愉快、痛快! スカッとする落語のことば

愉快、痛快!

スカッとする落語のことば

「あたりめえだい。こちとら江戸っ子だい、職人だい。威勢がいいんだ俺ァ!」「何ィぬかしゃがんでえ、丸太ん棒めェ!」「自慢じゃねえが、『半ちゃん、頼む』と頭を下げられりゃあ、たとえ火の中水の中でも飛び込もうってんだ。江戸っ子だ、べらんめえ!」……そんな、なんともスカッとする愉快で痛快な落語の言葉を語らせたら右に出る人のいない(左に出る人は未確認)新聞記者、長井好弘さんが織りなす「落語の言葉」の奥深くて面白くて泣ける世界をご堪能ください。

 


 その四(2017.04.28) 

 

“何イ、ヤイ馬鹿野郎、モモンガ―、珍鶏糖ちんけいとう脚気衝心かっけしょうしん、発疹チブス、エンフルエンザ、ペスト、肺結核、糸ツ屑、馬穴ばけつ、丸太ン棒、鱈の頭、スツカラベツチョ。勘弁ならねえ事をぬかしやがつたなアうぬは。(中略)汝達てめえたちに吉原の法なんぞを聞かされて引っ込むような兄さんとはお兄哥あにいさんの出来がチヨツト違ふんだ、オギヤアと生まれりやア三ツの時から大門を跨いで居るんだ。そもそも吉原といふもんのはじまりはな、元和三年の三月に庄司甚内といふお節介野郎があつて、淫売といふものを廃する為に、公儀おかみへ願つて出て、初めて江戸に遊郭といふものが出来たんだ、昔からここにあつたんぢやアねえぞ、昔は葺屋町の二十四面といふものを公儀から拝領をして、葺屋町に廓があつたればこそ、大門通りといふ古跡が未だに遺つて居るんだ。それを替地を命ぜられたのがここだ、以前もとは一面の葭茅よしかや繁つた原だといふんで葭原といつたのを、縁起商売だからてえんで吉原きちげんと書いて吉原と読ましたんだ。近くは明治五年十月何日には解放といふ切り放しがあつて、それから後は女郎屋が貸座敷と名が変つて、女郎ぢようろが出稼ぎ娼妓となつたんだ。吉原中で大見世が何軒で中見世が何軒、小見世が何軒あつて、仲の町芸妓が何軒、横町の芸者がどの位ゐ、幇間たいこもちがどれほどあつて、台屋の数が何十何軒、おでん屋がどの位ゐ出て、河内屋といふうちの前へ出るおでん屋の蒟蒻のきれが大きくつて、汁が美味いまで知つて居るお兄イさんだ、水道尻にしてある犬の糞が、赤がしたか、ぶちがしたか、黒がしたか、端からソツと嗅ぎ分けてみるお兄哥あにいさんだ、まごまごして見やアがれ、頭から塩をかけて齧るぞツ”
                  (初代柳家小せん「五人廻し」より)

 

 

 遊女に待ちぼうけを食わされた江戸っ子堅気のお兄さんが、見世の若い衆に不平不満をぶちまける長い長い喧嘩口上。古今東西、500席いや600席はあろうと言われる古典落語の中でも、これほど長い「啖呵」は聞いたことがない。
 舞台は明治後期の吉原。三浦屋、角海老のような大どころではなく、小遣い銭で遊べる小見世だろう。安直なところだから、サービスもそれなりだ。女郎は同時に何人も客を取り、順番、時には気まぐれに客の部屋を訪れる「廻し」という遊び方である。
 2階廊下を行き来する草履の音に心騒がせ、隣の部屋から漏れてくる睦言にいらだち、「東京駅から神戸までの急行列車の上がり高を皆貰いてえ」「僕も同感」なんて壁の落書きに呆れたり共感したり。起きて待ってりゃ「野暮だ」と言われるし、寝てたらよその部屋へ行かれてしまうーー。
「ああ今夜ここの楼でいくらか銭を使ふ位ゐなら質(屋)からあわせを出して置きやアよかつた、女郎買ひに来てこんな里心が出ちやアお終ひだねえ」
 千々に乱れる男心をもてあましつつ、いつやって来るかわからない女をいらいらそわそわ待ち続け、ようやくやってきたと思ったら、何とも能天気な見世の若い衆だった。
「失礼ですがお一人様で」「どうもお淋しうございましたらうな」
 ここまで来て、聖人君子とはほど遠い我らが江戸っ子東京っ子の兄さんは、ついに堪忍袋の緒をきったのである。
 それにしても、すごい啖呵ではないか。
 口開けは、おそらく当時流行していて、庶民に忌み嫌われていた病気がずらり。
 病気以外の悪口にも、意味不明なものが多い。
 珍鶏糖はおそらく「取るに足らないヤツ」という意味で、元は「珍毛唐」から来ているのだろう。
 丸太ン棒は「目も耳も鼻もない、血も涙もないヤツ」か。
「糸ツ屑、馬穴、鱈の頭」あたりは、おそらく怒りにまかせて、思いついた「取るに足らないもの」を並べたのだろう。
「スツカラベツチヨ」になるとナニガナンダカワカラナイ。もうお手上げである。
 悪口の後は、意外にも内容充実、傾聴に値する啖呵が展開される。
 吉原の起源とその変遷、歴史は、ほぼ江戸っ子くんの言うとおり。おでん屋の蒟蒻の大きさや、犬のくその分別までは保証できないが、我ら平成の落語好きも勉強になるくらい。思いもしない博識の啖呵に面食らい、目を白黒させる若い衆の姿が目に浮かぶようだ。

