歩く人 牧水(Back)

歩く人

牧 水


はじめに


 ――名は人を現す。
 そのようによく、いわれたりする。だがどうだろう、牧水という名ほどにその人らしい名前、があるだろうか。ちょっとほかに、いそうにもない。
 戸籍名は、若山しげる。ごくごく平凡なそこらに、ごろごろと転がっている、よくみる名前でしかない。
 それが牧水なると、それこそ聖なる名のごとく、じつに素晴らしい。とりかかりにこの、名前を糸口に、これからはじめる。
 牧水、なんともこの歌人にぴったりで、これより考えようもない。どこだか大正文化ロマンチックらしくあって、くわえて新興文芸アイドルスターっぽくある。いやじっさい見事なること、このうえない名ではないか、牧水。
 どうしてこの名を思いついたのか? 牧水は、「もっとも愛していたものの名二つを繋ぎ合せたものである」として明かしている。「牧はまき、すなわち母の名である。水はこの渓や雨やから来たものであつた」(「おもいでの記」所収。以下同じ)と。
 しかしなぜ「もっとも愛していた」ものが、ほかではなく「母」と「水」であったのか。そしていかに牧水という命名をして、のちに歌人として名声をえたものか。そこらあたりから迫っていくことにしたい。

 


第一回(2017.02.27)

マザコン・牧水


 明治十八(一八八五)年、八月二十四日、牧水は、宮崎県東臼杵うすき郡東郷村大字おおあざ坪谷つぼや(現・日向市)、山の奥深い峡谷の地に、医師若山立蔵りゆうぞう、母マキの長男に生まれる。うえに年の離れた三人のお姉さんあり。末っ子だ。
 待ち望まれていた男の子であれば、もう猫可愛がり、親の愛をいっぱい受けて育っている。むろん父にも愛された。だがそれにもまして「母が私を愛していた事は並ならものであった」というのである。
 どうしてか? どうやらお父さんはというと「医を業としていながら、多くは自宅に落ち着かず、何(なに)か彼(か)か、事業といふ様なことを空想して飛び歩いていた」というような変わったお人らしかった。でここにいう「飛び歩」きようだが、どこだかのちの牧水をしのばせるか。
 そんななんだかんだで、なおさら幼な子は母がかりに、なったとおぼしくある。まずはこんな歌をみられたし。

母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ (海の声)
ふるさとは山のおくなる山なりきうら若き母の乳にすがりき (路上)

 いやなにほんと、べたべたのこの母恋ぶりといったら、おかしくないか。ちょっとキモすぎでは? だけどこのとおり母は子を愛すること、ひとしく、おなしに子は母を愛したのである。繁坊は末っ子の跡取り。頭の芯から、まるごとお母さん子だったのだ、骨の髄まで。
 そしてこのお母さんが、それは素晴らしい、いいお人らしかった。このことでは以下のような歌文をみられたい。

歯を痛み泣けば背負ひてわが母は峡の小川に魚を釣りにき (路上)

「私は五歳(いつつ)位いから歯を病んだ。……。そんな場合、おいおい泣きわめいている私を抱いて一緒に涙を流しているのは必ず母であった」「或時はまた声も枯れ果て、ただしくしくと頬を抑えて泣いていると、母は為かけた仕事を捨てておいて私を背に負いながら釣竿を提げて渓へ降りて行った。そうして何か彼か断(た)えず私に話しかけながら岩から岩を伝って小さな魚を釣って呉れた」
 いつだって「私を抱いて一緒に涙を流」してくれる。いかにもこのお母さんらしいこと、「私を背に負い」家の隣の渓へ「魚を釣」りに、「断えず私に話しかけながら」ゆくと。いやほんとうに、なんという良いお母さんだったら、つづけていうのだ。
「いま思えばその頃の母は四十前後であったろうが、どうしたものか私には二十歳前後の人に想像せられてならない。母というより姉の気がした。更に親しいおんなの友達であった様にも思われてならないのである」
 ここはちょっと、この心の動きは怪しくは、ないだろうか。なんといったらいいものか。いまにいたってまだ、しっかりと臍の緒で繋がりあった、ふうなままでいる。そのようなへんなあんばい。まったくもって、この母と子との仲はまあ、おかしいのだ。
 ふつうではない。どうかするとそんな、母子相姦的、ともみられるほど。けったいなのだ。
 というところから、こう断って、すすめることにする。マザコン、万歳である! じつにこのことが牧水をそれまでにない、あたらしいモダンなほんとう、さっそうたる新進ならしめたのである。マザコン、立派なりだ! あえていうならば、その甘さは、つよさなるあかしだ。

 


第二回(2017.03.25)

ワイルドボーイ・牧水


 牧水の筆名は、母マキの名と、故郷の渓の水と、ふたつを一つにして成ったものだ。
 牧水の故郷、日向の山峡、坪谷つぼや村。現在も、日豊本線は日向市駅から車で一時間近くの過疎地域、僻村だ。生家は、眼下に耳川みみがわ支流の坪谷川の峡谷を望む景勝の地にある。
「坪谷村は山と山の間に挟まれた細長い峡谷である。ことに南には附近第一の尾鈴山がけわしい断崖面をあらわして眼上まうへに聳えているので、一層峡谷らしい感じを与えて居る」

おもひやるかの青きかひのおくにわれのうまれし朝のさびしさ (路上) 

