介護カフェのつくりかた 番外編(back02)

介護カフェのつくりかた 番外編
「だから介護はやめられない話」

ケアマネジャーとして介護現場で働くかたわら、対話によって新しい介護のカタチを考えていくコミュニティ「未来をつくるkaigoカフェ」を運営しています。
これまで11年間のカフェ活動では、一般的な「介護」のネガティブイメージを払拭するような、“あったらいい介護”の実践者とたくさんの出会いがありました。
今回はその番外編。介護職のみなさんが経験している、楽しく、ほっこりして、豊かになれる話を紹介します。


Vol.1(2021.11.16)

甘酸っぱい介護

 静岡県焼津市で、以前、介護施設にて介護の仕事に従事され、現在は介護施設を経営し、焼津市議会議員をされている石原孝之さんの実話に基づいたお話です(深刻な話ではないので、気軽にお付き合いください)。

* * *

 これは以前、僕が新人介護職だったころ、グループホームの現場で働いていたときの話です。
 その日、夜勤明けの僕はいつものように入居者さんの起床介助のお手伝いをしていた。廊下を歩いていたら、居室から顔だけがムクッと出ているのに気づいた。近寄ってみると、そこには居室の引き戸の扉に自分の首をやさしい力で挟んでいる84歳の女性Kさんがいる。

 僕が「Kさん、どうしたんですか?」と尋ねると、Kさんは「死にたい……」と話す。
 ここで僕はとっさに、以前、介護講習で勉強したアプローチの方法を思い出した。〝オウム返し〟という手法だ。

Kさん「死にたい……」
「今、Kさんは死にたい気持ちなんだね……」
Kさん「どうしたら死ねるの?」
「ん〜、どうしたら死ねるんだろうね」
Kさん「そう。こんなに情けない自分が嫌……」
「Kさんは、情けない気持ちなんだね……。どんなところが情けないと感じるの?」

 こんな感じで、まずは第一声を相手と同じ声のトーンで話した。次第にKさんの気分も落ち着いたところでホッとしていたら、Kさんが「あなた、私の主人に似てるわね……」と話してきた。
 僕は「そう? それはうれしいなー」と、話だけ合わせてその日は終わった。

 認知症の初期の方は、マイナスの感情に陥ることがあるため、話をすり替えて、前向きな気持ちになってもらうことが大切だ。
 これがきっかけで、Kさんとの心の距離は徐々に縮まり、トイレ誘導にもお風呂誘導にも僕が担当になっていった。
僕も介護職として相手に気に入られることは大切なことだと思っていたので、疑いもなくこの距離感を楽しんでいた。
 でもまさか、あんなことになるとは……。

 Kさんは、あの日以来、僕をダンナさんと重ねてくれているようで、今まで施設では見たことない化粧をしたり、これまでズボンだったのにタンスの奥にしまってあったスカートを履くようになっていった。
 しばらくたち、ご家族様、ご親族様たちが施設に会いに来られたとき、僕が廊下を歩いていたら、Kさんが「私の夫よ!」と……。
 そのときのご家族様の冷ややかな目線を前に、僕はサーっと現実へ引き戻された。
 さらに追い打ちをかけるように、Kさんが僕に抱きついてきたので、ご家族様と僕、あの場にいた全員がなんだか妙な空気になってしまい、タジタジに……。
 新人介護職の自分にとっては、忘れられない、Kさんとの甘酸っぱい思い出だ。

※「オウム返し」とはその名のとおり、相手の発した言葉をオウム返しすることで共感を感じてもらい、相手との心理的距離を縮めることのできる手法。

* * *

 介護現場では、利用者さんとの距離感は大事ですが、今回の石原さんの例のようにひょんなことから距離が縮まりすぎてしまうこともあります。若い男性介護職であれば、自分の孫のようにかわいがってもらうことはよくあることですが、ダンナさんに重ね合わせ、疑似恋愛の対象になる例も意外とあるのかもしれません。
 高齢者の恋愛はタブー視される傾向がありますが、Kさんのようにほほえましいプラトニックな関係をつくれるのであれば、さて、この絶妙な距離感はどのように維持できたのか? ご想像にお任せします(笑)。


Vol.2(2021.12.13)

誤解されたケアマネ

 今回は、青森県十和田市にある合同会社くらしラボ代表の橘友博さんがまだケアマネジャーになりたてのころの実話に基づいたお話です。

* * *

 あれは十数年前、居宅の※ケアマネとして愛と希望と勇気に満ちあふれ、利用者さんのためなら火の中、水の中と意気込んでいたある日。

とある利用者が入院となり、ここはひとつ、完璧な医療連携で在宅復帰をめざそうと意気込んだ私は、足繁く病院へ通っていました。

そのうち病棟の看護師さんとも仲良くなり、その中でもSさんという年が同じくらいの看護師さんと、とくに親しく話をするようになりました。 いつか2人はお互いのことを……などという展開はまったくなく、いつも仕事の話ばかりです(笑)。

 そんなある日、こんな相談を受けました。

Sさん「自分の祖父のケアマネのことなんだけど……私は施設にお願いしたほうがいいと思うんだけど、そのケアマネさん施設を全然紹介してくれないみたいなんだよね」
「えー! そんな話を聞いてくれないケアマネさんているんですか? 本人とご家族が希望すれば、ケアマネの変更は可能なので検討してみてはいかがですか?」

 Sさんは、両親祖父母とは同居していなかったが、たまに話を聞いており、施設入所を進めていたが、両親はケアマネが積極的に施設を探してくれないので困っているという話でした。

「ちなみにさしつかえなければ、どちらのケアマネさんか、こそっと教えていただいてよろしいですか?」
Sさん「市内の南のほうにある事業所なんですって。名前はわからないけど男性の方で、よくしゃべる人らしいわ。資格を取って何年目かで、お母さんとよく食べ物の話で盛り上がったりするみたい。他にも……」

 なるほどと話を聞き進めていくうちに、ひとつの疑念が……。
「ん? このケアマネ……俺じゃね?(笑)」

「あの、もしかしてその利用者さんの名前は、Nさんですか?」
Sさん「そうです。あれ? なんで名前知ってるの?」
「おそらくその施設を紹介しない不親切なケアマネというのは、私ではないかと……」
Sさん「げっ……、え! そうなの!? え、あれ、なんかごめんなさい、そういうつもりじゃなくて(アセアセ)」

 その後、施設を紹介しないわけではなく、本人とご家族とも話し合って在宅でのサービスを選択し、きちんと同意を得た上で自宅での生活を支援していることを説明して、無事に誤解は解けました。

 人それぞれ、話の聞き方や感じ方って異なるものなのだなあと実感した話でした。本当にこわいです(笑)。

※ケアマネ
ケアマネジャーの略。ケアマネジャーとは、介護支援専門員と呼ばれる資格を持ち、要介護認定を受けた介護保険の利用者が自立した生活をするためにさまざまなサービスを利用できるよう、 計画(ケアプラン)の作成や調整等を行う。

* * *

 橘さんは、「利用者さんに住み慣れた自宅で暮らしてもらいたい」という思いをもっていたため「施設入居は最終手段」と考えて、施設の紹介をしなかったのだと思います。
 ただ、家族の方は「介護が必要になったら、すぐ施設へ入居するもの」という発想があり、「なぜ施設を紹介しないのだ」と思ってしまったのかもしれません。
大切なのは、家族やご本人の意思の確認とともに、在宅での生活や施設での生活のメリットやデメリットなども提示した上で、選択していただくことではないか、と思います。
 私自身もケアマネとして、相手のとらえ方の違いにより誤解を招いたりすることは、これまでも多々経験しているため、橘さんのお話にとても共感します。


Vol.3(2022.01.19)

マフラーの約束

 今回は福岡県福岡市西区にある「小規模多機能型居宅介護(※1)三丁目の花や」の管理者をされている森本剛さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 腰椎圧迫骨折で病院へ入院した日から「もう痛くないから、早く私を家に帰してください」と訴えるIさんという方がいた。

 自宅で一人暮らしはとうてい無理なので、退院後は「三丁目の花や」(※2)でしばらく泊まらせてほしいと連絡があった。本人にも、会ったときに「三丁目の花や」に行くことを説明したが、「あの日に、だまされた、家に帰れると思ってたのに、とんでもないとこに連れて来られた!」と。
 これが初めての出会い。

 2か月後にはなんとか、大正12年生まれのIさんが住み慣れた家での生活が再開。
 泥屋根でちょっと強い雨が降ると、部屋が雨漏りしてしまい、風も抜けるような家だ。

 Iさんが言う。
「あんたにマフラー編んでやるけん、私が編んだら上等なんよ」
「去年もそう言って、一緒に買いに行った毛糸はまだ玉のまんま、そこにあるやない」
「編み物はね、始めたら一気に仕上げないかんから、まだ置いとると」
 いっこうに編む気配なし。

 別のときにも、
「だいたい、こげなばあさんになって、もう早う死にたいのに、なんで死ねんとかいな?」
「あんた、そりゃあやり残しとうことがあるっちゃろうもん。んー……たとえば僕にマフラー編むとか」(あんた、それは、やり残したことがあるってもんじゃないですか? たとえば、僕にマフラー編むとか)
「あんたも、言いたかいいやねー、ちゃんと編んじゃるっち言いよろうが」(あんたも言いたいこと言うわねー。ちゃんと編んであげるって言ってるでしょ)
「編む編むいうて、去年も言いよったのは誰ですか?」(編んであげると去年も言ってたのは誰でしょうね?)
「あー、もうせからしかねー」(あーほんとにうるさいねー)
 とそれでも言い返す。

 また、あるとき、
「そこのタンスの引き出しあけて」
「どれ? これ?」
「それそれ。それ、大島紬の男もののよか反物よ。ほんとならあたしが縫うとやけど、もうできんし、どうせ私が死んだらごみになるんやから、着てやって」
 と言われる。

 スタッフとも相談して、譲ってもらい着物を仕立てることに。
 すると、仕立て料だけじゃすまずに、帯、襦袢、足袋、羽織、必要なものをそろえるたびに、給料1か月分は余裕でお金が飛んでいくことに(汗)。

「着物揃えるのにこげんお金がかかるとね?」
「まぁ、かかるやろうね」
「なんで教えんかったと?」
「普通、誰でも着物一揃えくらい持っとるやろ?」
「いつの時代と思ってるんだよーー」

「あんた、私も『三丁目の花や』で見送ってね。私はここで死にたか」と言ってくれましたが、出会いから4年目、大雪の日に「三丁目の花や」でその日を迎えた。

 亡くなり、家に帰ることになったが、独りではかわいそうということで、僕が一緒に泊まることに。
泥屋根の築100年の家は壁も床も隙間だらけ、介護ベッドも片づけており、エアコンも効かず、直敷きの布団にくるまって寒さに震え、ほんとに凍死するかと思いながら最後の夜を一緒に過ごした。

 凍えそうになりながら過ごした夜を思い出し、たまには着物を着ようと思います。着付けのしかた知らんけどね。

* * *

※1小規模多機能型居宅介護
小規模多機能型居宅介護とは、1つの事業所が通い・訪問・宿泊の3つのサービスを提供し、月額定額制で利用できる介護保険サービスのことをいいます。在宅での生活を継続するために3つのサービスを利用できます。これに、「看護」として訪問看護の機能を加えたものが、看護小規模多機能型居宅介護になります。現在、「三丁目の花や」は看護小規模多機能として運営しています。

※2「三丁目の花や」
「小規模多機能型居宅介護三丁目の花や」の略。


Iさんが森本さんにマフラーを編んでくれると言っていた約束は果たされなかったようですが、自分で使うためではなく、誰かにあげるため、というのは、やる気がでますし、生きる意欲につながるかもしれません。森本さんとIさんの会話も信頼関係が築けているからこそですし、大島紬も仕立て直して蘇ることができて本望ではないかと思います。方言もそうですが、日本の古きよき文化を伝承していくことも、私たちケアに関わる人間にとって大きな役割と言えるかもしれないですね。


Vol.4(2022.02.15)

ニンジンを買う

 今回は、滋賀県草津市で小規模多機能ホームを運営されている高島聡さんの実話に基づいたお話です。

* * *

ご利用の方とよく行くファーマーズマーケットでのお話です。

 そこは、地域の方々が、それぞれに育てた野菜を持ち寄って販売している店舗です。
当然のことながら、認知症があったり、車椅子を利用していても、少しのサポートがあれば自身で買い物をすることもできます。

 買い物に行くと、普段ご近所との交流が少なくなっている利用者が、知り合いの方と出会われ、会話が弾むというような場面もあります。

 ある日、私は妻とそのファーマーズマーケットに出かけました。
 店内では妻とは別行動で、私は事業所で使える食材を物色していたのですが、その日は、規格外のニンジンが10キロ数百円という激安価格で販売されていました。

 その時、離れた場所で買い物をしていた妻に、店員のおじさんが近づいてきて、「奥さん、見てみぃ」と言うので、おじさんの指さすほうを見ると、10キロのニンジンをカートに乗せている男性がいたそうです。
「あんなたくさんのニンジン買うて、どうするつもりやろな。あんなたくさん買うても腐らすだけやで。何を考えてはんにゃろな。アホちゃうか」とニンジンをカートに乗せている男性のことを話し出したそうです。

 そのおじさんが、矢継ぎ早にその男性のことを話すので、妻はなかなか言い出せなかったそうですが……。

 実はその男性……。

 私だったんです。

 その男性が声をかけた女性の夫だと知らされたおじさんは、気まずかったのか、妻に私を呼ぶように言いました。

 そこで、私が介護事業所を営んでおり、事業所で使うためにニンジンを購入しようとしていることを知ると、「ちょっと待っててや」と言い、その場を離れていきました。

 戻ってくると自身の名刺を取り出し、畑で野菜を作っており、「野菜は捨てるほどあるで。お宅の事業所にも持って行ったげるし、名刺もらえるか。また連絡するわ」と言うのです。

 ひょんなことから、地域の方との新たな繋がりができました。

 どこで、どんなご縁があるかわかりませんね。今後も、自分に制限をかけず、多くの出会いを楽しみ、良い事業所作り、地域作りに関わっていきたいと思っています。


* * *

 スーパーの方と奥さんの会話が、絵に描いたような絶妙なタイミングで、まさかと思わされますが、そんな偶然もあるのが面白いですね。ファーマーズマーケットは、「コストコ」のような大きなスーパーとは違い、地域で顔の見える関係を大切にする、まさに地産地消を実現するためのスーパーです。
 介護事業所も、住み慣れた地域で高齢になっても、障害をもっても生きられるために欠かせない場所です。そんな地域に根差した活動をする者同士が運命的な? 出会いを果たす瞬間を切り取っています。
 これからは、スーパーと介護事業所が共催してマルシェをするもよし、地域の高齢者の方がスーパーの野菜を使った料理をふるまう一日限定のレストランを開店するもよし、いろいろなコラボレーションが生まれるのでは……と、ひそかに期待しています。


