愉快、痛快! スカッとする落語のことば

愉快、痛快!

スカッとする落語のことば

「あたりめえだい。こちとら江戸っ子だい、職人だい。威勢がいいんだ俺ァ!」「何ィぬかしゃがんでえ、丸太ん棒めェ!」「自慢じゃねえが、『半ちゃん、頼む』と頭を下げられりゃあ、たとえ火の中水の中でも飛び込もうってんだ。江戸っ子だ、べらんめえ!」……そんな、なんともスカッとする愉快で痛快な落語の言葉を語らせたら右に出る人のいない(左に出る人は未確認)新聞記者、長井好弘さんが織りなす「落語の言葉」の奥深くて面白くて泣ける世界をご堪能ください。ちなみにここに取り上げることば、明治、大正、昭和の口演速記をあたり、今ではあまり演じられなくなった噺、埋もれかけた珍品などからも、名せりふ、名場面を厳選して紹介します。

 


 その十(2017.10.26)

 

“お待どおさまじゃァねえや、早えじゃねえか、蕎麦屋さん、気が利いてるねェ、江戸ッ子は気が短えからねェ、あつらえる、催促をする、できねえとうめえものがまずくなる、しまいにゃァ食いたくなくなっちまう、まったくだよ(箸を取り上げ)偉いッ、感心に割り箸を使ってェる、これァ一番いいや。綺麗事で。割ってある箸は誰が使ったか判らなくてねェ、心持ちが悪くッていけねえ。(箸をぱちんと割って、丼を持ち上げ)いい丼だねェ、(中略)ものは器で食わせるッてねェ、中身が少ゥしぐらいまずくなって。いれものが綺麗ならうまく食えるじゃァねえか(つゥと汁を飲み)鰹節かつぶしおごったね(中略、そばをつまみ上げ)蕎麦屋さん、おめえとは付き合いてえなァ、太い蕎麦なんざあ食いたくねえや、ねェ。飯の代わりにそばを食うんじゃァねえからねェ、蕎麦は細い方がいい。(二三度たぐってすすり込み)うん、良い蕎麦だね、腰が強くッて、ぽきぽきしてやがら、近頃このくらいの蕎麦に出会わねえなァ、うん、いい蕎麦だ(竹輪をつまみ上げ)厚く切ったねェ、竹輪を。なかなかこう厚く切らねえで薄く切りやがってね、うん。食ってて痛々しいや(竹輪をもぐもぐしながら)食ったような気がしねえ、歯のあいだィ入るとそれでおしまい。あのくらいなら食わねえ方がいいくらいだ。(中略、ふうふう吹きながら蕎麦を手繰り、最期に残った汁をつゥと吸って、その手で鼻をすすり上げ)うまいッ。もう一杯(いっぺえ)かわりと言いてえんだが、実は他所でまずい蕎麦ァ食っちゃった、お前のを口直しにやったんだ。すまねえ、一杯で負けといてくれ”
                    (三代目桂三木助「時そば」より)


 