 牧水は、坪谷川は「青き峡のおく」に生まれた。ところでなぜ生誕の朝を「さびしさ」と感受し詠ったものか。ふつうには「青き峡のおく」、すなわち鄙びた村に生を受けたこと、をもって「さびしさ」と解されるかも。だがわたしは深読みしてみたい。ロリコン・牧水、であればそうではなくて、生誕そのものを母体からの剥離ととらえる尋常ならざる感覚、があったのではないか。
 それはさて牧水、繁君はというと、渓の子、ワイルドボーイとして、この渓をワンダーランドとして駆けめぐり育った。さきにお母さんが、泣きやまな繁坊を「背に負いながら釣竿を提げて渓へ降りて行った」という箇所をみた。
 ところでこのお母さんはというと、むろんもちろん釣りにとどまらない。山へ入り、山と遊ぶ。「この癖を私に植えたのはまさしく私の母であった」と。そして懐かしく思うのだ。「彼女は実にそうして山に入って蕨を摘み筍をもぎ、栗を拾うことを喜んだ。……。父と言い合いをした後など、彼女は必ず籠を提げて山へ入って行った。そしてその時必ず私はその後を追ったのである」
 でなんとその籠の中には酒を詰めた小さな壜が入っていたと。いまみるとこの母子愛飲がのちの酒仙牧水につながる。呼び水ならず、呼び酒となる。
 おそらくこれ以上の母子の関係はあるまい。子は、ものこころがつかないうちに母から山へ入り、山で遊ぶ楽しさをいっぱいおしえられた。小学時、勉強は嫌いでも、成績は良くって、根っからの自然児として育ってゆく。「冬から春にかけてはいろいろな係蹄わなをかけて鳥や獣を捕る。わらび、ぜんまいを摘む。椎茸を拾う」。またランプ以前の村では灯明として用いる、倒れた松の節を切り取る「節松掘り」に精を出すのである。秋は「椎拾ひ、栗拾ひ、通草あけびとり、山柿とり、から始ってやがて茸取りとなる」。さらに山芋つまり「自然薯じねんじよ掘り」がくる。
 それでこの芋掘りであるが、これがまあ大抵でないのだ。まず「その根の所在を発見するのがなかなかの難事」なうえ、経験のある向きならご存知のように、それを途中で折らずに掘り出すのは大変に根気の要る作業である。それなのに繁君はというと「秋の山の朗らかな日光のなかに蹲踞しやがんでこれを為るのが何とも云えず楽しみであった。それだけに上手で、いつも大人を負していた。荒い土を掘って白いその根の次第に太く表れて来るのも嬉しかつた」というから山人さんじんよろしくある。
 繁少年は心ゆくまで山を駆けめぐり多く学んでゆく。子供は、天然だ。というところで、お母さんゆずりの釣り、についてみよう。渓では多くの魚が捕れる。なかでも鮎である。なんと「われわれ子供ですら半日数十尾を釣ることが出来た。渓の瀬の岩から岩へ飛び渡って釣って歩く面白さはいま考へても身体がむず痒くなる」という。のちにこの頃の渓で遊んだ日を「鮎つりの思ひ出」と題して二十五首の多くを詠んでいるのだ。

ふるさとの日向の山の荒渓の流清うして鮎多く棲みき (黒松)
幼き日に釣りにし鮎のうつり香をいまてのひらに思ひ出でつも
釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を

 それはほんと楽しい釣りであった。「岩から岩へ飛び渡って釣って歩く」。だけどその釣りかたが、いつとなし変わってくる。
「私の特に好んだのはうして飛び歩いて釣るのよりも、樹のかげか岩蔭にしゃがんで、油の様な淵の上に浮いた浮標うきに見入る釣であった。そして、友達と一緒に釣るよりも独りぼっちで釣るのを愛した。そのため、他の人の行かぬ様な場所を選んで釣りに行った」
 そうしてそれからしばらく、なおその癖はつよく、なっていっているのである。
「やがて少しずつ文字を知る様になると、……、一層その癖が烈しくなった。今まで知らず知らず仲間を避けていたのが、いつの間にか意識してひとを避くる様になった。そうなって愈々いよいよ親しくなって来たのは山であつた。また渓であった。多くは独りで山に登り、渓に降りて行ったが、稀に一人の友があった。それは私の母であった」
 ここでもまたお母さんであるとは! みるとおりに繁少年はというと、そのさきには土地の友達とも仲良くしたろうが、だんだんと単独行をするにいたる。どうしてそのように外れてゆこうとするのか。それは「文字を知る」、つまり空想に遊ぶ。いわゆる孤独にひたる年頃になった。そのあたりの変わりようは、べつにふつうに誰もおなしである。それはそうなのであろうが、じつはいま一つわけあり、めくようなことがあるのだ。


  第三回(2017.04.28)

ぬれ草鞋わらじ党末裔・牧水


 第一回マザコン・牧水、第二回ワイルドボーイ・牧水。というタイトルのもとに牧水の生誕と幼時をめぐって、ちょっとふつうではない母性と自然への親和をみてきた。そこにいま一つこの少年をやがて牧水にする点があるのだ。まずは「おもいでの記」のつぎの記をみよう。
「『濡草鞋を脱ぐ』といふ言葉が私の地方にある。他国者が其処に来た初めに或家を頼つて行く、それを誰は誰の家で濡草鞋をぬいだといふのである。その濡草鞋をぬいだ群が私の家には極めて多かつた。/私の家自身が極く新しい昔に於て濡草鞋党の一人であつたのだ」(濡草鞋)
「濡草鞋を脱ぐ(解く)」とは、「志を立てて目的の地に行き、最初頼つて落着いた処をいふ」(『隠語大辞典』)の謂。
 若山家は、祖父けんかい(武蔵川越在の農家の出で、生薬屋の奉公人から、肥前は平戸でシーボルトに仕え西洋医学を学ぶ)が、慫慂しようようする人があってか風の吹くままに流れ着いたこの地で医業を営んだことに始まる。ということは「濡草鞋党」、つまり「他国者」であったのである。このことが少年に与えた影響は少なくない。「山師、流浪者、出稼者、多くは余りかんばしからぬ人たちが入れ替り立ち替りやつて来た」。父は、つまるところこれら濡草鞋の群れの世話や口車に乗り財産を失してしまったのだ。それではその児はどうなのか。
「母の朝夕の嘆きを眼の前に見てゐるので、理も非もなく彼等をよくない人たちだと思ひながら、私は知らず知らず彼等他国者にいてゐた。……。いま思へば彼等はみないはゆる敗残の人々であつたのだ。そして私は彼等の語る世間話と、いつとなく読みついてゐた小説類とで、歳にはませて早くも世間といふものを空想することを覚えてゐた。ちやうどそれはをりをり山の頂上から遙かに光つてゐるものを望んで、海といふものを空想してゐたと同じ様であつたらう」
 このとき外への憧れが繁少年に沸き立っている。渓谷の世界しか知らぬ少年は、濡草鞋、他国者、後ろ暗い「敗残の人々」が「語る世間話」に目を輝かせる。そこから「世間といふものを空想する」「海といふものを空想してゐた」というのである。この渓から広い世界へ出て行かん。いつかそのように思いつのりつづける。ここに歩く人牧水の第一歩が印された。峡を背にし、海へ向かう。それはいつか。
「私の村から海岸に出るには近いところでは僅に五里しかないのであるが、四辺あたりを包む山嶽の形から宛然さながら二十里も三十里も離れた、山深い所の様に思はれてならなかつた。で、母に連れられてなど、附近でもやや高い山の頂上へ行つて、あれが海だ、と指ざされると、実に異常のものを見る様に、胸がときめいた」(「海」)
 明治二十四年、六歳。母に連れられて耳川を舟で下り、美々津みみつで初めて海を見る。