Vol.5(2022.03.17)

ミズナシさん

 今回は山形県で、現在はフットヘルパーとして活躍されている大場広美さんの事実に基づいたお話です。

* * *

 これは私が訪問介護事業所を運営し、訪問ヘルパーをしていたころの話です。
 要介護3の認知症の女性の方へ、起床、整容、食事、服薬の介助でデイサービスの迎えが来るまでの見守り含めて、訪問させていただいておりました。
 もちろん私だけでなく、3人で担当していましたが、その中でも私がいちばん多く訪問しておりました。
 最初はヘルパーが自宅に入ることに抵抗のある方で、試行錯誤を繰り返し、デイサービスの方が迎えに来るまで支度がきちんとできるようにしておりましたが、なかなか毎日いろんなハプニングがありました。どうすればこの方に受け入れていただき、おだやかにデイサービスに送り出せるかをいつも考えておりました。

 ある日、いつものように訪問し、眠ってらっしゃるところを起こしましたら「おお、おはよう」と笑顔で起床されました。
 いつもであれば布団の中にもぐったり、枕を投げたりするのですが、この日は違いました。「ん? なぜだ?」と思いながらも介助をさせていただき、会話もしながら今までになくスムーズに着替え、食事と進んでいきました。
 そして、ふと気がついたのです。会話の中に「ミズナシさん」という言葉が多く出てくるのです。「ミズナシさんって、なんだろ?」と思いながら介助を終えて、事業所に戻り他のスタッフにも確認しましたが、「初めて聞いた」とのこと。
 聞きまちがい? いや、はっきり言っていたな~と思い、次の日はほかのスタッフが担当でしたが、代わってもらい、翌日もまた私が介助にはいりました。

 すると、また「ミズナシさん」という言葉が何度も出てきます。
 思いきって「Nさん、ミズナシさんって何ですか?」と聞いてみたら「何言ってんの、あんたミズナシさんでしょ?」と!
 え? 何? 私が「ミズナシさん」? どうゆうこと? 全然名前違うし、急にどうしたんだろう? とびっくりしてしまいました。いろいろと考えましたが「何かきっかけがあるはずだ」と思い、誰かもわからないまま「ミズナシさん」になりきってみようと思いました。
「ねぇねぇNさん、ひさしぶりだね、いつぶりかな?」と聞いてみると、「一緒に働いてたころ以来だから、何年になるかねぇ」と! 「ミズナシさん」はその方の同僚のようでした。
「昔の写真ってまだ持ってる?」と聞くと、「あるよ、ちょっと待ってね」とテレビのサイドボードから箱を出し、写真を数枚取り出しました。
「あれ? 私はどこに写ってるかな?」と聞くと、「ほれー、ここにいるよぉ」と指をさした先には、眼鏡をかけたちょっと体格のいいまっすぐな髪をひとつにしばってる方でした。

 おお、なるほど眼鏡と体格は似ている……ではなぜ今までは「ミズナシさん」と呼ばずに、急に呼ぶようになったんだろうか?
 はっ! と気がつきました。私、髪にウェーブをかけていたのですが、最近ストレートにして、黒く染めて髪をひとつにしばるようにしたのです。
 それが、初めて「ミズナシさん」と呼ばれた前日のことでした。なるほど! 髪型を変えたことで「知らない人が毎日来る」から、「仲のよかったミズナシさんが毎日来る」にかわって安心したのだ!
 なぜか涙が出てきました。そこからはその方の前では「ミズナシさん」になりきろうと思い、介助しました。

 デイサービスの方が迎えに来て「私のいちばん仲のいいミズナシさんだ」と紹介されると「おはようございます、ミズナシです」と言っていました。
 デイサービスの方は、私の名前はもちろん知っていたので初めは「え?」という感じでしたが、あとで事情を話すと「へぇ、いいですね!」と話を合わせてくれるようになり、ケアマネさんも、同じように合わせてくれて、穏やかに日々の介助をさせていただきました。

 3年くらい介助に入らせていただきましたが、その後は老人ホームへ入所されたので会ってはいません。
 認知症の方は、何か不安を抱えていて、それを解決できればこんなふうにいろいろ違ってくるものなのか……と本当に学びになりました。
 もし面会が可能なら「ミズナシさん」として遊びに行きたいと思います。

* * *

 何か、心があたたかくなるような余韻を残してもらえるお話ですよね。認知症の方は「何をすればいいのか?」「自分がどこにいるのか?」を忘れてしまうことがあります。誰だかわからない人が家に来て、着替えを手伝おうとしたり、きっととても不安だったに違いありません。ただ認知症になっても、すべてを忘れてしまうわけではありません。子どものころから慣れ親しんだ遊びや特技、昔の経験や馴染みの人については意外と鮮明に覚えているものです。今回のみずなしさんについても、まさにNさんの鮮明な記憶として残っていたのですね。Nさんは、みずなしさんにひさしぶりに再会できて、どれだけ安心できたことでしょう。
 誰しもが、みずなしさんのような存在になれるわけではありませんが、みずなしさんのような身近な心許せる友人の一人として、かたわらに寄り添うことができる存在になれたらいいですよね。


Vol.6(2022.04.20)

Yちゃん

 今回は栃木県鹿沼市にあるデイサービス「はいこんちょ」を経営されている小林敏志さんの実話に基づいたお話です。

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 認知症の中でもとくに対応が難しいと言われていて、1割ぐらいの方がなる※前頭側頭型認知症(ピック病)という認知症があります。行動を抑制されることが嫌で、常同行動といって、毎日の日課通りに行動しないと混乱してしまいます。家に帰りたくなるとデイサービスから外に出て行ってしまうので、よそのデイサービスを断られた認知症の方が、「はいこんちょ」に集まってきます。
 ピック病の方が何人もいるのですが、その中でも大変中の大変な女性の利用者さんで※「Yちゃん」という方がいます。「ちゃん」付けの理由は、僕のことをダンナさんだと思っていて、さん付けで呼ぶと「よそよそしい」と言って怒ってしまいます。だから、僕だけは「Yちゃん」と読んでいます。
 コロナ禍なのでマスクをつけていますが、Yちゃんはスタッフがマスクをつけていると怒ります。「何シカトしてんだよ!」と。だから、コロナ禍でもYちゃんの前では、みんなマスクをはずして接しています。コロナになるよりも、マスクをつけて怒られる確率のほうが高いからです。
 叩かれるとこれが痛いのなんの。その痛さにおびえてマスクをはずします。だから、Yちゃんのおかげで、いや、Yちゃんのせいで、世の中とは正反対の「マスクをつけてると職員同士で注意し合う」というカオスが「はいこんちょ」で起きてます。

 Yちゃんは、他の利用者さんと一緒にいると、だんだんイライラしてきて怒り出して、「はいこんちょ」を飛び出します。スタッフが迎えに行くと、大声で叫んでしまいます。ご近所迷惑になってしまうので、考えて考えて考えた結果、Yちゃんがこれからも地域で暮らしていくために、昼間は、ご近所からいなくなる作戦を敢行しました。
 朝早く、7時半ごろにみんなが来る前、「はいこんちょ」を出発して、夕方、みんなが帰った18時半に「はいこんちょ」に戻ります。そうすれば、たくさんの利用者さんたちに会わなくてすむので。昼間はドライブしたりカラオケしたりボーリングしたり、一日中お出かけしてます。
 こんな生活をして1か月が過ぎました。 おかげさまで、今では他のピック病の利用者さんも一緒にドライブしてます。毎日毎日ぐるぐる回ってます。Yちゃんは、これからデイサービスに向かう途中だと思って乗っています。目的のないドライブって最初はとてもしんどかったのですが、今はだんだん快感になってきました。僕たちが目的や計画を作ったとたんに、Yちゃんがやりたいときやりたいことができなくなるので、猛烈に怒り出します。だから、できるだけ目的を作らずに、市内をぐるぐるとドライブしてます。
 目的のないドライブは慣れてくると、とても気持ちいいです。予定通りにいかないことがあたりまえになるので、なんだか気持ちが楽になります。うまく言えませんが、目標や目的を達成しなくても幸せな気持ちになってきます。
 Yちゃんは、そのことを認知症を通して僕たちに教えてくれてるのかもしれません。そして泣いたり笑ったり怒ったりしながら、「喜怒哀楽の感情をもっと好きに出していいんだよ」と認知症の神様がYちゃんを通して教えてくれてるのかもしれません。「こんなに大変でも見てくれる?」と認知症の神様が僕らを試しているような気さえします。
 いつかは僕ら介護職も、長生きすれば認知症になります。未来の僕らを肯定するためには、今ここでYちゃんを断らずに介護できるかにかかっています。「もう顔も見たくもない」ぐらいうんざりすることもありますが、機嫌がいいときは他の利用者を寝かしつけてくれたり、食器を洗うのを手伝ってくれたりします。

 Yちゃんに尋ねました。
「今、幸せ? 」
「そうねえ。幸せよ。辛いこともあるけど、あなたたちがそばにいてくれるから毎日楽しいわ」
「へー。幸せだったんだ。しょうがないから、死ぬまで面倒みてあげるよ。」
「ありがとね。お父ちゃん」

* * *

※前頭側頭型認知症(ピック病)
 前頭側頭型認知症とは、大脳の前方に位置する前頭葉や側頭葉の前方に萎縮が見られることで起こる認知症です。前頭側頭型認知症で、脳の神経細胞に「Pick球」と呼ばれ球状物が見られるものをピック病と呼び、前頭側頭型認知症のうち約7〜8割がピック病と診断されます。ピック病は若年性アルツハイマー型認知症と同じく、認知症の中では初老期に発症することが多いという特徴があります。さまざまな行動障害をともなうことから、専門医や福祉サービス、家族会などと連携していくことが大切となります。

※Yちゃん
 Yちゃんという呼び方は、小林さんや特定のスタッフさんのみ「Yちゃんという呼び方をしないと怒られる」という理由で呼んでいる呼び方。通常は「さん」付けで利用者さんのことは呼ばれています。

 利用者さんから「あなたたちがいてくれるから幸せ」と言ってもらえるって素敵ですよね。介護の仕事冥利につきるやりとりです。
 Yちゃんのような方の支援は、大変なことも多いと思いますが、小林さん、スタッフさんにとって、かけがえのない経験だと感じます。未来の自分たちに思いをはせて、いずれ自分がケアされる立場になったとき、どんなケアを受けたいのか? 目の前の方の笑顔や幸せを追求していく先にしか、そのヒントは得られないと改めて気づかせていただきました。

 ただ、現状の介護福祉サービスでYちゃんのような方を受け入れられるところがどれだけあるのか? 事業者の決められた枠にあてはめるのではなく、利用者の方の特性やペースに合わせること。本来求められるあり方ですが、時間もコストもかかりますし、継続はなかなか厳しい現実もあります。小林さんの事業所のようなケアのあり方ができるよう制度で対応していけるようにするのか? 制度の外側につくるのか? さまざまに検討していく必要があるのではないか? と感じています。


Vol.7(2022.05.21)

義母の言葉

 今回は、以前特別養護老人ホームで働かれ、現在は名古屋で居宅ケアマネジャーをされている大河内章三さんの実話に基づいたお話です。

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 これは特別養護老人ホームでお看取りまで関わらせていただいたSさんと、そのお嫁さんとのお話です。Sさんは入所のときにはすでに意思疎通も困難で、体は小さく痩せておられました。しかし、つぶらな瞳で相手をじっと見つめる視線は、言葉はなくても不思議と優しさを感じるSさん。亡くなる数日前に、お部屋に面会に来られたお嫁さんからこんな話を聞きました。

お嫁さんの話。
「今日からお世話になります」。春でしたか……夏でしたか……。日差しが強くなってきたと感じる季節に、私は故郷から単身、この田舎町に嫁入りに来ました。当時は周りに知る人もいないため、家の中で家事をして過ごすことが多かったように感じます。
 家の中では、私はいつも一人で家事をしているといった感じでした。 義母(Sさん)ももちろん家事をしますが、畑仕事で外に出ていたり、家の家事も共同作業ではあまりすることはなく、話すこともほとんどありませんでした。義母が話をするのは娘さんが都会から帰ってきたときや、私の夫と少し会話する程度で、他ではあまり会話をすることはありませんでした。
 夫の帰りは遅く、それまで私は外出することもなく一人で過ごしていました。そのため、私はいつも孤独を感じずにはいられませんでした……。あれはいつのことだったのでしょうか。嫁入りしてもう何年もたったある日のことです。
 一人の時間にも慣れて、地域にも知り合いが増えて、生活になじんできた私は、いつもと変わらず家事をすませた後、居間でお茶を飲んでくつろいでいました。そこに畑仕事を終わらせた義母が帰ってきたため、私は「義母さん。お茶でも入れましょうか?」と声をかけました。義母はいつもと変わりなく軽くうなずき、黙って畳に腰を下ろしました。
 太っていましたが、よく畑仕事をしているためか足腰も強く、座るときもそう大きな音を立てることもなくゆっくり座る姿が印象的な人でしたね。「どうぞ」。義母にお茶を差し出し、私も腰を下ろしてお茶を少し口につけました。

「大変じゃろう……」。私は驚いて義母の顔を見ました。普段は私から話しかけることしかなかったのですが、この日は義母のほうから話しかけてくれたのです。驚きのあまり、なんと答えたらよいものかとしどろもどろしているところに義母は続けました。「嫁入りで、知らん土地に来たのは大変じゃったろう。周りは知らん人間で助けてくれる人はおらんし……。私もな、別の田舎から港町に嫁入りしたんじゃ。終戦後、戦火もそうひどくないこの町に来たんじゃけどな、移るたびにいつも孤独を感じとったのよ」 そういって義母はお茶を口に運ぶ。「いろいろ大変じゃろうけど、無理することはないよ。私も動けるうちはしっかり働くから」。そういって笑顔でお茶を飲み干した義母は手に持った湯飲みを台所に持っていきました。
 その背中はいつにもまして輝いて見えました。 太陽のような強く厳しい光ではなく、木漏れ日のような優しくあたたかい輝きのように感じましたね。今はもう、あれだけ太っていた彼女からは想像もできないくらいやせ細ってしまって……。たまにこうやって面会に来るのだけれど、義母はもうわかっているのかどうかもわからない状態ですけどね。
 私がこの町に着たころ、義母は何もわからない私を叱ったことはありませんでした。義母は、できない私に自身の背中で伝えていたのだと思います。家事のしかた、そして生きざまを……。そこで、ふとあの日を思い出すんです。 多くを語らなかった彼女が私に話しかけてくれたあの日のことを。そんな義母の静かに寝ている姿を見て、昔を思い出しました。

