一度、死んでみませんか(back01)

一度、死んでみませんか

一人称、二人称、三人称の死をおもう
死の体験旅行へようこそ


  第一回(2018.10.31)

死の体験旅行へようこそ

「死」について話したり考えたりすることは、ちょっと前まで「縁起でもない」と避けられていました。
 たとえば両親に「亡くなった後のことを考えよう」などと持ち出せば、「お前は親が死ぬのを待っているのか!」と怒られましたし、重い病気になった人が「自分に万が一のことがあった場合は…」と話しはじめると、「そんなことを考えたらダメだ」と思考そのものをストップさせられました。

 1996年に発表されたTHE YELLOW MONKEYの名曲『JAM』に、それを象徴するような歌詞があります。
 外国で飛行機の墜落事故があったことを報じる日本のニュースキャスターは、嬉しそうな顔で「乗客に日本人はいなかった」と伝えている、という言葉です。
 歌詞の一部分を抜き出して、良いとか悪いとか言いたいわけではありません。ただこの頃はまだ、多くの乗客が亡くなったであろう「死」の面からは視線をそらせ、犠牲者に日本人はいなかったという「生」の面を強調した報道があった、ということではないかと思います。

 けれど最近になって「終活」や「エンディングノート」や「デスカフェ」など、「死」にまつわることを口にするタブー感が薄れてきたように感じます。最近と書きましたが、もっと具体的には2011年3月11日。そう、東日本大震災が大きな転機だったように感じています。
 あの大災害は、私たち日本人の意識を変えました。いえ、むしろそれまで日本人が何度も何度も経験して体得した、「いつ天変地異が起こって、人は亡くなり町は消えるかわからないぞ」という無常観を思い出させてくれた、と言った方が正しいかもしれません。
 文明や医学が発達して、我々は自然を征服した、死すらコントロールできるのではないか。そう思い上がっていた私たちに、自然の猛威の前には人間の力など微小なものであり、「死」も突然に私たちの眼前に現れるのだ、と思い出させてくれたのです。
 あの時から私たちは、「死」を考え語ることが必要だと思うようになったのではないでしょうか。

 フランスの哲学者、V.ジャンケレヴィッチに『死』という著書があり、一人称の死、二人称の死、三人称の死、ということが書かれています。文法の授業みたいですが、それぞれ「自分の死」、「近親者の死」、「他者の死」となります。
 ジャンケレヴィッチは、それぞれの違いをこう記しています。
「第三人称の無名性と第一人称の悲劇の主体性との間に、第二人称という、中間的でいわば特権的な場合がある。遠くて関心をそそらぬ他者の死と、そのままわれわれの存在である自分自身の死との間に、近親の死という親近さが存在する」

 三人称の死はあまりに自分とかけ離れていて、私たちに何か大切なことを気づかせてくれるにはやや力不足です。
 かと言って一人称の死、つまり私の死は大ごと過ぎて、そこから何かを学ぶのは難しいことです。
 だから本来、自分にとって大切な近親者の死こそが、自分に何か大切なことを気づかせてくれる機縁たりうるのだと思います。

 とはいえ、今まで目をそらしてきた「死」について考えるのは容易ではありません。だからこそ前述のように「終活」や「エンディングノート」や「デスカフェ」などが人々の注目を集め、また私が主催するワークショップ「死の体験旅行」に多くの人が集まっているように感じます。
「死の体験旅行」は、もともと欧米のホスピスで開発されたといわれています。本来の目的は、ホスピスのスタッフが、患者が体験する喪失感・苦しみ・悲しみを疑似体験し、よりよい看護・介護に生かし、患者のQOL(quality of life=生活の質)を高めるというものです。
 20枚の紙に、自分の大切な物であったり夢であったり、思い出であったり人であったり、様々なかけがえのないモノを書きだしていきます。こうして書きだすだけでも、自分の人生を振り返り俯瞰するような非日常的な感覚になります。

 しかしこれは準備段階。本編では、私が「ある人物」のストーリーを語り、参加者はそれを「わがこと」として耳を傾けます。「ある人物」は体調の変化をおぼえ、病状が悪化し、やがて死に向かって進んでいきます。
 その過程で「あなた」は、最初に書いた大切なモノたちを手放し、捨てていきます。どれも大切なモノですが、私たちは死出の旅に何も持っていくことはできません。ある時は力およばず、ある時はあきらめ、ある時は解放してあげるような気持ちで手放していきます。
 多くの場合、ワークショップが終わった静寂のなかに低い嗚咽が響きます。でもそれは悲しいだけの涙ではなく、自分がいかに大切なものに囲まれていたのかに気づいた喜びの涙、感謝の涙でもあります。
 多くのかたが受けていますので、受講の動機も感想もさまざまです。これから、「死の体験旅行」を受けたかたの思いや気づきをご紹介し、また私が僧侶として学び経験してきたことを綴っていければと思っています。

