「ぼっち」ですが、何か?(back)

「ぼっち」ですが、何か?

孤独を淡々と生きる

  第一回(2017.12.06)

義足と靴磨き


 困ったものである。わたしは世間の隅で、淡々と孤独に生きたいのである。どちらかといえばストイックに、いや超然とした態度で生きていきたい。物静かに暮らしたいが、他人にナメられるのは絶対に嫌だ。口数は少なく、けれども黙ったままじっと相手を見詰めただけで、心貧しい相手がたちまち自己嫌悪に陥ってしまうような、そんな眼差しを持ちたい。片方の眉を上げてみせるだけで(外人じゃあるまいし、そもそもそんな芸当は出来ないけれど)、相手が慌てて自らの不正を告白せずにはいられなくなるような威圧感を隠し持ちたい。悩んでいる人に向かってそっと頷いてみせるだけで、その人が気を取り直せるような慈愛に満ちた雰囲気を発散させられたら、なお良い。
 でもそういった人物は、レストランで何度ボーイを呼ぼうとしてもなぜかタイミングが悪く、その結果無視されたも同然となっていつまでもオーダーが通らないとか、タクシーを止めようと道端に立つと、いきなり割り込んできた他人が手を挙げ、呆気なくタクシーを横取りされるとか、そういった間抜けな事態には陥らないものだろう(たぶん)。いちいち自分をアピールしなくとも、周囲がきちんとこちらを認識し、しかも相応のレスポンスを示し、ときには敬意すら払ってくれるような存在感が備わっていることだろう。だからこそ、静かに、淡々と、誰と「つるむ」こともなく生きていける。そしてその時点で、(悲しいことに)もはやわたしは「孤独を淡々と生きる」ためのスタート地点にすら立てない。
 とはいうものの、それゆえに烏合の衆の一員に甘んじるというのも嫌だ。ではどうすればいいのか。そのあたりの戸惑いを巡って、少し真剣に考えてみる必要がありそうだ。

 孤独でいると不便なことがあるだろうか。もちろん、ある。不便というよりも、もっとデリケートなレベルでの深刻な困り事が生じる(往々にして、そのようなもの『こそ』が人生を大きく左右しがちな気がする)。たとえばこんな場合はどうだろうか。
 英国の作家H・E・ベイツ(1905~1974)の短篇小説で「愛ならぬ愛」という戦前に書かれた作品がある(『ベイツ短篇集』八木毅訳、八潮出版社1967/所収)。主人公はリリアンという若い娘で、ある大きな衣服工場の事務室で働いている。男性的魅力に欠ける同僚から食事に誘われ、そのときに愛を告白されたが、「すみませんけど、いけませんわ」「ええ、少なくともそれほどの気になれないんです」と、はっきり断れるだけの意思を持った女性でもあった。
 リリアンは友人たちと連れ立って行動したがるタイプではなかった。孤立はしていなかったが孤独だったようで、しかしそのことを苦にはしていなかった。そんなものだと思っていた。そのような彼女が、しばしば一人で昼食に訪れるレストランでトラヴァーズと出会う。

 彼は三十五、六歳で、むしゃくしゃした茶色の髪と、少しものうげなやさしい顔つきをした男だった。彼女には彼がある種の固定した意見の持主のように思われた。というのは、きまった日にその料理店へきて、いつも同じ隅のテーブルにつき、片手でものやわらかに頬杖をして、長いあいだじっと動かず、ものうげな青い目をくぎ附けにして、彼女を見まもりながらすわっているのが習慣だったから。

 ほどなくリリアンはトラヴァーズと親しくなる。彼女はひと目会ったときから彼に好感を抱いているので、彼のすべてが好ましく映る。やがて初デートの日が訪れる。トラヴァーズが車(高級車ではまったくなかった)で彼女を迎えに来て、田舎へドライブに出掛ける。晴れ渡った春の日で、活気にあふれる自然の様子が素晴らしい。一軒の農家の前で彼は車(セミ・オープン)を止め、耳を澄ませてみるように語り掛ける。微かな「うなり」が聞こえる。するとトラヴァーズは答える、「ぼくの蜜蜂ですよ」と。彼が飼育している蜜蜂の羽音が聞こえたのだった。
 さりげなく彼の田園生活の魅力をアピールしてみせたわけで、リリアンはまたしても彼に好感を抱く。
 煉瓦で出来た農家は彼の家で、寄っていくようにとさりげなく勧められる。そこまでは自然な流れだった。だが車を降りようとした途端、リリアンには最初の不協和音が訪れる。

「じゃあ、なかへはいりましょう。おふくろに会ってもらいたいんです」
 そう言うと、彼は車の向こう側からびっこを引きながら、彼女のほうへ進んできはじめた。彼女はたちまち彼のからだの具合の悪いところに気がついたが、それはそのときがはじめてだった。大き過ぎるひろがった手や、ものうげなやさしい顔つきの意味も、はじめてわかった。彼女はすばやくその足を眺め、やがて、まるで気がつかなかったかのように、ふたたび目をそらした。

