一度、死んでみませんか(back01)
一度、死んでみませんか
一人称、二人称、三人称の死をおもう
死の体験旅行へようこそ
第一回(2018.10.31)
死の体験旅行へようこそ
「死」について話したり考えたりすることは、ちょっと前まで「縁起でもない」と避けられていました。
たとえば両親に「亡くなった後のことを考えよう」などと持ち出せば、「お前は親が死ぬのを待っているのか!」と怒られましたし、重い病気になった人が「自分に万が一のことがあった場合は…」と話しはじめると、「そんなことを考えたらダメだ」と思考そのものをストップさせられました。
1996年に発表されたTHE YELLOW MONKEYの名曲『JAM』に、それを象徴するような歌詞があります。
外国で飛行機の墜落事故があったことを報じる日本のニュースキャスターは、嬉しそうな顔で「乗客に日本人はいなかった」と伝えている、という言葉です。
歌詞の一部分を抜き出して、良いとか悪いとか言いたいわけではありません。ただこの頃はまだ、多くの乗客が亡くなったであろう「死」の面からは視線をそらせ、犠牲者に日本人はいなかったという「生」の面を強調した報道があった、ということではないかと思います。
けれど最近になって「終活」や「エンディングノート」や「デスカフェ」など、「死」にまつわることを口にするタブー感が薄れてきたように感じます。最近と書きましたが、もっと具体的には2011年3月11日。そう、東日本大震災が大きな転機だったように感じています。
あの大災害は、私たち日本人の意識を変えました。いえ、むしろそれまで日本人が何度も何度も経験して体得した、「いつ天変地異が起こって、人は亡くなり町は消えるかわからないぞ」という無常観を思い出させてくれた、と言った方が正しいかもしれません。
文明や医学が発達して、我々は自然を征服した、死すらコントロールできるのではないか。そう思い上がっていた私たちに、自然の猛威の前には人間の力など微小なものであり、「死」も突然に私たちの眼前に現れるのだ、と思い出させてくれたのです。
あの時から私たちは、「死」を考え語ることが必要だと思うようになったのではないでしょうか。
フランスの哲学者、V.ジャンケレヴィッチに『死』という著書があり、一人称の死、二人称の死、三人称の死、ということが書かれています。文法の授業みたいですが、それぞれ「自分の死」、「近親者の死」、「他者の死」となります。
ジャンケレヴィッチは、それぞれの違いをこう記しています。
「第三人称の無名性と第一人称の悲劇の主体性との間に、第二人称という、中間的でいわば特権的な場合がある。遠くて関心をそそらぬ他者の死と、そのままわれわれの存在である自分自身の死との間に、近親の死という親近さが存在する」
三人称の死はあまりに自分とかけ離れていて、私たちに何か大切なことを気づかせてくれるにはやや力不足です。
かと言って一人称の死、つまり私の死は大ごと過ぎて、そこから何かを学ぶのは難しいことです。
だから本来、自分にとって大切な近親者の死こそが、自分に何か大切なことを気づかせてくれる機縁たりうるのだと思います。
とはいえ、今まで目をそらしてきた「死」について考えるのは容易ではありません。だからこそ前述のように「終活」や「エンディングノート」や「デスカフェ」などが人々の注目を集め、また私が主催するワークショップ「死の体験旅行」に多くの人が集まっているように感じます。
「死の体験旅行」は、もともと欧米のホスピスで開発されたといわれています。本来の目的は、ホスピスのスタッフが、患者が体験する喪失感・苦しみ・悲しみを疑似体験し、よりよい看護・介護に生かし、患者のQOL(quality of life=生活の質)を高めるというものです。
20枚の紙に、自分の大切な物であったり夢であったり、思い出であったり人であったり、様々なかけがえのないモノを書きだしていきます。こうして書きだすだけでも、自分の人生を振り返り俯瞰するような非日常的な感覚になります。
しかしこれは準備段階。本編では、私が「ある人物」のストーリーを語り、参加者はそれを「わがこと」として耳を傾けます。「ある人物」は体調の変化をおぼえ、病状が悪化し、やがて死に向かって進んでいきます。
その過程で「あなた」は、最初に書いた大切なモノたちを手放し、捨てていきます。どれも大切なモノですが、私たちは死出の旅に何も持っていくことはできません。ある時は力およばず、ある時はあきらめ、ある時は解放してあげるような気持ちで手放していきます。
多くの場合、ワークショップが終わった静寂のなかに低い嗚咽が響きます。でもそれは悲しいだけの涙ではなく、自分がいかに大切なものに囲まれていたのかに気づいた喜びの涙、感謝の涙でもあります。
多くのかたが受けていますので、受講の動機も感想もさまざまです。これから、「死の体験旅行」を受けたかたの思いや気づきをご紹介し、また私が僧侶として学び経験してきたことを綴っていければと思っています。
「縁起が悪い」などと言わず、しばらくお付き合いいただければ幸いです。
第二回(2018.11.27)
「恐怖」
「死の体験旅行」では、ワークショップ終了後にシェアの時間を設けています。そこで参加者の言葉に耳を傾け、その奥にある気持ちに思いを馳せるのは、私にとって大切なライフワークになっています。
ただ、ワークショップの時間の中では、おひとりおひとりの気持ちをくわしく掘り下げていくことはできません。ですので、Facebookや掲示板を利用して、時間内に話せなかったお気持ちをうかがっています。
今回は掲示板に書かれたなかで、ある意味もっとも私が嬉しく感じた感想を紹介させていただきます。
「WS当時、私はもう死んでも良いと真剣に思っていました。死に関して本を読んだり、死後について考えたりの日々でした。それもあってのWS参加でした。
(中略)驚いたのは、あんなに死んでもいい、人生終わりでいいと思っていた自分が、ストーリーが進むにつれて死ぬことを恐れているのです。
受講後、冷静に自分の人生を振り返るようになりました。最近は死が訪れるまで真剣に生きようと思えるようになっています。死に対する恐怖はずっとあり続けるでしょう。でも、それを認めて暮らそうと思っています。」
私は「自死・自殺に向き合う僧侶の会」という、宗派を超えた僧侶の集まりで活動をしています。文字通り自死問題に対応する会なので、「死にたい」という声にはとても敏感になってしまいます。
この参加者さん(掲示板には「mk」と書かれていました)は、くわしい理由はわかりませんが、もともと希死念慮を持っていらしたようです。死について思いを巡らす日々のなか、「死の体験旅行」を知り参加しようと思ってくださったのは必然だったように思います。
mkさんはワークショップを進めるなかで、あれほど思い焦がれていた「死」に恐怖感を感じました。そして「死が訪れるまで真剣に生きよう」と思うほどに気持ちが変化をしたというのです。
ごく最近になるまで、死はもっと身近にあるものでした。1976年(昭和51年)までは病院や施設よりも自宅で亡くなる方が多かったので、看取りは日常的なことだったでしょう。さらに明治以前にさかのぼれば、道端に行き倒れの遺体が転がっていることも珍しくなかったと思います。
また東日本大震災でも、震災直後は被災地の自殺率が大幅に下がったというデータがあります(とはいっても時間の経過とともに、震災によって発生した大きな苦悩によって自死される方は増える傾向にあるのですが)。
つまり、死が身近に感じられる状況では「死」は恐ろしいものとして捉えられ、自死したいと思う方、実行してしまう方が減るものと思われます。
それが現代に近づくにつれ、福祉や医療が発達し、「死」は私たちの視界から見えにくくなりました。それ自体は悪いことではありませんが、死をリアルに感じることが難しくなった結果、かえって死にたいと思う方が増えたというのは皮肉なことです。
お釈迦さまは2500年前、シャカ族の王子としてお生まれになりました。非常に繊細な性格を心配した父王から、過剰なまでに大切に育てられ、宮殿の中で病人や老人や死者などを見ることなく成長したと伝わっています。
しかしある時、続けざまに病人・老人・死者を目の当たりにします。そして「やがて自分も病み、年老い、死んでいく存在なんだ」と我がこととして受け止め、どう生きていくべきかを追い求め出家をされました。
「死」から目をそらしていれば死なないというのなら、別に考える必要はありません。しかし考えようと考えまいと、かならず死は私たちのもとを訪れます。であれば、死について時には真剣に向きあい考えることは、自分の人生を誠実に生きることに繋がるのではないでしょうか。
そう、mkさんが「死の体験旅行」を受けて死の恐怖を感じ、そして「真剣に生きよう」と感じてくださったように。
第三回(2018.12.20)
「私の中のエゴに……」
「死の体験旅行」を始めて間もない頃、印象的な感想を口にした若い女性がいました。その頃は30代ぐらいの受講者が多かったのですが、その方は20歳前後に見え、学生さんかな、それとも社会人なりたてかな、という初々しい雰囲気でした。平日夜の開催なので仕事帰りの方が多いのですが、彼女は服装やメイクの感じも少し華やかだったので、より印象に残ったのかもしれません。
「死の体験旅行」の本編を終え、最後の全体シェアでひとりひとりの感想に耳を傾けていました。彼女は「最後の1枚は、ママです」と言いました。
最後の1枚が「母親」というのは、とくに珍しくはありません。というより、おそらく最も多いのが「母親」ではないかと思います。父親も母親も大事な親であることに違いはないのでしょうが、自分を産み育んでくれた存在ということで、ギリギリの選択では「母」となるのでしょう。また、ストーリーの中で自分が体調を崩している場面を想像した時、幼い頃に母に看病された記憶が脳裏に浮かぶのかもしれません。
受講者の年代が若く、親が元気でいらっしゃる方が多いということもあるのだと思います。これが年配者向けの開催で、親が亡くなっている年代の方が受講すれば、また結果は違ってきます。
「最後の1枚は、ママです」と言った彼女は、さらに言葉を続けました。
「私はママととても仲が良くて、友だちみたいな親子なんです。ママのことが誰よりも一番大事だと思っていました。けど最後の1枚のカードを見て、私はその大事な人に、自分の子どもが死ぬ姿を見せてしまっているという状景が目に浮かんだんです。ママが一番大事だと言いながら、それよりも自分の方が大事だっていうエゴがあることに気がつきました」
私はその言葉を聞いて驚きました。思わず尼僧にスカウトしようかと思ったほどです。
「私はママが大好きで、やっぱり一番大事でした」という言葉だけだったら、記憶に強くは残らなかったでしょう。しかし、そこから一歩も二歩も踏み込んだ自己認識の言葉にギャップを感じ、驚かされたのです。
「エゴ」は「エゴイズム」の略で「自我」と訳されます。自我は誰にでも備わっているものですから、本来は良い・悪いというニュアンスを含まない言葉ですが、一般に言う「エゴ」は「自己中心的・利己的」という意味で使われます。彼女が口にした「エゴ」も、その意味で使われました。
一方、仏教では「自我を捨てて無我の境地に至れ」と説きます。現代風に言い換えると、「自分が持っている自己中心性に気づき、あらゆる苦悩の原因が自我に執着することであると知り、それを手放す努力をしなさい」という意味になります。
もちろんそう簡単に達成できることではありませんし、難しいことだからこそ仏教には多くの宗派があって、それぞれに自我を手放すためのメソッド(修行)があります。
一般の方は無我の境地に至ることまで考えないでしょうが、それでも時として無我に近づいて心をラクにしたい、抱え込んでいるものを一度肩から下ろして一息つきたい。そう思って坐禅会や写経会に足を運ぶのではないでしょうか。
彼女は無我になったわけではなく、その手前の自我に気づいただけです。でも、「気づく」ことは「変わる」ことの入り口です。その後の彼女の生き方は、おのずと変化していったのではないかと思います。