あたたかき冬の朝かなうす板のほそ長き舟に耳川くだる (砂丘)

「うす板のほそ長き舟」は、高瀬舟。「耳川(美々津川)」は、椎葉村の奥、三方山に源を発し東へ流れる。宮崎平野を流れ、日向灘に注ぐ。耳川の早瀬を下り、日向灘へ悠然と入る。それがどんなに想像を超えた体験であったものか。「初めて海を見て驚く驚愕おどろきは全ての驚愕おどろきの中にあつて最も偉大な崇高なものであらうと思ふ」として書くのだ。
「眼の前の砂丘を越えて雪のやうな飛沫を散らしながら青々とうねり上る浪を見て、母の袖をしつかと捉りながら驚き懼れて、何ものなるかを問ふた。母は笑ひながら、あれは浪だと教へた。舟が岸に着くや母はわざ〳〵私を砂浜の方に導いて更に不思議に更に驚くべき海、大洋を教へてくれた。その時から今日まで、海は実に切つても切れぬ私の生命いのちの寂しい伴侶みちづれとなつて来てゐるのである」(「耳川と美々津」全集第十巻)
 けっして大袈裟ではない。ここであえて私事におよべば、むろん昭和も戦後ながら、これはそのまま北陸は奥越の山深くに育った筆者の正直な感想でもあるのだ。このときに初めて海を目にした洟垂れ小僧は大きく声を飲んだものだ。「えっけぇ(おおきい)!」
 渓から、海へ。そのことが現実になるのは、それからおよそ五年あとである。
明治二十九年、十一歳。坪谷尋常小学校を卒業。近くに高等小学校がなく四十キロ離れた延岡高等小学校に入学、故郷を離れる。県立延岡中学時代と合わせて八年間を当地で過ごすことになる。この間、文学に目覚め、各種紙誌に盛んに投稿。やがてもっぱら歌の道を歩み始めるようになる。明治三十四年、作歌を始めた年の一首にある。

家にいます母の寝醒や如何あらんあかつき寒き秋風の声 「秀才文壇」(明三四・一一)

 母恋しい。しかしもう戻れないのだ。渓恋しい。


  第四回(2017.05.29)

「海と、恋と」


 明治二十九年、十一歳。牧水は、故郷坪谷の峡谷を後にし、延岡高等小学校、延岡中学時代と合わせて八年間を当地で過ごす。この間、文学に目覚め、各種紙誌に短文、短歌、俳句を盛んに投稿。やがてもっぱら歌の道を歩み始めるようになる。しかしいまからみれば牧水の才をもってしても、ここでは引用しないが、それらはいまだ習作の域をでるものでなかった。
 牧水が、ほんとうに牧水になる。そこにはなによりも故郷と母からの、それこそ肉を引き剥がすほど、つよい離別が求められたのである。
 三十七年、十九歳。早稲田大学文学科高等予科に入学。医師の跡取りであればこの選択をめぐりはげしい両親の反対があったはずだ。それをなんとか説き伏せ言いくるめたか。
 四月、上京。いよいよふるさとの母と渓を背にすることになる。教室では北原白秋と親しくなり、のちに二回も下宿を共にする。また土岐ときぜん麿まろほかの知遇を得て文学的修練を積む。だがこの稿の性格からそのへんの詳しい経緯はおこう。
 ここで挙げるべきは恋である。牧水の一世一代の恋愛だ。二十代も初め誰もが恋に悩む年頃だ。われらが牧水も例外ではない。それどころかその恋はひどく悩ましくも狂おしいものであった。あらかじめ言っておこう。じつにこの恋が歌を詠ませるのだ。はては牧水を並ぶものもない稀な歌人にする。
 三十九年、二十一歳。六月、帰省の途次、神戸で偶然、とある女人と出会っている。園田小枝子である。このときは友人の仲立ちで知り合っただけだが、おそらく頻繁な音信が行き交ったのだろう。翌四十年春、突然に小夜子が上京、もうたちまち火が付いているのだ。
 牧水研究の第一人者、大悟法利雄『若山牧水伝』にある。
「(小枝子は)牧水よりも一つ年上である。生れたのは瀬戸内海のある海岸町、まことに不思議な両親をもち、まだ何もわからぬ幼女時代に既に幾回ともなくその戸籍が転々としているような数奇な運命の下に成人した。そして十六七歳ぐらいで結婚し、二人の子供さえもっていたが、胸を病み、家を離れて須磨の療養所に入った経験があった。……彼女はそれから家庭にかえらず、四十年の春あたり東京に出て来たのであるが、彼女は非常に美しかった」
 小枝子について、およそ子細なところは不明にする。牧水は、どことなく妖女めき妖しい「数奇な運命」の「非常に美し」い女人に惹かれてゆく。しかしこの六月、学生なればやむなく彼女をひとりおいて帰省することになる。ところで当時はまだ宮崎県には鉄道がない。阪神地方からは細島(現、日向市)阪神間を往復する海路によった。ときに恋に憑かれた牧水は胸内を歌に託する。

 白鳥しらとりかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 教科書に載る余りにも有名な歌。あきらかにこれはその船上でなったものだろう。「空の青海のあを」にも「染まずただよふ」ばかりの「白鳥」。いわずもがな牧水自身でこそあろう。
 またこの帰省に際し九月下旬の上京までの間に中国、九州、近畿の諸地域を旅した。このとき誰もが挙げるいま一つの歌を詠んでいる。