 いざ「びっこ」に気づいてみると、足音からトラヴァーズが義足であることが分かった。何となく彼を完璧な男性と思っていたリリアンは、新品で買ったエナメル靴の表面に、まだ履いてもいないのに小さな傷を発見してしまったような気分ではなかっただろうか。遅かれ早かれこの程度の傷はついてしまうだろう。だからいちいち気にする方がおかしい。だが最初から傷があるのはケチをつけられたようで鼻白んでしまう。靴屋に交換を要求するには、自分がつけた傷ではないことを証明する必要がありそうだし、悶着を起こしたらその靴そのものに嫌気が差してしまいそうだ。自分の人格も疑われてしまいそうだ。そんな些細だけれどもシリアスな「ひっかかり」に彼女は捕らえられたわけである。足が悪く、義足であってもそれは人間性とは別の問題であろう。そこに不平を覚えるのは道徳的によろしくない。そんなことは十分に承知している。でも心の奥底では、騙されたみたいな微妙な違和感をリリアンは否定しきれない。

 彼女はトラヴァーズが非常に早く歩くのを知った。動き方がひどくすばやかったが、それは足の不自由さを克服しようとする猛烈な意志のあらわれだった。彼がそのように動いて、彼女にフランダース産の家うさぎや蜜蜂の巣箱を見せようと、中庭のまわりやたんぽぽのそばのかわいた土をとび歩くとき、彼女はそれを見るに堪えなかった。彼といっしょにいたいという願いはたちまちばらばらに砕け、切れ切れのぎょっとした当惑になった。(中略)彼が生きてくらしを立て、友達をつくり、最後には、まるで肉体的な不利などないかのように、恋をすることを望んでいることも知った。

 切なさと、生理的嫌悪感に近いものとの板挟みにリリアンは囚われてしまったのであった。しかもトラヴァーズの母親は善人だけれど無教養で鈍重な、ある種の鬱陶しさを感じさせる人物だった。「ほんとによくきて下すった、ほんとによくきて下すった。ハリーのお友達なら、どなたがきて下すってもうれしいよ。ハリーのお友達なら、どなたがきて下すってもうれしいよ、ほんとに」などと懸命に語り掛けられると、リリアンの笑顔も強張りがちになってしまう。トラヴァーズとその母は、なるほど懸命に頑張ってきた。作物を育て、家畜を飼い、道端で通り過ぎる車に向かってたんぽぽの花束を売ろうとさえしていた。でも、いずれも上手く行っていない。なぜか彼らは孤立し、幸運から見放され、だが誰からも助けを借りずに黙々と努力を重ねている。明らかにどこかでボタンの掛け違いをしているような、そんなちぐはぐさが彼ら親子にはあり、それが漠然とした危機感としてリリアンには伝わってくる。おしなべてそうした危機感は正しい感覚だろう。そして義足がもたらす不完全なイメージ。
 昨今でこそ、たとえば義足のアスリートのカッコ良さも知られるようになっているけれども、戦前における義足の人物がもたらすインパクトは、障害者に対する差別とか偏見といった文脈ではなくもっと根源的な部分で怖れに近い拒否感をリリアンにもたらしたのだろう。その点は、誰にも責めることは出来ないと思うのである。
 リリアンは彼に拒否感と同情の双方を感じてしまう。彼の母親にも、拒否感と哀れみの双方を感じてしまう。トラヴァーズに対する同情や彼の努力に対する賞賛と、みずみずしく輝く恋愛感情とはもはや解離してしまっている。でも行きがかり上、リリアンは今自分が恋に落ちていると思い込まねば自分の誠実さを打ち消してしまい、生涯十字架を背負ってしまいそうな相克に支配されている。
 わだかまりを解消しきれぬまま、リリアンは休日には、結婚を前提にトラヴァーズ一家の仕事を手伝うようになってしまう。まさに成り行きの産物だ。いまさら引き返せない。そこには素朴な労働の喜びや未来への期待よりも、いわば負け組確定のトラヴァーズ母子の姿が浮き彫りになってくるばかりであった。このままでは、リリアンはそのちっぽけで惨めな世界にすっかり呑み込まれ同化してしまうだろう。倫理的には正しいのかもしれないけれど。
 やがて、彼から求婚があった。それは彼にとって既成事実の積み重ねの挙げ句といったものであったろう。彼のやり方は、まったく正しい。それに対してとりあえずリリアンは保留の態度を示したが、結局、またしてもトラヴァーズの家に来てしまう。季節は既に夏になっていた。凶暴なほどの暑さが執拗に心身を圧迫してくる。うららかな春はとっくに過ぎ去っているのだ。今や彼女は、はっきりと拒否の意思表示をするつもりだった。だから彼に車で迎えに来てはもらわず、あえてバスを使って来たのだった。農家に着くも、たまたま彼もその母も姿が見えなかった。

