歩く人 牧水(Back)

歩く人

牧 水


はじめに


 ――名は人を現す。
 そのようによく、いわれたりする。だがどうだろう、牧水という名ほどにその人らしい名前、があるだろうか。ちょっとほかに、いそうにもない。
 戸籍名は、若山しげる。ごくごく平凡なそこらに、ごろごろと転がっている、よくみる名前でしかない。
 それが牧水なると、それこそ聖なる名のごとく、じつに素晴らしい。とりかかりにこの、名前を糸口に、これからはじめる。
 牧水、なんともこの歌人にぴったりで、これより考えようもない。どこだか大正文化ロマンチックらしくあって、くわえて新興文芸アイドルスターっぽくある。いやじっさい見事なること、このうえない名ではないか、牧水。
 どうしてこの名を思いついたのか? 牧水は、「もっとも愛していたものの名二つを繋ぎ合せたものである」として明かしている。「牧はまき、すなわち母の名である。水はこの渓や雨やから来たものであつた」(「おもいでの記」所収。以下同じ)と。
 しかしなぜ「もっとも愛していた」ものが、ほかではなく「母」と「水」であったのか。そしていかに牧水という命名をして、のちに歌人として名声をえたものか。そこらあたりから迫っていくことにしたい。

 


第一回(2017.02.27)

マザコン・牧水


 明治十八(一八八五)年、八月二十四日、牧水は、宮崎県東臼杵うすき郡東郷村大字おおあざ坪谷つぼや(現・日向市)、山の奥深い峡谷の地に、医師若山立蔵りゆうぞう、母マキの長男に生まれる。うえに年の離れた三人のお姉さんあり。末っ子だ。
 待ち望まれていた男の子であれば、もう猫可愛がり、親の愛をいっぱい受けて育っている。むろん父にも愛された。だがそれにもまして「母が私を愛していた事は並ならものであった」というのである。
 どうしてか? どうやらお父さんはというと「医を業としていながら、多くは自宅に落ち着かず、何(なに)か彼(か)か、事業といふ様なことを空想して飛び歩いていた」というような変わったお人らしかった。でここにいう「飛び歩」きようだが、どこだかのちの牧水をしのばせるか。
 そんななんだかんだで、なおさら幼な子は母がかりに、なったとおぼしくある。まずはこんな歌をみられたし。

母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ (海の声)
ふるさとは山のおくなる山なりきうら若き母の乳にすがりき (路上)

 いやなにほんと、べたべたのこの母恋ぶりといったら、おかしくないか。ちょっとキモすぎでは? だけどこのとおり母は子を愛すること、ひとしく、おなしに子は母を愛したのである。繁坊は末っ子の跡取り。頭の芯から、まるごとお母さん子だったのだ、骨の髄まで。
 そしてこのお母さんが、それは素晴らしい、いいお人らしかった。このことでは以下のような歌文をみられたい。

歯を痛み泣けば背負ひてわが母は峡の小川に魚を釣りにき (路上)

「私は五歳(いつつ)位いから歯を病んだ。……。そんな場合、おいおい泣きわめいている私を抱いて一緒に涙を流しているのは必ず母であった」「或時はまた声も枯れ果て、ただしくしくと頬を抑えて泣いていると、母は為かけた仕事を捨てておいて私を背に負いながら釣竿を提げて渓へ降りて行った。そうして何か彼か断(た)えず私に話しかけながら岩から岩を伝って小さな魚を釣って呉れた」
 いつだって「私を抱いて一緒に涙を流」してくれる。いかにもこのお母さんらしいこと、「私を背に負い」家の隣の渓へ「魚を釣」りに、「断えず私に話しかけながら」ゆくと。いやほんとうに、なんという良いお母さんだったら、つづけていうのだ。
「いま思えばその頃の母は四十前後であったろうが、どうしたものか私には二十歳前後の人に想像せられてならない。母というより姉の気がした。更に親しいおんなの友達であった様にも思われてならないのである」
 ここはちょっと、この心の動きは怪しくは、ないだろうか。なんといったらいいものか。いまにいたってまだ、しっかりと臍の緒で繋がりあった、ふうなままでいる。そのようなへんなあんばい。まったくもって、この母と子との仲はまあ、おかしいのだ。
 ふつうではない。どうかするとそんな、母子相姦的、ともみられるほど。けったいなのだ。
 というところから、こう断って、すすめることにする。マザコン、万歳である! じつにこのことが牧水をそれまでにない、あたらしいモダンなほんとう、さっそうたる新進ならしめたのである。マザコン、立派なりだ! あえていうならば、その甘さは、つよさなるあかしだ。

 


第二回(2017.03.25)

ワイルドボーイ・牧水


 牧水の筆名は、母マキの名と、故郷の渓の水と、ふたつを一つにして成ったものだ。
 牧水の故郷、日向の山峡、坪谷つぼや村。現在も、日豊本線は日向市駅から車で一時間近くの過疎地域、僻村だ。生家は、眼下に耳川みみがわ支流の坪谷川の峡谷を望む景勝の地にある。
「坪谷村は山と山の間に挟まれた細長い峡谷である。ことに南には附近第一の尾鈴山がけわしい断崖面をあらわして眼上まうへに聳えているので、一層峡谷らしい感じを与えて居る」

おもひやるかの青きかひのおくにわれのうまれし朝のさびしさ (路上) 

 牧水は、坪谷川は「青き峡のおく」に生まれた。ところでなぜ生誕の朝を「さびしさ」と感受し詠ったものか。ふつうには「青き峡のおく」、すなわち鄙びた村に生を受けたこと、をもって「さびしさ」と解されるかも。だがわたしは深読みしてみたい。ロリコン・牧水、であればそうではなくて、生誕そのものを母体からの剥離ととらえる尋常ならざる感覚、があったのではないか。
 それはさて牧水、繁君はというと、渓の子、ワイルドボーイとして、この渓をワンダーランドとして駆けめぐり育った。さきにお母さんが、泣きやまな繁坊を「背に負いながら釣竿を提げて渓へ降りて行った」という箇所をみた。
 ところでこのお母さんはというと、むろんもちろん釣りにとどまらない。山へ入り、山と遊ぶ。「この癖を私に植えたのはまさしく私の母であった」と。そして懐かしく思うのだ。「彼女は実にそうして山に入って蕨を摘み筍をもぎ、栗を拾うことを喜んだ。……。父と言い合いをした後など、彼女は必ず籠を提げて山へ入って行った。そしてその時必ず私はその後を追ったのである」
 でなんとその籠の中には酒を詰めた小さな壜が入っていたと。いまみるとこの母子愛飲がのちの酒仙牧水につながる。呼び水ならず、呼び酒となる。
 おそらくこれ以上の母子の関係はあるまい。子は、ものこころがつかないうちに母から山へ入り、山で遊ぶ楽しさをいっぱいおしえられた。小学時、勉強は嫌いでも、成績は良くって、根っからの自然児として育ってゆく。「冬から春にかけてはいろいろな係蹄わなをかけて鳥や獣を捕る。わらび、ぜんまいを摘む。椎茸を拾う」。またランプ以前の村では灯明として用いる、倒れた松の節を切り取る「節松掘り」に精を出すのである。秋は「椎拾ひ、栗拾ひ、通草あけびとり、山柿とり、から始ってやがて茸取りとなる」。さらに山芋つまり「自然薯じねんじよ掘り」がくる。
 それでこの芋掘りであるが、これがまあ大抵でないのだ。まず「その根の所在を発見するのがなかなかの難事」なうえ、経験のある向きならご存知のように、それを途中で折らずに掘り出すのは大変に根気の要る作業である。それなのに繁君はというと「秋の山の朗らかな日光のなかに蹲踞しやがんでこれを為るのが何とも云えず楽しみであった。それだけに上手で、いつも大人を負していた。荒い土を掘って白いその根の次第に太く表れて来るのも嬉しかつた」というから山人さんじんよろしくある。
 繁少年は心ゆくまで山を駆けめぐり多く学んでゆく。子供は、天然だ。というところで、お母さんゆずりの釣り、についてみよう。渓では多くの魚が捕れる。なかでも鮎である。なんと「われわれ子供ですら半日数十尾を釣ることが出来た。渓の瀬の岩から岩へ飛び渡って釣って歩く面白さはいま考へても身体がむず痒くなる」という。のちにこの頃の渓で遊んだ日を「鮎つりの思ひ出」と題して二十五首の多くを詠んでいるのだ。