 幾山河越えさり行かば寂しさのてなむ国ぞ今日けふも旅ゆく

「幾山河越え……」。これは永遠の旅人たらんという宣言の一首である。
 掲歌のこの二首。辛い恋に喘ぐ者が吐いた胸のつかえ。おぼえずしらず溜息吐息さながらこぼれた三十一文字。それがそのまま生涯を物語る名歌となっていること。巷間に言う諺どおり、恋は人を詩人にする。それこそ牧水がそうだ。
 さらにもっと恋の火は燃え上がりやまない。この年末、二人は安房根本の海岸で十日余り滞在。その折の歌にある。

 ああ接吻くちづけうみそのままに行かずいかずとりひながら果てはてよいま
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざくちを君

 ほんとうにこの恋の海を真っ直ぐ詠む歌の輝きはどうだろう。まさに青春の絶唱である。だがこの恋愛については本稿の性格からやはり子細はおこう。ここでは一点にかぎり私見をおよぶ。
 じつはこの恋というと、いうならばあえてする母からの離反であったということだ。またこの際の海であるが、これはおなじように渓からの解放だったとみられる。おもうにそれは歌人誕生への大きな通過儀礼であったのだろう。
 小枝子。この素性の不明なる惑乱の女人。牧水は、この恋に文字通り溺れた。そうしてふるさの母とそしてたにから身を剥がさんと図ったとおぼしい。小枝子は、ときにさながら前章でみた、繁少年が幼時に「濡草鞋」なる他国者に空想した「世間といふもの」と「海といふもの」の、いわば化身だったのだろう。
 まだまだ苦しい恋の迷い旅はつづく。

 


  第五回(2017.06.29)

「恋の闇路」


 前章では「海と恋と」題して、惑乱の女人小枝子の登場をみた。いままだ若い牧水は恋の闇路を踏み迷っている。
 明治四十一年、二十三歳。七月、早大卒業。第一歌集『海の声』を自費出版。就職もしていなければ、その出版費用も生活費も、仕送りだよりだったろう。同月下旬、苦しい思いを抱いて、同窓の歌人土岐善麿と軽井沢に遊び、帰路ひとりで碓氷峠越をして帰京する。ときの浅間眺望詠をみよ。

 火の山にしばし煙の断えにけりいのち死ぬべくひとのこひしき (独り歌へる)

 愛する人よ、いつとなし火の山の煙が絶えているのを、仰ぎみるにつけ切ないかぎりにも、いつかこの命も消え失せる刻がこようか、の謂。帰京後、数日して帰省。その途の船上で恋の亡者は詠う。どうやらこの歌で佐枝子は「安芸」(広島西部)の出とみられる。

 恋人のうまれしといふ安芸の国の山の夕日を見て海を過ぐ (独り歌へる) 

 なんともどうにも恋狂いはやまない。しかるにこのとき帰省した故郷の両親はどうだったろう。これがふたりとも白髪というのである。

 父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる (独り歌へる)

 みるほどに親の老いはあらわなばかり。それなのに聞く耳をもたぬ放蕩息子はまるで上の空よろしいか。いっときも家に留まっていられない。このさきまだ小枝子との間がもつれて、死ぬの、殺すの、というような絶望的な苦しみがつづく。
 四十三年六月頃、とうとう恋愛が破綻に瀕して、極度に憔悴し切ることに。牧水は、その苦悶から逃れ漂白の旅に出る決意を固める。九月初め、山梨県東八代郡境川村(現、笛吹市)在の大学時代の知友、俳人飯田蛇笏だこつ邸に十日ほど滞在。その後、二ヶ月余り、甲斐から信州へと彷徨する。じつはこの旅にあって詠んだのが、これまた知られた歌なのである。

 白玉しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ (路上)

 人口に膾炙した酒好きの当方らが愛吟の名歌だ。牧水は、それほどまで心が沈みきっていたのだ。ひとり山の懐を歩き、踏み迷い行き暮れ、ひとり苦い酒を酌む。
 旅と酒と。牧水は、もとよりこの二つに身をあずけるような血に生まれついていた。旅については、前々回の「濡草鞋党末裔」の章をご覧なれば了解されよう。もともと他国者だったのだ。酒については、これも第二章に母マキの愛酒ぶりにおよんだ。またそれにとどまらず祖母カメが大変な大酒飲みだと伝わる(『若山牧水伝』大悟法利雄)。
 旅と酒と。ふたつともあえていえば牧水のDNAにインプットされたものである。どちらが欠けてもその歌はなかった。それをさらに決定的にも耽溺させたのは小枝子との道行きであった。
 四十四年三月、小枝子が離京してその五年余りの煉獄愛のごとき関係に終止符がうたれる。だがそれでもって恋情が霧散したわけでないのだ。なおむしろ胸内に深く鬱屈するのである。忘れよといっても忘れられない(こののちも去った恋人への想いはその生涯にわたり作歌に潜むことになる)。

 五年いつとせにあまるわれらがかたらひのなかの幾日いくひをよろこびとせむ

 牧水は、荒れた。この頃、酒にひどく溺れることが多かった。酔っぱらって線路に寝込み、電車を留めて「電留でんとめあそん臣」の綽名を頂戴している。

 かなしくもいのち暗さきはまらばみづから死なむ砒素ひそをわが持つ

 わが部屋に生けるはさびし軒の蜘蛛くも屋根の小ねずみものはぬわれ

 同年七月、傷心の牧水。そこに現れた人がいる。太田喜志子である。喜志子は、長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)、山間の農村に生まれだ。家は数百年つづく旧家で、躾も厳しく学び、母や姉が歌の心得があり、じしんも歌を詠むようになった。これだけでも喜志子はおよそ小枝子とは正反対なる女性であることが理解されるだろう。そのちがいを一口でいうと、小枝子が激しい「海」の女であれば、喜志子は穏やかな「山」の娘であることだ。このとき投稿を通じて師事した同郷の先輩歌人太田水穂を頼り上京していた。牧水は、水穂宅で初めて喜志子と会う。
 四十五年・大正元年(一九一二)三月、信州の麻績おみでの歌会で、帰郷中の喜志子と再会。牧水は、彼女に唐突に求婚する。「私を救って欲しい」と。二ヶ月後の五月、結婚。だがなぜそんな急な成り行きになったか?