また、このワークショップを始めて間もなかった私は、一見仏教的な要素が色濃くない内容ではあっても、そこから得られる気づきは仏教的なものに成り得るのだと気づきました。それまではある意味、状況に流されるように開催していたものが、「死の体験旅行」も仏教で説いている大切なことを伝える手段になるんだ、そう気づかされたのです。
彼女の言葉はきっと彼女自身を変え、また私をも変えてくれたのです。
第四回(2018.12.28)
「仏教と正月と生と死と」
いつも拙い文をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は「死の体験旅行」受講者の声ではなく、「仏教と正月と生と死と」と題してお送りします。
「おめでたい」正月と、葬儀やお墓の印象が強い仏教と、真反対のイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。ですが、お盆やお彼岸と並び、お正月に墓参をされる方は少なくありませんし、初詣ではお寺に行くという方も大勢いらっしゃると思います。また、お寺でお正月ならではの行事に参加したという方も多いでしょう。
お正月といえば、一休さんに多くのエピソードがあります。往年のアニメの影響で、一休さんと聞けばかわいらしい小僧さんを思い浮かべるかもしれませんが、伝わっている肖像画は味わいのある風貌で、歌手の槙原敬之さんにどことなく似ています。名を一休宗純といい、奇行で知られた室町時代の臨済宗僧侶です。
ある時、知り合いの商人に、「正月に床の間に飾る書をしたためてほしい」と頼まれた一休禅師。それを引き受け、書いたのは「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」という文字。それを見た商人は「めでたい書を頼んだのに!」と腹を立てますが、「世の中には逆縁と言って、親より先に子や孫がいのちを落とすこともある。この書のように親が死に、やがて子が死に、またやがて孫が死ぬ。こんなめでたいことが他にあろうか」と一休禅師に諭されたといいます。
一休さんに書を頼むような粋な方ですから、きっとなるほどと得心がいって床の間に飾り、正月の来客に自慢気に語って聞かせたことでしょう。
「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という歌も、一休さん作と伝えられています。
最近は家庭ではあまり見ませんが、商業施設や会社の入り口には門松が飾られています。言わずとしれた正月の縁起物です。かたや一里塚は、昔の街道で距離の目安にするため、一里(約4km)ごとに目印を付けたものです。門松をこの一里塚に見立てているのですが、そこには昔の年齢の数えかたが関係します。
今でこそ誕生した時は0歳、丸1年経って誕生日が来れば1歳と数えます。しかし明治以前は「数え年」といって、生まれた時は「ひとつ」で、正月にみないっせいに年をとるという数えかたをしていました。年末に生まれれば、生後数日で「ふたつ」になってしまうこともあったようです。
正月にいっせいに年を取るので、門松を「冥土の旅の一里塚」と喩えたのでしょう。その後の「めでたくもあり めでたくもなし」は、正月だからおめでたいけれど、半面、ひとつ年をとってあの世に近づいてしまったなぁ、ということでしょう。
また、この言葉を言い放った時の一休さん、伝わるところによると杖の先に人間の髑髏(どくろ)を突き刺し、家を一軒一軒まわったそうです。正月で楽しい気分でいるところに、突然坊さんがやって来て頭蓋骨を見せつけながら「門松や〜」なんて言うのですから、世にも稀な僧侶として、現代までその言動が伝わっているのかもしれません。ちなみに今それをやれば、死体損壊罪で逮捕です。
3年ほど前、正月早々のご葬儀がありました。人の生き死には正月も連休も関係なくやってきます。とくに年末年始は寒い季節なので、火葬場が閉まってしまう元日などを除き、いつお参りに行くことになるか油断できません。まさに「盆も正月もない」といった状態です。
亡くなった男性は70代後半。とてもお元気で赫灼(かくしゃく)としていて、マメな性格の方でした。年末に亡くなったので、年を越して1月3日・4日で通夜葬儀だったかと思います。
日も暮れ、気温もいっそう下がりつつある夕刻、家族や親族、亡くなった方の友人知人が集まってきました。その方たちの多くが、手に手に年賀状を持っているのです。葬儀の場に年賀状? と思ったのですが、話をうかがうとそれは故人が出した年賀状でした。
マメで律義な性格の方なので、年賀状は毎年12月半ばの受付開始日に投函していたそうです。ところがその年末に急逝してしまい、ご縁のある人々には訃報とほぼ同時に故人からの年賀状が届きました。
悲しいながらも「あの人らしいね」と微笑み合いたい気持ちがあって、みなさん年賀状を手にお参りにいらしたのでしょう。
おめでたいイメージの正月ですが、数え年ではなくなった現代でも、新しい年を迎えるのはそれだけ年を重ねたということになります。生きることと死ぬことは生死一如、コインの表と裏のように切り離せない関係性にあります。
楽しい気分も味わいつつ、自分が何を大切にして新しい一年を過ごすのか、大切なことを深く考えられるような良い年末年始をお過ごしください。
第五回(2019.01.14)
『自分を好きに』
大切なカードとして「笑う」を書く人は少なくありませんが、くわしくうかがってみると、自分が笑顔でいることであったり、他者を笑わせることであったりと、細かい部分で違いがあります。
笑うというのは大切な行為で、ことわざの「笑う門には福来る」は有名ですし、ドイツの哲学者アルフォンス・デーケンの言葉に、「ユーモアとは『にもかかわらず』笑うことだ」というものがあり、枚挙にいとまがありません。
私のお寺でも坊守(妻)が「笑いヨガ」教室を開催していて、多くの方が参加してくださいます。
ワークショップ「死の体験旅行」では、参加者が自分の人生において大切なものをカードに書き出し、それを取捨選択していきます。2時間のワークショップの最後に、今の自分にとって何か一番大事だと感じたかをお聞きしていますが、女性参加者のHさんは一瞬迷ったような表情を見せ、「最後のカードは『毎日笑う』でした」と言いました。しかし続けてすぐに「そのひとつ前は『自分を好きになる』でした」と口にしました。最後の1枚よりもむしろ「自分を好きになる」のほうを口にしたい、そんな印象を私は受けました。
「なぜそのカードが最後に残ったのでしょうか?」と尋ねると、Hさんは「自分が嫌いだから、自分を好きになるというのが最も大切な目標として残ると思っていました。けれど最後の最後、入院している自分を見舞いに来てくれる人に笑顔で接したい。自分が嫌いなままでも、見舞いに来てくれた人に嫌な思いをさせたくないからです」と答えたのです。
後日、なぜ自分が嫌いなのかを尋ねしました。
Hさんは3人きょうだいの長姉で、実家が自営業だったため、ご両親は挨拶や礼儀にとても厳しく、また常に弟妹の手本になるよう育てられたのだそうです。Hさんはそれに応えようと、勉強でも部活でも一所懸命に努力をしますが、どんなに努力しても褒められた記憶はほとんどなく、自分自身を減点法で見るようになっていったのだそうです。
「足りていない自分はダメな人間」「ダメな自分ではいけない」
そう暗示をかけてしまったのは間違いなく自分自身なのに、自分が嫌いという思いを未だに捨てられない、とも言ってました。
私はHさんの吐露を聴きながら、胸がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えました。幼少期において、親の評価や愛情は絶対的なものです。ご両親に悪気はなかったのでしょうが、大人になった現在にまで影響を与えるほど、Hさんの幼い頃の記憶は自分を厳しく見ることで埋められていたからです。
また、ワークショップの準備段階で自分の大切なものを書き出している時、一番苦労して時間ギリギリにフッと出てきたのが「自分を好きになる」だったそうです。Hさんはそれが出てきたことに驚き、でもだからこそ、このカードが最後まで残るだろうと直感しました。
しかし、なぜ最後の最後に直感が覆ったのか。それはご本人にも明確な答えが出ているわけではないそうですが、「不完全な自分が嫌いだと思う一方で、心の奥底では不完全なままの自分でも好きになりたい、そう思っていることがはっきりわかりました。また、自分が好きになれなかったとしても、それが私なんだ、と思う部分もあることに気づいた」のだそうです。
珍しく私は仏教の話をしました。
私は浄土真宗の僧侶で、浄土真宗の本尊は阿弥陀如来という仏さまです。この仏さまは、「どんな人であっても絶対的に肯定して救いとる」という特徴があります。「仏さまに背を向けて逃げる者も、追いかけてでも救う」と言われるほどです。
浄土真宗が芽吹いたのは平安末期から鎌倉時代ですが、当時の一般民衆の生活レベルは過酷なもので、「生きていても地獄、死んでも地獄」と歎いていたのだと思います。そんな中、「あなたを決して見捨てない、と誓う仏さまがいるのですよ」という教えは、慈雨のごとく人々の心に沁み込んでいったのでしょう。
仏さまであっても、お日さまであっても、ご先祖さまであっても、あるいは自分自身であっても、誰かが自分を絶対的に肯定してくれているということは、自分を強く支えてくれるものになるのだと思います。
Hさんからは、「このやりとりで、気づかなかった心のうちを言葉にしていただいたように感じています。阿弥陀如来のお話も、胸に響きました。何度読み返しても、涙が止まらなくなります」とお返事が来て、私は「ああ、答えにくいこともあっただろうけど、いろいろお尋ねして、やりとりができてよかった」とホッとするような気持ちになりました。
フランスの哲学者アランの言葉に「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」というものがあります。Hさんに当てはめてアレンジすれば、「自分が完全になったから笑うのではない、不完全なままでも笑えることが幸福なのだ」となるでしょうか。
もしHさんが病床にあったとして、それでも見舞いに来てくれる人たちのために笑顔でいることができれば、Hさん自身は不完全なままであっても自分を好きになることができるのではないでしょうか。そしてその気持ちに気づけば、心の底から笑える時がやってくるのではないでしょうか。
第六回(2019.02.04)
「ガンを宣告されて」
江東区のお寺で「死の体験旅行」を開催した際、ヨガの女性インストラクターであるMさんが受講をしてくれました。他の多くのヨガインストラクターもそうであるように、Mさんにとってのヨガは単なる仕事というだけではなく、自分自身の生き方に大きな影響を与えています。
また、ヨガに関わっている方は多かれ少なかれ、精神的な世界を大切にする方が多いように思いますが、彼女もまた心の奥底を見つめるような受け方をしてくれました。
Mさんはヨガを学ぶ中で、「全ては安心と安全の上に成り立つ」ということを学んでいまます。難しいヨガのポーズを取るとき、身体はもちろん心の根底に「安心と安全」があることで視野を広く保ち、また広げていくことができるのだそうです。
それによってゆとりが生まれ、さまざまな変化を受け止めやすくなり、また変化を認める覚悟を持ちやすくなる、とも言いました。
ヨガによって身体の根底は確立されつつあるけど、では自分の心の根底に何があるのだろうか? それが、Mさんが「死の体験旅行」を受けようと思った動機だったそうです。
ワークショップは、「私」の物語で始まります。
「(私は)しばらく前からの体調不良はあまりよくならず……」
「医師から、精密検査をしましょうと言われ、不安な気持ちが芽生えます……」
物語が進むにつれ、Mさんが知りたかった心の根底に「あるだろう」と思っていたものが確信に変わり、はっきりと実感されるようになっていったそうです。
その根底にあったものは何だったのですか?