「縁起が悪い」などと言わず、しばらくお付き合いいただければ幸いです。


  第二回(2018.11.27)

「恐怖」

「死の体験旅行」では、ワークショップ終了後にシェアの時間を設けています。そこで参加者の言葉に耳を傾け、その奥にある気持ちに思いを馳せるのは、私にとって大切なライフワークになっています。
 ただ、ワークショップの時間の中では、おひとりおひとりの気持ちをくわしく掘り下げていくことはできません。ですので、Facebookや掲示板を利用して、時間内に話せなかったお気持ちをうかがっています。
 今回は掲示板に書かれたなかで、ある意味もっとも私が嬉しく感じた感想を紹介させていただきます。

「WS当時、私はもう死んでも良いと真剣に思っていました。死に関して本を読んだり、死後について考えたりの日々でした。それもあってのWS参加でした。
(中略)驚いたのは、あんなに死んでもいい、人生終わりでいいと思っていた自分が、ストーリーが進むにつれて死ぬことを恐れているのです。
 受講後、冷静に自分の人生を振り返るようになりました。最近は死が訪れるまで真剣に生きようと思えるようになっています。死に対する恐怖はずっとあり続けるでしょう。でも、それを認めて暮らそうと思っています。」

 私は「自死・自殺に向き合う僧侶の会」という、宗派を超えた僧侶の集まりで活動をしています。文字通り自死問題に対応する会なので、「死にたい」という声にはとても敏感になってしまいます。
 この参加者さん(掲示板には「mk」と書かれていました)は、くわしい理由はわかりませんが、もともと希死念慮を持っていらしたようです。死について思いを巡らす日々のなか、「死の体験旅行」を知り参加しようと思ってくださったのは必然だったように思います。
 mkさんはワークショップを進めるなかで、あれほど思い焦がれていた「死」に恐怖感を感じました。そして「死が訪れるまで真剣に生きよう」と思うほどに気持ちが変化をしたというのです。

 ごく最近になるまで、死はもっと身近にあるものでした。1976年(昭和51年)までは病院や施設よりも自宅で亡くなる方が多かったので、看取りは日常的なことだったでしょう。さらに明治以前にさかのぼれば、道端に行き倒れの遺体が転がっていることも珍しくなかったと思います。
 また東日本大震災でも、震災直後は被災地の自殺率が大幅に下がったというデータがあります(とはいっても時間の経過とともに、震災によって発生した大きな苦悩によって自死される方は増える傾向にあるのですが)。
 つまり、死が身近に感じられる状況では「死」は恐ろしいものとして捉えられ、自死したいと思う方、実行してしまう方が減るものと思われます。
 それが現代に近づくにつれ、福祉や医療が発達し、「死」は私たちの視界から見えにくくなりました。それ自体は悪いことではありませんが、死をリアルに感じることが難しくなった結果、かえって死にたいと思う方が増えたというのは皮肉なことです。

 お釈迦さまは2500年前、シャカ族の王子としてお生まれになりました。非常に繊細な性格を心配した父王から、過剰なまでに大切に育てられ、宮殿の中で病人や老人や死者などを見ることなく成長したと伝わっています。
 しかしある時、続けざまに病人・老人・死者を目の当たりにします。そして「やがて自分も病み、年老い、死んでいく存在なんだ」と我がこととして受け止め、どう生きていくべきかを追い求め出家をされました。
「死」から目をそらしていれば死なないというのなら、別に考える必要はありません。しかし考えようと考えまいと、かならず死は私たちのもとを訪れます。であれば、死について時には真剣に向きあい考えることは、自分の人生を誠実に生きることに繋がるのではないでしょうか。
 そう、mkさんが「死の体験旅行」を受けて死の恐怖を感じ、そして「真剣に生きよう」と感じてくださったように。


  第三回(2018.12.20)