 演者の初代柳家小せんは、明治の末から大正にかけて廓ばなしでは右に出るものなしと謳われた俊英だ。
 舞台となる吉原遊廓の「実地調査」も怠りなく、修業仲間で、いずれも「時代を担う」と期待された三代目蝶花楼馬楽、六代目金原亭馬生と一緒に吉原に乗り込み、13日間も居続けたというとんでもない逸話が当時の新聞で読むことができる。
「このままでは寄席をしくじっちゃうぜ」
 金と体力を使い果たして廓を退散した3人だったが、途中の居酒屋でいっぱいやっているうちに、またぞろ遊びの虫が頭をもたげてきた。
「よし、腹蔵のない所を、手のひらに書こうじゃないか」
 3人は、すずり箱を借り、各自の心の内を書いて、手を見せ合った。
 馬生は「(吉原へ)行きたい」、小せんは「行くべし」。兄さん格の馬楽の手のひらには、何と「急行!」と書かれていた。
 かくて3人は「連続2週間の登楼」というバカバカしい記録を打ち立てたのである。
 こんなことを続けて、無事に済むわけはない。
 馬楽は放蕩と奇行のを繰り返した末に心身のバランスを崩し49歳の若さで亡くなり、馬生は「四代目古今亭志ん生」という大きな名前を継ぎながら48歳で死んだ。  小せんは27歳で腰が抜け、29歳で失明。人力車で寄席に通い、元吉原のお職(ナンバーワン!)だった女房に背負われて寄席に通ったが、36歳で命の灯が尽きた。  ただ、彼ら3人の芸は、今も寄席の世界にきている。
 馬楽の十八番だった「長屋の花見」は「決定版」として後進に受け継がれ、平成の現在もそのままの形で演じられている。
 小せんの廓ばなしも、今回のお題である「五人廻し」のほか、「居残り佐平次」「明烏」「お茶くみ」「錦の袈裟」などの十八番が、今も寄席の主力ネタとして連日どこかで演じられているのだ。

 小せんネタが後世に残ったのには理由がある。寄席に出られなくなった小せんは、自宅に有望な若手を集め、おそらく噺家では初めて金を取って落語を教えたのである。この「小せん学校」に通ったのが、三代目三遊亭金馬、六代目三遊亭円生、六代目春風亭柳橋、八代目林家正蔵など。のちに昭和の名人と呼ばれた彼らが、一連の小せんの廓ばなしを「寄席のスタンダード」として後世に伝えたのだ。
 そういう歴史を踏まえて、改めて、長い長い「五人廻し」の喧嘩口上を読み直すと、いろいろなものが見えてくる。
 廓遊びの楽しさ、廓全体への愛情と哀惜、遊廓の風俗文化への深い知識、そして吉原にのめり込む自分を見る醒めた目。
 面白うてやがて寂しきーー。スツカラベツチヨな啖呵には、真実がある。

 

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長井好弘(ながい・よしひろ)
1955年、東京・深川新大橋生まれ。落語、講談、浪曲などの大衆演芸を核に、伝統芸能、大衆文芸、旅、グルメなどを加えた大人のためのエンターテインメントに関する著作活動を展開する。モットーは「面白くてためにならない」。鰻重(丼)と揚げ物全般が好物で、トマトとブロッコリーと高いもの(標高、値段とも)が苦手。読売新聞東京本社編集委員。日本芸術文化振興会プログラムオフィサー(伝統芸能・大衆演芸担当)。都民寄席実行委員長、浅草芸能大賞専門審査委員。「よみうり時事川柳」五代目選者。『僕らは寄席で「お言葉」を見つけた』(東京かわら版新書)、『落語と川柳』(白水社)など、演芸関連の著書多数。