  第六回(2017.07.21)

「〈代理母〉喜志子」


 前章では「恋の闇路」と題して、小枝子との別離と、喜志子との出会い、唐突な結婚の経緯にふれた。牧水は、このとき「私を救って欲しい」と訴えたという。このことからも、惚れた、腫れた、じゃないとわかる。しかしこのプロポーズの言葉であるが、いかにも牧水らしくはないだろうか。そんな「救って」だって?
 四十五年・大正元年(一九一二)二十八歳。五月、喜志子が上京し結婚。ついてはこれが牧水の生家に無断なままだという。喜志子は、ときにどれほどか大いに迷ったのではないか。だけどともあれ悩める男を救う道を選んでいたのである。前の恋人とのこと、仕事の無いこと、家に居着かぬこと、大酒を浴びること。さらにはまた長男であれば家督をめぐって問題があることも。それらすべて知り抜いて牧水を受け容れたのである。
 どうしてか? 喜志子は、自ら歌を詠む。だからいわずもがな牧水の歌の才に深く感服させられてであろう。喜志子は、このとき頷いたろう。そのかたわらにそっと控えて歌の道をささえてゆきたいと。それにはなにがあっても、その振る舞いに異を唱える、そのようなことすまいと。
 マザコン・牧水、ワイルドボーイ・牧水(第一、二章参照)。喜志子は、どういうかその根っこを汲んで処することができるような、よくこころえた穏やかで大らかな心のぬしだったとおぼしい。それでいうならばその〈代理母〉たらんとしたのだろう。これをもってこののち、牧水はというと好き勝手に生きてよしと証文をえたような、あんばいとおぼえたか。歩く人・牧水、こうなるともう妻に後をまかせきり、どこへとなく旅の空にありつづける。ほんとうに天真爛漫もよろしい。なんともこの頃の作がふるっている。

 うら若き越後生れのおいらんの冷たき肌をづる朝かな
 お女郎屋の物干台にただひとり夏の朝を見にのぼるかな (死か芸術か、以下)

 いや脳天気というか、まあ御機嫌なものだ。それだけでなく新婚生活が始まった五月末に早速、三浦三崎に旅立っているのだ。むろん一人きりで。このときの作をみられよ。まったく新妻もどこに、これまた豪毅というか、ちょっと形容しがたい。

 旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に
 裸体はだかに青浪の中にもまれ来て死にしが如し酒を飲みてむ

 なんていうようなワイルドボーイぶりといったら。六月、三崎から帰って旬日もなく、多摩川の上流、御岳山に遊ぶ。なんともその折に別れた「古恋人」小枝子を偲んで涙にくれている。

 につたふ涙ぬぐはぬくせなりし古恋人ふるこひびとをおもふ水上みなかみ

 いけしゃしゃあと、したものである。これをみるにつけ、むしろ泣きたいのは妻のほう、であったはずでは。牧水は、天然だ。ほとんどまったく包み隠すことなどしない。あっけらかん、あけっぴろげ。喜志子は、当然、これらの歌をすべて目にしている。
 さらに七月、父危篤の報に接する。そこで喜志子を実家に帰して、単身、四年ぶりに帰省するのだ。懐かしい尾鈴の山が船上から望まれる。

 ふるさとの尾鈴をすゞの山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り (みなかみ、以下)

 それからじつにその滞在たるや翌年五月までの長期におよぶという。長男なのに生家をないがしろにし、さりとて東京で確たる職に就きもせず、相談もなく結婚しているのである。牧水は、恐ろしい悪魔のように憎まれた。まさに針のむしろの日だった。ことさら母マキの怒りは辛くあった。

 われを恨み罵りしはてにつぐみたる母のくちもとにひとつの歯もなき
 飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ

 父は、いましも死の床にある。母、ひたすら家督を継げという。だけども息子はがえんじない。

 納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、なんじが意志をまぐるなといふが如くに

 それはもう母の失望はいたすぎるほどわかる、しかしながらあのマザコンにしてあくまでも、ぜったいに自分を貫かんとするというのである。「汝が意志を……」。これこそ実母マキに替わる〈代理母〉喜志子が吐かせた台詞であろう。
 それはさてとして。十一月、父立蔵、長患いのはて、ついに死去。家事の整理のために郷里で越年。それがどうだろう。
 大正二年(一九一三)二十九歳。一月、そのまま帰京しないで、九州各地に遊び、桜島、佐多岬を周遊。このときなんと新妻は身重だというのに。

 飛ぶ、飛ぶ、とび魚がとぶ、朝日のなかをあはれかなしきこころとなり

 なにが「飛ぶ、飛ぶ、とび魚が」だって。いやほんと極楽様なることか。なにが「あはれかなしき」だって。


  第七回(2017.08.19)

難儀至極


 大正二年六月、牧水は、前年七月の父危篤の報に帰省、十月父死去後、九州各地に遊ぶなど、ほぼ一年近くも留守居して、ようやく帰京している。じつはなんとこの四月、長野県塩尻の妻の実家で長男が出生しているのである。それでいかにも股旅の父親らしく旅人たびとと名付けているのである。ところで牧水はどんな父親だったか。まずは連作「夏の日の苦悩」のこの一首をみよ。

或時あるときは寝入らむとする乳呑児ちのみごの眼ひき鼻ひきたはむれあそぶ (秋風の歌、以下)

 いったいこの「たはむれ」ぶりはどうだろう。ちょっと浮世離れよろしくも脳天気すぎないか。だいたいからしてご本人からしてそれこそ天然ガキそのままに大人になったような父親というのである。まるでまったくこんな自分に赤児がいることに自身が納得できないようなしだい……。

児をあやすとねぢをひねればほつかりと昼の電灯つきにけるかな

などとまあ「児をあやす」のにおろおろ。いやまことにこの不器用パパはというと昼行燈のごときでないか。しかしどんなものだろう。いったいぜんたい生計はどうしていたのか。
牧水は、そのさき臍の緒の母との葛藤のはて、こののち歌人の道を歩き始めたのだ。その壮図はよし。しかしながら、いうまでもない。ぜったいぜったい歌なんぞでは喰えっこないのである。そのことでは「病院に入りたし」なる連作が笑えてならない。