「私の中のエゴに……」

「死の体験旅行」を始めて間もない頃、印象的な感想を口にした若い女性がいました。その頃は30代ぐらいの受講者が多かったのですが、その方は20歳前後に見え、学生さんかな、それとも社会人なりたてかな、という初々しい雰囲気でした。平日夜の開催なので仕事帰りの方が多いのですが、彼女は服装やメイクの感じも少し華やかだったので、より印象に残ったのかもしれません。

「死の体験旅行」の本編を終え、最後の全体シェアでひとりひとりの感想に耳を傾けていました。彼女は「最後の1枚は、ママです」と言いました。
 最後の1枚が「母親」というのは、とくに珍しくはありません。というより、おそらく最も多いのが「母親」ではないかと思います。父親も母親も大事な親であることに違いはないのでしょうが、自分を産み育んでくれた存在ということで、ギリギリの選択では「母」となるのでしょう。また、ストーリーの中で自分が体調を崩している場面を想像した時、幼い頃に母に看病された記憶が脳裏に浮かぶのかもしれません。
 受講者の年代が若く、親が元気でいらっしゃる方が多いということもあるのだと思います。これが年配者向けの開催で、親が亡くなっている年代の方が受講すれば、また結果は違ってきます。

「最後の1枚は、ママです」と言った彼女は、さらに言葉を続けました。
「私はママととても仲が良くて、友だちみたいな親子なんです。ママのことが誰よりも一番大事だと思っていました。けど最後の1枚のカードを見て、私はその大事な人に、自分の子どもが死ぬ姿を見せてしまっているという状景が目に浮かんだんです。ママが一番大事だと言いながら、それよりも自分の方が大事だっていうエゴがあることに気がつきました」
 私はその言葉を聞いて驚きました。思わず尼僧にスカウトしようかと思ったほどです。
「私はママが大好きで、やっぱり一番大事でした」という言葉だけだったら、記憶に強くは残らなかったでしょう。しかし、そこから一歩も二歩も踏み込んだ自己認識の言葉にギャップを感じ、驚かされたのです。

「エゴ」は「エゴイズム」の略で「自我」と訳されます。自我は誰にでも備わっているものですから、本来は良い・悪いというニュアンスを含まない言葉ですが、一般に言う「エゴ」は「自己中心的・利己的」という意味で使われます。彼女が口にした「エゴ」も、その意味で使われました。
 一方、仏教では「自我を捨てて無我の境地に至れ」と説きます。現代風に言い換えると、「自分が持っている自己中心性に気づき、あらゆる苦悩の原因が自我に執着することであると知り、それを手放す努力をしなさい」という意味になります。
 もちろんそう簡単に達成できることではありませんし、難しいことだからこそ仏教には多くの宗派があって、それぞれに自我を手放すためのメソッド(修行)があります。
 一般の方は無我の境地に至ることまで考えないでしょうが、それでも時として無我に近づいて心をラクにしたい、抱え込んでいるものを一度肩から下ろして一息つきたい。そう思って坐禅会や写経会に足を運ぶのではないでしょうか。

 彼女は無我になったわけではなく、その手前の自我に気づいただけです。でも、「気づく」ことは「変わる」ことの入り口です。その後の彼女の生き方は、おのずと変化していったのではないかと思います。
 また、このワークショップを始めて間もなかった私は、一見仏教的な要素が色濃くない内容ではあっても、そこから得られる気づきは仏教的なものに成り得るのだと気づきました。それまではある意味、状況に流されるように開催していたものが、「死の体験旅行」も仏教で説いている大切なことを伝える手段になるんだ、そう気づかされたのです。
 彼女の言葉はきっと彼女自身を変え、また私をも変えてくれたのです。


  第四回(2018.12.28)

「仏教と正月と生と死と」

 いつも拙い文をお読みいただき、ありがとうございます。
 今回は「死の体験旅行」受講者の声ではなく、「仏教と正月と生と死と」と題してお送りします。

「おめでたい」正月と、葬儀やお墓の印象が強い仏教と、真反対のイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。ですが、お盆やお彼岸と並び、お正月に墓参をされる方は少なくありませんし、初詣ではお寺に行くという方も大勢いらっしゃると思います。また、お寺でお正月ならではの行事に参加したという方も多いでしょう。