ふるさとの日向の山の荒渓の流清うして鮎多く棲みき (黒松)
幼き日に釣りにし鮎のうつり香をいまてのひらに思ひ出でつも
釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を

 それはほんと楽しい釣りであった。「岩から岩へ飛び渡って釣って歩く」。だけどその釣りかたが、いつとなし変わってくる。
「私の特に好んだのはうして飛び歩いて釣るのよりも、樹のかげか岩蔭にしゃがんで、油の様な淵の上に浮いた浮標うきに見入る釣であった。そして、友達と一緒に釣るよりも独りぼっちで釣るのを愛した。そのため、他の人の行かぬ様な場所を選んで釣りに行った」
 そうしてそれからしばらく、なおその癖はつよく、なっていっているのである。
「やがて少しずつ文字を知る様になると、……、一層その癖が烈しくなった。今まで知らず知らず仲間を避けていたのが、いつの間にか意識してひとを避くる様になった。そうなって愈々いよいよ親しくなって来たのは山であつた。また渓であった。多くは独りで山に登り、渓に降りて行ったが、稀に一人の友があった。それは私の母であった」
 ここでもまたお母さんであるとは! みるとおりに繁少年はというと、そのさきには土地の友達とも仲良くしたろうが、だんだんと単独行をするにいたる。どうしてそのように外れてゆこうとするのか。それは「文字を知る」、つまり空想に遊ぶ。いわゆる孤独にひたる年頃になった。そのあたりの変わりようは、べつにふつうに誰もおなしである。それはそうなのであろうが、じつはいま一つわけあり、めくようなことがあるのだ。


  第三回(2017.04.28)

ぬれ草鞋わらじ党末裔・牧水


 第一回マザコン・牧水、第二回ワイルドボーイ・牧水。というタイトルのもとに牧水の生誕と幼時をめぐって、ちょっとふつうではない母性と自然への親和をみてきた。そこにいま一つこの少年をやがて牧水にする点があるのだ。まずは「おもいでの記」のつぎの記をみよう。
「『濡草鞋を脱ぐ』といふ言葉が私の地方にある。他国者が其処に来た初めに或家を頼つて行く、それを誰は誰の家で濡草鞋をぬいだといふのである。その濡草鞋をぬいだ群が私の家には極めて多かつた。/私の家自身が極く新しい昔に於て濡草鞋党の一人であつたのだ」(濡草鞋)
「濡草鞋を脱ぐ(解く)」とは、「志を立てて目的の地に行き、最初頼つて落着いた処をいふ」(『隠語大辞典』)の謂。
 若山家は、祖父けんかい(武蔵川越在の農家の出で、生薬屋の奉公人から、肥前は平戸でシーボルトに仕え西洋医学を学ぶ)が、慫慂しようようする人があってか風の吹くままに流れ着いたこの地で医業を営んだことに始まる。ということは「濡草鞋党」、つまり「他国者」であったのである。このことが少年に与えた影響は少なくない。「山師、流浪者、出稼者、多くは余りかんばしからぬ人たちが入れ替り立ち替りやつて来た」。父は、つまるところこれら濡草鞋の群れの世話や口車に乗り財産を失してしまったのだ。それではその児はどうなのか。
「母の朝夕の嘆きを眼の前に見てゐるので、理も非もなく彼等をよくない人たちだと思ひながら、私は知らず知らず彼等他国者にいてゐた。……。いま思へば彼等はみないはゆる敗残の人々であつたのだ。そして私は彼等の語る世間話と、いつとなく読みついてゐた小説類とで、歳にはませて早くも世間といふものを空想することを覚えてゐた。ちやうどそれはをりをり山の頂上から遙かに光つてゐるものを望んで、海といふものを空想してゐたと同じ様であつたらう」
 このとき外への憧れが繁少年に沸き立っている。渓谷の世界しか知らぬ少年は、濡草鞋、他国者、後ろ暗い「敗残の人々」が「語る世間話」に目を輝かせる。そこから「世間といふものを空想する」「海といふものを空想してゐた」というのである。この渓から広い世界へ出て行かん。いつかそのように思いつのりつづける。ここに歩く人牧水の第一歩が印された。峡を背にし、海へ向かう。それはいつか。
「私の村から海岸に出るには近いところでは僅に五里しかないのであるが、四辺あたりを包む山嶽の形から宛然さながら二十里も三十里も離れた、山深い所の様に思はれてならなかつた。で、母に連れられてなど、附近でもやや高い山の頂上へ行つて、あれが海だ、と指ざされると、実に異常のものを見る様に、胸がときめいた」(「海」)
 明治二十四年、六歳。母に連れられて耳川を舟で下り、美々津みみつで初めて海を見る。

あたたかき冬の朝かなうす板のほそ長き舟に耳川くだる (砂丘)

「うす板のほそ長き舟」は、高瀬舟。「耳川(美々津川)」は、椎葉村の奥、三方山に源を発し東へ流れる。宮崎平野を流れ、日向灘に注ぐ。耳川の早瀬を下り、日向灘へ悠然と入る。それがどんなに想像を超えた体験であったものか。「初めて海を見て驚く驚愕おどろきは全ての驚愕おどろきの中にあつて最も偉大な崇高なものであらうと思ふ」として書くのだ。
「眼の前の砂丘を越えて雪のやうな飛沫を散らしながら青々とうねり上る浪を見て、母の袖をしつかと捉りながら驚き懼れて、何ものなるかを問ふた。母は笑ひながら、あれは浪だと教へた。舟が岸に着くや母はわざ〳〵私を砂浜の方に導いて更に不思議に更に驚くべき海、大洋を教へてくれた。その時から今日まで、海は実に切つても切れぬ私の生命いのちの寂しい伴侶みちづれとなつて来てゐるのである」(「耳川と美々津」全集第十巻)
 けっして大袈裟ではない。ここであえて私事におよべば、むろん昭和も戦後ながら、これはそのまま北陸は奥越の山深くに育った筆者の正直な感想でもあるのだ。このときに初めて海を目にした洟垂れ小僧は大きく声を飲んだものだ。「えっけぇ(おおきい)!」
 渓から、海へ。そのことが現実になるのは、それからおよそ五年あとである。
明治二十九年、十一歳。坪谷尋常小学校を卒業。近くに高等小学校がなく四十キロ離れた延岡高等小学校に入学、故郷を離れる。県立延岡中学時代と合わせて八年間を当地で過ごすことになる。この間、文学に目覚め、各種紙誌に盛んに投稿。やがてもっぱら歌の道を歩み始めるようになる。明治三十四年、作歌を始めた年の一首にある。

家にいます母の寝醒や如何あらんあかつき寒き秋風の声 「秀才文壇」(明三四・一一)

 母恋しい。しかしもう戻れないのだ。渓恋しい。


  第四回(2017.05.29)