私がそう尋ねると、Mさんは「言葉にしにくいのですけれど」と前置きしつつ「愛情です」と口にしました。私は重ねて、「それは誰か特定の相手に対する愛情ですか?」と聞くと、「家族など特定の相手というよりは、もう少し広い範囲、いろいろな人からの愛情です」と答えたのです。
自分の根底にあるものが「愛情」であると確信すると、それは「感謝」という気持ちにも変わっていったのだそうです。そしてその思いはMさんの中に継続し、以前よりも心地よい時間が増していったのだそうです。
それはきっと、自分の周囲に漫然とあった人やものが、自分の周囲に「こそ」あってくれたのだ、という気づきだったのだと思います。「当たり前」の反対語は「有り難う」だそうですが、自分が大切だと思う人やものは、自分の周囲にあって「当たり前」ではなく、「有ることが難しい」ことだったのだという視点の転換があったのでしょう。
「死の体験旅行」を受けた直後、多くの方がすがすがしい表情になったり、満ち足りた表情になったりします。その方々も同じようにワークショップの体験を通じ、自分を支えてくれている多くの人やものの「有り難さ」に気づいたのでしょう。
ただ、現代人にとって毎日インプットされる情報量は圧倒的で、せっかく感じた「有り難さ」を長続きさせることは至難の業のように思います。けれどMさんはヨガインストラクターだからこそ、日常的に自分の内面を見つめ、心に得た感覚を幾度も反芻することができ、心地よい時間が継続していったのでしょう。
その継続する気持ちは、思わぬところで彼女を支える根になりました。
「死の体験旅行」を受けた翌年、彼女は若年性のガンを宣告されるのです。
診断を受けた時、Mさんは自分の無力さや、何も成し遂げていなかったことに気づき、全身の力が抜けていってしまったと言います。
また、治療を進める上で発症する可能性のあるさまざまな副作用の項目の中に、抗ガン剤や不安に支配される心の変化で、うつ病を発症するかもしれないとも書かれていたのだそうです。
しかしMさんは、「愛情と感謝」という自分の心の根を見つけていました。また、病の宣告はワークショップの中で、仮想体験とはいえ、一度受けています。その根と体験があったから、彼女は診断された現実を受け止めることができ、これからどうすべきかという前向きな思考に結びつく心構えができ、結果としてうつ病の発症はなかったのだそうです。
最後に彼女の言葉を、少し長いですが紹介して筆を置きます。
私がこのワークショップで確信したものは、私の生きていく上で自然とそこにあったもの、根っこ・基盤でした。
病の宣告を受け不安や恐怖を感じても、治療によって肉体が苦しくなっても、この根っこに気持ちが戻ると、心がぶれずに感謝を強く感じて、さらに恩返しをしたい気持ちになりました。この気持ちが、前向きな姿勢に結びついたのだと思います。
「死の体験旅行」は、本来持っている真実の自分に気付かせてくれるものだと思います。
真実の自分自身を知っていることは、人生の岐路で大いに役立ちます。人生の見方にも大きな影響があります。
私にとっての大きな岐路=ガンの診断をされた時、この経験が乗り越える大きな力のひとつになりました。
第七回(2019.03.15)
「1年おきに自分を見つめる」
「死の体験旅行」には、ときどきリピーターがいらっしゃいます。始めた当初は「5年、10年たてば、再び来る方もいるかもしれないな」と思っていたのですが、意外にももっと早くからリピーターがいらして、中には「先月受けたんですが、動揺しすぎてしまったので、もう一度受けに来ました!」なんて方もいらっしゃいます。
ある時もワークショップの最後に受講者1人ひとりと言葉を交わしていると、なんとなく見覚えのある男性が、「実は私、ちょうど1年前に受けたんです」と言いました。
その方は障害者福祉の仕事をしていて、人の苦悩や、時には死に接する機会が多いということもあり、1年前に興味を持って受講したのだそうです。その時に気づいたのは……。
- 普段、大事だと思っていた仕事に関することが出てこないことに驚いた。
- 日ごろ意識に上がらないもの……高校時代の思い出の場所や、仕事そのものでなく仕事に関する学びなどが、実は大切だった気づくことができた。
- 大脳で一生懸命考えて出した答えではない感覚、自然とわき上がる感覚がとても新鮮で意味があった。
ということだったそうです。
そして1年が経ち、自分自身のメンテナンスをするような気持ちで2回目の参加となりました。ストーリーは大きく変わっていませんし、ワークショップの流れも覚えているでしょう。先読みしながら受けてしまえば、あまり心に響かないものになった可能性もあったと思います。でも去年と自分がどう変化したのかを確かめてみたいと思い、心をニュートラルな状態にして受けてくださいました。
その場では他にも多くの受講者がいますので、後日じっくりとお話をお聞きし、1年ぶりの受講でどんなことを感じたかを教えていただきました。
- 1年ぶりの受講、変わらないものと、変わったものがあった。
- 1回目ではどれも大切だと感じなかった「物」は、2回目に書いた「本」が、自分にとって大切な「物」だと気づいた。それは、仕事や生き方に関する、自分にとって学びの源泉を大切にする気持ちに気づけたから。
- 大きく変わったのは「活動」で、仕事に関する学び(福祉学・心理学・社会学・幸福学など)が多い点では同じだが、抽象的なものから具体的なものに変化をした。また、「やってみたい」から、「やってみよう」「やっている」に変化をした。これは意識的に変えようと思っていたことでもあるので、嬉しい変化だった。
- 変わらないものは家族。改めてその大切さを味わい、感謝の気持ちがわいた。
- この年齢(38歳)になってもあらたに大切に感じられるものができたことが、うれしい。とくに以前は、家族さえ大切にしていればいいと思っていたが、1回目の受講以降、意識して友人を大切にしようと努めた。それは仕事柄、人には「怖がらずチャレンジしよう」と言ってはいるものの、自分がそれをできていないことに気づき、積極的に世界を広げた結果でもある。2回目を受けて、それが自分の思いに反映していたことをうれしく感じた。
- 帰宅して、昨年の振り返り用紙と比較して、より多くのことが感じられた。
- 昨年受けてから1日1日が大切に感じられるようになり、娘との接し方が変わりました。
同じ人物で、たった1年しか経っていなくても、周囲を取り巻く環境や心境の変化があります。2回目の受講をした彼も、自分の中で変わらぬ価値を持つもの、価値に変化があったものを発見しました。そして変わらぬ大切なものがより大切に思え、感謝の念がわいたというのです。それはきっと、とても嬉しくなるような体験だったと思います。
1年前の自分と今の自分がどう変化しているのか。健康診断を受けていれば数値上の変化を把握することはできますが、心の中のことなど私たちはあまり考えずに生きています。しかし「死の体験旅行」を受け、終了後の記録用紙を保管しておくことで、目に見えるかたちで変化を把握することができます。
2回目の受講をされた方に、これだけくわしく感想をうかがえたのも、帰宅後に記録用紙を見ながら話していただけたからだと思います。そして彼は38歳という年齢でもなお、自分があらたな大切なものを得たことを嬉しいと感じました。これも、もしかしたらワークショップを再受講しなければハッキリとは気づかないことだったかもしれません。
こうした変化を、仏教では「諸行無常」と言い表し、すべての事物は一刻も止まることなく変化をし続けていると説いています。人間の身体さえ、多くの細胞が新陳代謝によって入れ替わり続けているのですから、1年前の私と今の私はまったくの同じ人間ではありません。肉体的にもそうなのですから、精神的にも「変化し続ける」状況は当然起こっています。その意識しにくい変化を知らしめてくれる、そんな役割もこのワークショップにはあるようです。
最後に、彼のこんな言葉が私の胸を打ちました。
彼にとって、とても大切な存在だとわかっていても、今日までと変わらぬ日々が明日からも続いていくと漫然と思ってしまえば、その大切さを見失ってしまいます。死を体験して、あらためて平凡な「今日」が、かけがえのないものだと感じてくださったのです。
第八回(2019.04.02)
『申しわけない』
日本人男性は、感情表現があまりうまくないと感じます。うまくないというより、ストレートな感情表現をよしとしない文化の中で育ったということかもしれません。
日本男児を象徴するような大相撲の力士(とは言っても外国出身者が多くなりましたが)は、単独トップになってインタビューのマイクを向けられても、「明日からも一番一番精進するだけッス」と感情を抑えてコメントし、優勝した瞬間に土俵上でガッツポーズを取れば、あとで注意を受けてしまいます。
人前で涙を流すなんてもってのほか、なんてイメージもありますが、ある時「死の体験旅行」の最中に涙を流している30〜40代ほどの男性がいました。男性受講者でも涙ぐむぐらいは珍しくありませんが、かなり涙を流している様子で、けれど途中でワークショップを止めるわけにもいかず、心配しながら続けた記憶があります。
後日、その方にくわしく話をうかがうと、涙の根源にあったのは「申しわけなさ」だと言いました。30代後半だという彼が「死の体験旅行」の紙に書いたものは、自分の家族であったり夢であったり、それほど特殊なものではなかったようです。しかし、受講のタイミングが特別なものでした。
受講は9月でしたが、5月には夢を抱いて独立して仕事を始めたばかり。また2年前に結婚し、間もなく第1子が誕生という、妻・子・仕事と自分を取り巻く環境すべてが大切で愛おしく、また大きな責任を背負って歩み始めたという時期でした。
おそらく、大切なものを紙に書く作業は難なく進められたのではないかと思います。紙が足りないと思ったかもしれません。しかし、ワークショップが始まり、自分が手に入れて間もない大切なモノが次々と失われていくのです。苦しくないわけがありません。
- 私がワークショップの中で最も強く抱いた感情は、「申しわけない」という気持ちでした。残される大切な人を思い、まだ成し遂げられていない夢を思いました。涙がとめどなくあふれ、一つひとつの紙を捨てるのが、本当に苦しかったし、先に進めたくありませんでした。
彼が伝えてくれた感想です。自分の存在が消えてしまう恐怖ではなく、大切な人や夢など自分を取り巻くものに、「一緒にいられず」「かなえることができず」、申しわけないという気持ちを抱きながら、彼は「死の体験」をしました。
また彼は、こうも言いました。
- 私が「死の体験旅行」を通して学んだ最も貴重なことは、「今のままでは死ねない」ということでした。「苦痛や困難から逃れ、自我や快楽ばかり求める人生は、のちにもっと大きな苦痛を生む」ということを、身をもって体感し、腹落ちもしました。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。辞書をひくと「力のあらん限りを尽くして、あとは静かに天命に任せる」(大辞泉)とあります。しかし、天命に任せるといっても、人間は努力をすればどうしてもいい結果を望んでしまうものです。
似た言葉ですが、明治時代の浄土真宗僧侶、清沢満之は「天命に安んじて人事を尽くす」と言いました。
清沢満之は仏教者だから、仏教的な人生観が根底にあります。「天命に安んじて」とは、無数の縁に支えられ、生かされている自分を自覚するということでしょう。
その視点に立った時、いい結果であってほしいという我執を離れ、「人事を尽くす」、つまり結果に執われずに精いっぱいの努力をしようという境地に至るというのです。
涙を流しながら受講した彼の「申しわけない」という気持ちは、後悔です。彼は自分の背負ったものに対し、後悔したくないという気持ちを抱いたのだと思います。しかしいい結果だけを追い求めてしまえば、人間の欲求はもっともっとと、限りなく増幅するものなので、後悔と縁を切るのは困難になります。
目的を結果に置きすぎるのではなく、努力する行為そのものにシフトすること。それが自分の人生を肯定的に受け入れ、後悔しない生き方を送る最善の道ではないでしょうか。
第九回(2019.05.10)
『蘇った気持ち』
仲間の僧侶に助けられた経験がありました。