 花鳥風月、自然というものに縁がない、ゴミゴミとした東京の下町で育った人間は、負け惜しみではないが、季節の移り変わりを寄席の客席で感じるという離れ業を身に着けている。
 落語に季語はないけれど、寄席の高座に上がる噺家たちは、何よりも季節感を大事にする。鈴本演芸場で「長屋の花見」を聞けるようになったら、上野の山の桜はもうじきだし、浅草演芸ホールで毎日のように「たがや」をやっていたら、隅田川の花火大会が遠くない証拠だ。贔屓のベテランが「目黒のさんま」を始めたら……、言わずもがなだが、秋の足音が聞こえてくるはずだ。
 ただ、落語は季節の先取りなので、桜が満開になったら、もう花見の噺はしない。寄席で落語を聞いているより、花見に行った方がいいに決まっているからだ。
 寄席で僕が最も季節を意識する瞬間は、秋の終わり頃、柳家さん喬が「そば清」ではなく、「時そば」をやり始めたときだ。
 新そばの季節を境に、それまで「もり」ばかり食べていたのが、温かい「かけ」や「種もの」に変わる。もりそばを何枚食べるかの賭けをしていた「清さん」が退場し、夜鳴き蕎麦屋をいかに騙そうかと狙うの遊び人が、噺の主役に躍り出てくるのである。
 寒くなったなあ、そろそろ厚手のセーターを出しておこうか、などと考えながら、「時そば」を聞き終えて外に出ると、頬を撫でる風が昨日よりぐんと冷たくなっているのを実感するのだ。
 晩秋から冬の間じゅう、寄席に行けば必ずといっていいほど、ベテラン、中堅、若手の誰かが「時そば」を演じている。あまりに毎度のことなので食傷気味になるかと思えば、そんなことはまったくない。「冷えた夜に温かいそばを一杯たぐる」という誘惑は、噺の上のことであっても、この上なく魅力的だ。
「時そば」といえば、柳家の芸だろう。五代目小さんは、名人と呼ばれた三代目小さんの芸を継承した七代目三笑亭可楽、通称「玉井の可楽」から絶品の「時そば」を教わった。柳家ではないが、もう一人、「三代目小さん→七代目可楽」のルートで「時そば」を我が物にしたのが、五代目小さんの義兄弟になった三代目桂三木助である。
 元は同じでも、三木助は独自の工夫を加えて、小さんとは違う「三木助の時そば」を作り出した。冒頭のセリフを読めばわかるように、その噺の中には、歯切れのよい江戸弁と、江戸っ子の美学が溢れている。
「時そば」のストーリーは単純そのものだ。遊び人風の男が屋台の蕎麦を褒めまくり、巧みな言葉と時刻のトリックを使って十六文の代金の内、一文だけごまかしてしまう。それを見ていた少々マヌケな男が「俺もやってみよう」と翌日、遊び人と同じことをやってみるが、捕まえた蕎麦屋のしっぽくがべらぼうにまずくて褒めることができず、そのうえ時刻を間違えたためトリックが逆効果となり、何文か余計に蕎麦台を払うことになるというもの。
 とにかく、一日目の蕎麦を褒めまくる遊び人の江戸弁が、気持ち良いのである。
 蕎麦がすぐに出てくる、割り箸を使っている、丼がきれい、出汁を奢っている、蕎麦が細くて、竹輪が厚い。歯切れのよい江戸弁でさんざん持ち上げられた上、最後に「うまい!」と念押しされ、世辞とわかっていても蕎麦屋は舞い上がってしまうだろう。なるほどこれなら、一文誤魔化されたことに、蕎麦屋は生涯気がつかないだろう。
 ごまかしたのは「わずか一文」というのだから、遊び人が「本気の悪事」ではなく、「少々意地悪な遊び」であったことは明白。かくて誰も傷つかない完全犯罪(?)が成立するのだ。
 ところが、これを見ていた男がいた。翌日この犯行を模倣しようとしたものの見事に失敗するぐらいだから、かなりマヌケな男には違いないが、彼は、蕎麦屋を騙した遊び人を見て「何言ってやがる」と反発する。僕らが「江戸っ子そのもの」としか思えない遊び人の言動は、彼にとっては江戸前ではないのか。
「最初ッからしまいまでしゃべってやがら、あんなにしゃべらなくッちゃァそば食えねえのかなァ」「箸が割り箸で丼が綺麗で、汁加減がよくッて蕎麦が細くて、竹輪が厚ッぺらだッてやがら。銭を払うのにあんなに世辞ィ使うことァねえじゃァねえか」「食い逃げならつかまえてひッぱたいてやろうと思ったら銭払ってやがる」「いくらだい、十六文いただきます……てやんでェ、値段聞くことァねえ、十六文にきまってるもんじゃァねえか」
 そう、マヌケな男は、遊び人の江戸弁ではなく、了見に怒っているのだ。
「江戸っ子が夜鳴きそばをたぐるという時に、あんなに喋りちらし、あんなに下手に出るのはおかしい!」
 もちろん、後に犯行のための方便だとわかるのだが、マヌケな男にとっては「江戸っ子として見逃せない、はずべき行い」だったのである。
 翌日の夜、二番目の男は、彼の了見に反して、蕎麦屋を褒めたおそうとする。ところが蕎麦の出来がひどすぎて、褒めようとすると逆効果になるのが、この噺の聞き所である。
 蕎麦がなかなか出てこない、割り箸ではなく割ってある箸、丼はひびだらけ、出汁がまずく、うどんのような蕎麦で、月が透けて見えるほど竹輪が薄く切ってある(実は本物の麸!)。
 江戸っ子の了見を曲げてまで蕎麦屋を騙そうとしたのに、出てきた蕎麦が「蕎麦の了見」に反するものだったのである。
「時そば」は、江戸弁と江戸っ子の了見の、良いお手本と、最悪の例を教えてくれる。書いているうちに細くてぽきぽきの蕎麦が食べたくなった。

 

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長井好弘(ながい・よしひろ)
1955年、東京・深川新大橋生まれ。落語、講談、浪曲などの大衆演芸を核に、伝統芸能、大衆文芸、旅、グルメなどを加えた大人のためのエンターテインメントに関する著作活動を展開する。モットーは「面白くてためにならない」。鰻重(丼)と揚げ物全般が好物で、トマトとブロッコリーと高いもの(標高、値段とも)が苦手。読売新聞東京本社編集委員。日本芸術文化振興会プログラムオフィサー(伝統芸能・大衆演芸担当)。都民寄席実行委員長、浅草芸能大賞専門審査委員。「よみうり時事川柳」五代目選者。『僕らは寄席で「お言葉」を見つけた』(東京かわら版新書)、『落語と川柳』(白水社)など、演芸関連の著書多数。