病院に入りたしと思ひ落葉めくわが身のさまにながめいりたる

 だがなんでそんな入院したいというのか。ついてはこの頃に友人に宛てた手紙をみられたし。「借金取その他の来訪者が恐く、私はこの一二週間、自宅を出てひそかに下宿しています。すぐ隣が病院で、便利もいいものです」(三浦敏夫宛、大正二年十二月十四日付)
こんなにまで火の車もよろしくある。だけどそれほど意に介してもいない。なおさらこれから旅の空に多くあることになるのだ。すべてを妻に負わせて。子育てはもちろん、それこそ借金取りさんに土下座したりや、些事みんなぜんぶ。
同年十月下旬、伊豆下田沖にある無人島神子みこ元島もとじまに、灯台守として住む早大時代の旧友を訪ねている。このときの「秋風の海及び燈台」連作をみられよ。

船子かこ船子かこ疾風はやちのなかに帆を張ると死ぬるが如くに叫ぶおらぶ船子かこ
とびとびに岩のあらはれ渦まける浪にわが帆はかたむき走る

 ときに海は大荒れで小さな燈台用便船は波に弄ばれた。いやだけどこの子供っぽいほどの得意なさまはどうだ。むろん旧友への土産は数本の酒瓶という。

語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけりづ酒まむ
友酔はず我また酔はずいとまなくさかづきかはしこころをあたゝ

いやはやなんとも暢気なようすでないか。十一月初め、下田から天城を回って帰京。帰れば逃げていた金策やらに歩き回らなければ。牧水はというと、酒飲みで一見、楽天っぽくみえる。人付き合いも愛想も良い。それはだが外面だけである。連作「さびしき周囲」に詠む。

わが如きさびしきものに仕へつつかしぎ水くみむことを知らず

いつも心ここにあらずの亭主に黙ってかしずき薪水しんすいの労をとりつづける妻。喜志子よ、われを許されよ、の謂。なんてほんとまったく勝手気儘なものではないか。

妻や子をかなしむ心われとわが身をかなしむこころ二つながら燃ゆ

妻子をかなしむ心と、自身へ傾こう心と。「二つながら燃ゆ」るほどとはいう。だけどもその胸内にはわれは、いま歌人の道を一途に歩まん、というような底意とみられよう。
 どうにもなんとも天然歌人とは、また難儀至極なるものでないか。


  第八回(2017.09.11)

「生活? そんなことは召使どもに任せておけ」


 前章では「難儀至極」と題して、天然歌人のとんでもない生活失格ぶりにふれた。そのことに関わってここで、あらためてその懐中事情におよんでみる。

われ二十六歳にじふろく歌をつくりいひに代ふ世にもわびしきなりはひをする (路上)

 明治四十三年、二十六歳。三月、牧水編集の詩歌誌「創作」を発刊(註、同誌は翌秋休刊、大正二年復刊、以後、現在も続刊)。四月、第三歌集『別離』(先行二歌集『海の声』『独り歌へる』自選歌を中心に新作を収録)刊行、これが好評裡に迎えられ、部数は明らかでないが版を重ねてはいる。だけどここまで繰り返してきたが「歌をつくり飯に代ふ」などとはわびしさのきわみ。牧水は、たしかによく歌作に邁進することほぼ一年に一冊のペースで律儀に歌集をだしてきた。だがもとより歌集にかぎっては売れたとしても微々たるものだ。とてもでないが「なりはひ」とはいえるものでない。くわえて新聞などにものする雑文などの稿料もまたごく僅少でしかない。
 それなのに落ち着かずいつも旅をしつづけるわ、それこそもう酒は浴びるほど飲みまくると。むろんそこには好き勝手だけでない用や算段もあってなのだ。あちこちに講演会に出たり、また揮毫会を催したりする。そうして幾許いくばくかいただく。さらには主宰誌の支持層を広めるため、各地へ足を伸ばし、交遊を深める要があった。旅に出て、杯を重ねる。これもまあ仕事なのである。それはさて、ほんとうにこの天然歌人(マザコン、ワイルドボーイ)の勝手気儘ぶりといったらない、のではないか。まったく世の凡人の範囲を超えている。
 そのあたりをいま少しみてみることにしょう。牧水は、外面はまあまあ悪くない方であるが、いわずもがな表現者であれば、内面はというと決して良くはない。だいたい家居にあるときは、歌作でうんうんと呻吟しているか、ひねもす深酒をしているかだ。家に金が入らない。幼い児に手がかかる。これではどうしても妻がもつはずがない。「あけくれ」と題して詠んでいる。

貧しさに妻のこころのおのづから険しくなるを見て居るこころ (『砂丘』以下)

 朝に夕べに「妻のこころ」がとげとしく眉を寄せるようになってゆく。それをそんな「見て居るこころ」とはどういうか。どうにもちょっと冷ややかすぎないか。そのうちやはり妻が伏しがちになっている。
 大正四年、三十一歳。三月、腸結核を病む喜志子の転地療養のため、神奈川県三浦郡北下浦に転居。「病妻を伴ひ三浦半島の海岸に移住す。三月中旬の事なりき」と詞書して詠んでいる。

海超えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず

 妻は病を養い、いよいよ生活は「浪立ちやま」ない。しかしながらこのときの牧水であるが、病む妻といとけない幼児をおいて旅の空、という相変わらずなしだいなのである。この七月、下野より信州へと旅立つ。その折の連作「山の雲」の一連、下野喜連川町に友を訊ね「友と相酌む歌」と題して詠む。

飽かずしも酌めるものかなみじかき夜を眠ることすらなほ惜みつつ
時をおき老樹おいきの雫おつるごと静けき酒は朝にこそあれ

 このときとばかり短か夜を惜しみ朝まで飲みつづけたのだろう。ここでわたしごとにおよぶと酒飲みの口なれば「老樹の雫おつるごと」という朝酒の酔いのよろしさはよくわかる。でつづいて喜連川より信州へ入り蓼科山麓の春日温泉に遊ぶことに。その折の「窓辺遠望」と題する歌がおかしい。

ふくよかに肥えも肥えつれ人怖ぢず真向ふそのつぶら乳
丈長に濡髪垂らし昼の湯屋出でて真裸躰まはだかつと走りたれ

 なんともなんと温泉宿の窓辺から御婦人の「つぶら乳」「真裸躰」を御覧になって御満悦おいでという。いやはやほんとうに脳天気なものではないか。
それはさてとして。めずらしくもこの秋から冬にかけては家に居ることになった。なにぶん病妻が身重だったのだ。十一月、長女みさき誕生。そういうしだいで鬱勃として家居するものの旅心はつのりつづけたか。
 大正五年、三十二歳。三月中旬から一ヶ月半、宮城、岩手、青森、秋田、福島の東北各県を歩くのだ。南国育ちの牧水にはみちのく行脚は夢だった。それがどれほど胸躍るものだったか。連作「残雪行」、そのうちでも最果ての青森での一連がよろしくある。