毎年ゴールデンウィークに都内の寺院などで、寺社フェス「向源(こうげん)」という大きなイベントが開催されています。最初は一寺院の音楽イベントに数十人の聴衆が集うものでしたが、年によっては大本山を全面的に借り切ったり、1万人を超える来客があったり、ニコニコ超会議コラボしたりと、仏教が関わる若者向けのイベントとしては最大級のものです。
この向源に「死の体験旅行」は初期のころから毎回携わっていて、そして毎回のように最初に予約が埋まってしまうものとして注目を集めることになりました。
2016年、日本橋の商業ビルなどで開催された向源で、私は例年のように数回のワークショップを受け持っていました。あまり記憶力が良くないのですが、向源では1日に複数回の開催があるので、よけいに人の顔と名前が覚えられません。しかし北海道からやってきたFさん(40代・女性)のことは鮮明に記憶に残りました。
Fさんが「死の体験旅行」を受けた時、20枚のカードに書いた大切なもののうち、最後のカードになったのは16年前に亡くなった彼でした。しかも、大切な存在として思ってはいたものの、彼の死はずっと以前に乗り越えられたと自分では感じていたのに、思いがけず最後の1枚になってしまったのです。
ワークショップの最後、私が「あなたは今、いのちを終えました」と告げた時の気持ちは、「やっと死ねる、やっと会える」というもので、それはとても暖かく、恐怖心は無かったそうです。そしてその時、自分は彼の死を乗り越えてなどいなかったと気づき、16年間積み重ねてきたものが一瞬で崩れるような思いを味わったのだそうです。
彼女は自分の気持ちに驚き、涙を流していました。その姿が心配で終了後に話しかけはしたのですが、次の回の準備があって充分に耳を傾けることができず、それが心残りでした。
ここで、思いがけず仲間の僧侶に助けられたのです。
向源ではさまざまなイベント・体験・講演などがおこなわれていますが、人気コンテンツに「お坊さんと話そう」があります。文字通り、普段接する機会のあまりないお坊さんと、ざっくばらんに会話し、あるいは真面目に相談もできるというものです。これが「死の体験旅行」と同じフロアでおこなわれていて、Fさんは導かれるように僧侶の前に座りました。
たったいま経験したワークショップのこと、亡くなった彼への想い、気がついてしまった自分の気持ち……それらを、耳を傾けてくれる僧侶に話していきました。
悲しみや苦しみは、人と分かちあうと軽くなる。言い古された言葉ですが、Fさんはその時それを実感したでしょう。もし「お坊さんと話そう」がなかったら、彼女の心を大きく揺さぶったまま、傷つけたままにしてしまっていたかもしれません。
わざわざ北海道から向源に来るぐらいですから、Fさんは仏教好きです。しかし1回目の「死の体験旅行」の印象が強かったのか、より仏教に興味を深く抱いていきます。彼女の言葉を借りると……。
「受講までの流れとタイミング、そして受講時にはすでに決まっていたその後の流れ、すべてにおいて、ご縁としか言いようがありません。仏さまとのご縁が深くなったということでしょうか」
という思いなのだそうです。
Fさんは2年後、2回目の受講をすることになります。1回目と同じように、私が最後「あなたは今、いのちを終えました」と告げた時、最も大切だと感じたのは、尊敬し信頼する僧侶から頂いた念珠だったそうです。前回最も大切だと感じた亡き彼は、念珠の次に大切だと感じた、と彼女は気負うことなく教えてくれました。
1回目までは、彼のことを乗り越えよう、忘れなきゃ、と思っていたのかもしれません。しかし結局、大切な人を忘れることなんてできない、悲しみを乗り越える必要もない、と気づかれたのではないかと思います。
また、2回目では彼の大切さが下がったのではなく、彼を含めて様々な縁が実ってできた仏さまとのご縁の象徴として、念珠が最も大切になった。言い換えると、彼も念珠に内包されているというお気持ちを抱かれたのでしょう。
Fさんは最後にこう言ってくれました。
「いつか自分が死んだ時には、必ず彼に会える。阿弥陀さまがそう約束してくれている」
私は僧侶として、単にワークショップを開催するだけでなく、それを通じて少しでも仏教が理解され、広まってほしいと願っています。それをとても強く感じさせてくれたのが、Fさんのこの言葉でした。
第十回(2019.06.06)
『月替わりの大切なもの』
「死の体験旅行」を始めた頃は、何年か経てば再度受講に来る方がいらっしゃるだろう、と考えていましたが、思ったよりも早い時点でリピーターがいらっしゃるようになりました。
とはいえ今回は、「また受けてみよう」と能動的に思ったわけではなく、成り行きで受けるような状況になってしまった方のお話です。
さまざまな会場で「死の体験旅行」をさせていただいていますが、ある時期横浜市内のお寺で数ヶ月連続の開催がありました。最初の月は、そのお寺の次期住職であるIさんも受講者としてワークショップを受けてくれました。
Iさんのお父さま、つまり先代住職が早くに亡くなり、Iさんは住職を継承するべく準備で忙しい時期でした。しかしそういった時期だからこそ自分を振り返ってみたい、そして同じように自分自身を見つめたいという人たちのために会場を提供してくれたのです。
最初の月、ちょうどIさんの奥さんのお腹には赤ちゃんがいました。しかも7ヶ月目とお腹のふくらみも目立ってきた頃ですので、ワークショップで選択する「最も大切なカード」は当然奥さんか赤ちゃんを選ぶのだろう。そうご自身でも感じていたのではないかと思います。
けれどIさんは迷った末に「母」のカードを選びます。実はその日はちょうど父である先代住職の月命日で、心に強く父の顔が思い浮かんだのでしょう。そしてその父の連れ合いであり、お寺を切り盛りする存在である母を守らなくてはいけない。何世代も何十世代も続くお寺に生まれた者ならではの感覚がそうさせたのかもしれません。
そこから半年ほどの間、毎月のようにIさんのお寺で「死の体験旅行」の開催が続きました。Iさんは2ヶ月目からは受講者として席にはつかないものの、会場の隅で物語に耳を傾け、「今の自分だったらどうするだろう、何を選び、何を手放すのだろう」と真剣に自分自身と向き合い続けたのです。
受講から長い時間を経て、家庭や仕事の環境が変化したことで「最後の1枚」が変わることはあり得ると思います。しかしIさんの場合は初めてのお子さんが授かる前後というタイミングでしたので、毎月のようにそれが変化していきました。
2回目と3回目、奥さんのお腹はいよいよ大きくなり、大変な思いをしている奥さんをいたわる気持ちが強くなっていったのでしょう。Iさんの心の中に残った最後のカードは「妻」でした。
年が明け、4回目の開催。そのほんの数日前に新しい生命が誕生していました。そんな大変な時期にお寺をお借りして申しわけなかったのですが、この時もIさんは会場の隅で物語に耳を傾けてくれました。胎児がこの世に生まれ、母と子の身体は別々のものになりました。しかし我が子を抱く妻と赤子の姿は不可分にしか思えず、Iさんの心の中に「妻子」と書かれたカードが残ったのだそうです。
1ヶ月が経ち、5回目の開催になりました。この時もIさんは同じように心の中で「死の体験旅行」を受け、しかし最後に残ったカードは今までの「人」のカードから「行動」のカードに大きく変化をします。
Iさんは「生きざま死にざまを見せたい、ということが残りました」と口にしました。私はそれを聞いて、「奥さんとお子さんに、夫や父としての生きざま死にざまを見せたいのかな」と思いました。しかし後日じっくりと話を聞くと、もっと深い気持ちがそこにはあったのです。
5回目の当日に「生きざま死にざま」と表現された言葉は、もっと正確に言えば「手が合わさる生き方」なのだとIさんは言います。
さまざまな縁に育まれ、支えてもらって生かされている自分の〝いのち〟を精一杯に生きる姿。またいつか年老い朽ちていく自分の〝いのち〟を通じて、老病死を考える機縁になりたいという思い。そしてその対象は妻子に限らず、家族や親族だけでもなく、縁ある全ての人のためであってほしい。そう願う気持ちが僧侶であるIさんの口からは「手が合わさる生き方」という言葉で表現をされました。
手が合わさるというのは合掌の姿です。つまり自分が懸命に生ききったうえで、思慮分別を超えた大いなる存在に自分自身を委ねていくという念い(おもい)が込められた姿を周囲に示したい。それが最も大切なものになった、とIさんは言いました。
私はそれを聞いて、「ああ、Iさんは住職になったのだな」と感じました。それは単にお寺の跡継ぎで住職という立場に就く、という意味ではありません。
日本仏教は特殊で、僧侶が結婚をし、子どもが跡を継ぐ形が定着しています。それが世襲と揶揄される場合もありますし、物心ついた時から将来が決まっているという継ぐ者の息苦しさもあります。
Iさんにとって、亡くなったお父さまもご存命のお母さまも、母となった妻も生まれたばかりの子どもも、かけがえのない大切なものであるはずです。
しかしそれ以上に、自分自身の人生を通して周囲の多くの人に大切なことを伝えていきたい。単にお寺という「容器」を存続させるだけでなく、その器に満たされる「仏教」をこそ伝え広めていきたい。そんな覚悟が定まったように私の目には映りました。
Iさんのそれまでの人生が、その覚悟を静かに育んできたのだと思います。そしてその芽吹きの縁のひとつが「死の体験旅行」であるのなら、それはとても嬉しいことです。
第十一回(2019.07.02)
『好きでいて良かったんだ』
「死の体験旅行」を受けた方の多くが、自分にとって最も大切な存在は「母」だということに気づきます。結婚前の若い層が多いことも「親」を選ぶことに影響していると思われますが、「父」と比べて圧倒的に「母」が多くなるのです。理由のひとつとして、ワークショップの最中に自分自身の体調が悪くなった場面を想像したとき、幼いころに母親に看病された記憶が蘇り、母への感謝や愛情が涌き出してくるのでしょう。
しかし、母への感謝や愛情がストレートに表れてくるばかりではありません。
Mさん(30代・女性)は写真家として活動しており、2016年の暮れに1回目の受講、そして2018年秋に2回目の受講をされました。2回目の最後の全体シェアで感想をうかがうと、「意外なことに、母が最も大事だと思った」「1回目とはまったく違う結果になった」と口にしました。
1回目では最も大事なものとして「カメラ」のカードが残りました。Mさんはカメラマンなので納得がいくような気もします。けれど、仕事道具として大事だから残ったわけではなく、自分の心や存在を表すものとして大切だと思ったのだそうです。そのとき、2番目に大切だと感じたのは「ペン」と、こちらも表現のための道具でした。また「母」のカードは最後から5番目までは残っていたそうです。
Mさんはこの2年間で身近な人間関係の変化や貴重な体験を重ねたのだそうです。しかしそこで得た気づきも忙しさの中で置き去りになってしまう感覚があり、「環境はさほど変わっていないけれど心には変化があるのだろうか」と確認したい思いがあり、2回目の参加をしてくれました。
そして、1回目とはまったく違った結果が出ました。なぜ2回目では「母」のカードが最後まで残ったのか尋ねると……。
「最近、子どものころの私の気持ちを人に話す機会がありました。そこで、抑圧気味だった母への気持ちが表出したのかもしれません。
母と関わることで負った傷があり、母を好きになれませんでした。それでも、母のカードが残ったのを見て、『本当は甘えたかったし、母のことを好きでいたかった』『"私を傷つけた母"を好きでいることを、いけないことのように感じていた』『私自身、母のことを嫌う自分のことが嫌いだったのかも』ということに気づきました」
と、Mさんは自己と深く対話するような返事をくれました。思いがけず子どものころの繊細な記憶まで遡ることになり、この後もMさんと私はメールでのやり取りを続けることになりました。
次の返信は、彼女が旧友の結婚式のため帰省し、実家で母と顔を合わせながら書いてくれたものでした。私からは「母と関わることで負った傷」について尋ねていたので、母の息遣いを感じつつ、当時を思い出しながら書いてくれたようです。
返信には、幼いころに母親から冷たいと感じる言葉をかけられたことや、小学生のころ体調の問題で学校に親が呼ばれた際、母に来てほしかったのに父に行かせたことなどが書かれていました。また、会話をしようと自分の気持ちを話しても見当違いの返答が来ることが多く、違和感や不信感が募っていったようです。