 お正月といえば、一休さんに多くのエピソードがあります。往年のアニメの影響で、一休さんと聞けばかわいらしい小僧さんを思い浮かべるかもしれませんが、伝わっている肖像画は味わいのある風貌で、歌手の槙原敬之さんにどことなく似ています。名を一休宗純といい、奇行で知られた室町時代の臨済宗僧侶です。
 ある時、知り合いの商人に、「正月に床の間に飾る書をしたためてほしい」と頼まれた一休禅師。それを引き受け、書いたのは「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」という文字。それを見た商人は「めでたい書を頼んだのに!」と腹を立てますが、「世の中には逆縁と言って、親より先に子や孫がいのちを落とすこともある。この書のように親が死に、やがて子が死に、またやがて孫が死ぬ。こんなめでたいことが他にあろうか」と一休禅師に諭されたといいます。
 一休さんに書を頼むような粋な方ですから、きっとなるほどと得心がいって床の間に飾り、正月の来客に自慢気に語って聞かせたことでしょう。

「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という歌も、一休さん作と伝えられています。
 最近は家庭ではあまり見ませんが、商業施設や会社の入り口には門松が飾られています。言わずとしれた正月の縁起物です。かたや一里塚は、昔の街道で距離の目安にするため、一里(約4km)ごとに目印を付けたものです。門松をこの一里塚に見立てているのですが、そこには昔の年齢の数えかたが関係します。
 今でこそ誕生した時は0歳、丸1年経って誕生日が来れば1歳と数えます。しかし明治以前は「数え年」といって、生まれた時は「ひとつ」で、正月にみないっせいに年をとるという数えかたをしていました。年末に生まれれば、生後数日で「ふたつ」になってしまうこともあったようです。
 正月にいっせいに年を取るので、門松を「冥土の旅の一里塚」と喩えたのでしょう。その後の「めでたくもあり めでたくもなし」は、正月だからおめでたいけれど、半面、ひとつ年をとってあの世に近づいてしまったなぁ、ということでしょう。
 また、この言葉を言い放った時の一休さん、伝わるところによると杖の先に人間の髑髏(どくろ)を突き刺し、家を一軒一軒まわったそうです。正月で楽しい気分でいるところに、突然坊さんがやって来て頭蓋骨を見せつけながら「門松や〜」なんて言うのですから、世にも稀な僧侶として、現代までその言動が伝わっているのかもしれません。ちなみに今それをやれば、死体損壊罪で逮捕です。

 3年ほど前、正月早々のご葬儀がありました。人の生き死には正月も連休も関係なくやってきます。とくに年末年始は寒い季節なので、火葬場が閉まってしまう元日などを除き、いつお参りに行くことになるか油断できません。まさに「盆も正月もない」といった状態です。
 亡くなった男性は70代後半。とてもお元気で赫灼(かくしゃく)としていて、マメな性格の方でした。年末に亡くなったので、年を越して1月3日・4日で通夜葬儀だったかと思います。
 日も暮れ、気温もいっそう下がりつつある夕刻、家族や親族、亡くなった方の友人知人が集まってきました。その方たちの多くが、手に手に年賀状を持っているのです。葬儀の場に年賀状? と思ったのですが、話をうかがうとそれは故人が出した年賀状でした。
 マメで律義な性格の方なので、年賀状は毎年12月半ばの受付開始日に投函していたそうです。ところがその年末に急逝してしまい、ご縁のある人々には訃報とほぼ同時に故人からの年賀状が届きました。
 悲しいながらも「あの人らしいね」と微笑み合いたい気持ちがあって、みなさん年賀状を手にお参りにいらしたのでしょう。

 おめでたいイメージの正月ですが、数え年ではなくなった現代でも、新しい年を迎えるのはそれだけ年を重ねたということになります。生きることと死ぬことは生死一如、コインの表と裏のように切り離せない関係性にあります。
 楽しい気分も味わいつつ、自分が何を大切にして新しい一年を過ごすのか、大切なことを深く考えられるような良い年末年始をお過ごしください。

 

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 浦上哲也(うらかみ・てつや)
1973年、東京都内の一般家庭に生まれる。一般の高校、一般の大学を卒業し、一般企業にも勤めたが、縁あって浄土真宗の僧侶となる。その後、「自分らしい方法で仏教をひろめたい」と発願し、平成18年に民家を改装して俱生山(ぐしょうさん)なごみ庵を開所。山号の「俱生山」には、「俱(とも)にこの世を生き、俱に浄土に生まれる」という願いが込められている。法話会や写経会、全国の寺院での仏教演劇公演、僧侶による自死対策など幅広く活動。さらに、もとは医療系のワークショップである「死の体験旅行」を一般向けにアレンジし開催。死を見つめることによって〝いのち〟について考え、自分にとって何が本当に大切なものかを再確認できる内容として、メディアからも注目を集めている。