 そんな話を聞いた数日後にSさんは穏やかに息をひきとられました。 葬儀を終えた数日後にお嫁さんが施設に来られ、お話をしてくださいました。義母が亡くなった日のこと、涙があふれ出たこと、体が熱くなったこと、嫁入りしてからずっとがまんしてきた何十年分もの涙が出たような気がしたこと……。そして今、穏やかな日々を過ごしていること。「義母さんもこんなだったのかな……」。お嫁さんは物思いにふけながら、義母の背中を思い出すそうです。義母が私に残していったものは深い感謝と悲しみ……そして、おぼろげながらに思い出す、忘れえぬ思い出の日々と彼女の後ろ姿でした。

 施設介護として、何かを訴えることもなく、いわゆる寝たきりの利用者さんへの介護をしていると、介護者はときに虚無に襲われます。何のために介護をしているのだろう? しかし、その時間は積み重ねてきた人生の最期であり、積み重ねてきた諸々を整える時間なんだとおもいます。さまざまなストーリーに思いをはせながら、利用者さんと向かい合う日々はかけがえのない時間。 だから介護ってやめられないなと思います。

* * *

 利用者さんの積み重ねてきた歴史を聞くことができるのは、介護の仕事の特権ですよね。施設での介護は時間との勝負でもあります。「何時までに何人の排泄ケアをする」などの時間に追われる中で、どう一人ひとりの利用者さんと向き合うことができるのか? 永遠の課題です。ただ今回のように、ご本人からではなく、ご家族からでも、その人の人柄がわかるストーリーをうかがうことができれば、ケアの向き合い方も変わってくるものです。
 必要最低限の生活を支えるケア、だけでは十分ではありません。心の通ったケアを行うことができる事業者が増えていくことがますます望まれますし、それができるために適切な人員配置と、人材育成は欠かせません。これからも安心して自分の親や自分自身が入りたいと思える施設を増やしていくことが求められていると感じています。


Vol.8(2022.06.25)

素敵な後ろ姿

 今回は、幼稚園教諭、介護職を経て現在はケアリングコーチとしてメンタルサポートやセミナー講師をしている金本麻里子さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 ご夫婦で在宅介護サービスを利用してくださる方がいらっしゃいました。ご主人Fさんは80代後半、奥様Tさんは80代前半。玄関のベルを鳴らすと、いつも奥様がにこやかに迎えてくださいました。

 ご主人のFさんは何度か癌を患っておられ、闘病中。ご病気のせいもあり、ほっそりされていましたが、私がうかがうと背筋をしゃんとされてご挨拶してくださいました。
若いときには海軍兵学校にいらしたということで、お部屋のあちこちに若かりしころの凛々しいお姿の写真が飾られていました。

 大きな会社の重役をつとめられており、大勢の部下を抱えられて大変な状況をくぐっていらしたと聞いていますが、お会いすると「や、金本さん、いつもありがとう」と柔和な笑顔でねぎらってくださいました。

 そんなお宅が私にとっても居心地良く感じられるほどで、週に一度のサービスが私自身も楽しみでした。

 ご主人の癌の進行は徐々に進んでいったのですが、そんな中でも私の訪問時にはご主人はベッドから起き上がって、私のことを迎えてくださっていました。ベッドから起き上がるのすら奥様の手を借りないと難しくなっていったのにもかかわらず、私が訪問するのを楽しみしてくださっていたとのこと。

「そろそろ金本さんが来る時間なのでは?」と気にされて、洋服ダンスからご自分の気に入ったお洋服を選び、それに着替えて寝室からリビングに移動し待っていてくださっていました。

「そんなふうに私のことを待っていてくださる方がいるんだ」。訪問介護先のお宅によっては、冷たい雰囲気や緊張を強いられるところもあったのですが、Fさんは私のことを大切に扱ってくださっているのが伝わって、とてもありがたいと思いました。

 Fさんは特段お話をされることもなく、私がお部屋の中を掃除するのを、新聞を読んだりしながら過ごしていられました。ひだまりの中で椅子に座って新聞を読んでいられるFさんのお姿がホッとできるような空間でした。

 数か月後、Fさんは何度目かの癌の再発により、旅立っていかれました。
 奥様お一人になり、訪問した際に部屋の中に新しくできたお仏壇を見つけたときには、悲しさとともにまだ信じられない気持ちになりました。
 いつも座っていらしたFさんのお椅子に、Fさんが腰かけて笑っていられるような気がしたのです。

 奥様がぽつりぽつりとご主人のことを話してくださいました。
 そして、ご主人が亡くなってから、こんな驚いたことがあったと話してくださいました。

 亡くなられて奥様お一人で郵便局に行った折に、それまでご主人と一緒にお顔を見せることが多かったので、郵便局の人が「ご主人はどうされましたか?」と聞いてきたとのこと。

 奥様がご主人のことを話したら、郵便局の方が残念に思われ、そしてすぐに局長さんはじめ職員さんみなさんが出ていらして、お悔やみの言葉を述べられたとのことでした。
 ご夫婦揃って、あるいはご主人お一人で来局されたときにも、いつも職員さんに対して紳士的に接してくださったとお礼を言われたそうです。

 この郵便局でのエピソードを奥様からうかがい、本当にご主人のお人柄が偲ばれました。
 どんなときでも、どんな人に対しても、ご主人は紳士的に、そして大切に接しておられていたのだと思います。

 自分が亡くなった後に周りにどんなことを残したいか。
 自分の今のあり方や周りへの接し方次第なのですね。
 人生の大先輩から教わった大切なことのひとつになりました。

* * *

 訪問介護での利用者の方とのコミュニケーションは、1対1で向き合う場面が多く、私自身も、訪問介護の経験から、コミュニケーションについて学び、介護の仕事に愛着を持ったものの一人です。
 さまざまな利用者の方や家族の方との出会いから、よい意味で自分自身の家族のことも相対的に見ることができるようになりました。金本さんも同様に、素敵な後ろ姿を見せてくれる利用者様との出会いが、人生の宝物になっているのだと感じます。訪問介護は介護業界の中でも人材不足が深刻ですが、1対1のコミュニケーションの奥深さを学ぶことができる貴重な職種です。このようなストーリーを多くの方に知ってもらい、介護の仕事の魅力や価値を感じてもらえる人を増やしていくことができたら、と思います。


Vol.9(2022.07.14)

50年後の花嫁

 今回は、大阪の特別養護老人ホームでユニットリーダーをしている白濱彩香さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 和夫さんは、入所当初はかなり怒りっぽく とても大変なおじいちゃんだった。みんな、関わり方にとても苦労していた。毎食後マグミット、毎晩下剤が処方されていて、便失禁が多かったため下剤をやめ、定期的なトイレ誘導を行うことで少しずつトイレで自然と排便できることが増えて、怒ることも減ってきて、みんなと馴染んできた。
 落ち着かないお年寄りは、その原因が排泄であることが多い。

 その後、しばらくすると、和夫さんはうん〇をティッシュにきれいに包んで職員にプレゼントするように! さらに、フロアや居室のいたる所に きれいに包まれたティッシュが置かれていることが……。
 それを見て新人職員は「和夫さん、きっとトイレでスッキリ出るようになったことがうれしいんですね! だからみんなにお礼の気持ちなんですかね!」 と言った。

 そんな日々を過ごしていたある日……。
和夫さん) 「あんたは俺の嫁やねんから、しっかりしてもらわな〜!」
 Σ(°°ノ)ナヌ?! 私のことを嫁だと思っているのか(実際は和夫さんは独身)。
 私はたしかに〝やさしい嫁〟らしく接していた。すると……。
和夫さん) 「あんた……妙にやさしいな。なんや……? 浮気してんのか? 高いもん買ったんか? 何か隠しごとしてるやろ!!」  和夫さんは激怒し、大変なことに!(笑)
 なので私は、和夫さんの〝鬼嫁〟になることにした。

和夫さん) 「おまえは19歳やからな……20歳になったら結婚式しようか。今はこんな物しか用意できひんけど……」
 そう言ってきれいに包まれたティッシュをそっと渡してきた。これはまさか……そう、そのまさかのもの。そして私が19歳に見えているのか。和夫さんは何歳なんだろう?(実際は90歳)と思いながらも〝19歳の鬼嫁〟婚約うん〇をいただいた。

 その後、だんだんとなじんできた和夫さんだが お風呂はとても苦戦していた。どうやったら気持ちよく入ってくれるだろう? 試行錯誤の日々、私はある作戦を思いつく。
私) 「和夫さん、お風呂いきましょう!」
和夫さん) 「お風呂は嫌や……」
私) 「結婚式も近いし、身体をきれいにしないと!」
和夫さん) 「そうか……。すまん……。俺との結婚、延期してくれ……」
 ここで、みんなは大笑い! 成功すると信じていた私は、かなり大きなダメージを受けた(笑)。

 和夫さんは総入れ歯だが、入れると痛みがあるようで悩んでいた。歯科医に相談し、新しく作り直してもらうことに。和夫さんは新しい入れ歯を前に、とてもうれしそうに笑った。その姿に、私たちもとてもうれしい気持ちに。
 しかし、しばらく使っているとやはり痛いようで……。

和夫さん) 「おまえのそれは……どこで作ったんやった?」
(`・ω・´)ナヌッ!?
私) 「和夫さんと一緒のところだったと思いますよ」
和夫さん) 「そうか……ちょっとこれつけてみてくれへん?」
私) 「え……?!」
和夫さん) 「ちょっと俺のつけてみてくれや。おまえのつけさせてくれ。交換してみよう!」
私) 「嫌です( '-' )」
和夫さん) 「嫌か……」
 和夫さんはかなり落ち込んでいたが、たとえ本当に夫婦で総入れ歯だったとしても 入れ歯を交換するのは絶対に嫌だ。

 ある日の夜勤中 フラフラな足取りで和夫さんが居室から出てきた。
和夫さん) 「俺の部屋はどこやった?」
私) 「こっちですよ」
 居室まで二人でゆっくり歩く。
私) 「ここですよ」
和夫さん) 「ここか! ありがとう。暗いし危ないから、あんた送っていくわ」
 フロアまで二人でゆっくり歩く。
私) 「ここで大丈夫ですよ。ありがとうございます!」
和夫さん) 「俺の部屋はどこやった?」
 居室まで二人でゆっくり歩く。
私) 「ここですよ」
和夫さん) 「ここか! ありがとう。暗いし危ないから、あんた送っていくわ」
 もうええっちゅうねん! と思いながらも(笑)。

 私は学生時代、好きな人とのデートの別れ際がさびしくて、バイバイがなかなかできなかった。電話を切るのが嫌で「〇〇君切って〜」なんて甘えていた。そんな初々しいことを思い出しながら、真夜中2時に和夫さんと一緒に、フロアと居室を10往復した。

 和夫さんは、毎日が本当にハチャメチャでいろいろなことが起こる。だけど私たちは「それ」を「認知症の問題行動だ!」なんて言わない。和夫さんのその日その時の世界を楽しんでいる。たまたま通りかかった施設長を犯人呼ばわりして「あいつを捕まえて連れてこい!」と激怒したときはさすがにあわてが(笑)。
 和夫さんは今、どんな世界にいるんだろう? そう思いながら和夫さんと関わっていると、毎日が本当に楽しい。あと50年したら私はたぶん総入れ歯になってるだろう。
 そのとき、きっと和夫さんを思い出す。思い出すことができたら、入れ歯交換したいですね。

※マグミット
酸化マグネシウムを成分とした便秘薬

* * *

 介護現場では本当に、いろんなことが起こります。便失禁した便で、部屋中が便まみれになったりすることも。そのつど、対応する介護職も相当な負担にはなりますが、ひとつひとつの行動に意味があって、なぜそのようなことをするにいたったか? これまでの生活や普段の様子から鑑みる想像力が求められます。
 問題行動といってしまえばそれまでですが、問題行動と言えるようなことも、ユーモアで乗りきる大阪人の強さを感じます。白濱さんのように、本人の世界に入って、伴走できる人がケアの専門職には求められていますよね。普通の感覚であれば、う〇こを包んでプレゼントされたらぶち切れられてもおかしくないですが、和夫さんのそのときの気持ちを考えることができるって素敵だと思います。認知症になっても、忘れてしまったり、妄想してしまうこともオンリーワンの個性として、日々を一緒に楽しむことができたらいいですよね。


Vol.10(2022.08.20)

最後の最期は自分で決める!