「海と、恋と」


 明治二十九年、十一歳。牧水は、故郷坪谷の峡谷を後にし、延岡高等小学校、延岡中学時代と合わせて八年間を当地で過ごす。この間、文学に目覚め、各種紙誌に短文、短歌、俳句を盛んに投稿。やがてもっぱら歌の道を歩み始めるようになる。しかしいまからみれば牧水の才をもってしても、ここでは引用しないが、それらはいまだ習作の域をでるものでなかった。
 牧水が、ほんとうに牧水になる。そこにはなによりも故郷と母からの、それこそ肉を引き剥がすほど、つよい離別が求められたのである。
 三十七年、十九歳。早稲田大学文学科高等予科に入学。医師の跡取りであればこの選択をめぐりはげしい両親の反対があったはずだ。それをなんとか説き伏せ言いくるめたか。
 四月、上京。いよいよふるさとの母と渓を背にすることになる。教室では北原白秋と親しくなり、のちに二回も下宿を共にする。また土岐ときぜん麿まろほかの知遇を得て文学的修練を積む。だがこの稿の性格からそのへんの詳しい経緯はおこう。
 ここで挙げるべきは恋である。牧水の一世一代の恋愛だ。二十代も初め誰もが恋に悩む年頃だ。われらが牧水も例外ではない。それどころかその恋はひどく悩ましくも狂おしいものであった。あらかじめ言っておこう。じつにこの恋が歌を詠ませるのだ。はては牧水を並ぶものもない稀な歌人にする。
 三十九年、二十一歳。六月、帰省の途次、神戸で偶然、とある女人と出会っている。園田小枝子である。このときは友人の仲立ちで知り合っただけだが、おそらく頻繁な音信が行き交ったのだろう。翌四十年春、突然に小夜子が上京、もうたちまち火が付いているのだ。
 牧水研究の第一人者、大悟法利雄『若山牧水伝』にある。
「(小枝子は)牧水よりも一つ年上である。生れたのは瀬戸内海のある海岸町、まことに不思議な両親をもち、まだ何もわからぬ幼女時代に既に幾回ともなくその戸籍が転々としているような数奇な運命の下に成人した。そして十六七歳ぐらいで結婚し、二人の子供さえもっていたが、胸を病み、家を離れて須磨の療養所に入った経験があった。……彼女はそれから家庭にかえらず、四十年の春あたり東京に出て来たのであるが、彼女は非常に美しかった」
 小枝子について、およそ子細なところは不明にする。牧水は、どことなく妖女めき妖しい「数奇な運命」の「非常に美し」い女人に惹かれてゆく。しかしこの六月、学生なればやむなく彼女をひとりおいて帰省することになる。ところで当時はまだ宮崎県には鉄道がない。阪神地方からは細島(現、日向市)阪神間を往復する海路によった。ときに恋に憑かれた牧水は胸内を歌に託する。

 白鳥しらとりかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 教科書に載る余りにも有名な歌。あきらかにこれはその船上でなったものだろう。「空の青海のあを」にも「染まずただよふ」ばかりの「白鳥」。いわずもがな牧水自身でこそあろう。
 またこの帰省に際し九月下旬の上京までの間に中国、九州、近畿の諸地域を旅した。このとき誰もが挙げるいま一つの歌を詠んでいる。

 幾山河越えさり行かば寂しさのてなむ国ぞ今日けふも旅ゆく

「幾山河越え……」。これは永遠の旅人たらんという宣言の一首である。
 掲歌のこの二首。辛い恋に喘ぐ者が吐いた胸のつかえ。おぼえずしらず溜息吐息さながらこぼれた三十一文字。それがそのまま生涯を物語る名歌となっていること。巷間に言う諺どおり、恋は人を詩人にする。それこそ牧水がそうだ。
 さらにもっと恋の火は燃え上がりやまない。この年末、二人は安房根本の海岸で十日余り滞在。その折の歌にある。

 ああ接吻くちづけうみそのままに行かずいかずとりひながら果てはてよいま
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざくちを君

 ほんとうにこの恋の海を真っ直ぐ詠む歌の輝きはどうだろう。まさに青春の絶唱である。だがこの恋愛については本稿の性格からやはり子細はおこう。ここでは一点にかぎり私見をおよぶ。
 じつはこの恋というと、いうならばあえてする母からの離反であったということだ。またこの際の海であるが、これはおなじように渓からの解放だったとみられる。おもうにそれは歌人誕生への大きな通過儀礼であったのだろう。
 小枝子。この素性の不明なる惑乱の女人。牧水は、この恋に文字通り溺れた。そうしてふるさの母とそしてたにから身を剥がさんと図ったとおぼしい。小枝子は、ときにさながら前章でみた、繁少年が幼時に「濡草鞋」なる他国者に空想した「世間といふもの」と「海といふもの」の、いわば化身だったのだろう。
 まだまだ苦しい恋の迷い旅はつづく。

 


  第五回(2017.06.29)

「恋の闇路」


 前章では「海と恋と」題して、惑乱の女人小枝子の登場をみた。いままだ若い牧水は恋の闇路を踏み迷っている。
 明治四十一年、二十三歳。七月、早大卒業。第一歌集『海の声』を自費出版。就職もしていなければ、その出版費用も生活費も、仕送りだよりだったろう。同月下旬、苦しい思いを抱いて、同窓の歌人土岐善麿と軽井沢に遊び、帰路ひとりで碓氷峠越をして帰京する。ときの浅間眺望詠をみよ。

 火の山にしばし煙の断えにけりいのち死ぬべくひとのこひしき (独り歌へる)

 愛する人よ、いつとなし火の山の煙が絶えているのを、仰ぎみるにつけ切ないかぎりにも、いつかこの命も消え失せる刻がこようか、の謂。帰京後、数日して帰省。その途の船上で恋の亡者は詠う。どうやらこの歌で佐枝子は「安芸」(広島西部)の出とみられる。

 恋人のうまれしといふ安芸の国の山の夕日を見て海を過ぐ (独り歌へる) 

 なんともどうにも恋狂いはやまない。しかるにこのとき帰省した故郷の両親はどうだったろう。これがふたりとも白髪というのである。

 父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる (独り歌へる)

 みるほどに親の老いはあらわなばかり。それなのに聞く耳をもたぬ放蕩息子はまるで上の空よろしいか。いっときも家に留まっていられない。このさきまだ小枝子との間がもつれて、死ぬの、殺すの、というような絶望的な苦しみがつづく。
 四十三年六月頃、とうとう恋愛が破綻に瀕して、極度に憔悴し切ることに。牧水は、その苦悶から逃れ漂白の旅に出る決意を固める。九月初め、山梨県東八代郡境川村(現、笛吹市)在の大学時代の知友、俳人飯田蛇笏だこつ邸に十日ほど滞在。その後、二ヶ月余り、甲斐から信州へと彷徨する。じつはこの旅にあって詠んだのが、これまた知られた歌なのである。

 白玉しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ (路上)

 人口に膾炙した酒好きの当方らが愛吟の名歌だ。牧水は、それほどまで心が沈みきっていたのだ。ひとり山の懐を歩き、踏み迷い行き暮れ、ひとり苦い酒を酌む。
 旅と酒と。牧水は、もとよりこの二つに身をあずけるような血に生まれついていた。旅については、前々回の「濡草鞋党末裔」の章をご覧なれば了解されよう。もともと他国者だったのだ。酒については、これも第二章に母マキの愛酒ぶりにおよんだ。またそれにとどまらず祖母カメが大変な大酒飲みだと伝わる(『若山牧水伝』大悟法利雄)。
 旅と酒と。ふたつともあえていえば牧水のDNAにインプットされたものである。どちらが欠けてもその歌はなかった。それをさらに決定的にも耽溺させたのは小枝子との道行きであった。
 四十四年三月、小枝子が離京してその五年余りの煉獄愛のごとき関係に終止符がうたれる。だがそれでもって恋情が霧散したわけでないのだ。なおむしろ胸内に深く鬱屈するのである。忘れよといっても忘れられない(こののちも去った恋人への想いはその生涯にわたり作歌に潜むことになる)。

 五年いつとせにあまるわれらがかたらひのなかの幾日いくひをよろこびとせむ

 牧水は、荒れた。この頃、酒にひどく溺れることが多かった。酔っぱらって線路に寝込み、電車を留めて「電留でんとめあそん臣」の綽名を頂戴している。

 かなしくもいのち暗さきはまらばみづから死なむ砒素ひそをわが持つ

 わが部屋に生けるはさびし軒の蜘蛛くも屋根の小ねずみものはぬわれ

 同年七月、傷心の牧水。そこに現れた人がいる。太田喜志子である。喜志子は、長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)、山間の農村に生まれだ。家は数百年つづく旧家で、躾も厳しく学び、母や姉が歌の心得があり、じしんも歌を詠むようになった。これだけでも喜志子はおよそ小枝子とは正反対なる女性であることが理解されるだろう。そのちがいを一口でいうと、小枝子が激しい「海」の女であれば、喜志子は穏やかな「山」の娘であることだ。このとき投稿を通じて師事した同郷の先輩歌人太田水穂を頼り上京していた。牧水は、水穂宅で初めて喜志子と会う。
 四十五年・大正元年(一九一二)三月、信州の麻績おみでの歌会で、帰郷中の喜志子と再会。牧水は、彼女に唐突に求婚する。「私を救って欲しい」と。二ヶ月後の五月、結婚。だがなぜそんな急な成り行きになったか?


