を飲んで裸で寝たが、朝起きると母も自分も蚊に刺されていなかった」という呉猛の故事を、熊五郎が実践した。「どうだ母上、親孝行の徳で蚊に食われていない。これが天の感ずるところだ」と得意になると、おっかさんが「あたしが夜っぴき仰いでいたんだ」
「親孝行」の元である「親子の情愛」がじんわりと伝わる、見事なサゲである。
誰もが「二十四孝」の故事を知らなくなった現代、当然ながら、この噺の演じ手が減っている。現代版「親孝行」落語として、復活できないものか。
(春風亭一朝「芝居の喧嘩」より)
その権太楼は、NHKテレビで競演した縁で仲良くなった三代目神田山陽に稽古を願ったという。
というわけで、「芝居の喧嘩」のルーツは講談(講釈)である。「幡随院長兵衛」という侠客を主人公にした連続講談の中で印象に残る喧嘩のシーンを、面白講談でならした山陽が抜き読みにした。それを「こいつは寄席で使える」と噺家が目をつけたということか。
ストーリーは単純明快。というより、「水野十郎左衛門率いる旗本奴「白柄組」と、幡随院長兵衛を頭領にいただく町奴が派手な喧嘩をする」ということ以外、筋らしい筋はない。あっさりとした江戸っ子好み(?)の演目ではないか。
見どころ聞きどころは、双方が名乗りを上げる啖呵と、乱闘のみである。
所は木挽町(今の東銀座)の芝居小屋「山村座」。木戸銭を払わず入場したと疑われ、芝居者に袋だたきにあった町奴、雷の十五郎が「さあ、殺せ」と大の字になる。
そこに現れた侍が雷を張り倒し、木戸から外へ突き飛ばしてしまう。
「俺は水野十郎左衛門の四天王の一人、金時金兵衛だ。貴様のようなひよっこが話になるか。長兵衛を連れてこい。ひねり殺してくれる!」
それを聞いて立ち上がった町人風の大男が、いきなり金時の横面をパーンと張り、体ごとひっくり返してしまう。
「やいコノヤロウ、今何つった、俺は唐犬権兵衛てえ生き仏だ。でめえじゃ話にならねえ。水野、てめえが相手だ、下りてきやがれチクショウ!」
すると、水野四天王の一人、渡辺綱右衛門が唐犬の背後に回り込んだ。刀の柄に手をかけて、今まさに抜こうとしたとき、後ろから鞘を突いたものだから、刀が鞘ごと抜けてしまう。「あら?」と振り向いた渡辺を張り倒したのが、町奴の兄貴分、市郎兵衛である。このあたりになると、双方とも幹部クラスが出ることになる。
ここでようやく冒頭の啖呵「ヤイこの野郎、きたねェ真似をするねえ」が登場するのである。
あとは旗本、町奴の双方が続々立ち上がっての乱闘だ。一体どうなるかと身を乗り出した途端……。
「この後、血の雨が降るという、これからが面白いが、今日はこのへんで」
と、講談ネタ独特の「これからが面白い」オチで幕となる。
痛快このうえないが、よく考えると中身のない江戸っ子の代表みたいな演目。これが、「江戸前の男」で売った先代春風亭柳朝に仕込まれた「江戸前の愛弟子」一朝の芸風に、ぴったりとフィットするのである。
「普通、新しいネタを覚えるときは、どう頑張っても一週間かそこらかかるものだけど、『芝居の喧嘩』だけは、三日でできた。元々芝居好きなので、演じると楽しくてしょうがない。このネタをやると、なぜか気合が入るんですよ」
2012年春、一朝の二番弟子、一之輔が驚異の21人抜きで真打に昇進。3月21日、上野鈴本演芸場での大初日に一朝が演じたのは「芝居の喧嘩」だった。愛弟子の門出には明るくにぎやかなネタをと選んだネタ。客席は沸きに沸いた。
そしてその夜の主役、一之輔の真打としての初トリは「粗忽の釘」だった。
「柳朝の寄席のトリといえば『粗忽の釘』ですよ。あたしの『芝居の喧嘩』同様、柳朝が『粗忽の釘』をやるときは、気合が違うんです。一之輔のヤツ、そういうことを知っているのかって、ちょいと見直したね」
上野のトリで一之輔は毎日ネタを変えた。「それなら俺も」と一朝も10日間、違うネタを演じた。