 今回は沖縄県浦添市で小規模多機能ホームにてケアマネジャーをされているノダ知加子さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 80代後半のH子さん。当時、私は居宅介護支援事業所のケアマネでした。H子さんは週2回通っていたTデイケアが大好き。本当はあと1日利用日を増やしたかったのですが、当時要支援(※)だったH子さんは、施設側のルールにより願い叶わず。もっと回数を増やして通うことのできる他のデイサービスを体験してもらっても、やはりTデイケアに通うことを選択。毎月モニタリングのため訪問すると、いつもTデイケアでの楽しい活動やおいしいごはんのお話を聞かせてくださっていました。

 そんなH子さんに、すい臓がんが見つかりました。入院治療もむなしく余命宣告を受けたH子さん。ご本人、ご家族の希望により、最期まで在宅で過ごされることになりました。自分の足では歩けなくなっても、大好きなデイケアに通い続けることを希望したH子さん。しかし体力も低下し、車いすで数日通ったある日「もう行かない」と決断し、ご自宅で1日数回のヘルパーと訪問診療、訪問看護のサービスを受ける日々が始まりました。私はヘルパーや看護師さん達が情報を記録できる1冊のノートを用意し、みんなでH子さんの日々の様子を共有しながらサポートすることになりました。

 我慢強く、意思の強いH子さんでしたが、あまりの痛みに主治医に「早く楽にしてください」と訴えることも。主治医は「まだやり残していることがあるでしょ。みんなにお礼伝えましたか?」とユーモアを交えて諭し、一緒に暮らしていた要介護のご主人やお子さんたちが集まったところで「ありがとう」と伝えたH子さん。軽度の認知症があり妻の状況が理解できていなかったご主人も「もうすぐ逝くのか。そうか。」とうなずいて手を握り合うお二人と、その様子を涙と笑顔で見守るご家族。この素敵な「ありがとうセレモニー」の数日後の5月の第2日曜日の朝、そう、「母の日」にH子さんはご家族全員に見守られるなか、旅立たれました。

 実はその前日、サポートするみんなで共有していたノートが最後のページになったので、2冊目の新しいノートお届けしようと用意していたのですが、まるで最初から決まっていたかのように、1冊目のノートの最終ページが最後の夜に訪問したヘルパーの記録でしめくくられたのでした。また、最期の数日は食事もほとんど口にできなかったH子さんでしたが、お亡くなりになったその日に、大好きだったTデイケアの職員さんがお供えにと持参されたのはデイケアのお食事。まるでH子さんが注文していたかのようでした。

 偶然だったのかもしれませんが、母の日だったこと、1冊に収まったノートのこと、デイケアのお食事も、私はH子さんが最期の時間を自らの強い意思でプロデュースされたのだと思っています。カッコいい生き方、旅立ち方を見せてくださったH子さん。

 H子さんのような人生の大先輩の皆さんの集大成の時期に、濃密に関わらせていただけるケアマネジャーや介護のお仕事、最高です。


※要支援
日常生活の基本的な動作は自力で行えるけれど、負担の大きい家事などには多少の支援が必要な状態のこと。

* * *

 デイサービスが大好きだったH子さん。ここまで気に入ってもらえるデイサービスってどんなところなんだろう、と想像してしまいます。魅力的なアクティビティがある、食事がおいしい、スタッフがいい、などなどあるのでしょう。そんなH子さんが最後まで自宅で過ごすことができたのは、ご本人、家族、専門職との綿密な連携があったからこそなのだと思います。在宅で最後まで暮らすことを支援する、それが介護保険制度の本分と言えます。このようなチームがさまざまな地域でご本人と家族の思いを支えていきたいものですよね。


Vol.11(2022.09.26)

いつだって今日を

 今回は特別養護老人ホームでユニットリーダー兼フロアリーダーをされている鞆隼人さんの事実に基づいたお話です。

* * *

 とあるおばあさんの入浴介助。いつも明るくほがらかなその振る舞いは、携わる人みんなを笑顔にする。こうやって歳をとればいいんだなぁと思わせてくれる素敵な方だ。
 九十余りの歳を重ね、さまざまな苦難を乗り越えてきたのだろうか。存外、うまく困難を避けてこれた人生だったのか。それはわからない。

「もう九十六!! いつ死ぬかな!!」
 いつもの口癖とともに、浴槽へとゆっくり入っていかれる。
「わぁ~! こんないい風呂初めて!!」
 老化にともなう変化ゆえか、はたまた僕に気をつかってか、ことあるごとに賛美の言葉を口にするおばあさんに、自然と笑みがこぼれる。
「家のお風呂は丸っこくてなぁ……足が伸ばせんかったぁ……ここは足が伸ばせる! いい!!」
 普通のお風呂に普通に入るとは、つまりこういったことだ。家のお風呂と形は違うかもしれないが、根本的なお風呂に変わりはない。肩までつかって身体をこすり、頬が赤らむまで湯に身を任せる。全身を覆われることで落ち着くのは、産まれる前の世界を僕らが無意識に覚えているからだろうか。
「あたたかいねぇ~せんせーも入る?」

 これから時代はまた逆戻りし、機械が介護の世界からこの文化を排除してしまうかもしれない。機械個浴という名の人体洗浄機が幅をきかせるようになるのか。
 それらは職員の負担を減らし、おばあさんの身体をあたためるだろう。だが、おばあさんが過去を慈しむようなノスタルジックなシーンは、けして登場しない。その機械からはおばあさんの家にある丸っこいお風呂は想起されないだろう。体はぬくもっても、“心あたまる”美談にはなりえない。

「さぁ上がろうか、もう今日死んでもいいわぁ」
 医療の世界は今日より明日という。そのために今日を費やし、よりよい明日がやってくると信じている。
 おばあさんにはその明日が来ないかもしれない。
 だからこそ、今日より明日という価値観ではなく、いま、ここを大切にしたい。
 それは、普通のお風呂に普通に入る、そのことを支えるということだ。

 死ぬにはいい日なんて、死ぬまでない。
 いつだって今日を生きるしかない。
「はぁ気持ちよかった、また今度もお風呂入れてね」
 おばあさんはいつだって今日を生きている。


Vol.12(2022.11.04)

生活の処方箋

 今回は、特別養護老人ホームに併設する短期入所(ショートステイ)に勤務している山本詩菜さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 藤田さんがショートステイ(※)を利用し始めたのは,ちょうど1年ほど前。娘さんと二人で暮らしながら、月に数回のペースで泊まりに来ていた。
 藤田さんは「一人でできますから,大丈夫だよ」と、自分でなんでもこなそうとする。しかし関わっていく中で、ふと疑問に思った。
「藤田さんは、いったいどうやってお家で自分で生活しているんだ……?」
 というのも,藤田さんの認知面や身体状態から、介護なしでの生活は難しいのではないかと感じたからだ。
 衣類はボロボロ、転倒を繰り返し,身体のいたる所に傷があった。それから1、2か月して、藤田さんは、施設の入所を待ちながら長期的にショートステイに滞在することが決まった。

 そこからだ。藤田さんの様子が変わり始めたのだ。
「こんなところにいるくらいなら、死んだほうがマシだ!!!」
 と職員を殴ったり、夜中は30分に一回、部屋から這って出てきては、娘さんの名前を泣き叫んでいたり。
 そしてある夜、藤田さんは部屋のナースコールの線で自分の首を絞めていた。幸い健康状態には影響はなかったが、その様子を見て胸がしめつけられる思いだった。
「私たちのやっていることは、専門職として本当に正しいのか?」
 モヤモヤとした感情が浮かび上がる。だけど、一緒に暮らす娘さんには知的障害があり、藤田さんの介護をするのは難しい。自宅に戻り、生活を再開することが現実的でないのは、職員のみんながわかっていた。
 そこで私たちは、試行錯誤しながらもケアに当たった。藤田さんが少しでも安心して、藤田さんらしく生活していけるように。
 食事の方法は? 排便のコントロールは? 薬の内容は今の藤田さんの状態に合っている? 娘さんとの時間をどう設けていく?
 生活過程を整える中で、藤田さんの様子は目に見えて穏やかになっていった。というよりも、少しずつ藤田さんらしさを取り戻していったのだと思う。

 自分で首を絞めた日から3か月ほどたったある日、藤田さんが言った。
「こんだけよくしてもらってるから、ここで世話になろうかな」
 私たちは準備ができていることを伝えると、藤田さんはしわくちゃの顔で笑っていた。
 病気や身体的な苦痛が、本来のその人らしさを奪ってしまうことがあると思う。たとえば「痛い」とか「苦しい」とか、ずっと泣き叫んでいるのは、本来の姿ではないだろう。ケアとは、生活を整える中でそういった苦痛を解決に導き、その人の「ありたい姿」を実現させる援助をすることだと思う。

 まだまだ駆け出しの私に、藤田さんはそんなことを教えてくれた人である。

※短期入所(ショートステイ)児童や障害児・者、高齢者の心身の状況や病状、その家族の病気、冠婚葬祭、出張等のため一時的に養育・介護をすることができない、または家族の精神的・身体的な負担の軽減等を図るために、短期間入所して日常生活全般の養育・介護を受けることができるサービスのこと。

* * *

 現実的には難しい状況でも、「自分はまだ大丈夫」「施設には入りたくない」という人が実際は多いですし、誰でも入居を受け入れるまでには葛藤があります。その思いにどう寄り添えるのか? 安心できる環境、「この人になら任せられる」と思えるコミュニケーションの積み重ねが、信頼をつくり、藤田さんの「ここにお世話になろうか」の一言が、でてくる所以ではないかと感じます。
 藤田さんの心の変化は介護職冥利につきるところですし、逆に「こんなはずじゃなかった」と思われるような場に、介護施設がなってはいけないですね。生活を整える、居心地のよい環境を整備する、ご本人にそったあり方を模索し、ご本人の一番身近なところで生活を支えるのが介護職です。その方らしく過ごせる環境や、一人ひとりの思いに伴走できるプロのケア職が増えていくことで、安心して歳をとれる世の中にしていきたいと感じています。


Vol.13(2022.11.20)

「世代をこえた日韓関係」

 今回は韓国のデイサービスで働く日本人介護福祉士、水嶋里佳さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 デイの帰宅前、送迎車を待つ時間に ご自身のストーリーを語ってくださるハルモニ(韓国語でおばあさん)がいます。  認知症の症状があるハルモニは、ご自身の生きている時代の時間軸が変わってしまうことがよくあります。ここ最近の彼女の時代設定が日帝時代(日韓併合時代)のため、日本人に対する怒りつらみが爆発。
「あのとき日本人は米を持って行ってしまって、わたしたちは芋とか雑穀を食べてた。日本人にとっては、わたしらは豚と同じだったよ」
「学校でも日本の文字を教えられて、でもパク先生という先生はその時間に韓国の文字を教えてくれた。今考えると、本当にあの先生は愛国者だったよ」
「私が死ぬときには、日本人一人でも殺してから死ぬんだから!」
 などなど、彼女の話はドラマでも映画でもない本当の歴史が目の前に存在している。
「こんなに反日の罵倒をまともに受ける日本人もいないだろうな」というくらい(^^;)。

 数日の間、彼女の日本への怒りを受け止めておりました。そう、この感情を受け止めるのが、わたしの仕事なんです。そんな怒りマックスの彼女を、わたしがずっと帰りの送迎を担当する時期がありました。
 日帝時代に生きていたハルモニがあるとき、お家にお送りする際にお話していると「こんなによくしてくれて、どこの娘? わたしの娘よりいいわ」と話してくれました。
 そこでわたしがちょっといじわる(?)で「実は日本から来たんですよ〜」と話したら「そう? 日本人だからって、みんなが悪いわけじゃないんだよねぇ」「悪いことをした人たちが悪い」と、わたしの手をポンポンとしてくださったのです。

 どんなにわたしの心と体を削っても彼女の傷は癒えないと思うけど、これからも韓国で生活し、介護を行っていく上で、歴史的な背景は切り離せません。自分なりに誠心誠意、心を込めて接していきたいなと思っています。

*追記
 わたしに時を越えて大切なことを教えてくださった彼女は、数か月前に突然、空の国へと旅立たれました。ご自宅から息子さんの働く職場に行こうと1人で向かっている途中の飲酒運転者による交通事故だったそうです。亡くなる数週間前から彼女は「今着ておかないと、と思って」と、韓国の伝統服であり、息子さんが結婚するときに買ってくれたという大切な韓服を着て、デイに通う姿が見られました。
「明日やろうは馬鹿野郎」。 明日が来るとは限らない。今できることを後回しにせず、悔いなくケアを行いたい。彼女からもう一つまた大切なことを教えられた気がします。

* * *

 信頼関係は、時間をかけて一人ひとりとのコミュニケーションの積み重ねから作られます。水嶋さんの体験は目の前の人と関係性は、過去や国籍は必ずしも関係ないということに気づかされます。水嶋さんは異国の地で、韓国語を話し、利用者さんと向き合い介護をしています。ケアに関わる専門職こそさまざまな背景を受け入れられる心の器を持ち、相手に心を開いてもらえるコミュニケーション力を磨いていく必要があると感じています。
 また介護の仕事は、複数の疾病を抱えた方や高齢の方と関わる仕事で、明日どうなるかわからない、という方も多くいます。今回のように健康の理由ではなく、旅立たれてしまう方ももちろんいます。できることを後回しにせず悔いなく行う、というところが介護やケアの仕事に従事するものとして大切なキーワードだと感じています。


Vol.14(2022.12.26)

「噂の車のヘルパーさん」

 今回は埼玉県にある特別養護老人ホームのショートステイで働く介護福祉士、藤田直人さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 これは、私が定期巡回随時対応型訪問介護看護※に勤め、訪問ヘルパーをしていた時の話です。

 当時勤めていた定期巡回随時対応型訪問介護看護事業所は、直行・直帰ができる会社で、1日の最初の訪問先または、最後の訪問先を自家用車で訪問することが許されていました。
 私は車が大好きで、大きなタイヤを装着し、車の外装や内装をとことんカスタムしたとても目立つオフロードカーに乗っています。このオフロードカーで通勤をしていたため、1日の最初の訪問先、最後の訪問先はこのオフロードカーで訪問をしていました。目立つ車であるため、訪問先のご利用者様、ご家族様からはよく「イカした車だね」と好評をいただいていました。

 ある時、病院から退院され、ご自宅に戻って来られたご利用者Aさんの利用契約が始まりました。Aさんは末期癌を患っており、ご自宅で最期を過ごしたいとのことで在宅介護が始まり、少しずつターミナルケアが始まりました。訪問を重ねていく中で、昔は大工の親方を務め、ご自身でご自宅を建てられたこと、休みの日は骨董品を集めによく出かけられていたこと、バイクや車が大好きだったことなど、たくさんのお話をしてくださいました。

 そんなある日、いつものように昼過ぎの訪問をすると、Aさんの自宅の庭にクラシックカー(50ccのミニカー)が何台も止まっていました。 昔から大切にされていたクラシックカーがあり、今日は同じクラシックカー仲間がAさんの家に集合して写真撮影をしているとのことでした。Aさんは普段ベッド上で過ごされ、体調がいい時はベッドから車椅子へ起きられて過ごされることがあり、この日は車椅子で庭先で過ごされていました。

「珍しい車ですね!」
Aさん「この車は50ccのバイクと同じエンジンを積んでいてね。この車が大好きで昔は4台ぐらい同じ車を持っていたんだ。この車は自分で塗装もしたんだよ」

 ご自身の車を自慢されるAさんはとても輝いており、車に対してとても愛情を注がれていたことを深く教えてくださいました。私も車が大好きであるため、Aさんは私の車も見てみたいと話されていましたが、自分の車でAさんの訪問をすることができるのは、朝6時45分、または夜の18時30分のどちらかとなってしまい、実現させることは難しい状況となっていました。その後、徐々にAさんのADLは低下し、気温や体調によって離床して過ごすことのできるタイミングも難しくなってきました。
 ある時、朝の訪問をした際に、気温や体調がよく、午後から離床して過ごしたいとお話がありました。 私はすぐさま上司へ報告し、午後の訪問を自家用車で訪問し、車好きのAさんに私の車を見せてさしあげたいことを相談しました。結果、スケジュールを調整し、午後の訪問を自家用車で訪問する許可をもらい、Aさん宅へ自家用車で訪問しました。Aさんが車椅子へ離床された後、娘様、奥様も一緒に庭先にとめてある私の車のところまでご案内しました。