  第六回(2017.07.21)

「〈代理母〉喜志子」


 前章では「恋の闇路」と題して、小枝子との別離と、喜志子との出会い、唐突な結婚の経緯にふれた。牧水は、このとき「私を救って欲しい」と訴えたという。このことからも、惚れた、腫れた、じゃないとわかる。しかしこのプロポーズの言葉であるが、いかにも牧水らしくはないだろうか。そんな「救って」だって?
 四十五年・大正元年(一九一二)二十八歳。五月、喜志子が上京し結婚。ついてはこれが牧水の生家に無断なままだという。喜志子は、ときにどれほどか大いに迷ったのではないか。だけどともあれ悩める男を救う道を選んでいたのである。前の恋人とのこと、仕事の無いこと、家に居着かぬこと、大酒を浴びること。さらにはまた長男であれば家督をめぐって問題があることも。それらすべて知り抜いて牧水を受け容れたのである。
 どうしてか? 喜志子は、自ら歌を詠む。だからいわずもがな牧水の歌の才に深く感服させられてであろう。喜志子は、このとき頷いたろう。そのかたわらにそっと控えて歌の道をささえてゆきたいと。それにはなにがあっても、その振る舞いに異を唱える、そのようなことすまいと。
 マザコン・牧水、ワイルドボーイ・牧水(第一、二章参照)。喜志子は、どういうかその根っこを汲んで処することができるような、よくこころえた穏やかで大らかな心のぬしだったとおぼしい。それでいうならばその〈代理母〉たらんとしたのだろう。これをもってこののち、牧水はというと好き勝手に生きてよしと証文をえたような、あんばいとおぼえたか。歩く人・牧水、こうなるともう妻に後をまかせきり、どこへとなく旅の空にありつづける。ほんとうに天真爛漫もよろしい。なんともこの頃の作がふるっている。

 うら若き越後生れのおいらんの冷たき肌をづる朝かな
 お女郎屋の物干台にただひとり夏の朝を見にのぼるかな (死か芸術か、以下)

 いや脳天気というか、まあ御機嫌なものだ。それだけでなく新婚生活が始まった五月末に早速、三浦三崎に旅立っているのだ。むろん一人きりで。このときの作をみられよ。まったく新妻もどこに、これまた豪毅というか、ちょっと形容しがたい。

 旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に
 裸体はだかに青浪の中にもまれ来て死にしが如し酒を飲みてむ

 なんていうようなワイルドボーイぶりといったら。六月、三崎から帰って旬日もなく、多摩川の上流、御岳山に遊ぶ。なんともその折に別れた「古恋人」小枝子を偲んで涙にくれている。

 につたふ涙ぬぐはぬくせなりし古恋人ふるこひびとをおもふ水上みなかみ

 いけしゃしゃあと、したものである。これをみるにつけ、むしろ泣きたいのは妻のほう、であったはずでは。牧水は、天然だ。ほとんどまったく包み隠すことなどしない。あっけらかん、あけっぴろげ。喜志子は、当然、これらの歌をすべて目にしている。
 さらに七月、父危篤の報に接する。そこで喜志子を実家に帰して、単身、四年ぶりに帰省するのだ。懐かしい尾鈴の山が船上から望まれる。

 ふるさとの尾鈴をすゞの山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り (みなかみ、以下)

 それからじつにその滞在たるや翌年五月までの長期におよぶという。長男なのに生家をないがしろにし、さりとて東京で確たる職に就きもせず、相談もなく結婚しているのである。牧水は、恐ろしい悪魔のように憎まれた。まさに針のむしろの日だった。ことさら母マキの怒りは辛くあった。

 われを恨み罵りしはてにつぐみたる母のくちもとにひとつの歯もなき
 飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ

 父は、いましも死の床にある。母、ひたすら家督を継げという。だけども息子はがえんじない。

 納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、なんじが意志をまぐるなといふが如くに

 それはもう母の失望はいたすぎるほどわかる、しかしながらあのマザコンにしてあくまでも、ぜったいに自分を貫かんとするというのである。「汝が意志を……」。これこそ実母マキに替わる〈代理母〉喜志子が吐かせた台詞であろう。
 それはさてとして。十一月、父立蔵、長患いのはて、ついに死去。家事の整理のために郷里で越年。それがどうだろう。
 大正二年(一九一三)二十九歳。一月、そのまま帰京しないで、九州各地に遊び、桜島、佐多岬を周遊。このときなんと新妻は身重だというのに。

 飛ぶ、飛ぶ、とび魚がとぶ、朝日のなかをあはれかなしきこころとなり

 なにが「飛ぶ、飛ぶ、とび魚が」だって。いやほんと極楽様なることか。なにが「あはれかなしき」だって。


  第七回(2017.08.19)

難儀至極


 大正二年六月、牧水は、前年七月の父危篤の報に帰省、十月父死去後、九州各地に遊ぶなど、ほぼ一年近くも留守居して、ようやく帰京している。じつはなんとこの四月、長野県塩尻の妻の実家で長男が出生しているのである。それでいかにも股旅の父親らしく旅人たびとと名付けているのである。ところで牧水はどんな父親だったか。まずは連作「夏の日の苦悩」のこの一首をみよ。

或時あるときは寝入らむとする乳呑児ちのみごの眼ひき鼻ひきたはむれあそぶ (秋風の歌、以下)

 いったいこの「たはむれ」ぶりはどうだろう。ちょっと浮世離れよろしくも脳天気すぎないか。だいたいからしてご本人からしてそれこそ天然ガキそのままに大人になったような父親というのである。まるでまったくこんな自分に赤児がいることに自身が納得できないようなしだい……。

児をあやすとねぢをひねればほつかりと昼の電灯つきにけるかな

などとまあ「児をあやす」のにおろおろ。いやまことにこの不器用パパはというと昼行燈のごときでないか。しかしどんなものだろう。いったいぜんたい生計はどうしていたのか。
牧水は、そのさき臍の緒の母との葛藤のはて、こののち歌人の道を歩き始めたのだ。その壮図はよし。しかしながら、いうまでもない。ぜったいぜったい歌なんぞでは喰えっこないのである。そのことでは「病院に入りたし」なる連作が笑えてならない。

病院に入りたしと思ひ落葉めくわが身のさまにながめいりたる

 だがなんでそんな入院したいというのか。ついてはこの頃に友人に宛てた手紙をみられたし。「借金取その他の来訪者が恐く、私はこの一二週間、自宅を出てひそかに下宿しています。すぐ隣が病院で、便利もいいものです」(三浦敏夫宛、大正二年十二月十四日付)
こんなにまで火の車もよろしくある。だけどそれほど意に介してもいない。なおさらこれから旅の空に多くあることになるのだ。すべてを妻に負わせて。子育てはもちろん、それこそ借金取りさんに土下座したりや、些事みんなぜんぶ。
同年十月下旬、伊豆下田沖にある無人島神子みこ元島もとじまに、灯台守として住む早大時代の旧友を訪ねている。このときの「秋風の海及び燈台」連作をみられよ。

船子かこ船子かこ疾風はやちのなかに帆を張ると死ぬるが如くに叫ぶおらぶ船子かこ
とびとびに岩のあらはれ渦まける浪にわが帆はかたむき走る

 ときに海は大荒れで小さな燈台用便船は波に弄ばれた。いやだけどこの子供っぽいほどの得意なさまはどうだ。むろん旧友への土産は数本の酒瓶という。

語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけりづ酒まむ
友酔はず我また酔はずいとまなくさかづきかはしこころをあたゝ

いやはやなんとも暢気なようすでないか。十一月初め、下田から天城を回って帰京。帰れば逃げていた金策やらに歩き回らなければ。牧水はというと、酒飲みで一見、楽天っぽくみえる。人付き合いも愛想も良い。それはだが外面だけである。連作「さびしき周囲」に詠む。