舞台が新宿末広亭に移っても、一之輔は同じネタをやらない。「面白えじゃねェか」と、一朝もネタを変え続けた。新宿の四日目、一之輔が一朝に頭を下げた。
「師匠、もう勘弁してください」
初日の「芝居の喧嘩」で始まった、一朝・一之輔師弟の「ネタの喧嘩」は誰にも気付かれぬまま、14日目に休戦となったという。
ふう。これまで、ああだこうだと、思い出すことをいろいろなことを書き並べた。だがしかし、何をどれだけ書いても、実際に「芝居の喧嘩」を聞くと、「やいコノヤロウ!」しか頭に残らないのが、なんとも悔しい。
(初代柳家小せん「居残り佐平次」より)
江戸の南境は高輪の大木戸までだから、その南にある品川は江戸ではない。東海道の第一の宿場町であり、公式には遊女屋など存在しないことになっている。源氏名などは持たない「飯盛り女」が、宿屋の「貸座敷」を使って何やら営業しているだけ……とはいうものの、どこをどう見ても、遊女のいる色里なのだった。
品川はことごとく吉原に対抗した。島崎楼、土蔵相模などの豪華なつくりは、吉原の大見世そのまま。芸者、幇間をそろえた座敷の遊びも、吉原に劣らずにぎやかで華やかだった。
そのうえ、品川は海が近いので、魚がうまい。二階座敷の窓を開け放ち、浜風を受け、江戸湾に浮かぶ船の白帆を見ながら盃を傾けるという趣向、吉原ではかなうべきものではない。
品川遊廓は客層も独特だった。
東海道を往来する旅人にとっては重宝な宿場である。上りの旅なら門出の景気づけにひと遊び。下りなら江戸の我が家に戻る前に、旅のほこりを落とすことができる。中には日本橋を立って伊勢参りに行くつもりが、第一の宿場・品川で遊女に迷い、何日も通ったあげく、旅費が尽きて江戸へ舞い戻ったという豪傑もいたらしい。
旅人以外にも、面白い客筋があった。こんな古川柳がある。
品川の客にんべんのあるとなし
「にんべん」とは日本橋の鰹節屋ではなく、漢字の「
もちろん、芝や神田の江戸っ子たちも、しばしば品川を訪れた。江戸の住人にとっては、日帰り行楽ができる距離。実際、御殿山の桜、品川海晏寺の紅葉狩りなどは、江戸郊外屈指の観光スポット。きれいな花を見た後に、色っぽい華のもとによりたくなるのは人情である。
吉原と品川、競い合う二つの色里のあれこれを、縦横斜め十文字と、あらゆる角度から検証してきた。
ここまで書けば察していただけるだろう。そう、落語の世界にも「吉原VS.品川」が存在するのである。
色里を題材にした落語をひとまとめに「
若旦那の吉原初登楼を描く「明烏」、しつこいお大尽から花魁が逃げまくる「お見立て」、振られ連中の意趣返しは「
吉原を舞台にした廓噺の面白さと、バラエティの豊富さ。400種、あるいは500種ともいわれる落語の中でも、廓噺というジャンルは名作、傑作の宝庫なのだ。
質量ともに充実した「吉原落語」に対し、数こそ少ないけれど、品川を舞台にしながら「吉原」に拮抗する大ネタもある。
それが、「居残り佐平次」と「品川心中」だ。
この演目を得意にした五代目古今亭志ん生のおかげで爆笑イメージが強い「品川心中」に比べ、色里の光と影を巧みに描いた「居残り佐平次」のほうが「大作感」が強い。2作品のさわりを盛り込んだ映画『幕末太陽伝』でも、フランキー堺演じる佐平次の印象が強く、映画を見ると「居残り」イコール「幕末太陽伝」になってしまうようだ。
品川の廓噺の代表「居残り佐平次」には、遊廓を往来する人々の生々しい息遣いがあふれている。
遊女や楼主、若い衆といった「内」の住人。
なじみ客、団体客、不良客などの「外」の人々。
そして、大尽遊びをした料金を払えず、客から「居残り」に転じて、勝手に働き出すという主人公の佐平次は、「内」と「外」の両面を体現する貴重なキャラクターになった。それが、この「居残り」という演目に、独特の陰影を与えているのである。