 Aさんは私の車をまじまじと見ながら「これはすごいなぁ」と奥様や娘様と話をされました。私の車は、内装に自分で木を加工した装飾があり、大工であったAさんは細かな木の加工の仕方などを教えてくださりました。約20分ほどの時間離床して車を眺めて過ごされ、Aさん、家族様から「タイミングよく起きられてよかった。楽しい時間を本当にありがとうございました」と喜びのお言葉をいただきました。

Aさん「あんな大きなタイヤ履いてたら山道とかも走れるんじゃないか」
「よく休みの日は近くの河原で川の中を走ったり、山へ行って林道とかを探検したりしてますよ。走った後は家の駐車場でよく車をいじっています」
Aさん「私も家の庭先で車やバイクをいじったりよくやったよ。うちの娘のダンナもバイクが好きで、休日には仲間たちを連れてきて、一日中庭でバイクをいじってることもある。車やバイクはやっぱり楽しいよな」

 Aさんは、時おり家に顔を出される親族の方々にも私の車の話をたくさんされていたとのことで、「君が噂の車のヘルパーさんだね」と言われるほど、ちょっとした人気者になりました。それからして、Aさんは少しずつ離床することも、お話することも難しくなりましたが、ご自身の好きな物、好きな人に囲まれながら、一番安心することのできる場所でAさんらしく過ごされました。そして、Aさんは「最期の時を自宅で過ごす」という夢を実現させました。

 私はこの経験から、趣味である車をご利用者様の生き甲斐に結びつけられること、そして、趣味を介護の力へと結びつけられることを強く学びました。車以外にもたくさんの趣味(ウクレレ、バイク、観葉植物、映画鑑賞、日本酒・お猪口集め、温泉巡り、旅行などなど)があるため、今後も趣味を生かして、介護の力へと変換させていきたいです。

※定期巡回随時対応型訪問介護看護
訪問介護・訪問看護・24時間連絡体制で在宅生活を支える平成24年4月から始まった新しいサービス。介護職員と看護職員が連携し、通常の定期的な訪問はもちろん、24時間の連絡体制のもと、必要に応じて随時自宅を訪問するサービスのこと。

* * *

 同じ趣味を持った人とは、すぐに心が打ち解けますよね。利用者とヘルパーという関係でもそれは同様ですし、少しマニアックな趣味が一致しようものなら、ぐっと距離が縮まりますね。藤田さんも、Aさんに車を見せたいという思いを実現するため、事業所に依頼し、事業所側もニーズに応じて勤務を変更したり、思いに寄り添ったケアの実現ができていて素敵です。介護職は、さまざまな背景の利用者の方と共通言語を見出す必要がありますが、藤田さんは、さまざまな趣味があることで、共通点を見出しやすいのではないかと思います。好奇心を持って知ろうとしたり、新たな趣味などに取り組むことは、自分自身が高齢になっても生かされますし、老後も楽しみのある生活が送れるのではないでしょうか。


Vol.15(2023.02.01)

「実は私がケアしてもらってる」

 今回は住宅型有料老人ホームで、介護職のアルバイトをしている福永そらさんの実話に基づいたお話です。

* * *

 私は2年前に実家を離れて上京し、都内で一人暮らしをしながら大学に通っています。アルバイト先ではいつも利用者様と楽しく過ごしています。
 先日、20歳の成人を迎えました。利用者様たちと年齢が離れていることもあり、ありがたいことに、自分の孫のように接してくださる利用者様も多いです。
 夜勤に入ることが多く、夜勤明けの朝に、
「眠くない? 大丈夫?」
「今日も学校? 気をつけていってらっしゃい!」
 など、声をかけていただけるので、私の方がいつも見守られています。

 ある利用者様とのお話です。おしゃべり好きで、いつも利用者様やスタッフを笑わせているAさんは、透析通いで疲れている自分のこと以上に、私のことを気にかけてくださっています。
 先日、成人の日の前日から夜勤だったので、当日の朝に利用者様をリビングへお連れし、朝食の準備をしていました。
 Aさんに声をかけると、いつもより表情が暗い様子でしたが、
「元気だよ!」
 とおっしゃっていました。
 朝食が終わり、
「そらちゃんの朝ごはん、おいしい! ごちそうさま!」
 と言ってくださいましたが、やはり表情が暗く、心配していました。

   そして、食後、Aさんが居室へ戻るとのことで、居室にお連れすると、急に涙を流し始めてしまいました。
 体調が悪かったのに起こしてしまったのだろうと思い、急いで血圧や体温の確認をしようとすると、Aさんが、
「そらちゃん、本当に成人おめでとう。」
 と手を握ってくださいました。
「本当はね、笑っておめでとうって言うつもりだったんだけど、そらちゃんを自分の孫のように思ってるから……なんか大人になって遠くにいっちゃう気がして寂しくなっちゃって……ごめんね」
 とのことでした。
 その後もしばらくAさんとお話ししていましたが、ずっと涙があふれ続けており、私のほうまでもらい泣きしてしまいました。
「私も、今はここが家みたいなものなので、遠くにいきませんよ! これからもよろしくお願いします!」
 と言うと、Aさんは嬉しそうに泣きながら笑っていました。

 介護の仕事を始めるまでは、介護者が利用者のためにケアをしてあげるものだと思っていましたが、実際に介護の現場でと関わると、私自身も利用者にケアをしてもらっていると日々感じます。
 一人暮らしをしている今、自分の家にいるよりも、アルバイト先にいるときのほうが家に帰ってきた気がして安心します。
 気づいたら、利用者様のために、生活費を稼ぐために、というのではなく、利用者様に会うのが楽しみで働くようになっていました。私にとって、これ以上に最高な仕事はないと思っています。

※住宅型有料法人ホーム
自立の方から要支援・要介護の方まで、さまざまな状態の高齢者を、幅広く受け入れている施設。介護が必要な場合は、訪問介護や通所介護などの外部サービスを利用しながら生活できる。

* * *

 介護をしていると、若い子は孫のような存在としてかわいがってもらえることがよくあります。福永さんと利用者さんは、とてもよい関係が築けていて、今この年代でしか味わえない経験や関係性を育まれているなあと感じます。介護職は、それぞれの年代ごとに利用者の方への関わり方も変わってくる面白い職業です。中年になれば、嫁のような存在に、高齢になれば同志に近い存在に……。その年代ごとの経験がそのまま仕事にも生かせるなかなか貴重な職業でもあります。それぞれの年代での関わり方、役割を果たすことで、大きな家族のような関わりができるのかもしれません。今の自分ならどんな役割が担えるか? 考えながら関わるのもまた楽しいのでは、と感じています。


Vol.16(2023.03.03)

「あなたは私の息子です」

 今回は、沖縄県で訪問介護事業所で介護福祉士として働く、桃原淳さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 この日は週1回の女性の利用者さんとの買い物援助で、ご自宅を訪問しました。私が担当して毎週買い物支援に付き添いをしています。いつもと変わりなくタクシーで移動し、店で生活用品を買い終えて自宅へ帰ろうとしたときに、偶然、利用者さんの知り合いの方と会い、挨拶を交わしました。
 すると、利用者さんが「私の息子です」と笑顔で紹介されました。私も突然のことで「息子ですー」と、とっさに返事をしました。

 その後、知り合いの方とお話を終えたあと、その利用者さんと目を合わせ二人で大笑いしてしまいました。利用者さんに「僕のこと、息子って言ったら、相手は本気にしちゃうじゃないですかー(笑)」と話すと「あなたはもう私の息子同然よー(笑)」と言ってくれた一言に、うれしくもあり、ほっこりした気持ちになりました。
 帰りのタクシーの中でも「結婚はしないの? いい人が見つかったら私にも紹介しなさいよー。ちゃんと見きわめてあげるから」など話が盛り上がり、あっという間にご自宅へ到着しました。
 部屋まで案内し、記録をして退席したあと事務所に戻りながら、ふと、これまでの会話の内容を思い出し、息子のように心配し気にかけてくださってるんだなーとまたまた、ほっこりしました。

 それ以来、知り合いの方に会うたびに「私の息子ですー」と紹介されています。ときどき買い物中に知らない方から「いい息子さんですねー」と言われ、いつも通っている店では、もしかしたらちょっとした有名人なのかもしれません。
 最近では、支援のことで電話するのですが、長いときは20分以上話をすることもあります。ほとんど日常会話です(笑)。
 その話の中で行きたい場所があるようで、「○○に行ってみたいのよねー」と何度も話していたので、事務所メンバーに相談して「みんなで連れて行こう」とサプライズ計画をしています。
 喜んでくれる表情を思い浮かべると楽しみです! こんなことができるのも訪問介護の魅力のひとつだなと感じています。

* * *

 介護職は、利用者の方の一番身近なところで、家族以上に頼りにされ、孫や息子のようにかわいがってもらえる特権があるのかもしれません。かわいがられるには、愛されるキャラクターであることが大きいと思います。人として魅力があり、一緒にいてうれしい、楽しい気持ちにさせることができるのは一種の才能でもありますし、介護職が天職といっても過言ではないように思います。
 普通は、自分の親は義理の両親も合わせて4人、おじいちゃん、おばあちゃんも合わせて4人が最大のはずですが、介護職をやっていると、たくさんの家族ができるような感覚があるかもしれません。
 育ってきた環境も背景もまったく違うお母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃんに囲まれて、いろいろな娘、息子、孫を演じ分ける、そんなふうに考えて介護の仕事に向き合うと、また違った見え方ができて、楽しいのではないかと感じています。


Vol.17(2023.04.18)

「ご住職の入浴介護」

 今回は東京都の訪問介護事業所で介護福祉士として働く、工藤勇希さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 訪問介護士になって8年目。ひととおりのことができるようになった私に、まだ経験したことがないケースの相談が舞い込んだ。

「プルルルル」(電話の音)
 いつものようにケアマネさんから、新規の依頼の電話連絡が入る。
「90歳越えたの方の週3回の入浴介助なんだけど、ちょっと変わったケースで、お寺のお風呂での入浴介助になります。入れますか?」
 私はいつものように二つ返事で「ぜひ受けさせてください!」と返答した。
 くわしく話を聞くと、今まで1人で入浴していたが、先日、夜中に階段から滑落し、腰を痛めてしまったそう。そしてご本人は、なんとお寺の現役のご住職で、キーパソンは檀家さん。今回はドクターのすすめで、ヘルパーの介入がきまったとのこと。
 訪問介護を始めて8年目になるがが、さすがにご住職の支援に入るのは初めて。もちろん住まいはお寺になので、お寺の浴場での入浴介助となる。

 数日後には担当者会議を行い、あっという間に初回の訪問日を迎えた。
 お寺といえど、訪問介護の仕事には変わりないので、変な先入観は持たずに、いつもどおりにインターフォンを押して訪問する。
「こんにちは! ヘルパーの工藤です。おじゃまいたしまーす」
 お寺の裏口から入室し、お坊さんの更衣室や寺務所を横目に、檀家さんに誘導され、艶のある木の廊下を進む。どこか懐かしさを覚える独特な香り、歩くたびにきしむ木の音、天窓から差し込む日の光、厳かな空気に包まれて、いつも以上に緊張している私。

 居室に到着すると、ご本人(ご住職)は畳部屋の中心にある介護用ベッドにて、白いお着物を羽織り、端座位で私を迎える。
「申し訳ないね。今日はひとつよろしくお願いします」
「Sさん(ご住職)、初めまして! こちらこそ本日からよろしくお願いします。こう見えてもベテランなのでご安心ください!」
「階段から落っこちちゃったんです。腰が痛くてね、人の世話になってしまって情けないです」
 すると、檀家さんが私を見て「90歳越えて、こんだけ元気なのも珍しいですよね? ほら、お上人お風呂行きますよ!」。
 ご住職は檀家さんをじーっと見つめ「じゃあ行こうか」。
 そう言うとご住職は自ら立ち上がり、自分の力で一歩一歩浴室まで歩いていく。
 私の勝手なイメージだけど、ご住職という立場の方は厳粛な雰囲気を持っているものかと思っていました。実際は物腰が柔らかく、やさしくてユーモアのあるお人柄でした。

 脱衣所に着いてからも、基本は一人でやられるので私はフラつき防止で支えに徹する。介護士として、着物の着脱介助も初めての経験だった。入浴後の着替えが、檀家さんから私に渡される。白い着物と白い帯、それから白い足袋が用意されている(正直、きちんとできるか不安でした・笑)

 浴室には大きな窓があり一般家庭の3、4倍の広さ。つかまるところが少ないぶん、スリップなどの転倒事故には細心の注意をはらう。洗身〜洗髪まで、すべて同じ固形石鹸で行い、背中や足先だけはこちらで対応する。両腕には、まだ新しい火傷の痕が多数残っていた。
 ご住職は「苦行で腕にロウソクを立てて、火が消えるまでお経を読むんです。これはそのときできた傷ですわ」
 今までの現場では傷を発見した場合、必ずその場で看護やご家族に報告をあげていたが、今回は少し例外のようだった。これもまた初めての経験だった。浴中の口数は少ないけど、要所要所で「ありがとうね」とお礼の言葉をかけてくださるのが印象的だった。

 そしていよいよ湯船に浸かるときがやってきた。ご住職の話では、先日まで入院しており、お湯に浸かれるのは半年ぶりとのこと。手すりにしっかりつかまっていただき、片足ずつ介助をしながら浴槽をまたぎ、腰をおろしてゆっくりと肩まで浸かる。
「おぉ〜生き返る。すんませんな〜。天国ですわ。ありがとう」と、ご住職は私に向けて手を合わせる。
「よかったです。お力になれて光栄です」
「あなたは、なぜこの仕事を選んだのですか?」
 ご住職の突然の質問に少しとまどったが、幼少期に祖父母に遊んでもらっていたエピソードと、その恩返しの気持ちでこの仕事を選んだ旨をお伝えした。
「そうですか。あなたにはきっといいことが訪れます」とご住職は、私に向けて手を合わせた。その言葉はとてもやわらかく、しっかりと芯のあるものだった。
 その後お風呂からあがり、ご自分で着物の帯を締め、本堂の脇を通り檀家さんやお弟子さん(お坊さん)が待っている食卓まで移動介助を行い、初回の入浴介助は問題なく終了した。

 もし別の仕事をしていたら、お寺のご住職に一対一で感謝される経験はなかなか少ないと思う。他者から感謝されることで自尊心が高まり、改めてこの仕事をやっていてよかった。「訪問介護っておもしろいな」とやりがいを感じた瞬間でした。