わが如きさびしきものに仕へつつかしぎ水くみむことを知らず

いつも心ここにあらずの亭主に黙ってかしずき薪水しんすいの労をとりつづける妻。喜志子よ、われを許されよ、の謂。なんてほんとまったく勝手気儘なものではないか。

妻や子をかなしむ心われとわが身をかなしむこころ二つながら燃ゆ

妻子をかなしむ心と、自身へ傾こう心と。「二つながら燃ゆ」るほどとはいう。だけどもその胸内にはわれは、いま歌人の道を一途に歩まん、というような底意とみられよう。
 どうにもなんとも天然歌人とは、また難儀至極なるものでないか。


  第八回(2017.09.11)

「生活? そんなことは召使どもに任せておけ」


 前章では「難儀至極」と題して、天然歌人のとんでもない生活失格ぶりにふれた。そのことに関わってここで、あらためてその懐中事情におよんでみる。

われ二十六歳にじふろく歌をつくりいひに代ふ世にもわびしきなりはひをする (路上)

 明治四十三年、二十六歳。三月、牧水編集の詩歌誌「創作」を発刊(註、同誌は翌秋休刊、大正二年復刊、以後、現在も続刊)。四月、第三歌集『別離』(先行二歌集『海の声』『独り歌へる』自選歌を中心に新作を収録)刊行、これが好評裡に迎えられ、部数は明らかでないが版を重ねてはいる。だけどここまで繰り返してきたが「歌をつくり飯に代ふ」などとはわびしさのきわみ。牧水は、たしかによく歌作に邁進することほぼ一年に一冊のペースで律儀に歌集をだしてきた。だがもとより歌集にかぎっては売れたとしても微々たるものだ。とてもでないが「なりはひ」とはいえるものでない。くわえて新聞などにものする雑文などの稿料もまたごく僅少でしかない。
 それなのに落ち着かずいつも旅をしつづけるわ、それこそもう酒は浴びるほど飲みまくると。むろんそこには好き勝手だけでない用や算段もあってなのだ。あちこちに講演会に出たり、また揮毫会を催したりする。そうして幾許いくばくかいただく。さらには主宰誌の支持層を広めるため、各地へ足を伸ばし、交遊を深める要があった。旅に出て、杯を重ねる。これもまあ仕事なのである。それはさて、ほんとうにこの天然歌人(マザコン、ワイルドボーイ)の勝手気儘ぶりといったらない、のではないか。まったく世の凡人の範囲を超えている。
 そのあたりをいま少しみてみることにしょう。牧水は、外面はまあまあ悪くない方であるが、いわずもがな表現者であれば、内面はというと決して良くはない。だいたい家居にあるときは、歌作でうんうんと呻吟しているか、ひねもす深酒をしているかだ。家に金が入らない。幼い児に手がかかる。これではどうしても妻がもつはずがない。「あけくれ」と題して詠んでいる。

貧しさに妻のこころのおのづから険しくなるを見て居るこころ (『砂丘』以下)

 朝に夕べに「妻のこころ」がとげとしく眉を寄せるようになってゆく。それをそんな「見て居るこころ」とはどういうか。どうにもちょっと冷ややかすぎないか。そのうちやはり妻が伏しがちになっている。
 大正四年、三十一歳。三月、腸結核を病む喜志子の転地療養のため、神奈川県三浦郡北下浦に転居。「病妻を伴ひ三浦半島の海岸に移住す。三月中旬の事なりき」と詞書して詠んでいる。

海超えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず

 妻は病を養い、いよいよ生活は「浪立ちやま」ない。しかしながらこのときの牧水であるが、病む妻といとけない幼児をおいて旅の空、という相変わらずなしだいなのである。この七月、下野より信州へと旅立つ。その折の連作「山の雲」の一連、下野喜連川町に友を訊ね「友と相酌む歌」と題して詠む。

飽かずしも酌めるものかなみじかき夜を眠ることすらなほ惜みつつ
時をおき老樹おいきの雫おつるごと静けき酒は朝にこそあれ

 このときとばかり短か夜を惜しみ朝まで飲みつづけたのだろう。ここでわたしごとにおよぶと酒飲みの口なれば「老樹の雫おつるごと」という朝酒の酔いのよろしさはよくわかる。でつづいて喜連川より信州へ入り蓼科山麓の春日温泉に遊ぶことに。その折の「窓辺遠望」と題する歌がおかしい。

ふくよかに肥えも肥えつれ人怖ぢず真向ふそのつぶら乳
丈長に濡髪垂らし昼の湯屋出でて真裸躰まはだかつと走りたれ

 なんともなんと温泉宿の窓辺から御婦人の「つぶら乳」「真裸躰」を御覧になって御満悦おいでという。いやはやほんとうに脳天気なものではないか。
それはさてとして。めずらしくもこの秋から冬にかけては家に居ることになった。なにぶん病妻が身重だったのだ。十一月、長女みさき誕生。そういうしだいで鬱勃として家居するものの旅心はつのりつづけたか。
 大正五年、三十二歳。三月中旬から一ヶ月半、宮城、岩手、青森、秋田、福島の東北各県を歩くのだ。南国育ちの牧水にはみちのく行脚は夢だった。それがどれほど胸躍るものだったか。連作「残雪行」、そのうちでも最果ての青森での一連がよろしくある。

  青森駅着、旧知未見の人々出で迎ふ
やと握るその手この手のいづれみな大きからぬなき青森人よ (『朝の歌』以下)

  宿望かなひて雪中の青森市を見る
いつか見むいつか来むとてこがれ来しその青森は雪に埋れ居つ
鈴鳴らすそりにか乗らなむいないな先づこの白雪を踏みてか行かなむ

 雪が嬉しい。人が宜しい。こうなっては、いつにもまして熱烈歓迎とあいなって、いるのである。

  明けぬとて酒、暮れぬとてまた
酒戦さかいくさたれか負けむとみちのくの大男どもい群れどよもす
たくたくと大酒樽のひもすがらえず吹雪きて夜となりしかな

「酒戦」とは、酒の飲み競い合戦。「大酒樽」を据えつけて、大盃に「たくたくと」注ぎ、やんやの掛け声とともに飲み干すこと。まったくいまのガキの一気飲みとまるでかわらぬ。
 天然歌人、面目躍如。そうよ「生活? そんなことは召使どもに任せておけ」(オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン)だって!


  第九回(2017.11.2)

家居の牧水 苦虫の牧水


 前回の後半、大正五年三月中旬から一ヶ月半にわたる、東北行脚を連作「残雪行」を中心にみてきた。初夏、三浦は北下浦村の妻子が待つ療養先の借家へ帰る。あたりまえながら旅が終われば帰るほかはないのだが、戸口に立つ牧水を、ときにいったい家に残された者はどのようにみたものか。やっとのこと旅から戻ったのだが、なんとなし落ち着かないようす。なんだかなかば尻が浮いたままなぐあいなのだ。

  自嘲
妻子らを怖れつつおもふみづからのみすぼらしさは目も向けられず
われと身を思ひ卑しむ眼のまへに吾子(あこ)こころなう遊びほけたり (『白梅集』以下)

「妻子らを怖れ」「身を思ひ卑しむ」。ふっとおぼえる家にある者らとの間にある見えない膜のようなもの。なんとなしひとりだけ輪の中に入れないようなぐあい。
 ちょっと被虐的すぎようが、けっして大袈裟ではない。家にいるとどうにも気がつまるのである。どこにも居場所がないのだ、ひとりだけ異邦人のように。

   失題
つきつめてなにが悲しといふならず身のめぐりみなわれにふるるな
とりにがすまじいものぞといつしんにつかまへてゐしこころなりけむ

「みなわれにふるるな」「いつしんにつかまへてゐし」。いまわたしが歌の道でどれほど悩み苦しんでいるか。牧水は、いかんともしがたく歯痒ゆいまでに、このように抗弁するほかないのである。
 それはどうしてか。いわずもがなここにいるのは、ぜったい彷徨者であって、さきの第三章「濡草鞋党末裔」をみよ、いわゆる家庭人ではない、ありえないのはあきらかという。だからなのである。

  倦怠
梅の花紙屑めきて枝に見ゆわれのこころのこのごろに似て
地とわれと離ればなれにある如き今朝のさびしさを何にたとへむ

「紙屑めきて枝に見ゆわれのこころ」「地とわれと離ればなれにある」。なんぞなんていやもう空虚このうえない、どうしょうもない寂寥さはどうだろう。
 それにしてもちょっとばかし穏やかでなさすぎではないのか。まったくこの前書からしてどうだ。「自嘲」「失題」「倦怠」。まあどんどんと佶屈きっくつするばかりだ。だけどどうにかしてみんなを食べさせていかなければならぬ。