  青森駅着、旧知未見の人々出で迎ふ
やと握るその手この手のいづれみな大きからぬなき青森人よ (『朝の歌』以下)

  宿望かなひて雪中の青森市を見る
いつか見むいつか来むとてこがれ来しその青森は雪に埋れ居つ
鈴鳴らすそりにか乗らなむいないな先づこの白雪を踏みてか行かなむ

 雪が嬉しい。人が宜しい。こうなっては、いつにもまして熱烈歓迎とあいなって、いるのである。

  明けぬとて酒、暮れぬとてまた
酒戦さかいくさたれか負けむとみちのくの大男どもい群れどよもす
たくたくと大酒樽のひもすがらえず吹雪きて夜となりしかな

「酒戦」とは、酒の飲み競い合戦。「大酒樽」を据えつけて、大盃に「たくたくと」注ぎ、やんやの掛け声とともに飲み干すこと。まったくいまのガキの一気飲みとまるでかわらぬ。
 天然歌人、面目躍如。そうよ「生活? そんなことは召使どもに任せておけ」(オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン)だって!


  第九回(2017.11.2)

家居の牧水 苦虫の牧水


 前回の後半、大正五年三月中旬から一ヶ月半にわたる、東北行脚を連作「残雪行」を中心にみてきた。初夏、三浦は北下浦村の妻子が待つ療養先の借家へ帰る。あたりまえながら旅が終われば帰るほかはないのだが、戸口に立つ牧水を、ときにいったい家に残された者はどのようにみたものか。やっとのこと旅から戻ったのだが、なんとなし落ち着かないようす。なんだかなかば尻が浮いたままなぐあいなのだ。

  自嘲
妻子らを怖れつつおもふみづからのみすぼらしさは目も向けられず
われと身を思ひ卑しむ眼のまへに吾子(あこ)こころなう遊びほけたり (『白梅集』以下)

「妻子らを怖れ」「身を思ひ卑しむ」。ふっとおぼえる家にある者らとの間にある見えない膜のようなもの。なんとなしひとりだけ輪の中に入れないようなぐあい。
 ちょっと被虐的すぎようが、けっして大袈裟ではない。家にいるとどうにも気がつまるのである。どこにも居場所がないのだ、ひとりだけ異邦人のように。

   失題
つきつめてなにが悲しといふならず身のめぐりみなわれにふるるな
とりにがすまじいものぞといつしんにつかまへてゐしこころなりけむ

「みなわれにふるるな」「いつしんにつかまへてゐし」。いまわたしが歌の道でどれほど悩み苦しんでいるか。牧水は、いかんともしがたく歯痒ゆいまでに、このように抗弁するほかないのである。
 それはどうしてか。いわずもがなここにいるのは、ぜったい彷徨者であって、さきの第三章「濡草鞋党末裔」をみよ、いわゆる家庭人ではない、ありえないのはあきらかという。だからなのである。

  倦怠
梅の花紙屑めきて枝に見ゆわれのこころのこのごろに似て
地とわれと離ればなれにある如き今朝のさびしさを何にたとへむ

「紙屑めきて枝に見ゆわれのこころ」「地とわれと離ればなれにある」。なんぞなんていやもう空虚このうえない、どうしょうもない寂寥さはどうだろう。
 それにしてもちょっとばかし穏やかでなさすぎではないのか。まったくこの前書からしてどうだ。「自嘲」「失題」「倦怠」。まあどんどんと佶屈きっくつするばかりだ。だけどどうにかしてみんなを食べさせていかなければならぬ。

  冬の夜
長火鉢にひとりつくねんと凭りこけて永き夜あかずおもふ銭のこと
  夜の歌
いつ知らず酔ひのまはりてへらへらとわれにもあらず笑ふなりけり

「銭」。こいつばかりは生きているかぎり付きまとうのだ。妻が病みがちでもって、幼い児がふたりいる(大正四年、長女みさき誕生)。それで「夜あかず」、あれこれと酒瓶を傍らに据え算段しつづける。しかしながらおいこれとらちがあくものでないのだ。そのうちいつとなし「酔ひのまはりてへらへらと」となっているというしだい。
 こんなふうにずっとふさぎこみつづけ、となるといきおいどうしてもそちらのほうへ、つまるところは酒とあいなっている。

  酒
それほどにうまきかと人のとひたらばなんと答へむこの酒の味
なにものにか媚びてをらねばたへがたきさびしさ故に飲めるならじか
酔ひぬればさめゆく時のさびしさに追はれ追はれてのめるならじか

 どうだろう、なんともこの酒飲みのおだのあげよう、といったら。飲み助には飲まない理由などはない、こちらもしょうもない淫酒家なればよくわかるが、飲み助には飲むべき理由だけがある。
 であればこれらの酒の歌についてはおこう。もっともらしく、しかつめらしく酒談義などはごめん、しらばくれもいい。それこそほんとうに下の下というものだから。
 飲んだら死ぬ、飲まずとも死ぬ、そうよ、ならば飲んで死ぬべぇ、なんて。牧水さんときたらへべれけもへべれけ盃をはなさなく飲んでおいでだろうか、酩酊もよろしきことに。
 いやはやというところだけど、さてどんなものではあろう。歩く人はというとほんとうそんな、もうそれこそ片時もじっとして、落ち着いてはいられないのである。このことでははっきりと、うべなうほかないのではないか。
 歩く人はただひたすらに、とにもかくにも家にいるのが嫌でもうたまらず、旅の空にありたいのである。

行くべくばみちのくの山甲斐の山それもしかあれ今日は多摩川


  第十回(2017.11.28)