* * *

 訪問介護の仕事は、ふだん身近に知り合う機会のない方と1対1のコミュニケーションができるところが魅力です。今回も、お寺での生活や苦行の話など、一般企業の会社員をしていたら知ることができない日常を垣間見ることができていましたよね。私自身も、訪問介護をしていたとき、政治家や大学教授、研究者、駄菓子屋の店主や、社長、病院の院長、タクシーの運転手の方など、数えきれないほどのさまざまな職業の方の家へ訪問し、お仕事の話を聞いたりすることができ、視野が広がりとても楽しかったです。
 工藤さんが、住職のSさんの日常に触れ、半年ぶりに自宅で入浴していただけたことから、この仕事のやりがいを改めて実感されていたのはとてもうなづけます。お風呂に入っている時間は、リラックスして本音を話してもらえる時間でもあります。工藤さんと住職のSさんとの会話も、訪問を重ねる中で、深く、あったかいお話が広がっていたのでは、と感じています。


Vol.18(2023.05.30)

「初めてのお泊まり」

 今回は、※小規模多機能型居宅介護の管理者をされていた下猶好恵さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 職員Aさんは声が大きい。 いつも元気ハツラツで、動作も豪快。ドアをバンッ!と、そんなつもりはないのにけたたましい音を立てて閉めたりする。そこに敏感に反応するのは、利用者Bさん。

Bさん「やかましい! あんたはいつもいつも!!!」

 利用者Bさんの職員Aさんに対する風当たりは強く、することなすことに腹を立てている。とうとうAさんが挨拶をしても、無視するようになってしまった。ただ反応がないのではなく、プン! と顔を背けるものだから、さすがの元気印のAさんも徐々に気弱に。

Aさん(涙ぐみながら)「こんなに人に嫌われたことはない。なんで私にだけBさんはあんなにきついんだろう……」
 と悩むようになった。
「Bさんは、新人職員にはいつも厳しく当たるんだよ。今だけ今だけ」と、周りの職員はみんななぐさめるが、月日が経ってもBさんはAさんを嫌った。理由は「ガサツだから」らしい。
 それを、軽くオブラートに包んで「なんかね、少しこういうところが気になるみたいで、本当はもっとこうしてほしいみたいよ〜」と、周りの職員が、そっとAさんに伝えてみると、「へへへっ」と頭をかきながら「困ったね」と言うのだった。

ところが、ある頃からAさんのBさんに対する思いが少し変わる。明るくてパワフルなAさんは、参加者がワクワクするようなレクリエーションが得意だった。一生懸命準備をして、いつも全力でのぞんでいた。
 ところが、日によっては進行が思うようにいかなかったり、利用者のみんなが乗り気ではないこともある。そんなとき、Bさんがフォローしてくれることがあるらしい。一緒にレクを盛り上げてくれたりするのである。
「Bさんのおかげで助かった」
 Aさんから、そんな声を聞くようになった。
「あれ? 何が起こった?」と周りの職員が不思議がっていたら、BさんはAさんのことを「姉ちゃん」と呼びはじめ、いつの間にかどの職員よりも頼るようになった。

 そのうち、Bさんは認知症が進行し、日課がだんだん1人ではこなせなくなり、杖があっても長距離は歩けなくなった。初めて宿泊を利用することになった日。
「今夜はお泊まりですよ」
 と職員がお伝えし、そのときはBさんも納得するのだが、すぐに忘れてしまって周りをキョロキョロ見渡し、不安げな表情を浮かべる。
 いざベッドに行くときには、Bさんは「泊まるなんて、聞いてないっ!!!」と大声を上げた。

 そんなことがあったが、結局Bさんはぐっすりと眠り、翌朝一番に目を覚まして部屋から出てきた。そこに登場したのは、早番の職員Aさん。

Bさん「姉ちゃーん!!!」

 目に涙を浮かべるほどの満面の笑みを見せるBさん。Aさんも笑顔である。介護の現場では、利用者さん同士でもときどきこういうことが起こる。人と人との関係って一定ではないなあと思うのだ。


※小規模多機能型居宅介護
小規模多機能型居宅介護とは、介護保険制度で創設された地域密着型サービスのひとつです。同一の介護事業者が「通所(デイサービス)」を中心に、「訪問(ホームヘルプ)」や「泊まり(ショートステイ)」を一体的に提供します。利用者の状況に応じて、柔軟にサービスを組み合わせることができます。

* * *

 人間同士、相性もあるし、タイミングやそのときの状況もあります。今まで苦手意識を持っていた人でも、今回のようにひょんなことから関係性が変わってきたりします。SNS上では、ちょっとした誤解や勘違いで、相手との関係性が簡単に終わってしまうこともある中で、介護の現場で継続的に関わる関係性の面白さや奥深さを感じます。
 初めての宿泊のくだりでは、私が大学時代イギリスに短期留学したときのことをなぜか思い出しました。そのとき、日本ではおそらく同じクラスになっても友達にならないであろうイケイケな雰囲気のギャルの友達(表現が古いかもしれません)ができたのですが、「日本人」という共通点のみで友達になれるのが海外なのかもしれない、とそのとき思いました。
 Bさんは知らない場所?(きっと忘れてしまっている)での初めての「宿泊」にとまどい、ちょっと見たことのある日本人(Aさん)にそこはかとなく親近感を抱いたのではないでしょうか? 私が海外で日本人のギャルの友達ができたときの感覚にも近いではないか? 私の勝手な解釈ですが、ふとそんなことを思い出させてくれるのでした。


Vol.19(2023.06.27)

「Aさん、夢かなう!」

 今回は、大手介護事業会社にて社員教育・研修を担当されている岩瀬美奈子さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 介護付き老人ホームに奥様とともに入居しているAさん(80代男性)は、とても穏やかでいつも静かなほほ笑みをたたえている方だった。
 脳梗塞の後遺症で麻痺があり、車いすで生活している。ほとんどお話しすることはなかったが「うん」とうなずいたり「いや」と首を横にふったりして意思表示をしてくれるので、職員は「クローズドクエスチョン」でコミュニケーションをとっていた。ときおり「ありがとう」とたどたどしくもおっしゃってくれることがあり、そんなときはみんなで「おおー!」と歓声を上げるほど嬉しかった。

 そんなAさんは野球が大好きで、プロ野球や高校野球の試合をよくテレビで観ていた。ふだんはあまり声を聞くことはできないけれど、野球の試合を見ているときは「おっ!」「やった!」など声を出すこともあって、とても嬉しそうだった。

 ある日、別の男性ご利用者さんとスタッフが雑談をしていた。その二人も野球好きで、好きだった球団や選手の話をしていたようだ。
 スタッフが「プロ野球の阪急というチームが好きだったんですよ。でも阪急がなくなっちゃったからなあ」と言ったのをそばできいていたAさん。突然、大きな声で「阪急、あるよ!」と言ったのだ。
 みんなびっくり! Aさんがそんなふうに自分から言葉を発するのは初めてだったのだ。私はAさんに「阪急、好きなんですね? 好きな選手は誰ですか?」と訊いてみた。
 するとAさんは「フクモト」と答えた。
 野球にうとい私は「?」となってしまったのだが、そばにいた野球好きのご利用者さんが「福本? 俺も好きだったよ! 盗塁王だよな」とAさんに話しかけた。するとAさんはニコニコしながら「うん、そう」と何度もうなづいたのだった。

 私は家に帰ってからパソコンで「福本 盗塁王」と検索してみた。カッコいい写真がたくさん出てきた。そのうちの1枚、大きく足を開いてスライディングをキメている写真を印刷した。
 翌日、Aさんに「プレゼントです」と福本選手の写真をお渡しすると、Aさんは「おおー、これは本当に、ありがとう」と満面の笑顔で言ってくれた。その写真は、Aさんの居室の壁、ベッドからよく見えるところに貼らせていただいた。

 Aさんには息子さんがいて、よくお孫さんを連れてご家族で面会に来られていた。
 息子さんが「親父の部屋に福本の写真が貼ってあって、びっくりしました。なんで親父が福本を好きだってわかったんですか?」と言うので「ご本人がおっしゃったんですよ。みんなびっくりしました」とお伝えした。
 さらにびっくりした息子さん「もう何もしゃべれないと思っていました。好きなことなら言葉が出てくることもあるんですね。親父は本当に野球好きで、退職してからは、しょっちゅう試合を観に行ってたんですよ」と懐かしそうにお話しされた。
 そしてそこから話が進み、なんと個別外出のレクとしてAさんと奥様と息子さんで野球観戦に行くことになった。担当のケアマネジャーが同行して、ホームから近いスタジアムにデーゲームを観にいくことになったのだ。
 当日はキャップをかぶり嬉しそうに出かけて行ったAさん。夕方、日に焼けて帰ってきたときはとても明るい顔をされていた。
 他のご利用者さんに「おや、お出かけしてきたんだね。どこに行ってきたの?」と聞かれたAさん。「アメリカ!」と答えたのだ。
 それを聞いた息子さん。「アメリカ? 幕張だよ」と笑っていたけど「いや、アメリカだな。きっと親父はアメリカだと思ったんですよ。松井を観にニューヨークに行きたいってずっと言ってたから。夢がかなったな、よかったな」と、とても嬉しそうだった。

 こんな瞬間に出会えるから、介護の仕事は本当にやめられません。Aさんの夢、かないました。

* * *

 普段は寡黙なAさんが、野球にまつわる話題のときは能動的な様子を見せてくれること、そのちょっとした言動をもとに介護職は、利用者の方の趣味趣向をインプットし、会話に組み込んでいく、小さな会話のやりとりから関係性がつくられ、「自分をわかってくれている」という信頼につながっていくのでは、と感じます。
 Aさんがご家族と野球観戦できた経験は、本人はもちろんご家族にとっても、忘れられない思い出になります。そんな心に残る演出ができるのも介護の仕事ならではです。「介護は夢をかなえることができる仕事なのだ」という前向きな発信をしていくことで介護の仕事に就いてみたいと思う人が増えていくと思いますし、今回のような個別ケアが行える環境をどうしたらつくっていけるのか? もっと考えていく必要があるのではと感じています。


Vol.20(2023.07.20)

「男性介護職の奮闘!」

 今回は、今年の7月から※小規模多機能型居宅介護を立ち上げた黒澤智尚さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 これは、黒澤さんが介護未経験ながらオープンスタッフとして勤めた小規模多機能型居宅介護で出会った98歳で一人暮らしの女性利用者Eさんとの話です。
 Eさんは、開設してから間もないころに、利用となった方でした。
 自宅で重いものを運んだ際にバランスを崩し、ぶつけた衝撃で骨折した経過があり、日常生活の支援を主として関わることになっていました。  その時代特有の考えで、「男性が家事をやることに関して神経質になってしまう」という利用者さんを経験したことがある方は多いと思います。この方も、まさにその時代特有の考えを持った方で、「男性が来るのは嫌だ。掃除、家事は女の仕事」とよくおっしゃる方でした。
 もともと、自宅に人が来ることをあまり快く思わない性格も合わさり、「本当は女性でも来てほしくないよ」とも、よくおっしゃる方でした。

 そんな中でも、家族に促されサービスの継続を了承しており、男性スタッフである私もEさんのご自宅に訪問することが続いていました。
 訪問を続けるごとに、慣れと同時に少しずつ関係性を築いていこうと会話を重ねていたことが功を奏したのか、しぶしぶではありますが、受け入れてもらえるようになっていきました。
 しかし、根本的な考えは変わっていないため、「男性に家事を頼むのは気が引ける、頼みにくい」という声は変わらずにありました。
 表面上は嫌な気持ちを表しますが、「今までできていたことができなくなった。やる気が起きない」などと以前との生活と比べ、衰えを感じている気持ちがそうさせているようにも感じていました。
 また、嫌な気持ちを表現しながらも、お話し好きの一面があり、ご自身の学生の頃の話や勤めていた会社の話、戦時中に経験した話など、さまざまなことを教えてくれました。
 会話を重ねることで、生活で困っていることがたくさんあることがわかり、困りごとの解決などを少しずつ繰り返していくうちに、「重たいものを運ぶとまた転んでしまうから、これを運ぶのを手伝ってもらっていいかしら? 男の人にしか頼めないのよね」などと距離を縮めていけていると実感できました。
 日を重ねるごとに、Eさんのあまのじゃくな一面も理解でき、とてもかわいらしいおばあちゃんという印象が強まっていきました。
「早く死にたい」と毎回口にしますが、毎日栄養価の高い食事を心がけて食べていたり、家族が遊びに来たときには、「口うるさいから来なくてもいいのに」と言いつつ、家族の自慢をしたりと人間味あふれる方でした。

 数年の付き合いになったころ、諸事情により、当時勤めていた小規模多機能型居宅介護とのサービスが終了になってしまうこととなり、サービスを開始したばかりの頃の話を知ることになりました。

「最初は、人が来るのが嫌で、私(男性)が来ることにも抵抗がありましたよね」
Eさん「そういえばそうだったね。あんたは、一番ていねいに掃除してくれたものね」

 今では、いつも来てくれる人の中で「あんたが一番いいわ」という言葉をかけていただきました。  その瞬間、今までやってきたことが間違ってなかったのだと認められ、うれしい気持ちになりました。特別なスキルを使ったわけでもなく、ていねいに一人の人として接してきた結果、最初は抵抗があったとしても「一番」と言っていただける関係性を築けたのは介護の仕事ならではかもしれません。
 これからも、認知症や病気でくくるのではなく、ていねいに関わっていきたいと思っています。

※小規模多機能型居宅介護
施設への「通い」を中心に、短期間の「宿泊」や自宅への「訪問」を組み合わせ、生活支援や機能訓練をひとつの事業所で行う在宅介護サービス。

* * *

 地方ではとくに昔ながらの風習が残っているからか、隣近所の方に介護サービスが来ていることを知られたり、自分の家に他人が入るのを嫌がる高齢者の方が多いと聞きます。介護サービスもデイサービスのような通いのサービスは利用者が多い一方、訪問介護は上記の理由もあり、利用率が上がらないということもあるようです。それに加えて「男性が訪問に来る」というのも、昔の女性からすると抵抗が大きく、ダブルのハードルがあったようです。
 そんな中でも黒澤さんは日々ていねいなコミュニケーションと生活支援をした結果、最後には、「一番頼りになる人」になることができ、大きな達成感や自信になったのでは、と感じます。私自身も訪問介護をしていたとき、利用者さんとのコミュニケーションに励まされ、パワーをもらうことが多かったので、よくわかります。生活の支援は地味な中にも、ときにとても深いやりがいを感じることができます。今回のような経験が黒澤さんが自ら小規模多機能型居宅介護を立ち上げるに至った原動力になっているのでは、と感じています。