  冬の夜
長火鉢にひとりつくねんと凭りこけて永き夜あかずおもふ銭のこと
  夜の歌
いつ知らず酔ひのまはりてへらへらとわれにもあらず笑ふなりけり

「銭」。こいつばかりは生きているかぎり付きまとうのだ。妻が病みがちでもって、幼い児がふたりいる(大正四年、長女みさき誕生)。それで「夜あかず」、あれこれと酒瓶を傍らに据え算段しつづける。しかしながらおいこれとらちがあくものでないのだ。そのうちいつとなし「酔ひのまはりてへらへらと」となっているというしだい。
 こんなふうにずっとふさぎこみつづけ、となるといきおいどうしてもそちらのほうへ、つまるところは酒とあいなっている。

  酒
それほどにうまきかと人のとひたらばなんと答へむこの酒の味
なにものにか媚びてをらねばたへがたきさびしさ故に飲めるならじか
酔ひぬればさめゆく時のさびしさに追はれ追はれてのめるならじか

 どうだろう、なんともこの酒飲みのおだのあげよう、といったら。飲み助には飲まない理由などはない、こちらもしょうもない淫酒家なればよくわかるが、飲み助には飲むべき理由だけがある。
 であればこれらの酒の歌についてはおこう。もっともらしく、しかつめらしく酒談義などはごめん、しらばくれもいい。それこそほんとうに下の下というものだから。
 飲んだら死ぬ、飲まずとも死ぬ、そうよ、ならば飲んで死ぬべぇ、なんて。牧水さんときたらへべれけもへべれけ盃をはなさなく飲んでおいでだろうか、酩酊もよろしきことに。
 いやはやというところだけど、さてどんなものではあろう。歩く人はというとほんとうそんな、もうそれこそ片時もじっとして、落ち着いてはいられないのである。このことでははっきりと、うべなうほかないのではないか。
 歩く人はただひたすらに、とにもかくにも家にいるのが嫌でもうたまらず、旅の空にありたいのである。

行くべくばみちのくの山甲斐の山それもしかあれ今日は多摩川


  第十回(2017.11.28)

たにを想う


 前章では「家居の牧水 苦虫の牧水」と題して、禁足状態の牧水を粗描した。大正五年三月中旬から一ヶ月半にわたる、東北行脚から帰って、めずらしく牧水にしては長く家居した。するうちにむずむずと歩き虫が騒ぎだして、いやもう尻を落ち着けていられなくなる。どうやらその限界に近くにて、ようやく草鞋を履くときがきた。
 大正六年、三十二歳。八月、秋田、酒田、新潟、長野、松本などを巡る。

汽船にて酒田港を出づ
大最上おおもがみ海にひらくるところには風もいみじく吹きどよみ居り
海上鳥海山遠望
あまたたび見むとはすれどくがのかぎり朝雲這ひて鳥海山とりみやま無し (『さびしき樹木』以下)

 なんという大きくたおやかな詠みではないか。ここでしぜんに想起されるのは、ご当地出身の斎藤茂吉の、つぎのような名歌ではないか。

最上川逆白波さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
ここにして浪の上なるみちのくの鳥海山はさやけき山ぞ

 最上川は、言わずと知れた山形県を流れる、日本三大急流の一つ。鳥海山は、山形県と秋田県の県境に位置する活火山。その姿から鳥海富士、出羽富士とも呼ばれる。
 どうであろう、こうして茂吉の歌に並べても、おさおさ牧水の作も劣らない、のではないか。ほんとうに、なんと壮大な一幅である、ことだろう。というところでこれらと、そのさきの家居の苦しいちぢこまった歌と比較してみたら、あまりにちがいすぎよう。歩く人にとって、旅が命のいぶき。
 それはさてこの旅の帰りがけ、妻喜志子の実家、広丘村(現、塩尻市)、そこへ足を伸ばしているのである。結婚から五年、なんとこれが初めての妻宅への訪問であるらしい。ここらからもおよそ家庭人らしくないとわかろう。
 歩く人であれば思うこと、つねに心にあるのは旅の空。それがここにきてことに、つよく山の懐の深く渓を探らんと、のぞむようになっている。

身の故にや時の故にや此頃おほく渓をおもふ
疲れはてしこころの底に時ありてさやかにうかぶ渓のおもかげ
何処いづくとはさやかにわかねわがこころさびしき時に渓川の見ゆ
渓を思ふは畢竟孤独をおもふ心か
独りゐて見まほしきものは山かげの巌が根ゆける細渓ほそたにの水

 このようにその思い入れを「渓をおもふ」と題して詠んでいるのだ。しかしどうしてそんなにも渓が願われてならないものか。そこらのことはつぎにみる歌を示すだけでよくわかろう。

いろいろと考ふるに心に浮ぶは故郷の渓間なり
幼き日ふるさとの山に睦(むつ)みたる細渓川の忘られぬかも

 ついては第二章「ワイルド・ボーイ・牧水」を想起されたし。

おもひやるかの青き峡(かひ)のおくにわれのうまれし朝のさびしさ (『路上』)

 牧水は、日向の山峡、坪谷川は「青き峡のおく」に生まれ、渓の子、ワイルドボーイとして、この渓をワンダーランドとして駆けめぐり育ったのである。牧水は、このようにも述懐しているのだ。
「元来私は渓谷の、しかもただちに渓流に沿うた家に生れた。そして十歳までをそこで育つた。そんなことあるためか、渓谷といふと一体に心を惹かれやすい」(「利根の奥へ」)
 渓の子のままに歌の道を歩んできた牧水。いたしかたなく家庭に縛られ金の算段をして家に鬱々としている。しかもこのところなんと躰の調子も悪く禁酒を命じられているというのだ。「秋居雑詠」と題して詠む。これが可笑しくも涙物なのだ。

罹病禁酒
膳にならぶ飯も小鯛も松たけも可笑(をか)しきものか酒なしにして
ほほとのみ笑ひ向はむ酒なしの膳のうへにぞ涙こぼるる

 それでしばらくは禁酒ならず節酒したものだろうか。十一月、渓行がようやく実現することになる。行く先は秩父渓谷。三泊四日の旅だが、この間百六十首もの多くの歌をものしている。『渓谷集』にそのうち「秩父の秋」と題して九十六首を収載。

十一月のなかば、打続きたる好晴に乗じ秩父なる山より渓を経巡る、その時の歌。
朝山の日を負ひたれば渓の音冴おとさえこもりつつ霧たちわたる (『渓谷集』以下)
瀬のなかにあらはれし岩のとびとびに秋のひなたに白みたるかな
山鳩やまばとのするどく飛びてかしどりののろのろまひて秋の渓晴たには

 牧水は、ときにまことに嬉しげに渓歩きを愉しんでいないか。まるでどこかそんな坪谷川を飛び歩く繁少年の日にかえったようにも。さらにこれから多く渓を探ることになる。それはこののちに辿ってゆくつもりだが。ここでは渓からもどって、つぎに足を伸ばした海の旅について、ちょっと覗いてみたい。
 大正七年、三十三歳。一月、二月、伊豆半島、土肥に長逗留している。「伊豆の春」の一連にこんな歌がある。

   海 女(其の二)
かみも肩もそのやはら乳もれひたり汐のなかにわらへる少女
口すこし大きしとおもふ然れどもいよよなまめくへがてぬかも

 これをピーピング行為といっていいか。さきに第八章に蓼科山麓、春日温泉でも同様の歌をみた。いやはやなんとも脳天気なものでないか。だがこのような歌にならんでまたつぎのような作がみえるのである。