そういったことが重なり、成長してからは、「どうせ話をしても自分の気持ちが苦しくなるのだ」とあまり話さないようにしてきたのだそうです。そんな母子の現在の関係性についてMさんは、「仲が悪いわけではないが、ギクシャクしている」と言いました。
しかし、「死の体験旅行」の1回目と2回目で変化が表れたように、Mさんの心には変化が生じているように思えます。
私は彼女に、お母さんに抱くいい思いや記憶などを尋ねてみました。すると、家を離れて1人暮らしをするときに心配をしてくれたこと、帰省すると布団を敷いておいてくれたり、健康的な食事を用意したり、Mさんが好きな番組を録画しておいてくれることなど、親元を離れてからのことばかりが上げられました。
「娘がいて当たり前」と思っていたお母さんにとって、娘が手元を離れて生活することになって感じるものがあったのでしょう。
一方、Mさんは家族写真の撮影という仕事をする中で、赤ちゃんの世話をする母親の姿に触れ、自分を育ててくれた母親のありがたさを感じるようになったそうです。
また、母には満たしてもらえなかった話を聞いてほしい気持ち、寄り添ってほしい気持ちを、いま付き合っている相手が満たしてくれるようになったのだそうです。それが母への執着や欠乏感を手放せるようになった一番のきっかけだとMさんは言いました。
もし彼女が将来妻になり、また母になったとしたら、そのときにはまた新たな思いが生じ、母との関係性も変わっていくのかもしれません。
幼いころから心に傷を負わされ好きになれない母親を、本当は甘えたかったし好きでいたかったという相反する思い。自分を傷つけた母を好きでいてはいけないという思いと、母を嫌う自分が嫌いという、これも相反する思い。その複雑にからみ合った思いが、家を出て距離をとることや、自分の思いを受け止めてくれる存在によって、少しずつ解きほぐれていったのです。
「1回目と2回目で、母親の大切さは同じだったかもしれない。でも、母のことを好きでも嫌いでもいいんだ、と自分に許可が出せたような気がします。それと、私の中にある母親の理想像と、現実の母との違いを受け入れられるようになってきました」とMさんは口にしました。
仏教で説かれる「諸行無常」という教えは、はかなくせつない印象をもって語られることがありますが、この言葉の本質は「すべての物事は移ろいゆく」という意味で、良い・悪いという固定した意味は持っていません。万物の変化を良いとするのも悪いとするのも、それを見る「私」の目があってこそです。
幼少時からごく最近まで、Mさんと母親の関係性は息苦しいものでした。しかしそこにさまざまな縁が働いて諸行無常の風が吹き、淀んでいた空気は今、少しずつ動き始めています。
第十二回(2019.08.20)
『海辺の水仙』
参加者の名簿の中に、カタカナで書かれたものを見つけたとき、「おや?」と思いました。ニックネームかもしれませんが、運営をお願いしている法人から送られてくる名簿はだいたい参加者の本名が書かれています。「外国の方かな……言葉は大丈夫かな?」と少し心配しつつ、当日を迎えました。
実はそれまでも中国系や韓国系の名前を名簿に見ることは時々ありましたが、外見は日本人と変わりませんし、隣の国という親近感もあり、日本語以外まったくダメの私でも気負うことなく対応ができました。しかし当日やってきたのは、白い肌に青い瞳、スラリと高い背に空色のコートをまとい、そして燃えるような赤いロングヘアーをなびかせた、北欧系を思わせる女性でした。
彼女はロシア人のMさん(20代)、髪の毛はもともと金髪だったそうですが、温かいイメージが好きで10年以上前から赤に染めているのだそうです。
私は若干うろたえながら「あの……日本語は……?」と問いかけると、彼女はネイティブの日本人が話すようなイントネーションで「あ、大丈夫です、日本語話せます」と微笑みながら答えてくれ、私を安堵させてくれました。まあ考えてみたら、カタカナで名前を入力している時点で日本語に通じているはずだよな、と後になって気づきました。
この日は3月11日で、Mさんの誕生日も同じ日付なのだそうです。そしてもちろん、東日本大震災の日でもあります。彼女は高校生の時に日本のテレビ番組を見て、耳に入ってくる言葉に柔らかさと優しさを感じ、そこから日本文化に関心を持ちました。ロシアの大学で日本語を学んでいた彼女は、よりによって自分の誕生日に日本で起きた大災害に強い衝撃を受けました。Mさんは後に被災地を訪れ、また自分に何かできることがあるのではないか、と思い続けてくれています。
日本で暮らし、言語や文学を学ぶMさんでしたが、ここ半年ほどいろいろな悩みが続き、自分が本当に何がしたいのか、何を自分のよりどころとすればいいのか、整理して考えたいと思っていたのだそうです。そんなときに「死の体験旅行」の存在を知り、「自分の誕生日と大震災の折り合い、命と死の折り合いをつけるのに最適ではないか」と感じ、参加の申し込みをしてくれました。
その彼女が、自分にとって最も大切だと感じたのは、「この世に何かを残すこと」で、具体的には「詩を書くこと」でした。そう、Mさんは詩人でもあります。文字を書けるようになった幼いころから、ずっと詩を書いてきたのだそうです。最近では「人の心を癒やす詩」を書くことを使命だと感じるようになりました。
しかしその半面、自分は人に関してはあっさりしていると感じ、それにショックを受けたのだそうです。親ともとても仲がよく、先生にも恵まれ、良い友人もたくさんいるとMさんは言います。でも彼女は勉強のために母国を離れ、日本でもさまざまな学校への進学とともに引っ越しを重ねてきました。そのせいか、いつしか彼女は「その人と会えなくなっても、どこかで生きていることがわかっていたり、一緒の思い出があればいい」と考えるようになったのだそうです。
また、「人や場所はいずれ過ぎ去ってゆくけれど、自分の使命がずっと自分の使命であり続けるように感じている」とも言いました。自分で選んだ道ではあるけれど、でもそんな自分の気持ちに気づき、そこに驚きを覚えたようです。
またMさんは、2番目に大切だと思ったものとして、「日本海の海辺に咲く水仙」と口にしました。日本人でもそうそう出てこないような、演歌のバックに流れるような風景が、なぜロシア人女性の大切なものになったのでしょうか。
2年ほど前、真冬に北陸を訪れた際、大荒れの日本海に面している山に水仙畑が広がっていたのだそうです。一日の間に雪が降ったり止んだり、雷鳴が響いたりと目まぐるしく天気が変わっていく中、水仙が冷たい強風に吹かれながらも凛と咲いていることに、Mさんは感動をしました。それ以来、自分が苦しいときやつらいときには、たくましく咲く水仙のことを思い出すのだそうです。
Mさんは、そのときの思いを詩に込めています。自分が水仙から与えられた生きる力を今度は詩の形にして、他者のために伝えたいと思ったのでしょう。彼女が最も大切だと思った「詩を書くこと」の根底にある思いと、2番目に大切だと思った海辺の水仙は、どこかで深く繋がっているのだと感じました。
『海辺の水仙』
小さな水仙を
マフラーで包みたい
コートを脱いで
茎に着せたい
雪ブーツも根っこに
履かせたい
暖かい吐く息を
透き通る花びらに
だけど水仙は
優しく笑っているだけ
「人はこんな大きいのに
海風一つで大騒ぎだなんて
ずいぶん可愛らしいものね」
Maria Prokhorova 作
第十三回(2019.09.11)
『死を内包する者として』
「死の体験旅行」の発祥ははっきりとしないものの、欧米の終末医療の現場で作られたことは確かなようです。そのせいか、受講者の中で医療者が占める割合は少なくありません。Tさん(40代・女性)も看護師、しかも緩和ケア病棟で勤務され、仏教にも深く興味を抱いている方ですので、このワークショップを受けにいらしたのも必然であったように思います。
知人からの勧めで「死の体験旅行」を知り、自分だったらどんな心境になるだろうか、自分は本当は何を大切に思っているのだろうか、それが知りたくて参加をしてくれたのだそうです。また、緩和ケア病棟で働く自分にとって、このワークショップは必要だとも感じたとのことでした。
その知人からある程度の内容を耳にしていたTさんは、究極的には子どもと母が残っていくだろうと予想しており、また予想通りになったのだそうです。しかしその過程では予想外のことが次々とあらわれました。
「なるべく持たない」ということを心がけて生きてきたTさんですが、しかし思っているよりも物質に支えられているのだという気づきに驚かされました。また思い出が想像以上に大切だと感じ、未練など感じていないと思っていた故郷が大切な場所だったとも気づきました。
そして、やはり人。大切な人と過ごす時間がやがて思い出になり、それが自分を支えてくれている。「生きる」ことは人と関わることなのだ、など多くの気づきが押し寄せてきました。
そんな多くの物・記憶・人に支えられている自分が、ワークショップのストーリーで病を得てからは苦しみの時間だったそうです。物語が進むにつれ涙があふれ、周りの人からもため息やすすり泣きが聞こえます。「みんな苦しいんだな」と感じつつ、自分の大切なモノを取捨選択していきました。
大切なモノを手放そうとすると、手に力が入ります。思いきりと覚悟が必要とされ、手放した時には諦めと感謝が湧きだしてきました。
そして最期の時を迎え、しばらくの時が過ぎ……再び目を開いた時、「ああ、自分は生きているんだ、私には時間が与えられているんだ」と深い実感を得たのだそうです。
Tさんの職場は終末医療病棟ですから、患者が治癒をして退院することがありません。出逢った患者は100%の確率で亡くなっていきます。静かに死を待つ方、最後まで死にたくなくて苦しむ方、家族の「逝ってほしくない」という気持ちに苦しむ方。また、死にゆく患者が徐々に衰えていくことが受け入れられない家族。いろいろな方がいて、でも共通するのは「諦めなくてはならないことは苦しみ」だとTさんは言います。
「人は、必ず死ぬということを日々忘れたかのように生きていたり、また逆に死の恐怖に苛まれることもあります。しかし、死の世界のほうから生を見つめるという視点の転換は、生きる意味を教えてくれるかのようです」
そして、「なぜ自分は人として生まれてきたのか、何をするためにこの世に生を受けたのか、今なにをやりたいのか」と、ワークショップを通じ本当にさまざまなことをお考えいただけました。
ワークショップの最後に、参加者同士が感想や思いを交わしあう大切な時間があります。その時にTさんが耳にした感想は多種多様で、みなそれぞれに違い、その価値観はそれぞれに尊重すべきなのだと感じたのだそうです。
そして、死を目前にした患者の思いや価値観を尊重しながら、同じく死を内包している者としてその苦しみから目を背けず、寄り添っていきたい。Tさんはそう思いを口にしてくれました。
Tさんは今、看護師として働きながら仏教も学んでいきます。やがては僧侶となり、また臨床宗教師となって、病に苦しむ人の役に立ちたいと願っています。
医療と仏教は対極のもののようでいて、でもその両者が繋がればどれほど多くの苦しむ人の心が救われるだろうか、と私は以前から考えていました。少しずつ、医療者であり仏教者、あるいは宗教者という人材も増えつつあります。
Tさんの夢が現実のものとなるよう、私も強く念じています。
第十四回(2019.10.03)
『生まれる前から』
「死の体験旅行」はさまざまな会場で開催したり、研修会や勉強会などでお招きいただいていますが、ホームグラウンドと言えるのが東京都豊島区の寺院、金剛院さんです。ワークショップを受けてこの連載をお読みいただいている方の中にも、金剛院さんで受講された方が多いのではないでしょうか。
池袋から西武池袋線の各駅停車で1つめ、椎名町駅から徒歩1分もかからない好立地に金剛院はあります。境内の最も駅寄りの場所に地上2階・地下1階の多目的施設が建ち、1階はカフェ「なゆた」、地下1階と地上2階のホールはさまざまなプログラムで使用されていますが、静けさが大切な要素である「死の体験旅行」は地下の部屋が定宿です。