Vol.21(2023.08.21)

「名前を憶えてもらう」

 今回は、有料老人ホームで働き始めた当時の髙野玲佳さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 この仕事をするまでの私は「介護職はお世話をする人」だと思っていました。その考え方が大きく変わった出会いについてのエピソードです。

 初任者研修を終えてすぐに有料老人ホームで働き始めた私は、配属されたフロアの入居者の情報や一日の流れ、介護技術など学ぶことが山積みの毎日。この仕事に興味を持ってやり始めたものの、「本当に続けられるだろうか」「本当にご入居者のお役に立っているんだろうか」と不安を感じていました。
 そんな私が配属されていたフロアに、あるご夫婦がいらっしゃいました。初めのうちは、どんな会話をしたらよいかもわからず、必要最低限のやり取りだけというときもありました。奥さまはある程度自立されているので、「そのような方に自分は何ができるのだろう?」と思っていました。
 数日経ったころ、奥さまが「なかなかあなたの名前が覚えられなくて……」と話しかけてくださいました。覚えようとしてくださっていたことを嬉しく思いながら説明すると、
奥さま 「あら、高野山の漢字と同じやね。あそこは何度も行ってなじみ深いのよ」
「そうなんですね。高校の部活の合宿地が高野山やったんですけど、他の部員から『こうやさん』ってあだ名付けられたんですよ」
奥さま 「あらそうなの? 高野山からの連想なら『たかのさん』って覚えやすいわ」
ご主人 「それなら忘れっぽい僕も覚えられそうや」と、笑いながらおっしゃってくださいました。

 それをきっかけに名前を覚えてくださったお二人は、「髙野さん、あのね……」と、いろんな話をし てくださるようになり、私もまたお二人と話すことで、とくに悩み相談をするわけでもないのですが、 それまで感じていた仕事への不安が和らいでいきました。

 2年半ほど勤めた後、私は他の種類の施設介護も経験してみたいとの思いから、転職することに。そのころ、お二人の居室担当だったこともあり、タイミングを見計らって退職のことをお伝えしました。お二人ともとても驚かれ、面会に来られたご家族にも「辞めるそうやねん……さびしいわ」と 話されていたとのこと。私のいないところでもそのように思っていただけていたことがとても嬉しく、また感謝の気持ちでいっぱいでした。
 そして退職の日。奥さまから「髙野さん、出会えて本当によかったわ。いてくれてありがとう」と封筒に入った絵葉書をいただきました。お人柄のにじみ出るていねいで達筆な文字で「ありがとうございました。送ることば、上手にみつかりません……」。
 介護職はお世話する人、サービスを提供する人だと思っていた私ですが、実はお世話されているのではないか、提供したサービス以上の何か大きなものを受け取っているのではないかと考えるきっかけをくださったご夫婦でした。 いろいろあっても介護職を続けていきたいと思える、ひとつの大きな出会いです。

* * *

 名前を憶えてもらうことは、実際、介護施設ではなかなかままならないことが多いです。認知症がある方は何度お伝えしても、忘れてしまうということもよくあります。ただご自身でメモなどをし、しっかり記憶しようとしてくれる方がいるのも事実です。
 私もケアマネジャーとして居室を訪問し、名前を覚えようとメモしてくれている利用者の方がいましたが、それでもやはり忘れてしまうため、名前はとくに憶えてもらわなくてもいいのでは、と割りきって考えているところもありました。
 髙野さんは、ご利用者様の馴染みのある高野山の名前を挙げることで、すんなり名前を憶えてもらうことができていましたが、現実はちょうどよい例えを見つけることはなかなか難しいです。
「名前を憶えてもらう」ということは、信頼関係の第一歩だと思いますし、そこから髙野さんとご夫婦の距離が縮まっていったのだと思います。何がきっかけになり、人との関係が深まるかわからないですし、伝えたいこと、覚えてもらいたいことを、例え話をしたり、その方の馴染みのある出来事に関連付けたり、さまざまな切り口から言語化し、相手との距離を近づける機会をつくれるようになりたいものだと感じました。


Vol.22(2023.10.24)

「二番目のお母さん」

 今回は特別養護老人ホームでユニットリーダーをされている白濱彩香さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 ホームに入所した当初のSさんは、二度の脳梗塞の後遺症によって左半身に重度の麻痺が残り、生活全般にほぼすべて介助が必要でした。
 さらに身体も大きく重たいので移乗もむずかしく、終日オムツでほとんどをベッド上で過ごしていました。食事もほとんどとらず、話すこともあまりなく、意思疎通がむずかしい方でした。
 Sさんは、日中はほとんど傾眠し、たまに返事があるくらいでした。まずは、朝食後のトイレへの誘導、日中はできるだけ車椅子で過ごしていただくようにしました。
動くほうの右の手足には多少力が残っていたので、それを使っていただくと、移乗もそこまで困難ではありませんでした。
 ただ、残っている力を引き出す介助の方法を知らずに、持ち上げるだけの介助だとかなりきついだろうと思いました。私たちは、運搬するのではなく、その方が行きたい場所・したい動作のお手伝いをする。快適に暮らしていただくための技術や知識が大切なのだと改めて感じました。
 とはいえ、食事はあいかわらずとっていただけませんでした。「粉もんが好き」とうかがっていたので、たこ焼きパーティやお好み焼きパーティを開き、「とにかくたくさん話してみよう!」と、趣味や仕事の話など、いろいろな話題をふってみますが、反応はほとんどありませんでした。

 しかし、「きっかけ」は、ある日突然訪れました。
 電気工事に来ていた作業服の男性二人組が競馬の話をしているところに、Sさんは突然「おっちゃん! きょうの馬券どうや?」と話しかけたのです。それも、ものすごくイキイキした表情です。私たちも、Sさんがギャンブル好きだという情報は入手していたので、何度も話題を出したことはありましたが、反応はそれほどでもありませんでした。やはり、競馬にくわしくない職員から話しかけられてもだめだったのです。
 Sさんが元気になっていったのは、それからでした。ギャンブルの好きなおじさん職員にも加わってもらい、「好きな物をたくさん食べる、トイレに座る、気持ちのいいお風呂に入る、寝たい時に寝る」という生活リズムを整えていくことができました。
 動くほうの右手足の力もどんどんつき、少し支えるだけで一人で立てるようになりました。
オムツではなく、リハビリパンツで日中を過ごせるようにもなりました。

 私は日々、Sさんに「おトイレ行きたくなったら教えてくだいね」と声をかけていましたが、それはすぐにはうまくはいきませんでした。
 そんなある日の昼食後、Sさんが、かなりの大声を上げました。
「白濱ーー!!(私の名前) おしっこが出まーーす!!!!」(私はトイレの神様か!! 笑)
 急いでSさんをトイレ誘導し、みごとに成功しました。本当に嬉しい瞬間でした。
 そのころから、Sさんは私のことを「お母さん」と呼ぶようになってきました。それは母親ではなく、どうも妻のようでした。
Sさんは深い認知症を患っています。私も「お母さん」と呼ぶSさんを否定せず、そのまま過ごしていました。

 その後、Sさんに御家族の面会の予約が入りました。「本当」の奥様と娘様が来られることになったのです。でもSさんは、家族の名前の記憶が少し曖昧になっていました。そして私を「お母さん」と呼びます。「本物」の奥様が来られたらどうなるだろう……。私はドキドキして、面会までの間はSさんに御家族の話ばかりてました。
 いよいよ当日……。奥様を見たSさんは、本当にうれしそうに「お母さん!」と言いました。娘様の名前もバッチリ。私は少しホッとしました。
 面会後、奥様が私のところに来て「白濱さん、主人がここのスタッフさんの名前をたくさん覚えてました。それに、以前のように明るくたくさん話をしてくれました。本当にびっくりです。元気になってうれしいです。ありがとうございます」。私は、そのお言葉にとても嬉しくなりました。
 特別なことは何もない。あたりまえの生活を、その方らしく過ごしていただく。
本当にシンプルなこと。むずかしいことも大変なこともたくさんあるけど豊かな気持ちと関係性だからこそ生まれる毎日の物語が楽しくてしかたがないです。

 御家族が帰られた後、私はうれしくて、Sさんのところに行きました。すると、Sさんは真剣な表情で、「すまん……。あんた、二番目でもええか?」。
「二番は嫌です 」と私。
「そうか……ほんまにすまん……」(いや、なんで私が振られたみたいになってんねーん!笑)
 いまではSさんはこの会話どころか 御家族が来られたことすら忘れてしまっています。だけどこの日から、Sさんが私を「お母さん」と呼ぶことはなくなりました。

* * *

 ご本人の好きなことに寄り添い、可能なかぎり実践する。「施設は集団でのケアだから個人の好みや生活スタイルを反映することはむずかしい」という見方をする人がいますが、白濱さんの特養では、目の前の方が快適に自分らしく過ごせるために必要な支援に取り組まれています。白濱さんとSさんとの信頼関係が日に日に深まっていく様子が会話からも伝わり、思わずほっこりしてしまいます。
 Sさんは白濱さんを「お母さん」と呼んでいましたが、Sさんの一番身近な頼りになる人が「お母さん」という呼び方に替わっていただけで、本当の「お母さん」の替わりになるものではないということが面会の場面では伝わってきます。  その話から、私自身もよく現場で「高瀬先生」と呼ばれることがあったことを思い出します。ある程度経験の長い介護職であれば経験があるのではないかと思いますが、自分より、今の環境(ホーム)での生活にくわしい人=「先生」となるだろう、と改めて府に落ちます。
 施設へ入り、慣れない環境に置かれる入居者の方にとって、介護職は一番身近な頼りになる「お母さん」であり、自分より今の環境にくわしい「先生」である必要があるのかもしれないなあ、と改めて感じています。


Vol.23(2023.12.9)

「祈りのような」

 今回は大阪府東大阪市にある特別養護老人ホームのユニットリーダーの鞆隼人さんの実話に基づいたお話です。

* * *

 「あんた○○か~!?」
 のっけから差別用語を繰り出してきたおばあさんとの出会いは、後に僕らに大きな自信をもたらしてくれるものとなった。
 おばあさんは教科書通りの寝たきり老人として入居してきた。オムツをして寝たまま排泄し、褥瘡をつくり、介助しようとすれば暴れたおして職員の腕に傷を量産していた。耳が聞こえないこともあいまって、おばあさんはその内的世界の中へより一層潜り込み、眼にうつるすべてを「敵」認定していた。

 そんなおばあさんをトイレにお連れする。「そこまでしなあかんのか!」という周りの声は、耳が聞こえる僕にとっては痛いものであった。なかなか成功せず、生傷だけが増えていく。「嫌がることをしない」という介護の大前提を、僕らは無視しているだけではないのか。悩む日々が続いた。
 しかし、あるとき、おばあさんは僕にこう訴えてきたのだ。
「しっこ、連れてぇな兄ちゃん……」
 突如としておばあさんの世界にその身を置くことを許された僕は、あわてふためいてトイレへとおばあさんを連れていく。その途中に相方を呼び、二人でたどたどしくも介助し、おばあさんに便座に座ってもらう。
「チョロチョロ……」
 その音が聞こえるはずもないおばあさんの顔は、初めてその音を聞いた僕らの歓喜の顔よりも、輝かしい笑顔を放っていた。
「しっこ、しいたかってん~」
 そこからは簡単で、おばあさんの排泄間隔がだいたいわかってきたので、タイミングを見はからって声かけをおこなう。断られることも多々あったが、受け入れてくれることも多くなり、パッド内への失禁もほぼなくなっていった。

 そこでご家族に相談し、普通の綿パンツの購入をお願いする。するとその言葉に家族はとても驚かれた。
「またパンツ履けるんですか? もう病院では二度とオムツとれることはないと言われまして……」
 なんとも悲しい専門職からの断定である。もちろんそういった方もいるだろう。しかし、おばあさんの置かれている状況を把握し、環境を調整し、どのように介助していくかを決めてチームで実行することで、おばあさんのように改善していくことはけして稀ではない。
 環境によって生活は激変するというのは、ICFで解くまでもなく、介護の世界では常識である。 なんて難しいことは言わずに、「とにかくおばあさんはもう大丈夫です」とご家族へ説明し、さっそく次の日からおばあさんは普通のパンツでの生活を取り戻した。
 介助で普通のパンツをおばあさんに履いてもらうとき、おばあさんは頬を赤らめはにかんでいた。あたりまえの反応であるが、おばあさんは僕を「内的世界を邪魔してくる敵」としてではなく、きちんとした外的世界での登場人物として扱ってくれたのだ。

 ときに僕らはお年寄りのその独特の世界観を受けつけられなくなる。「認知症があるから」と他者を傷つけていいわけでもない。しかし、その世界を理解しようとせず、ただ単に僕らの側の価値観を押しつけ、問答無用で裁こうとする行為は、おばあさんをさらに自分の世界へ追いやるだけではなかろうか。
 おばあさんは、まわりのものすべてに唾を吐きつけることで、祈っていたのではないか。こんな世界に追いやった悪意に対して、救難信号を出していた。
 僕らがおこなったことは単純で、おばあさんの身体の内に、生まれる前から深く根づく「排泄する」という、その声なき声を聞こうとした、そして運よくその声が聞きとれた、それだけだ。それだけで、おばあさんの生活は輝きを取り戻し、主体性を持った存在として僕らの前にあらわれたのだ。

「あんた男前やなあ~!」
 いたってシンプルだ。おばあさんのその笑顔、それだけのために僕らは今日もその祈りに耳をかたむける。

* * *

 人間の本能である排泄を、トイレではなく、おむつでするということがおばあさんの介助者への抵抗、暴力につながっていたのかもしれません。私自身、過去に勤務していた手一杯の介護現場で「トイレに行きたい」と訴えていた方にむかって、「おむつでしてください~」と少し怒りぎみに対応していた職員が思い浮かびます。ぎりぎりの現場の現実を知る私としては、鞆さんのように介護度3以上の方が入居する特養で、おむつから布パンツに替えることなど本当に可能なのだろうか、と感じることも正直ないわけではありません。ただ、おこなうことができている現実が実際にあって、そのための努力はどのくらいのものなのか? 一人ひとりのニーズに向き合うためにどんなチームや環境、学びやビジョンの共有が必要なのか? さまざまに聞いてみたいことが出てきます。
 ひとつ言えることは「トイレで排泄する」を取り戻したおばあさんの笑顔が、介護職の何よりのやりがい、報酬になることはまちがいないだろうと感じています。


Vol.24(2024.1.11)