妻が許に送れる
たのしみでてかどたのしみてけふ居るものとゆめなおもひそ
かきいだき吾子われごねむれる癖つきてをりをりおもふその吾子がことを

 さてこれをどう読んだらいいか。留守居の喜志子にいう。けっしてこちらで楽しんではいない、いつもお前のことを偲んでいる、独り寝におぼえず我が子を抱いている。そんなにまでお前たちが恋しいかぎりなのだから、というぐらいの意としてとれようか。なんだかちょっと苦しい弁解のような歌とも解せないでもない。
 それでどんなものだろう。牧水は、たしかに愛妻家で子煩悩であった(ここであえて引用しないが、喜志子も旅人も、そのように回想している)。それはどれほどかそうだろう。しかしながらちがうのである。歩く人であればけっして、家に居られなかったのだ。
 歩く人は、歩く。これからのちずっと、もうひたすら歩きつづけよう、ほかはないのである。


  第十一回(2017.12.15)

酒恋と、渓恋と。


 大正六年、十一月、秩父渓谷行。翌七年一月、二月、伊豆半島、土肥に長逗留。このころより歩く人はというとその本分をはたすように歩き回っている。くわえるに相変わらず作歌、文筆ともに旺盛というのだ。
 五月、第十二歌集『渓谷集』、七月、第十一歌集『さびしき樹木』、散文集『海より山より』と前後して刊行。
 五月、京都に遊び、比叡山の山寺に籠もり、さらに大阪、奈良、和歌山を経て、熊野勝浦、那智に行き、鳥羽、伊勢に遊ぶ。この旅では、「比叡山にて」と題する一連が出色だ。

 わが宿れる寺には孝太とよぶ老いし寺男ひとりのみにて住持とても居らず。
比叡山ひえいやまの古りぬる寺の木がくれの庭のかけひを聞きつつ眠る (『くろ土』以下)
酒買ひにじいをやりおき裏山に山椒さんしょつみをれば独活うどを見つけたり
 その寺男、われにまされる酒ずきにて家をも妻をも酒のために失ひしとぞ。
言葉さへ咽頭のどにつかへてよういはぬ酒ずきをはせざらめや
酒に代ふるいのちもなしと泣き笑ふこのゑひどれを酔はざらめや

 この寺男の孝太(伊藤孝太郎)老爺との触れ合いが泣かせるのだ。牧水は、毎晩、酒で身を持ち崩したこの老爺と杯を交わすのだ。
「爺さんの喜び樣は眞實まつたく見てゐるのがいぢらしい位ゐで、私のさす一杯一杯をおがむ樣にして飮んでゐる。ういふ上酒は何年振とかだ、勿體もつたいない〳〵といひながら/……/いつか一度思ふ存分飮んで見度いと思つてゐたが、矢つ張り阿彌陀樣あみださまのお蔭かして今日旦那に逢つて斯んな難有ありがたいことは無い/……/この分ではもう今夜死んでも憾みは無い、などと言ひながら眼には涙を浮べて居る/……/私は自分で飮むのは忘れて彼に杯を強ひた。今夜死んでもいいなどといふのを聞いてから、急に飮ませていいか知らと私も氣になり出したのであつたが、いつの間にか二本の壜を空にしてしまつた」(「山寺」)
 酒が出てくると、歌はもとより、文もまたより、良い調べになる。ところで何事も過ぎるとなると、それこそ寺男の老爺ではないが、問題が起きているのだ。ついては前回「罹病禁酒」の二首をみたが、ここに「或る頃」と題する一連がある。

 このまゝ酒を断たずば近くいのちにも係るべしといふ、萎縮腎といふに罹りたればなりと。
酒やめてかはりに何か樂しめといふ醫者いしゃがつらに鼻あぐらかけり
 やめむとてさてやめらるべきものにあらず、飲みつやめつ苦しき日頃を過す。
癖にこそ酒は飮むなれこの癖とやめむ易しと妻らすなり
酒やめむそれはともあれながき日のゆふぐれごろにならばとせむ
朝酒はやめむ昼ざけせんもなしゆふがたばかり少し飲ましめ
こころからにや少しすごせばただちに身にこたふる様なり、悲しくて。
酒なしに喰ふべくもあらぬものとのみおもへりしたひめしのさいに喰ふ
うまきものこころにならべそれこれとくらべ廻せど酒にしかめや
人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ

 どうだろう。まず前書にある「萎縮腎いしゅくじん」とは、「腎臓が硬くちぢむ疾患。また、その状態。高血圧性の細動脈硬化あるいは慢性腎炎の結果として起こり、腎機能は損なわれる」(広辞苑)という恐ろしい病気である。そこで医者に即座に禁酒を命令される。しかしこれが止められるものでない。牧水は、酒、こいつをどうしても止められない理由をあれこれと挙げてやまないのだ。それこそもう酔っ払い管をまくように。牧水は、こんなふうに書いている。
「一度口にふくんで咽喉を通す。その後に口に殘る一種の餘香餘韻よこうよいんが酒のありがたさである。單なる味覺のみのうまさではない。/無論口であぢはふうまさもあるにはあるが、酒は更に心で噛みしめる味ひを持つて居る。あの「醉ふ」といふのは心が次第に酒の味をあぢはつてゆく状態をいふのだと私はおもふ。斯の酒のうまみは單に味覺を與へるだけでなく、直ちに心の營養となつてゆく。乾いてゐた心はうるほひ、弱つてゐた心はよみがへり、散らばつてゐた心は次第に一つにまとまつて來る」(「酒の讃と苦笑」)
 こんなぐあいで止めるに止められない。どうしょうもなく息の止まるときまで酒を飲みつづけるのだろう。ぐたぐだしいばかりのそんな繰り言をきいていてもいたしかたない。しかしこのころこんな歌がみえるのである。

 雑詠
ふらふらと眩暈まめひおぼえて縁側ゆころげ落ちたり冬照る庭に
見つめゐてなにか親しとおもひしかころげ落ちたり冬照る庭に

 そんな「ころげ落ちたり」なんて。なんだかちょっと不吉なきらいでないか。それはさてそんな身体でありながら、渓を探る、そのことに懸命になっているのだ。
 十一月中旬から、十七日間におよび、上州伊香保から沼田を経て、利根川上流に遊び、さらに信州松本辺りを探っている。この際の連作「みなかみへ」百五十九首の大作を詠む。

 小日向附近に到り利根は漸渓谷の姿をなす、対岸に湯原温泉あり、滞在三日
大渦のうづまきあがりなだれたるなだれのうへを水千千みずちぢに走る
わが行くは山の窪なるひとつ路冬日ひかりて氷りたる路
ちちいぴいぴいとわれの真うへに来て啼ける落葉が枝の鳥よなほ啼け
 谷川温泉は戸数十あまり、とある渓のゆきどまりに当る、浴客とても無ければその湯にて菜を洗へり
をあらふ村のをみな子ことごとく寄り来てあらふ温泉いでゆふち
 吾妻川の上流にあたり渓のながめ甚だすぐれたる所あり、世に関東耶馬溪とよぶ
せまり合ふ岩のほさきの触れむとし相触れがたし青き淵のうへに

 十一月終わり、この地方ではもう初冬だ。牧水は、ひとり寒冷な渓谷をめぐる。なぜそんなにまでして渓へとなるのだろう。このときの紀行にそのゆえんを手短にふれている。
「元来私は峡谷の、しかも直ちに渓流に沿うた家に生れた。そして十歳までを其処そこで育つた。そんなことのあるためか、渓谷といふと一体に心をかれ易い。それもこの二三年来、身体が少し弱つて、何といふことなく静かな所〳〵をと求めるやうになつてから、ことにそれが著しくなつた。岩から岩を伝うて流れ落つる水、その響、岩には落葉が散り溜つて黄いろな秋の日が射してゐる…………、さうした場所を想ひ出すごとにほんとに心の底の痛むやうな可懐なつかしさを感ずるのが常となつてゐる」(「利根の奥へ」)
 どんなものだろう、なんとなし坪谷川の淵で無心に釣り糸を凝視する繁少年の息遣いが聞こえてくる、そのようでないか。しかしなんたる渓への愛ではあることか。じつはこのときの渓についてまた前出の紀行「渓をおもふ」にこんなふうに書いてもいるのである。
「みなかみへ、みなかみへと急ぐこゝろ、われとわが寂しさを噛みしむるやうな心に引かれて私はあの利根川のずつと上流、わづか一足で飛び渡る事の出来る様に細まつた所まで分け上つたことがある。/狭い両岸にはもうほの白く雪が来てゐた。断崖の蔭の落葉を敷いて、ちよろ〳〵、ちよろ〳〵と流れてゆくその氷の様になめらかな水を見、斑らな新しい雪を眺めた時、何とも言へぬこゝろに私は身じろぎすら出来なかつた事を覚えてをる。いま思ひ出しても神の前にひざまづく様な、ありがたい尊い心になる。水のまぼろし、渓のおもかげ、それは実に私の心が正しくある時、静かに澄んだ時、必ずの様に心の底にあらはれて私に孤独と寂寥のよろこびを与へて呉れる」
 こうにもなるとその渓恋はというと、もうほとんど信仰とこそいうべきだろう。


