歩く人 牧水(Back)

歩く人

牧 水



はじめに


 ――名は人を現す。
 そのようによく、いわれたりする。だがどうだろう、牧水という名ほどにその人らしい名前、があるだろうか。ちょっとほかに、いそうにもない。
 戸籍名は、若山しげる。ごくごく平凡なそこらに、ごろごろと転がっている、よくみる名前でしかない。
 それが牧水なると、それこそ聖なる名のごとく、じつに素晴らしい。とりかかりにこの、名前を糸口に、これからはじめる。
 牧水、なんともこの歌人にぴったりで、これより考えようもない。どこだか大正文化ロマンチックらしくあって、くわえて新興文芸アイドルスターっぽくある。いやじっさい見事なること、このうえない名ではないか、牧水。
 どうしてこの名を思いついたのか? 牧水は、「もっとも愛していたものの名二つを繋ぎ合せたものである」として明かしている。「牧はまき、すなわち母の名である。水はこの渓や雨やから来たものであつた」(「おもいでの記」所収。以下同じ)と。
 しかしなぜ「もっとも愛していた」ものが、ほかではなく「母」と「水」であったのか。そしていかに牧水という命名をして、のちに歌人として名声をえたものか。そこらあたりから迫っていくことにしたい。

 


第一回(2017.02.27)

マザコン・牧水


 明治十八(一八八五)年、八月二十四日、牧水は、宮崎県東臼杵うすき郡東郷村大字おおあざ坪谷つぼや(現・日向市)、山の奥深い峡谷の地に、医師若山立蔵りゆうぞう、母マキの長男に生まれる。うえに年の離れた三人のお姉さんあり。末っ子だ。
 待ち望まれていた男の子であれば、もう猫可愛がり、親の愛をいっぱい受けて育っている。むろん父にも愛された。だがそれにもまして「母が私を愛していた事は並ならものであった」というのである。
 どうしてか? どうやらお父さんはというと「医を業としていながら、多くは自宅に落ち着かず、何(なに)か彼(か)か、事業といふ様なことを空想して飛び歩いていた」というような変わったお人らしかった。でここにいう「飛び歩」きようだが、どこだかのちの牧水をしのばせるか。
 そんななんだかんだで、なおさら幼な子は母がかりに、なったとおぼしくある。まずはこんな歌をみられたし。

母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ (海の声)
ふるさとは山のおくなる山なりきうら若き母の乳にすがりき (路上)

 いやなにほんと、べたべたのこの母恋ぶりといったら、おかしくないか。ちょっとキモすぎでは? だけどこのとおり母は子を愛すること、ひとしく、おなしに子は母を愛したのである。繁坊は末っ子の跡取り。頭の芯から、まるごとお母さん子だったのだ、骨の髄まで。
 そしてこのお母さんが、それは素晴らしい、いいお人らしかった。このことでは以下のような歌文をみられたい。

歯を痛み泣けば背負ひてわが母は峡の小川に魚を釣りにき (路上)

「私は五歳(いつつ)位いから歯を病んだ。……。そんな場合、おいおい泣きわめいている私を抱いて一緒に涙を流しているのは必ず母であった」「或時はまた声も枯れ果て、ただしくしくと頬を抑えて泣いていると、母は為かけた仕事を捨てておいて私を背に負いながら釣竿を提げて渓へ降りて行った。そうして何か彼か断(た)えず私に話しかけながら岩から岩を伝って小さな魚を釣って呉れた」
 いつだって「私を抱いて一緒に涙を流」してくれる。いかにもこのお母さんらしいこと、「私を背に負い」家の隣の渓へ「魚を釣」りに、「断えず私に話しかけながら」ゆくと。いやほんとうに、なんという良いお母さんだったら、つづけていうのだ。
「いま思えばその頃の母は四十前後であったろうが、どうしたものか私には二十歳前後の人に想像せられてならない。母というより姉の気がした。更に親しいおんなの友達であった様にも思われてならないのである」
 ここはちょっと、この心の動きは怪しくは、ないだろうか。なんといったらいいものか。いまにいたってまだ、しっかりと臍の緒で繋がりあった、ふうなままでいる。そのようなへんなあんばい。まったくもって、この母と子との仲はまあ、おかしいのだ。
 ふつうではない。どうかするとそんな、母子相姦的、ともみられるほど。けったいなのだ。
 というところから、こう断って、すすめることにする。マザコン、万歳である! じつにこのことが牧水をそれまでにない、あたらしいモダンなほんとう、さっそうたる新進ならしめたのである。マザコン、立派なりだ! あえていうならば、その甘さは、つよさなるあかしだ。

 


第二回(2017.03.25)

ワイルドボーイ・牧水


 牧水の筆名は、母マキの名と、故郷の渓の水と、ふたつを一つにして成ったものだ。
 牧水の故郷、日向の山峡、坪谷つぼや村。現在も、日豊本線は日向市駅から車で一時間近くの過疎地域、僻村だ。生家は、眼下に耳川みみがわ支流の坪谷川の峡谷を望む景勝の地にある。
「坪谷村は山と山の間に挟まれた細長い峡谷である。ことに南には附近第一の尾鈴山がけわしい断崖面をあらわして眼上まうへに聳えているので、一層峡谷らしい感じを与えて居る」