金剛院さんは都内で真言宗、私は横浜で浄土真宗と地域も宗派も違いますが、いろいろなご縁が重なってホールを使わせていただいています。第1回目のときはまだ建物は建築中で、お寺の客殿が会場でした。平日の夜に20〜30代の若い方が数多く集まりましたが、お寺の行事は普段は年配者が多いので、ご住職が驚いていたことが思い出されます。
今回ご紹介するHさんは20代の女性、というか20歳になったばかりの学生さんです。「何か面白い体験がないかな」と検索していたときに「死の体験旅行」を見つけ、学生のうちに多くの体験をしておこうと思い、申し込んでくれました。
受講の動機に明確な目的があったわけではありませんが、ワークショップが進むにつれ、Hさんはさまざまなことを思い出し、また考えていきます。
印象に残ったカードのひとつは「美味しいものを食べること」でした。書く時にはあまり深く考えず、文字通り美味しいものを食べるのが純粋に好きということで書いたようですが、物語が進んでいくうちに脳裏に浮かび上がったのは亡くなった祖父母、とりわけ食道がんを患ったお祖父さまのことでした。
人間にとって食べることはとても大切で、生きることに直結する行為です。しかし食道がんのために、早い段階から食べ物を味わい飲み込むことができなくなった祖父と、その祖父を看病する祖母をHさんは見ていました。もしかしたら、食べられないことに苛立ったり歎いたりする祖父の様子も、目にしていたのかもしれません。
けれどHさん自身はまだ幼かったため、お祖父さまにも、またやはりがんで亡くなるお祖母さまにも寄り添いきれなかったことを思い出します。何気なく書いた「美味しいものを食べること」でしたが、祖父母のことをまざまざと思い出され、その祖父母や「食べること」のカードは手放しにくくなっていきました。
けれど物語は進み、そうした大切なものを手放してゆき、そして最後に残ったカードは「母」でした。それ自体は珍しいことではありませんが、母のカードを選んだ背景に、直前に目にした自分と母の母子手帳の存在があったのだそうです。
Hさんは教職を志しており、社会福祉施設での介護等の体験を予定していました。そのために抗体検査が必要で、予防接種の履歴などを確認するために母子手帳を開きました。
そこにはもちろん、母親が自分を妊娠してから出産、その後にいたるまでさまざまなデータがこと細かに書かれています。そしてそういったデータだけではなく、備考欄や余白に子に対する思いや気持ちの変化などが書かれていました。
中でも印象に残ったのは、Hさんが5歳のときに生まれてはじめて親と離れた2泊3日のサマーキャンプに参加した際のメモで、それを見たHさんは心を動かされます。
バスに乗り込むときの私の期待と不安が入り混じった様子と、心配しつつも送り出す母の気持ちにはじまり、私が出かけた後は数年ぶりに一日中家が静かになったこと、母は数年ぶりに昼寝をしたこと、母は私がいないだけでこんなにゆっくりできるのかと驚いたこと、などが書いてありました。
最後に「でもやっぱり、かけがえのない存在なのだと実感したよ」と書いてあるのを見たとき、いつも自分が休むことよりも私や家族のことを考えて動いている母のことが想われて、いたく感動しました。
「物心がつく」という言葉があります。辞書には「幼児期を過ぎて、世の中のいろいろなことがなんとなくわかりはじめる」とあり、人生で最初の記憶が形成されるころでもありますので、個人差はありますがだいたい3〜5歳ぐらいでしょう。
それ以前の記憶を持つ方は(親などに聞かされて自分の記憶のようになった場合を除けば)あまりいないでしょうし、生まれる前の記憶など持ちようがありません。しかしHさんは母子手帳を通じ、自分が物心がつく前や生まれる前の母の気持ちに触れたのです。
もし母子手帳を見ていなくても、やはり「母」が一番大切だと感じただろうとHさんは仰います。けれど母の思いを目にしたことで、より大切だという気持ちが強くなったことは想像に難くありません。
Hさんは「死の体験旅行」を経験し、死とは、将来の夢も経験してみたいことも、すべてを諦めなければならないことなのだと強く実感しました。そして「現時点で健康に生きている私は、まだそれらを諦める必要がないこと、チャンスを与えられているのだということを認識し、感謝し精進しなければならないとも思いました」と言います。
そしてまた、今は自分自身の夢や将来についての未練ばかりだけれど、いずれ自分が母になったときは、自分の子どもや周囲への未練を感じるようになるのだろうかと感じ、またそのように歳を重ねていきたい、とも口にしました
そう仰るHさんの瞳には、自分を慈しみ育んでくれた母の姿がはっきりと映っているのでしょう。
第十五回(2020.01.20)
『自分に嘘をついている』
「私は自分に嘘をついている」と50代の男性Sさんは、全体シェアの場で口にしました。
ワークショップ「死の体験旅行」は、最初の導入部分からワークショップ本編を経て、少人数のグループで感想をシェアし、最後に参加者全員で輪になって全体シェアへと進んでいきます。進行役である私は参加者おひとりおひとりに感想を伺い、何が自分にとって大切だと感じたかを尋ねていきます。
そこでSさんは最初「ふたりの息子のうち、どちらかを選べなかった」と言い、数瞬の後に冒頭の「私は自分に嘘をついている」と言葉を続けたのです。自分の内側を見つめながら考え込むようなSさんを見て、その場ではそれ以上お尋ねすることはできなかったのですが、深い興味を持った私は後日詳しく話をお聞きすることにしました。
もちろん興味の対象は「自分についている嘘」という言葉の意味するところです。Sさんはその真意について、こう語り始めました。
「自分が下す判断が恐ろしく、直視できないことから目をそらすため、格好良いことを言いました。しかし、もっと心の奥底に本当のことがあり、それを誤魔化していることに気がついたので『嘘をついている』と申し上げました」
「死の体験旅行」では自分自身の大切なものが何かを考え、また自らが死に近づいていく疑似体験の中で、どれも手放しがたい大切なものを取捨選択していきます。Sさんはワークショップの終盤、大切なふたりの息子のどちらかを選ばなくてはならない状況で、どう判断すればよいのだろうかと真剣に悩み考えてくださったようです。
そこで考え至ったのは、自分は必ず何らかの判断を下すであろうということでした。ですので最初に口にした「ふたりの息子のうち、どちらかを選べなかった」ということが、自分についている嘘だったのです。
しかしその選択はあまりにつらく、自分だけが助かろうとするかもしれないし、判断を下さないために最初に自分がいなくなってしまえば良いのではないかとも考えました。でもそれは、残されたふたりの息子にさらにつらい思いをさせることになり、親として良いことなのだろうかとも考えたそうです。
さらに思考は深まり、頭の中で無理心中のようなシチュエーションを思い浮かべ、息子たちを道連れに自分が命を絶たねばならなくなったら、どちらを先に選ぶのだろうか。ひとりを殺め、もうひとりもと思った時にそれが果たせなかった場合はどうなるのか。その時、自分は何を思うのか。「そこまで知りたい」と思ったのだそうです。
なぜそこまで突き詰めて考えるのか。
Sさんは「知れば、そう考えた根拠について考えることができます。根拠と思考プロセスと原理がわかれば、対処方法がわかります。そうすれば、私はそれに対して恐怖を感じなくなります。自分は何が大切なのか、何に縛られているのか。自分の思考プロセスを知れば、そこから自由になることができるのです」そうおっしゃいました。
Sさんの話を聞き、私は「正見」という仏教の言葉が頭に浮かびました。仏教の基本的な実践徳目に「八正道」というものがあります。正しい考えや正しい言葉、正しい生き方などが説かれていますが、その8つの徳目の基本になるものが「正見」、つまり正しく物ごとを見るということです。
最初のインプットが正しくなければ、その後の行為がいくら正しくても方向がずれてしまいます。ですので正見が特に大切だとされているのです。
究極の判断を迫られた時にどんな判断を下すのか。突き詰めた結果を目を背けず「正しく見て」、それをもとに考え、対処し、恐れを取り除く。Sさんご自身も気づいていないかもしれませんが、とても仏教的な考えやプロセスをなぞっているように思えました。
それと同時に、仏教が先祖供養や墓参りのためだけにあるのではなく、今を生きる人の心の問題に対処し得る、2500年にわたって積み上げられてきた智慧なのだと改めて感じることができました。
全体シェアの場は人数も多く、おひとりおひとりと対話できる時間は長くはありません。ですので私が気づいていないだけで、他にも深く深くお考えになった方も数多くいらっしゃるのだと思います。
Sさんとのやりとりを通じ、自分が多くの人の「考える縁」になっていることを、私自身も気づかされました。
第十六回(2020.02.13)
『現実に立つ者の苦悩』
今回は初めて、「死の体験旅行」を受講していない方のお話です。
私とは住む地域も宗派も違う僧侶、Iさんと私の出逢いは、東京でおこなわれた僧侶向けの勉強会、「未来の住職塾」の1期生同士というものでした。ひと昔前までは、他の宗派や地域の僧侶と知りあう機会はそうそうなかったのですが、宗派を超えた交流や活動の増加、SNSの発達など、お寺の世界も大きく変化しはじめている時期でした。
とはいえ「未来の住職塾」は、その新しい流れの中でも最先端で、海外でMBA(経営学修士)を取得した僧侶が塾長となり、お寺の運営についてともに学び考える場として立ち上げられました。それまでは僧侶の学びといえば、教学と呼ばれる各宗派の教えを学問的に学ぶものがほとんどでしたので、非常に目新しい異質な場だったのです。
いわば当初は「海のものとも山のものともわからない」場に飛び込んだ1期生たちは非常に親しくなっていきました。そして同じ年齢(38歳)だったIさんと私は、受講生の中でもとくに親しい気の置けない間柄になりました。
一方、私が「死の体験旅行」を始めたのも「未来の住職塾」在学中でした。初開催には、塾の仲間たちが何人も駆けつけてくれ、死に携わる者として感想を言ってくれたり改善点のアドバイスをくれたりしました。しかし、その中にIさんの姿はなかったのです。
しばらくしてIさんとじっくりと話す機会がありました。ワークショップの様子が書かれたインターネット記事を読んだというIさんは、さまざまな感情が入り組んだような口調で、「あれ、何なんだよ……と思ったよ」と言いました。実はその直前、Iさんの奥さんはガンの告知を受けていたのです。
仏教でよく説かれる「無常」という言葉、自分でも口にしていたこの言葉が、こんなにも悲痛な響きや手触りを持ったものだったのかと痛感した。
今、妻は治療を受け、告知で受けた衝撃はだいぶ落ち着いてきたが、これからの不安や悲しみ、なぜなんだという思いは消えてくれない。
そんな時に浦上さんの「死の体験旅行」のことを知って動揺した。ワークショップの中で語られる物語は、妻が、自分が、子どもたちがこれから失おうとしているもの、失いたくないと切に願い恐れているもの、そのものだと思った。
そんな内容のものがワークショップとしておこなわれることに腹立たしさを覚え、「いま自分がそうでないからこそできるんだ」と何か不遜なものだと感じた。なんて残酷なことをするんだとも思った。
普段、それほど口数の多くないIさんは、きっと言いにくいであろうことを私に伝えてくれました。それを聴きながら私は、ああ、大切なことを伝えてもらっているんだ、忘れてはいけないことを言ってもらっているんだ、と感じたのです。
「死の体験旅行」は、想像力を働かせながら自分自身の「死」を味わっていくワークショップです。20枚の紙に自分の大切な物や思い出や人を書き、物語が進むとその紙を手放していきます。そしてその物語は、ガン患者をイメージしたものになっています。
私がこのワークショップにそもそも興味を抱いたのは、父の死がきっかけでした。
僧侶となって数年後、父が突然亡くなりました。それまでも自分なりに一所懸命に法事や葬儀を勤めていたつもりでしたが、父が亡くなったことで、「ご遺族はこんなにも悲しい思いや大変な思いをしているんだ」とわかり、より一層ご遺族の気持ちに寄り添えるよう努めるようになりました。
しかし時間が経つと、父を失った時の思いがどうしても薄れていきます。「なんとかあの時の気持ちを取り戻せないだろうか」と思っていた私の目に飛び込んできたのが、「死の体験旅行」について紹介された書籍の一文でした。