「居残り佐平」は大ネタで口演時間も長い。大ネタすぎるので普段の寄席のトリではまず聞くことができないが、大手のホール落語会や独演会などの「ここぞ」という高座で披露されることが多い。ベテラン、若手を問わず実力者といわれる噺家のほとんどが持ちネタにしている。というより、「居残り佐平次」を演じる技量があってこその実力者と呼ばれるのだろう。
現在でもありとあらゆる演者で聞くことができる「居残り」だが、1950年代半ばに生まれた僕にとっては、昭和の名人六代目三遊亭円生の高座が忘れられない。といっても円生の晩年の高座にようやく間に合っただけだから、そうそう偉そうな顔はできないが。同時期に志ん生も演じていたが、前述したように志ん生というと笑いの要素が多い「品川心中」の印象のほうが強い。
円生版、志ん生版ともに、出所は同じ、初代柳家小せんである。病気で失明し、足腰も立たなくなったため、授業料を取って噺を教えだした。円生も志ん生もその「小せん学校」の生徒時代に「居残り」を教わっているのである。
「居残り」には、魅力的なセリフがあふれている。幕末の江戸っ子、明治の東京っ子の言葉で語られる色里の人物、風景、空気は、「廓」そのものを知らない僕たちに「これぞ廓」と思わせる力がある。
冒頭にあげた長ゼリフは、遊興費が払えずに「居残り」となり、本来は行燈部屋(この時代は夜具部屋)に軟禁されていなければいけない佐平次が、二階座敷を自由に行き来し、幇間のまねごとをして祝儀を集めまくっているのを、見世の若い衆が集まって「営業妨害だよ」と嘆く場面のものだ。
「居のどーん」「ヘエーイ」という女将と佐平次の事務連絡や、「居残りを呼んでくれ」「ただいま塞がつて居ります」「それなら貰ひをかけろ」という、今や佐平次のひいきになった客と女将との交渉のセリフから、佐平次の縦横無尽の活躍ぶりと、それを憮然としてみている若い衆の憤りが鮮やかに浮かんでくる。
ほかにも、遊里の情景を活写するセリフがあちこちに隠れている。
飲みすぎた朝にまた一杯。「朝直しは湯豆腐てえが、ナニ、湯豆腐に限った事はねえよ、矢ツ張り生臭物は食つて
一文無しがバレて居直る佐平次。「花魁から煙管の悪いのを一本貰つてますね、新聞紙で十二煙草入れを折つて刻みが一ぱい詰つてます。袂にはマツチが二個あるし、当分籠城は出来ます。行燈部屋へでも退りますかな」
女を待ちくたびれた客・勝さん。「女の来ねえのは忙しいんだろうから仕方がねえや、そんな事を愚図愚図いふ野暮ぢやアねえんだが、新造も若い衆も面を持つて来ねえのは癪に障るねえ、いくら忙しいか知らねえが、是だけの屋台骨を張って居やアがるんだ、奉公人の二十人や三十人居るだろうに何をして居やアがるんだ。刺身を持つて来やアがつたつて
楼主を口車に乗せて大金と着物一式を巻き上げ、さっそうと店を出ていく佐平次。「コウ、お前も女郎屋の若え衆で飯を食ふなら
まさか居残りが商売になるわけはなし。若い衆を脅かす、佐平次一流のはったりだろう。全編を通して、セリフが生きている。地の文よりも会話で運ぶのを良しとするのが落語なら、「居残り佐平次」は廓の最高ランクである大夫にも匹敵する快作である。
1955年、東京・深川新大橋生まれ。落語、講談、浪曲などの大衆演芸を核に、伝統芸能、大衆文芸、旅、グルメなどを加えた大人のためのエンターテインメントに関する著作活動を展開する。モットーは「面白くてためにならない」。鰻重(丼)と揚げ物全般が好物で、トマトとブロッコリーと高いもの(標高、値段とも)が苦手。読売新聞東京本社編集委員。日本芸術文化振興会プログラムオフィサー(伝統芸能・大衆演芸担当)。都民寄席実行委員長、浅草芸能大賞専門審査委員。「よみうり時事川柳」五代目選者。『僕らは寄席で「お言葉」を見つけた』(東京かわら版新書)、『落語と川柳』(白水社)など、演芸関連の著書多数。