おもひやるかの青きかひのおくにわれのうまれし朝のさびしさ (路上) 

 牧水は、坪谷川は「青き峡のおく」に生まれた。ところでなぜ生誕の朝を「さびしさ」と感受し詠ったものか。ふつうには「青き峡のおく」、すなわち鄙びた村に生を受けたこと、をもって「さびしさ」と解されるかも。だがわたしは深読みしてみたい。ロリコン・牧水、であればそうではなくて、生誕そのものを母体からの剥離ととらえる尋常ならざる感覚、があったのではないか。
 それはさて牧水、繁君はというと、渓の子、ワイルドボーイとして、この渓をワンダーランドとして駆けめぐり育った。さきにお母さんが、泣きやまな繁坊を「背に負いながら釣竿を提げて渓へ降りて行った」という箇所をみた。
 ところでこのお母さんはというと、むろんもちろん釣りにとどまらない。山へ入り、山と遊ぶ。「この癖を私に植えたのはまさしく私の母であった」と。そして懐かしく思うのだ。「彼女は実にそうして山に入って蕨を摘み筍をもぎ、栗を拾うことを喜んだ。……。父と言い合いをした後など、彼女は必ず籠を提げて山へ入って行った。そしてその時必ず私はその後を追ったのである」
 でなんとその籠の中には酒を詰めた小さな壜が入っていたと。いまみるとこの母子愛飲がのちの酒仙牧水につながる。呼び水ならず、呼び酒となる。
 おそらくこれ以上の母子の関係はあるまい。子は、ものこころがつかないうちに母から山へ入り、山で遊ぶ楽しさをいっぱいおしえられた。小学時、勉強は嫌いでも、成績は良くって、根っからの自然児として育ってゆく。「冬から春にかけてはいろいろな係蹄わなをかけて鳥や獣を捕る。わらび、ぜんまいを摘む。椎茸を拾う」。またランプ以前の村では灯明として用いる、倒れた松の節を切り取る「節松掘り」に精を出すのである。秋は「椎拾ひ、栗拾ひ、通草あけびとり、山柿とり、から始ってやがて茸取りとなる」。さらに山芋つまり「自然薯じねんじよ掘り」がくる。
 それでこの芋掘りであるが、これがまあ大抵でないのだ。まず「その根の所在を発見するのがなかなかの難事」なうえ、経験のある向きならご存知のように、それを途中で折らずに掘り出すのは大変に根気の要る作業である。それなのに繁君はというと「秋の山の朗らかな日光のなかに蹲踞しやがんでこれを為るのが何とも云えず楽しみであった。それだけに上手で、いつも大人を負していた。荒い土を掘って白いその根の次第に太く表れて来るのも嬉しかつた」というから山人さんじんよろしくある。
 繁少年は心ゆくまで山を駆けめぐり多く学んでゆく。子供は、天然だ。というところで、お母さんゆずりの釣り、についてみよう。渓では多くの魚が捕れる。なかでも鮎である。なんと「われわれ子供ですら半日数十尾を釣ることが出来た。渓の瀬の岩から岩へ飛び渡って釣って歩く面白さはいま考へても身体がむず痒くなる」という。のちにこの頃の渓で遊んだ日を「鮎つりの思ひ出」と題して二十五首の多くを詠んでいるのだ。

ふるさとの日向の山の荒渓の流清うして鮎多く棲みき (黒松)
幼き日に釣りにし鮎のうつり香をいまてのひらに思ひ出でつも
釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を

 それはほんと楽しい釣りであった。「岩から岩へ飛び渡って釣って歩く」。だけどその釣りかたが、いつとなし変わってくる。
「私の特に好んだのはうして飛び歩いて釣るのよりも、樹のかげか岩蔭にしゃがんで、油の様な淵の上に浮いた浮標うきに見入る釣であった。そして、友達と一緒に釣るよりも独りぼっちで釣るのを愛した。そのため、他の人の行かぬ様な場所を選んで釣りに行った」
 そうしてそれからしばらく、なおその癖はつよく、なっていっているのである。
「やがて少しずつ文字を知る様になると、……、一層その癖が烈しくなった。今まで知らず知らず仲間を避けていたのが、いつの間にか意識してひとを避くる様になった。そうなって愈々いよいよ親しくなって来たのは山であつた。また渓であった。多くは独りで山に登り、渓に降りて行ったが、稀に一人の友があった。それは私の母であった」
 ここでもまたお母さんであるとは! みるとおりに繁少年はというと、そのさきには土地の友達とも仲良くしたろうが、だんだんと単独行をするにいたる。どうしてそのように外れてゆこうとするのか。それは「文字を知る」、つまり空想に遊ぶ。いわゆる孤独にひたる年頃になった。そのあたりの変わりようは、べつにふつうに誰もおなしである。それはそうなのであろうが、じつはいま一つわけあり、めくようなことがあるのだ。


  第三回(2017.04.28)