「豆腐屋さんと認知症と普通のこと」

 今回は、三重県で生活介護事業所の施設長をしている奥田史憲さんが特別養護老人ホームに勤務されていたときの実話に基づいたお話です。

* * *

 「豆腐屋さん、よかったわ~。あんたの顔見れて。安心した!」
 と、Aさんが私に話す。
 私は施設ケアマネジャーであり、豆腐屋さんは一度もしたことがない。
 否定も肯定もせず「どうしたん?」と聞く。
「『どうしたん?』て、なんでこんなとこにおんのかわからんの。知らん間に連れてこられたん」と、Aさんは言う。
「そうなん?」
 と、返すと、
「そうなん。ほんでもあんたと会えたで安心した。あんた、いつもここ来んの?」
 と、言われ、「だいたいいつも来るよ」と答える。
「そっか。それやったら安心や」

 これは特養のユニット「入居者さんの住まい」で交わされた会話です。
 私は、否定も肯定もしません。
 でも、きっとAさんが昔よく買っていた豆腐屋さんに見えたのだと思います。
 それからは、私の顔を見るといつも「ちょっと豆腐屋さん」から始まる会話で関係をつむいでいきました。

 その後、Aさんは施設での暮らしが少しずつ退屈になり、「家へ帰りたい」と言うことも増えてきました。
「豆腐屋さん。一回いっしょに連れてって。私、帰りたいの」
 ユニットの職員さんは日々の支援があり、簡単に外出はできません。
 であれば、Aさんの思いをかなえられるのは、私「豆腐屋さん」しかいないのではないかと考えました。
 そしてこのころから、話の文脈やお互いの関係性の中から読み解くと、「豆腐屋さん」とは呼ぶものの、私のことを豆腐屋さんではないと理解してくれているようでもありました。なぜなら、会話の中に一度も「豆腐売って」と言われたことはないからです。
 最初は「顔見知りの豆腐屋さん」から始まった関係が、「なんか知らんけど、頼れる『豆腐屋さんという呼び名の人』」に、Aさんの中でも変わっていっているようでした。

 その「豆腐屋さん」は、ある日、Aさんの言葉を聞き、車を走らせました。Aさんが言う『家』に向かって……。
「わー、懐かしいな……ここでいつもお菓子買うとった(買っていた)んや」なんて話しながら車を走らせていると、「ここや、ここや」と家に到着しました。

 ご自宅前でAさんと話をしていると、息子さんが玄関を開けてくれました。
「何ぃ、ばあちゃん」
 と普通に出てきてくれました。
「帰ってきたん。きょう、家で寝れん?」と、Aさん。
「きょうは、あかんわ」と、ご家族さん。
「そうか……わかった。帰るわ」と、Aさん。
「また来るでな!」
「また会いに来て」
 Aさんはご家族と、そんな会話をして帰路につきました。

 帰りの車中でのことです。
「家に行ったけど、どうでした?」
「本当にうれしかった。もう、こんなことしてもうたら感謝しかない。本当にありがとう!」
 少し涙ぐみながら、Aさんは笑顔で語ります。想いをかなえてあげられたことに感謝しながら、施設へ向かいました。
 施設に着いたあとも「ありがとう、ありがとう」と言いながら、Aさんはユニットへ戻っていきました。
 そしてその夜はいつもどおり「家に帰りたい」と言われたり、カップうどんを食べたり、夜も眠れない、いつものAさんに戻っていきました。

「本人の想いをかなえる」ということに、認知症は関係ありません。もちろん、問題行動を解決するための方法でもありません。
 ただ私は、「うれしかった感情」をそのときにAさんと共感できたことがうれしい。たとえAさんがその出来事を忘れてしまっても、「うれしい出来事」があった事実は間違いないものです。
 この世のほとんどの事柄は、同じように忘れられていくことの積み重ねです。一瞬のうれしさや充実感は、はかなくきれいものであり、同時に忘れられるものです。
 それは、認知症と診断されようと、されまいと、ほとんどの人に訪れる普通の出来事です。

 Aさんの話も、美談でもなく、Aさんの想いをかなえようと行動した1日の出来事でした。ただ、数年たった今も、Aさんとのことは自分の記憶に鮮明に残っています。「ありがとう」を言うのは、むしろ私のほうです。

* * *

 一瞬にして忘れてしまうせつなさに、「何かしてあげてもすぐに忘れてしまうから」と話していた認知症をもつ方の家族の声を思い出しました。実際に、たった今行った外食や施設でのイベントなどを、次の瞬間には忘れてしまい、「楽しかったですね」と声をかけても、「何かしたかしら?」と返されてがっかりした経験は、ケアに関わる人であればだれもが一度は経験しているかもしれません。ただ、すぐに忘れてしまったとしても、本当にうれしかったり、楽しかった経験は心に刻まれるはずです。大切なのは、その本人と分かち合う瞬間ではないでしょうか。
 奥田さんのお話を聞いて、改めて、その瞬間の価値を共有できる人を増やしていきたいと感じました。自分が高齢になり、認知症になったとき、周囲の人にどんな対応をしてもらいたいか? もしすぐに忘れてしまったとしても、いっしょに温かい時間を刻める相手が近くにいてほしい。これからも、忘れてしまうことを前提に、あきらめず、懲りずに、楽しんで実践していきたいです。


Vol.25(2024.2.18)

「波風は立つもの」

 今回は、千葉県にある特別養護老人ホームに併設する短期入所(ショートステイ)に勤務している山本詩菜さんの実話に基づいたお話です。

* * *

「お風呂に入るって言ってるじゃない! もう何日間も入っていないのよ!!」
ある日の昼食後。 Aさんの怒りは突然爆発した。
いや、きっと彼女の中でいろいろな感情が少しずつ蓄積していたのだろう。

 Aさんは専業主婦だった。働く夫を支え、子育てをし、懸命に家庭を守ってきた。そんなAさんと私の出会いは、2年ほど前。Aさんは、旦那さんと2人でショートステイを利用し始めた。ショートステイの滞在中は、どこへ行くにも旦那さんとずーっと一緒。Aさんは穏やかな方で、旦那さんの隣でいつもニコニコしていた。はたから見ていて、とても仲睦まじいご夫婦だった。
 しかし、まもなくしてAさんの旦那さんは亡くなった。だから、Aさんは1人でショートステイに来るようになった。そして施設への入所を見据えて※ロングショートの利用者となった。

 そのころからだろうか。Aさんは居室でひとり涙を流すことが増えた。理由を尋ねるとAさんは 「わからないの。でもなんだか悲しいの」と答える。出会ったころからおとなしい性格だったAさん。なんだか以前より自分のことを話さなくなってしまった気がする。人生のパートナーが隣にいなくなってしまった今、Aさんの心にぽっかりと大きな穴があいているのかもしれない。

 そんな日々が続いていたときのことだった。
 Aさんは今、「風呂に入れてよ!!」と憤慨している。Aさんがこんなふうに感情を露わにする姿を目にするのは初めてだった。Aさんの入浴は約束の回数どおり行なわれており、その日は入浴予定日とはなっていなかった。でも、希望に沿って予定を変更し、Aさんはその日お風呂に入ることができた。
 そんな一連の出来事を終え、「一件落着だなあ」とのんきにお風呂掃除をしている最中だった。
 突然、後ろから「やまもとさーん」と私を呼ぶ声がする。振り向くとそこには、うつむき加減のAさんがいた。私は驚き、思わず目を見開いた。まさかAさんに自分の名前を認識されているとは思ってもいなかったからだ。
 そんな驚きをよそに、Aさんは私に声をかけた。「山本さん、ごめんね。きょう本当はお風呂に入らない日だったのに、無理言ってごめんね。」。Aさんは下を向いたまま続ける。 「このこと、家族には伝えないでね。ここに来るとき、約束したの。『従業員の人の言うことをちゃんと聞く』って。ごめんね」。
Aさんは涙を流して「ごめんね」と繰り返していた。 私は、「Aさんが悪いことは何もないですよ」と伝えた。
 Aさんからこの話を聞いて、彼女はただ、きょうお風呂に入りたかったわけでないのだと知った。きっとAさんには今までにも、“家族との約束”を守るべく、我慢し、葛藤していたことがあったのではないか。そしてきょうは少し、自分のことを私たちにこんなかたちで教えてくれたのだ。それは、とてもエネルギーを要することだ。

 介護現場の申し送りでは、ときどき「〇〇さんは不穏な様子でした」や、「落ち着きのない様子でした」というのを耳にするし、自分もそのように言うことがときどきある。だけど内心では、「落ち着きがなくて何が悪い」と思ったりもする。だいたい、ずっと落ち着いている人なんてあまりいないだろう。そうやってお年寄りは、ひとつひとつ「私は本当はこうじゃない」ということを表現しているのだと思う。
 私は、Aさんからそんなことを教わった。ときに相手を気遣いながら、ときに包み隠さず思いのうちをさらけ出しながら。障害の有無や年齢にかかわらず、そんなごく普通の人間関係をこれからも築いていきたい。


※ロングショート
1週間を超えてショートステイのサービスを利用すること

* * *

 Aさんの気にかけてほしい気持ちやさみしさが、どう表現していいかわからず怒りとして表出してしまったのかもしれません。そんな一場面だけを切り取ってしまうと、山本さんも言うように「きょうは不穏だった」の一言でスルーされてしまうこともあるでしょう。ただ、Aさんご自身の心境としては、ご主人をなくし、あいた心の穴をどう埋めていけばいいかわからず、誰かに寄り添ってもらいたい気持ちの裏返しだったのではないかと感じます。
 介護職は、言動の裏側にある心理を読み解く力が求められます。「さすが介護職をしているだけあって、コミュニケーション力が違う!」と言われるようになりたいものですし、相手の立場に寄り添った支援ができる介護職は、AIが進展する時代にも唯一無二の存在になれるのではと感じています。


Vol.26(2024.3.12)

「壁一面の写真」

 今回は、大学に通いながら住宅型有料老人ホームで働く福永そらさんの実話に基づいたお話です。

* * *

 出勤後、Aさんに食前薬を渡すことから仕事が始まる。
 薬を持ってAさんの部屋に行くと、
「ひさしぶりだね! ずっと待ってたよ!」
 と、毎回言ってくれる。
「いつぶりだっけ?」
 と、認知症のあるAさんはいつもたずねる。
「ん〜先週かな?」などと答えると、「あらそうだっけ! 長く感じた! でも、もっとたくさん来てよ〜」と笑っている。
 そのあとは、Aさんがいろいろな愚痴を発散する時間が始まる。
 内容はだいたいいつも同じだが、しばらく傾聴するのが毎回のルーティンである。Aさんもストレスが溜まっているのだろうと感じる。

 大学が夏休みになったとき、私は実家の宮崎に半月ほど帰省した。実家から戻って、いつものように出勤すると、
「ひさしぶりだね! ずっとどこに行ってたの!」
 と言われた。たしかに、今回は本当にひさしぶりの出勤である。
「地元に帰ってました!」
 と答え、この日は、私が故郷の宮崎での思い出話を聞いてもらう番だった。
 Aさんは、いつもの愚痴を話すときの表情ではなく、ニコニコしながら自分のことのように話を喜んで聞いてくれた。私もAさんに元気をもらった。

「やっぱり宮崎は素敵なところだよ〜」
 と、言ってくれるAさんに、何かお礼をしたかった。お土産の菓子などではなく、もっと心に残るものはないだろうかと考えた。
 そして、Aさんが花が好きだと話していたことを思い出した。以前は職員とよく散歩に行っていたが、最近は腰を痛めて外出できていない。そんなAさんにきれいな花を見てもらうために、私は宮崎で撮った花や海の写真をたくさん印刷して、次の出勤日に持って行った。

「こんばんは! Aさん、よかったらこれ、もらってくれませんか? 宮崎に帰ったときに撮ってきました!」
 と渡してみると、
「まあ! こんなにきれいな写真! 全部もらっていいの?」
 と、うれしそうに写真をずっと見つめている。
 Aさんの表情を見て、思い出を写真に残しておいてよかったと心から思った。
 また、次の出勤日にAさんの部屋に行くと、私が渡した写真を模造紙にきれいにはりつけ、壁一面に飾っていた。
「これ、全部自分でやったんですか!?」
 と聞くと、
「あんたがくれた次の日に、一生懸命はったの!」
 と、自慢げに話す。腰が痛くてあまり動けないなか、長い時間、がんばってはったらしい。

 それからもう1年以上経つが、Aさんは写真を飾り続けてくれている。Aさんは今も愚痴をよく話すが、写真を見ながら話すときはとても穏やかである。
 最近のAさんは、帰る前に挨拶に行くと「次はいつ来るの?」と聞いて、私の次の出勤日をメモをするようになった。
「あんたが来る日をいつも楽しみにしてるから! ○日に早く来てね!」
 と言ってくれる。私も、Aさんのおかげで出勤するのが楽しみである。

* * *

 入居者の方も好きな職員のことは覚えているし、覚えようとする気持ちはとてもわかります。普通の日常会話や、人と人とのあたりまえの交流が楽しいですし、Aさんと福永さんのやりとりは、認知症があってもなくても信頼関係が築けることが大切、ということに気づかせてくれます。私も、介護現場で、「きょうは夜勤に誰が入るのか?」と、必ずチェックしている入居者の方がいたのをよく覚えています。どの職員が夜勤担当かによって、その日安心して過ごせるかが決まるからです。
 介護施設に入ると、外へ出かけることがままならないことが多いです。身体上の理由ももちろんですし、道を忘れて戻れなくなってしまうことなどもあるからです。そういった意味でも、写真はとても大切なツールになります。家族の写真、思い出の場所の写真や好きな写真によって、心を癒すことができます。
 このようなやりとりを見るにつけ、その人が会うのが楽しみになるような、前向きに生きることを伴走できるケア職が、これからも求められていると感じます。


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高瀬比左子(たかせ・ひさこ)
NPO法人未来をつくるkaigoカフェ代表。
介護福祉士・社会福祉士・介護支援専門員。大学卒業後、訪問介護事業所や施設での現場経験ののち、ケアマネージャーとして勤務。自らの対話力不足や介護現場での対話の必要性を感じ、平成24年より介護職やケアに関わるもの同士が立場や役職に関係なくフラットに対話できる場として「未来をつくるkaigoカフェ」をスタート。介護関係者のみならず多職種を交えた活動には、これまで8000人以上が参加。通常のカフェ開催の他、小中高への出張カフェ、一般企業や専門学校などでのキャリアアップ勉強会や講演、カフェ型の対話の場づくりができる人材を育成するカフェファシリテーター講座の開催を通じて地域でのカフェ設立支援もおこなう。