 居間へはいって行くと、そこもまたからっぽだった。彼女は両手で手ぶくろ(引用者注・作業用の軍手)をしぼりながら、小さなオルガンのそばのピアノ用椅子にしばらく腰をおろした。テーブルの上には空の茶わんが一つ載っており、古めかしいばす織ソファーの上には、その日の新聞がひろげたまま置かれていた。彼女はしばらくだるそうにその見出しを横目で読みながらすわっていたが、やがてとうとうそれを取り上げた。だが、取り上げかけたその手ははたと動かなくなった。新聞紙の下には――いかにも暑さに苦しんだあげく、休もうとしてはずされたかのように――トラヴァーズの義足が置かれていた。
 彼女は少し胸がむかつき恐怖を覚えながら、もう一度まっすぐ日光のなかへ出て行った。

 すぐにリリアンは、太陽の下でトラヴァーズと遭遇する。彼はさっきまで寝室にいたらしい。「彼女は、彼が自分のきたのを喜んで地面をぴょんぴょんとんでくるのを、ぼんやりと見まもりながら立っていた」。母親はまだ昼寝中だという。片足の彼に向かってリリアンはもうここには来ない、結婚する気はないと伝える。実に精神的なエネルギーの必要な伝達である。

 泣けてくるのをおそれて、また突然何もかもにすっかりけりをつけてしまいたくなって、彼女は畑をよこぎって遠ざかって行きはじめた。暑い日ざしのなかを十ヤードばかりも歩いたとき、うしろから何か言っている彼の声が聞こえた。
「君の気持はわかってるよ。わかってるよ。でも、なぜ君は来つづけたんだい? もし君が何も感じなかったのなら、なぜ来つづけたんだい? なぜだったんだい? なぜ来つづけたんだい?」

 トラヴァーズは、母親譲りの、何でも二度繰り返す喋り方でリリアンの背に疑問を投げつける。まさに彼女の良心にぐさりと突き刺さるような問いを。でもそんな問い掛けなど、振り切るべきだったのだ。にもかかわらず彼女は立ち止まり、振り返ってしまう。暑さの中、彼は無力そうに突っ立っている。絶望に打ちひしがれながら一本足で立ち尽くしている。それを目にして彼女はフリーズし、次の瞬間には涙を浮かべつつトラヴァーズのもとへ駆け戻ってしまう。

 ……彼女は彼の腕や肩に両手をうちつけながら、同情と恐怖のおどおどした叫び声を上げるのだった。
「ああ、いいのよ、いいのよ。あたしあなたが好きよ、愛しててよ、本当に貴方を愛しててよ。ねえ、信じてちょうだい。本当にあなたを愛してるのよ。どうぞ、信じてちょうだい。どうぞ、どうぞ、もうあたしを信じてちょうだい」

 これで物語は終わる。何と残酷な話だろうか。このシーンを契機に愛は成就し、二人は幸福な家庭を築くに至るのだろうか。そんな筈はあるまい。彼女の声には、恐怖のトーンがしっかりと混入していたではないか。わたしの想像では、リリアンは自分の気持ちを必死で説き伏せつつトラヴァーズと結ばれ、一緒に暮らし始めるに違いない。自身を偽り、道徳心を満足させるために。しかし、間もなく彼やその母の無神経な言動に呆れたり不快になり、それどころか生理的嫌悪感を催すエピソードにもたびたび直面し、どんどん後悔の念が膨れ上がっていくことだろう。そこで逃げ出せばよいけれど、義足の足音を響かせつつ、彼はまたしてもリリアンの倫理観を無意識のうちに突いてくる筈だ。おぞましさとそれを感じる自分への罪悪感に悩まされつつリリアンの惨めな生活は続き、やがて彼女は妊娠する。が、生まれた子どもには障害があり、トラヴァーズの母親のほうが露骨に不満だの嫌味を口にするだろう。「あたしたちの家系には、おかしな子が生まれるような血は流れていないんだよ。トラヴァーズには、おかしな子が生まれてくるような血は流れていないんだよ」などと。そしてもはやリリアンはまったく身動きの取れない孤立無援状態のまま、幸運から見放された一家の主婦としてボロ切れのようにすり減っていくのだろう。暮らし向きはちっとも好転せず、「わたしはどこで間違えたのだろう」と彼女は毎日そっと自問自答することになるだろう。
 実に後味の悪い小説である。

 

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春日武彦(かすが・たけひこ)
1951年京都府出身。日本医科大学卒。医学博士、精神科専門医。産婦人科医として6年間勤務した後、精神科へ移る。大学病院、都立松沢病院精神科部長、都立墨東病院神経科部長等を経て、現在も臨床に携わる。藤枝静男とイギー・ポップに憧れ、ゴルフとカラオケとSNSを嫌う。
著書に、『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎新書)、『臨床の詩学』(医学書院)、『鬱屈精神科医、お祓いを試みる』(太田出版)、『私家版 精神医学事典』(河出書房新社)などがある。