初めは自分自身が受けてみたいという興味だったものが、実際に受けてみて感想をインターネットに公開すると、多くの方から受講希望のメールが届くようになったのです。
「死に関することなんて、縁起でもないと一般の人は嫌うだろう」と思っていた私は驚きつつも、その声に応えようとワークショップを開催していくことにしました。
しかしIさんのように腹を立てたり悲しんだりしている人もいるんだ。「伝えたい」ということに気持ちが向かっていた私に、Iさんは大切なことを教えてくれたのです。
Iさんは「でも」と言葉を続けました。
だからこそ、この試みは絶対に止めないでほしい。
Iさんはその後、生死にまつわる現代社会の苦悩と向き合い、専門的な知識や実践経験をもとに行動する仏教者の育成を目的とした「臨床仏教師」となり、ご自身のお寺だけでなく、地域の福祉や医療の現場で活躍をされています。
そして「死の体験旅行」はIさんの予言(?)どおりに止むことなく続き、たくさんの方に受講していただいています。受講者の動機はさまざまですが、一定数いらっしゃるのが、自分の身内など親しい方が亡くなった、あるいは死に近づいているという方たちです。
亡くなった、あるいは亡くなりつつある大切な人が、どんな思いをしていたのか、どんな苦しみを抱えているのか、それを知りたいと思っていらっしゃるのです。
第十七回(2020.03.16)
本当のもの、本当でないもの
2020年2月の半ばから新型コロナウイルス騒動が始まり、様々なイベントが軒並み中止や延期になっています。僧侶も顔を合わせると、お寺の行事や春のお彼岸はどうしようかという話題でもちきりです。
私の庵も法話会などを中止にし、お彼岸についても様子を見ながら検討中です。法要はイベントと違い、誰ひとり参拝者がいなくてもお勤めはするので、プロ野球のオープン戦や大相撲のように無観客試合ならぬ無参拝者法要になります。しかし例年はお参りの方で賑わうだけに、もしそうなったらと思うと寂しさがよぎります。
「死の体験旅行」も3月の予定は中止になりました。他にも講演や法話などの予定もありましたが、それもほぼ全て中止か延期。普段は忙しい忙しいと口にしながら過ごしているのに、いざ時間ができてみると心に穴が空いたように感じます。
私が感じるのは今のところ寂しさぐらいですが、ニュースに目を転じると業種によってはたちまち閉店や倒産に追い込まれているところも少なくありません。卒業式を控えていた学生も学校に行けなくなってしまい、悲しい思いを抱えている方も大勢いることでしょう。
自分の手から大切なものが失われた悲しみを「グリーフ」と呼びます。「喪失悲歎」と訳され、主に家族や親しい方を亡くした場面で使われますが、物品や目標や機会を失った際にも用いられます。
「死の体験旅行」は、自分にとっての大切な人・もの・ことをカードに書き出し、ワークショップの進行とともにそれらを失っていく体験をしていきます。まさに全人的なグリーフを味わいつつ、自分にとって何が本当に大切なものなのかに気づいていきます。
受講者の中には、思い掛けないものがとても大切だったのだと気付く方も少なくありません。昨日までの毎日が、当たり前のように明日からも続いていくのだという感覚で見る世界と、自分の命の終わりを感じながら見る世界とでは、大切なものが全く異なってくるのです。
そんなことを考えながら、お寺のカレンダーをめくりました。浄土真宗で広く使われている「法語カレンダー」で、毎月仏教に関する言葉が書かれています。3月のページを見てハッとしました。
「本当のものがわからないと、本当でないものを本当にする」
明治生まれで昭和期に活躍した真宗大谷派の僧侶、安田理深さんの言葉です。
世間では当たり前だった日常が変わり始め、様々な形でグリーフを感じる機会が増えています。またデマや憶測が流れ、トイレットペーパーやマスクが買い占められ、咳をすれば白眼視され、自暴自棄な行動をする人も現れました。
漠然とした恐れと多種雑多な情報の波に飲み込まれ、狂想曲を奏でつつある私たちですが、見方を変えると「自分にとって本当に大事なものは何なのか」を見極める機会になり得るのではないでしょうか。昨日までの日々が明日以降も続いていく安心感が崩れた今こそ、何が本当のものか、そうでないのかを真に迫って考えることができるのです。
コロナウイルスの状況は一朝一夕では収まらず、まだしばらく続きそうな気配です。これからも私たちは難しい選択を迫られ、波のように情報が押し寄せてくるでしょう。そんな時に一瞬間を置いて深呼吸をし、「本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする」という言葉を思い出してください。そして「死の体験旅行」を受けたかのように、本当に大切なものを心の中心に据えて物事にあたってみてください。
私たち一人ひとりが少しずつ落ち着きを取り戻し、一日でも早くこの事態が収束するよう、心から願っています。
第十八回(2020.04.18)
『メメント・モリ 死を想う』(前編)
「死の体験旅行」の会場に早めに到着した方に「どこからいらしたのですか?」などとお尋ねすることがあります。もちろん関東近郊の方が多いのですが、遠方からいらっしゃる方も少なくありません。
細身で背の高いOさん(50代・男性)はわざわざ新潟からいらしたとのことで、何か思いがあっての参加なのだろうかと感じました。そのOさんはワークショップの本編を終えた後の全体シェアで、「病気で死を身近に感じた、あの時の気持ちを取り戻したいと思って参加しました」と話し始め、私はもちろん他の受講者たちも固唾を呑んで続く言葉に耳を傾けたのです。
Oさんは7年前にがん告知を受け、一時は「5年生存率」という言葉が出るほどの病状だったのだそうです。大変な闘病生活だったのでしょうが、その半面、自分の気持ちが澄みわたっていくのを感じたといいます。
その後、病状が良くなっていき、今は再発もなく元気に過ごしているのだけれど、闘病中の澄んだ気持ちはどこかへ行ってしまった。今回はその時の気持ちを思い出したい、取り戻したいと思って「死の体験旅行」に参加を決め、遠路をいとわずおいでくださったのです。
Oさんの言葉に感銘を受け、後日もっとくわしくお話を伺いました。その言葉を、個人を特定しないよう配慮しつつお伝えしたいと思います。
7年前、脇の下に違和感を感じて触れてみると、すでに片手でやっとつかめるほどの腫れを自覚しました。最初は軽い気持ちで近所の整形外科に行ったのですが、「総合病院に紹介状を書くので、そちらで検査をしてほしい」と言われ、そこでさまざまな検査を受けました。検査の結果が出るまで少しずつ不安が高まってきて、夜も眠れなくなってきましたが、「それでもまだ大丈夫」と自分に言い聞かせてその日を待ちました。
検査結果は「腫瘍」があるということ。ただし良性か悪性かまだわからないので、今度は大学病院に行くこととなりました。妻と恐る恐る診察室に入ると、「まずは簡単な検査をしましょう」と注射器を患部に刺して中身を抽出。すぐに結果が出るということで待合室に戻りました。
30分ほど後、名前を呼ばれてもう一度診察室に入ると、そこには先ほどはいなかった白衣の若者が何人か立っていました。妻はこの光景を見た瞬間、結果がわかったそうです。大学病院なので、教育の一環として研修医を告知の場に立ち会わせたのでしょう。
主治医は低い声で「残念ながら良いものではありませんでした」と告げ、自分は整形外科医なので今後は血液内科の医師を紹介すると言います。私は思わず「先生、私は3か月後に生きているのでしょうか?」と聞きました。進行の早いがんにかかった有名人が、3か月で亡くなったことを思い出したのです。
先生の答えは私を失望させるものでした。「Oさん、私だって3か月後に生きているかはわかりません」
そんな禅問答のような答えでさらに私は気落ちし、診察室を出たのでした。廊下に出ると妻が泣き出しました。私には泣く力さえ残っていませんでした。
その瞬間から私は「がん患者」になりました。いままで永遠に続くと錯覚していた人生の終わりが見えたのです。頭の中に砂時計が浮かび、砂がサラサラと落ちていきます。自分の残り時間がどんどん減っていくような気がしました。未来がないということは希望が持てないということだと思いました。
お金や地位があっても命は救えないことは、その当時亡くなったアップルのスティーブ・ジョブズの訃報で頭ではわかっていたつもりですが、自分がそうなってようやく実感できました。
最初こそ人に聞いてもらいたくて話をしましたが、そのうちやめました。相手が表面上のお見舞いを言うだけで、しょせん他人事と思っているのが手にとるようにわかりました。そして自分も以前はそうして人を傷つけてきたことを思い出し、自業自得だなと思いました。特に悲しかったのは、私の話を最後まで聞かずに途中から自分の経験を話し出す人です。がんとは関係ないことを、「自分はこうやって乗り越えた、だからがんばれ!」と、なんだか自慢話を聞かされているようで、つらい経験でした。
がんになった瞬間、ことばが通じなくなったと思えたのもそんな時です。気持をわかってもらいたいのに、私のことばは相手に通じない。まるで突然異国に放り出されたようで、本当に心細かったです。人が大勢いればいるほど孤独を感じました。
でも、そんな私を助けてくれたのもやはり人でした。ご自分ががんになった方。家族ががんになった方。医療の現場で日々がん患者を診ている方。こうした人たちは私と同じ「言語」で話してくれました。私は元のことばを話せなくなりましたが、彼らはバイリンガルだったのです。それがどんなに心強かったか。これらの人たちによって私は救われたのでした。
Oさんをつらくさせたのも人のことばですが、しかし救ったのも人のことばでした。それは何かひとことの「魔法のことば」などではなく、同種の苦しみを味わったり身近に感じたりした人だけが共感しあえるもの。もしかすると音声として発せられるものだけではなく、ただただ側にいてくれたり話を聞いてくれたりするような「空気感」だったのかもしれません。
第十九回(2020.05.01)
『メメント・モリ 死を想う』(後編)
前編に書いた通り、一時は生存率に話が及ぶほどがんが進行していたOさん。しかし幸い病状は回復し再発もありませんが、しかし闘病中に感じた「澄みわたった気持ち」とはいったい何だったのでしょうか。それは、いのちの期限を眼前に突きつけられたことによって、よけいなことが頭から取り除かれ、純粋に「生きる」ことに目が向いた結果に生じた副産物だったのではないでしょうか。
私はOさんの話を聞きながら、ある詩を思い出していました。北海道のお寺の奥さんで、幼稚園の園長もしていた鈴木章子(あやこ)さんの『ヘドロ』という詩です。鈴木さんはお寺と幼稚園の仕事で忙しかったさ中の43歳でがんになり、闘病をしながらさまざまな詩を書き、そして47歳で亡くなられました。
『ヘドロ』
体力が回復するにつれ
こころに
ヘドロがまとわりついてきた
癌告知のあとの
あの数日間の
洗い流したような
われながら
サッパリとした
清涼なこころが
汚れてゆくのがわかる
(『癌告知のあとで なんでもないことが、こんなにうれしい』鈴木章子 探究社)
この詩をOさんに紹介すると、こんな感想が返ってきました。
ヘドロがまとわりつく。生々しい表現ですが本当にそんな気がします。
闘病中は命と向き合いながら生きていたので、今日も一日過ごせたというだけで純粋に全てに感謝する毎日でした。それが健康になるのと反比例するように忘却のかなたへ遠のいていく、あんな貴重な体験を生かせないと思うと反省しきりです。
現代の日本は医学も科学も進歩し、日常ではあまり「死」を身近に感じることはありません。しかし期せずして今、死の気配がその濃さを徐々に増しています。
この記事を書いているのは2020年4月中旬、新型コロナウイルス騒動のさ中です。日に日に感染者は増え、亡くなる方もおられます。私たちにも、少しずつ死の恐怖や不安がにじり寄ってきているように感じ、著名人が感染したり亡くなったりするニュースを見ると死について想わずにはいられません。
「メメント・モリ」という言葉があります。