ぬれ草鞋わらじ党末裔・牧水


 第一回マザコン・牧水、第二回ワイルドボーイ・牧水。というタイトルのもとに牧水の生誕と幼時をめぐって、ちょっとふつうではない母性と自然への親和をみてきた。そこにいま一つこの少年をやがて牧水にする点があるのだ。まずは「おもいでの記」のつぎの記をみよう。
「『濡草鞋を脱ぐ』といふ言葉が私の地方にある。他国者が其処に来た初めに或家を頼つて行く、それを誰は誰の家で濡草鞋をぬいだといふのである。その濡草鞋をぬいだ群が私の家には極めて多かつた。/私の家自身が極く新しい昔に於て濡草鞋党の一人であつたのだ」(濡草鞋)
「濡草鞋を脱ぐ(解く)」とは、「志を立てて目的の地に行き、最初頼つて落着いた処をいふ」(『隠語大辞典』)の謂。
 若山家は、祖父けんかい(武蔵川越在の農家の出で、生薬屋の奉公人から、肥前は平戸でシーボルトに仕え西洋医学を学ぶ)が、慫慂しようようする人があってか風の吹くままに流れ着いたこの地で医業を営んだことに始まる。ということは「濡草鞋党」、つまり「他国者」であったのである。このことが少年に与えた影響は少なくない。「山師、流浪者、出稼者、多くは余りかんばしからぬ人たちが入れ替り立ち替りやつて来た」。父は、つまるところこれら濡草鞋の群れの世話や口車に乗り財産を失してしまったのだ。それではその児はどうなのか。
「母の朝夕の嘆きを眼の前に見てゐるので、理も非もなく彼等をよくない人たちだと思ひながら、私は知らず知らず彼等他国者にいてゐた。……。いま思へば彼等はみないはゆる敗残の人々であつたのだ。そして私は彼等の語る世間話と、いつとなく読みついてゐた小説類とで、歳にはませて早くも世間といふものを空想することを覚えてゐた。ちやうどそれはをりをり山の頂上から遙かに光つてゐるものを望んで、海といふものを空想してゐたと同じ様であつたらう」
 このとき外への憧れが繁少年に沸き立っている。渓谷の世界しか知らぬ少年は、濡草鞋、他国者、後ろ暗い「敗残の人々」が「語る世間話」に目を輝かせる。そこから「世間といふものを空想する」「海といふものを空想してゐた」というのである。この渓から広い世界へ出て行かん。いつかそのように思いつのりつづける。ここに歩く人牧水の第一歩が印された。峡を背にし、海へ向かう。それはいつか。
「私の村から海岸に出るには近いところでは僅に五里しかないのであるが、四辺あたりを包む山嶽の形から宛然さながら二十里も三十里も離れた、山深い所の様に思はれてならなかつた。で、母に連れられてなど、附近でもやや高い山の頂上へ行つて、あれが海だ、と指ざされると、実に異常のものを見る様に、胸がときめいた」(「海」)
 明治二十四年、六歳。母に連れられて耳川を舟で下り、美々津みみつで初めて海を見る。

あたたかき冬の朝かなうす板のほそ長き舟に耳川くだる (砂丘)

「うす板のほそ長き舟」は、高瀬舟。「耳川(美々津川)」は、椎葉村の奥、三方山に源を発し東へ流れる。宮崎平野を流れ、日向灘に注ぐ。耳川の早瀬を下り、日向灘へ悠然と入る。それがどんなに想像を超えた体験であったものか。「初めて海を見て驚く驚愕おどろきは全ての驚愕おどろきの中にあつて最も偉大な崇高なものであらうと思ふ」として書くのだ。
「眼の前の砂丘を越えて雪のやうな飛沫を散らしながら青々とうねり上る浪を見て、母の袖をしつかと捉りながら驚き懼れて、何ものなるかを問ふた。母は笑ひながら、あれは浪だと教へた。舟が岸に着くや母はわざ〳〵私を砂浜の方に導いて更に不思議に更に驚くべき海、大洋を教へてくれた。その時から今日まで、海は実に切つても切れぬ私の生命いのちの寂しい伴侶みちづれとなつて来てゐるのである」(「耳川と美々津」全集第十巻)
 けっして大袈裟ではない。ここであえて私事におよべば、むろん昭和も戦後ながら、これはそのまま北陸は奥越の山深くに育った筆者の正直な感想でもあるのだ。このときに初めて海を目にした洟垂れ小僧は大きく声を飲んだものだ。「えっけぇ(おおきい)!」
 渓から、海へ。そのことが現実になるのは、それからおよそ五年あとである。
明治二十九年、十一歳。坪谷尋常小学校を卒業。近くに高等小学校がなく四十キロ離れた延岡高等小学校に入学、故郷を離れる。県立延岡中学時代と合わせて八年間を当地で過ごすことになる。この間、文学に目覚め、各種紙誌に盛んに投稿。やがてもっぱら歌の道を歩み始めるようになる。明治三十四年、作歌を始めた年の一首にある。

家にいます母の寝醒や如何あらんあかつき寒き秋風の声 「秀才文壇」(明三四・一一)

 母恋しい。しかしもう戻れないのだ。渓恋しい。

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 若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。

 正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。