  第十二回(2018.01.05)

鳥の声


 前回は、牧水の異常ともいえる、酒恋と渓恋におよんだ。
 大正八年、三十四歳。この年も席あたたまる暇なくほとんど旅の空である。なんとも元旦から家を飛びだしている。

  犬吠埼にて
 岩かげのわがそばに来てすわりたる犬のひとみに浪のうつれり (一月三日)

 犬の瞳に浪を写す。ちょっと表現主義的ではないか。それはさてつぎつぎに旅はつづくのである。三月、信州伊那地方へ。

   駒が嶽の麓
  名は歌の会なれど旧知多く揃へる事とておほかた徹宵痛
  飲の座とはなるなり。
 ちぢこまるわれに踊れと手とり足とり引きいだしたれ酔人ゑひどれ
 いつしかに涙ながしてをどりたれ命みじかしと泣き踊りたれ

 こんなふうに酔い旅が多くあったろう。だけどもまた静かな山の上の湖を好んで歩いているのだ。
 五月、榛名山上湖に遊ぶ。ここでは山の湖ではなくて、ちょっと視線をずらし、いとおしい山の鳥をみよう。

   山上湖へ
   草津を経て榛名山に登り山上湖畔なる湖畔亭に宿る、鳥多
   き中に郭公最もよく啼く
 みづうみの水のかがやきあまねくて朝たけゆくに郭公くわくこう聞ゆ
 となりあふ二つの渓に啼きかはしうらさびしかも郭公聞ゆ

 渓の児、牧水は鳥好きである。ここにいたるまで多く引かなかったが、じつによく鳥を詠んでいるのである。たとえば大正四年夏、蓼科山麓の春日温泉に遊んだ折に「尾長おなが」「杜鵑ほととぎす」「鶺鴒せきれい」ほか、ほんとうに楽しげに鳥たちと戯れているのだ。つぎのような賑やかな歌はどうだろう。

 ほととぎすけすひよ鳥なきやまぬ狭間はざまの昼の郭公くわくこうのこゑ (『砂丘』)

 牧水は、鳥について「私は山深い所に生れて幼くから深山の鳥のさまざまな声に親しんで来た」として書く。
「多くの鳥の中で筒鳥と、郭公と、而して杜鵑と、この三つの鳥はいつからとなく私の心のなかに寂しい巣をくつてゐた。私の心が空虚になる時、私の心が渇く時、彼等は啼いた。私の心がさびしい時、あこがるる時、彼等は啼いた。私の心が何かを求めて動く時、疲れて其処に横はる時、彼等は私と同じい心に於て私の心にそのまことの声を投げて呉れた」
(「山上湖へ」)
 なんという鳥愛であろう。まだまだ旅はつづく。八月、九十九里浜、十一月信州沓掛温泉、十二月、上総八幡崎へ。
 大正九年、三十五歳。二月、伊豆松崎、天城越え、湯ヶ島温泉、四月、秩父、五月、群馬、長野、岐阜、愛知へ。

  上州吾妻の渓にて
 飛沫しぶきよりさらに身かろくとびかひて鶺鴒せきれいはあそぶ朝の渓間に

 まさにこの鶺鴒がそっくりそのまま牧水ではないか。牧水は、それにつけ鳥好きではないか。
 八月、年来の希望だった田園の生活に入るため、静岡県沼津町在楊原村上香貫かみかぬきに転居(参照「香貫山」)。生活は落ち着いたが、懐中は寒く苦しかった。鳥達のように自由でありたいが、先立つものに事欠くのである。

  貧窮
 居すくみて家内やぬちしづけし一銭の銭なくてけふ幾日いくひ経にけ
 む
 三日みかばかり帰らむ旅を思ひたちてこころ燃ゆれどゆく銭
 のなき

 いつもまったく路銀は足りないのだ。そしてまた糊口をしのぐために多忙をきわめる。にもかかわらず草鞋を履いてしまう。牧水は、ここまでみてきた歌集『くろ土』の三年間で百八十日も旅の空にあり、五百五十九首の旅の歌を詠んでいる(参照『若山牧水新研究』大悟法利雄)。


上高地
 大正十年、三十六歳。三月、第十三歌集『くろ土』、七月、紀行文集『静かなる旅をゆきつ』を刊行。この年も方々に旅した。なかでも九月中旬より十月末まで、信州白骨温泉、上高地、焼嶽に登った後、飛騨に出て高山に遊び、さらに富山、長野、木曽を遍歴した。牧水は、ただもうひたすら渓を歩きつづけること、ほとんどまったく頂を踏んでいないようだ。だがむろんその気になれば登っているのだ。

   上高地付近
  上高地付近のながめ優れたるは全く思ひのほかなりき、
  山を仰ぎ空を仰ぎ森を望み渓を眺め涙端なく下る
 いわけなく涙ぞくだるあめつちのかかるながめにめぐりあひつつ (『山桜の歌』以下)
 またや来むけふこのままにゐてやゆかむわれのいのちのたのみがたきに
 まことわれ永くぞ生きむあめつちのかかるながめをながく見むため
 なんともちょっと大振りすぎる表現にみえるがどうか。いまからざっと一世紀近くまえの上高地はかくも神々しかったのだろう。

 やま七重ななへわけ登り来てくばかりゆたけき川を見むとおもひきや (梓川)

 牧水は、梓川あずさがわにもつよく心動かされている。
「下駄を借りて宿の前に出て見ると、ツイ其処に梓川が流れていた。どうしてこの山の高みにこれだけの水量があるだらうと不思議に思はるゝ豊かな水が寒々と澄んで流れてゐる。川床の真白な砂をあらはに見せて、おほらかな瀬をなしながら音をも立てずに流れてゐるのであつた」(「上高地温泉/或る旅と絵葉書」)
 つぎに焼嶽やけだけ(二四五五㍍)登頂(牧水の登った一番高い山だ)をみる。牧水は、じつはこのとき良い案内者を得られない。
「大正三年大噴火の際に出来た長さ十数町深さ二三十間の大亀裂の中に迷ひ込んだ。初めは何の気なしにその中を登っていたが、やがてそれが迷路だと知った時にはもう降りるに降りられぬ嶮しい所へ来ていた。そしてまごまごしていれば両側二三十間の高さから霜解のために落ちて来る岩石に打ち砕かるるおそれがあるので、已むなく異常な決心をしてその亀裂の中をい登ったのであった」(「焼嶽の頂上/或る旅と絵葉書」)
かくして命からがら登頂している。

   焼嶽頂上
  上高地より焼嶽に登る、頂上は阿蘇浅間の如く巨大なる噴
  火口をなすならずして随所の岩蔭より煙を噴き出すなり。
 群山むらやまのみねのとがりのまさびしくつらなれるはてに富士のみね見ゆ
 岩山の岩の荒肌ふき割りてきのぼる煙とよみたるかも

 焼嶽を下りて、飛騨高山から飛騨古川町に遊ぶ。その途上、鮎の簗漁やなりょうを見て詠む。

   野口の簗
  そのすゑ神通川に落つる飛騨の宮川は鮎を以て聞ゆ、雨そ
  ぼ降る中を野口の簗といふに遊びて
 たそがれの小暗き闇に時雨降り簗にしらじら落つる鮎おほし
 かきたわみ白う光りて流れ落つる浪より飛びて跳ぬる鮎これ

 牧水は、おそらくふるさとでは簗漁をしなかったろうが、このとき坪谷川の鮎釣りを思い出したろう。幼い日のこんな景を浮かべつつ。

 われいまだ十歳とをならざりき山渓やまたにのたぎつ瀬に立ち鮎は釣りき
 釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を (『黒松』)


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 若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。

 正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。