もともとはラテン語で、「自分がいつか必ず死すべき身であることを忘れるな」という意味の言葉で、古代ローマの将軍が戦に勝って凱旋をした時、使用人に耳元で囁かせたという逸話があります。戦勝によって気分が高揚している時こそ、冷静になって我が身を省みるための警句だったのでしょう。日本にも「勝って兜の緒を締めよ」ということわざがありますが、通ずるものがあります。
元の意味から派生して、死について考える、死について想う、といった使われ方もします。私たちは生まれた瞬間から、片足どころか両足を棺桶に突っ込んでいますが、それを見ないよう、気づかないようにしながら暮らしています。しかし「メメント・モリ」のような死にまつわる格言・箴言は数多くあり、それだけ死を見つめるのは大切なことなのだと古今東西で考えられていたのでしょう。
いま、世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るい、私たちは不安におののき、死の恐怖を感じています。一刻も早く治療薬やワクチンが開発され、安心して元の生活に戻っていきたいと心の底から願っています。
しかしそれと同時に、いま私たちが味わっている不安・恐怖・焦り・苛立ち・悲しみ・絶望などを無かったことにしてはいけないとも感じています。Oさんがそう受け止めている通り、私たちは一見マイナスに思えるような事柄からも何かをを学び、そして成長することができるからです。
そのためにも今、予防に努め体調に気を配って生きていきましょう。
将来、この騒動の記憶も薄らいだころ、次の世代の若い人々に対して、私たちが学び得たものをともに伝えるために。
第二十回(2020.06.07)
『コロナ禍と死の体験旅行』
2020年6月、新型コロナウイルス感染拡大防止のために発令されていた緊急事態宣言は解除されたものの、病魔はなくなったわけでも克服されたわけでもありません。しかし生きていくために働かなくてはいけないと、おそるおそる社会は動き始めています。
しかし元の生活にはほど遠く、利き手でない側で生活をするようなギクシャクとした不便さは、いつまで付きまとうのだろうかと途方に暮れてしまいます。とくに人と人とが密に接することは慎重さが求められ、ワークショップ「死の体験旅行」は再開の目処が立たず、ライフワークとして長年続けてきた私にとって体の一部が失われたような時間が過ぎていきます。
こういった喪失感はもちろん私だけでなく、多かれ少なかれほとんどの人が感じていらっしゃることでしょう。だから自分だけが泣きごとを言うわけにはいきませんが、ふと「このコロナ禍で引き起こされる喪失感と「死の体験旅行」には共通点があるのではないか、と感じました。
「死の体験旅行」は、まず自分のまわりにある大切なモノ・コトをカードに書き出すところから始まります。家族や親友、愛するペットのような生きているモノの場合もあるでしょうし、大切な人からもらった物や思い出が詰まった記念の品などが思い当たるかもしれません。
そういった形あるモノだけでなく、旅先で見た美しい光景だったり故郷の風景を思い描くかたもいるでしょうし、自分の人生において成し遂げたいと心に秘めている夢や目標が湧き出してくるかたもいらっしゃるでしょう。
大切なモノ・コトを書き出すのはワークショップの準備段階に過ぎないのですが、ここですでに大事な気づきを得るかたも少なくありません。それは、自分はこんなにも多くの大切なモノやコトに囲まれていたのか、という気づきです。
普段生きている時には「あれがない、これが足りない、何とかして手に入れなければ」と、遠く狩猟生活の時代のように日々何かを求めて生きています。しかし立ち止まってじっくりと考えてみると、すでに多くの大切なものを得ていたことに気づくのです。
しかし、ワークショップの本編が始まると、その大切なモノやコトがひとつずつ失われていくような体験が続きます。時が進むにつれ、会場にはため息やすすり泣く声が静かに響いていきます。
コロナ禍で、あなたは何を手放し、何を失ったでしょうか。
単身赴任先から自宅に戻れなくなり、家族との時間を失ったかたがいます。ちょうど妻の出産時期が重なり、いつまで経っても子どもの顔すら直に見ることができないというかたもいるそうです。
時間をかけて準備し、ようやく創業したり開店した矢先にこの騒動が始まって夢を失った人もいます。夢を失っただけでなく、ただ負債だけが残ったというかたもおり、その心中を思うと胸が締めつけられるようです。
反対に長年続けてきた会社やお店を閉じなければならないかたも少なくありません。自分の代で閉じなくてはならない申しわけなさや、努力が通じない虚無感に襲われ、いのちを絶つかたもいらっしゃいました。
さまざまなことを学び、また楽しんでいこうと思い描いていた学生生活を諦めなければならない若者もいます。もしかしたら進学する時には漠然としか捉えていなかった自分の未来が、失われるかもしれない状況になってその大切さに気づくことがあったかもしれません。
大切なモノやコト、自分の過去や未来が引きはがされるような今の生活は、まるでカードに書き出した大切なモノ・コトを苦しみながら手放していく「死の体験旅行」のようだと私は感じました。しかもそれは仮想体験ではなく、現実のできごととして私たちの目の前に迫ってきます。
ひとつ違うのは、ワークショップではその名前のとおり最後に死を迎えますが、私たちの未来はなにひとつ決まっていないということです。
仏教には根本的な教えとして「諸行無常」というものがあります。すべてのものごとは一瞬も止まることなく移り変わり続ける、という意味です。何千年も同じように存在している川も、その水は流れ続け変化をし続けています。
コロナ禍によって私たちには大きな変化が突きつけられました。それによって苦しみ、亡くなるかた、いのちを絶つかたもいらっしゃいます。しかし「死」だけは不可逆なものです。失われたいのちは決して帰ってくることがありません。
「諸行無常だから、今の苦しみを乗り越えたら、きっと良いことがあるよ」と言いたいところですが、しかしこの言葉は「すべてのものごとが移り変わり続ける」という意味ですから良い方向に進むとは限りません。たとえば今年の冬に病魔が再流行し、もっと長く苦しいトンネルに入る可能性だってあるのです。
しかしそれでも、良くなることを信じて生きていこうと言いたい。みなさんひとりひとりが、大切なモノ・コトを書いたカードを失うような苦しみの中にいらっしゃることはわかっています。私も同じように喪失感や焦燥感に苛まれています。
しかし、“自分のいのち”というカードだけは手放さないようになさってください。生きていなければ、トンネルを抜けた先の世界を目のあたりにすることができないのですから
第二十一回(2020.07.07)
「受け継ぐもの」
ワークショップ「死の体験旅行」は、何が自分にとって大切なものなのかに気づいたり、あるいは大切だと思っていたものが意外と重要度が低かったことに気づかされたり、多くの人にとって新鮮な発見が得られ内容です。
大切な人や物や事を書いたカードを、ワークショップの物語が進むとともに悩みながら手放していきます。何を手放し何を残すのか、そこに正解はありませんし、違うタイミングで受ければ変化も生じます。1日ずれただけで、人生で最も大切なものが変わり得るのです。
そうはいっても、何が残りやすいかの傾向はあります。私は190回以上の開催で3600人以上のかたにお受けいただきましたが(2020.6現在)、やはり最後の方に残りやすいもの、また最後のひとつに残りやすいものは「人」であることが大多数です
そして「人」の中でも最も多いのが「母」です。受講者の年代によっても傾向は変わってきますが、私の今までの開催では20〜50代の受講者が多く、まだ両親が健在という場合がほとんどです。なかには年配の受講者が、亡くなった母親を最も大切だと感じることもあるぐらいです。
同じ親であるのに、母に比べて父は少ないです。細かい統計を出してはいませんが、8対2ほどでしょうか。私自身が男性ですので悲しくなってきますし、「母は強し」とはこのことかと思ってしまうほどです。
「やはり産んでくれたのは母親だし、多くの家庭では母親と過ごす時間のほうが長いからだろうな」と漠然と思っていましたが、ある開催の時にそれは「時代」の影響があるのではないか、と気づきました。
2018年の夏、札幌のお寺に招かれ2回のワークショップを開催しました。そのうちの1回で女性受講者2名が立て続けに「父」が最も大切だと感じたと言いました。私は、珍しいことが重なったなと思ったのですが、話を聞いてみるとそれは偶然ではなく必然だったのです。
その女性受講者2名は、実はおふたりとも僧侶です。僧侶は男性であるイメージが強いかもしれませんが、尼僧という言葉もあるように女性僧侶も少なからず存在します。
お寺の住持職(住職)が世襲されるようになったのは、浄土真宗以外では明治以降のことなので、それほど歴史は長くありません。明治や大正や昭和初期は夫婦間の子どもの数が多く、それは住職を継ぐ男子がいる可能性が高いことにつながり、結果として住職の圧倒的多数は男性でした。
しかし昭和も中期に入ると夫婦間の子どもの数は減り、お寺でも男子がいない場合も珍しくありません。それでも娘が婿を迎えて後継住職にする場合が多かったのですが、時代の変化か近年になると、お寺の娘がそのまま僧籍を得て住職となる例も増えてきました。
札幌で受講し、父が最も大切だと答えた2名の女性僧侶もお寺に生まれ、おひとりはすでに住職となり、もうおひとりも将来住職となってお寺を継ぐ立場だそうです。
親から子に住職の座が継がれる場合、現在の一般的な親子関係とは大きな違いがあります。都市化が進み会社などに勤務することが多くなると、働き手は家の外で仕事をし、また親と子が同じ職種に就くとは限らなくなります。
お互いが仕事場で何をやっているか、詳しくはわからない。がんばっているのだろうなとは思っても、どんな仕事ぶりかは見えてこないのです。そうすると、親と子は、ただ親と子だけの関係になります。
しかし住職と跡継ぎということになると、親は親であり、また職場の上司や先輩であり、また宗教的な師であるという複数の顔を持つことになります。そうなると、「家の外でなんらかの仕事をしている人」とはまったく違った存在感を放つことになり、結果として「自分にとって最も大切な人」と感じられる場合が増えるのではないでしょうか。
この話はなにも、お寺の世界は特殊ですよと言いたいわけではありません。お寺だけでなく、比較的最近になるまで、仕事は親から子に受け継がれるものでした。農家に生まれた子は畑を耕し、職人の子は親から技術を教わり、商人の子は親から商いを学んだのです。
だから江戸時代や明治時代の人が「死の体験旅行」を受けたとしたら、現代と父母の比率は逆転するかもしれません。自分の人生において何が最も大切なのかという普遍的に思えることすら、少し時代が移れば変化をするのです。時代だけでなく、国や言葉や宗教や性別が違えば、絶対だと思えることも変化するのでしょう。
お釈迦さまの教えに「諸法無我」というものがあります。「この世の中に絶対的なものや永遠不変のものはなく、全ての事象は無数の原因や条件が複雑に絡みあって生じる」という意味の言葉です。
ワークショップの参加者同士のシェアリングを聞いていると「こう考えることが常識だと思っていたけど、他の人の意見を聞いて自分の常識が打ち壊された」という意見を耳にすることがあります。たとえ仏教用語を使わなくても、ワークショップを通じて仏教の要を伝えることができるのだな、と感じる嬉しい瞬間です。
 
浦上哲也(うらかみ・てつや)
1973年、東京都内の一般家庭に生まれる。一般の高校、一般の大学を卒業し、一般企業にも勤めたが、縁あって浄土真宗の僧侶となる。その後、「自分らしい方法で仏教をひろめたい」と発願し、平成18年に民家を改装して俱生山(ぐしょうさん)なごみ庵を開所。山号の「俱生山」には、「俱(とも)にこの世を生き、俱に浄土に生まれる」という願いが込められている。法話会や写経会、全国の寺院での仏教演劇公演、僧侶による自死対策など幅広く活動。さらに、もとは医療系のワークショップである「死の体験旅行」を一般向けにアレンジし開催。死を見つめることによって〝いのち〟について考え、自分にとって何が本当に大切なものかを再確認できる内容として、メディアからも注目を集めている。
慈陽院なごみ庵 https://753an.net