たにを想う


 前章では「家居の牧水 苦虫の牧水」と題して、禁足状態の牧水を粗描した。大正五年三月中旬から一ヶ月半にわたる、東北行脚から帰って、めずらしく牧水にしては長く家居した。するうちにむずむずと歩き虫が騒ぎだして、いやもう尻を落ち着けていられなくなる。どうやらその限界に近くにて、ようやく草鞋を履くときがきた。
 大正六年、三十二歳。八月、秋田、酒田、新潟、長野、松本などを巡る。

汽船にて酒田港を出づ
大最上おおもがみ海にひらくるところには風もいみじく吹きどよみ居り
海上鳥海山遠望
あまたたび見むとはすれどくがのかぎり朝雲這ひて鳥海山とりみやま無し (『さびしき樹木』以下)

 なんという大きくたおやかな詠みではないか。ここでしぜんに想起されるのは、ご当地出身の斎藤茂吉の、つぎのような名歌ではないか。

最上川逆白波さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
ここにして浪の上なるみちのくの鳥海山はさやけき山ぞ

 最上川は、言わずと知れた山形県を流れる、日本三大急流の一つ。鳥海山は、山形県と秋田県の県境に位置する活火山。その姿から鳥海富士、出羽富士とも呼ばれる。
 どうであろう、こうして茂吉の歌に並べても、おさおさ牧水の作も劣らない、のではないか。ほんとうに、なんと壮大な一幅である、ことだろう。というところでこれらと、そのさきの家居の苦しいちぢこまった歌と比較してみたら、あまりにちがいすぎよう。歩く人にとって、旅が命のいぶき。
 それはさてこの旅の帰りがけ、妻喜志子の実家、広丘村(現、塩尻市)、そこへ足を伸ばしているのである。結婚から五年、なんとこれが初めての妻宅への訪問であるらしい。ここらからもおよそ家庭人らしくないとわかろう。
 歩く人であれば思うこと、つねに心にあるのは旅の空。それがここにきてことに、つよく山の懐の深く渓を探らんと、のぞむようになっている。

身の故にや時の故にや此頃おほく渓をおもふ
疲れはてしこころの底に時ありてさやかにうかぶ渓のおもかげ
何処いづくとはさやかにわかねわがこころさびしき時に渓川の見ゆ
渓を思ふは畢竟孤独をおもふ心か
独りゐて見まほしきものは山かげの巌が根ゆける細渓ほそたにの水

 このようにその思い入れを「渓をおもふ」と題して詠んでいるのだ。しかしどうしてそんなにも渓が願われてならないものか。そこらのことはつぎにみる歌を示すだけでよくわかろう。

いろいろと考ふるに心に浮ぶは故郷の渓間なり
幼き日ふるさとの山に睦(むつ)みたる細渓川の忘られぬかも

 ついては第二章「ワイルド・ボーイ・牧水」を想起されたし。

おもひやるかの青き峡(かひ)のおくにわれのうまれし朝のさびしさ (『路上』)

 牧水は、日向の山峡、坪谷川は「青き峡のおく」に生まれ、渓の子、ワイルドボーイとして、この渓をワンダーランドとして駆けめぐり育ったのである。牧水は、このようにも述懐しているのだ。
「元来私は渓谷の、しかもただちに渓流に沿うた家に生れた。そして十歳までをそこで育つた。そんなことあるためか、渓谷といふと一体に心を惹かれやすい」(「利根の奥へ」)
 渓の子のままに歌の道を歩んできた牧水。いたしかたなく家庭に縛られ金の算段をして家に鬱々としている。しかもこのところなんと躰の調子も悪く禁酒を命じられているというのだ。「秋居雑詠」と題して詠む。これが可笑しくも涙物なのだ。

罹病禁酒
膳にならぶ飯も小鯛も松たけも可笑(をか)しきものか酒なしにして
ほほとのみ笑ひ向はむ酒なしの膳のうへにぞ涙こぼるる

 それでしばらくは禁酒ならず節酒したものだろうか。十一月、渓行がようやく実現することになる。行く先は秩父渓谷。三泊四日の旅だが、この間百六十首もの多くの歌をものしている。『渓谷集』にそのうち「秩父の秋」と題して九十六首を収載。

十一月のなかば、打続きたる好晴に乗じ秩父なる山より渓を経巡る、その時の歌。
朝山の日を負ひたれば渓の音冴おとさえこもりつつ霧たちわたる (『渓谷集』以下)
瀬のなかにあらはれし岩のとびとびに秋のひなたに白みたるかな
山鳩やまばとのするどく飛びてかしどりののろのろまひて秋の渓晴たには

 牧水は、ときにまことに嬉しげに渓歩きを愉しんでいないか。まるでどこかそんな坪谷川を飛び歩く繁少年の日にかえったようにも。さらにこれから多く渓を探ることになる。それはこののちに辿ってゆくつもりだが。ここでは渓からもどって、つぎに足を伸ばした海の旅について、ちょっと覗いてみたい。
 大正七年、三十三歳。一月、二月、伊豆半島、土肥に長逗留している。「伊豆の春」の一連にこんな歌がある。

   海 女(其の二)
かみも肩もそのやはら乳もれひたり汐のなかにわらへる少女
口すこし大きしとおもふ然れどもいよよなまめくへがてぬかも

 これをピーピング行為といっていいか。さきに第八章に蓼科山麓、春日温泉でも同様の歌をみた。いやはやなんとも脳天気なものでないか。だがこのような歌にならんでまたつぎのような作がみえるのである。

妻が許に送れる
たのしみでてかどたのしみてけふ居るものとゆめなおもひそ
かきいだき吾子われごねむれる癖つきてをりをりおもふその吾子がことを

 さてこれをどう読んだらいいか。留守居の喜志子にいう。けっしてこちらで楽しんではいない、いつもお前のことを偲んでいる、独り寝におぼえず我が子を抱いている。そんなにまでお前たちが恋しいかぎりなのだから、というぐらいの意としてとれようか。なんだかちょっと苦しい弁解のような歌とも解せないでもない。
 それでどんなものだろう。牧水は、たしかに愛妻家で子煩悩であった(ここであえて引用しないが、喜志子も旅人も、そのように回想している)。それはどれほどかそうだろう。しかしながらちがうのである。歩く人であればけっして、家に居られなかったのだ。
 歩く人は、歩く。これからのちずっと、もうひたすら歩きつづけよう、ほかはないのである。


  第十一回(2017.12.15)

酒恋と、渓恋と。


 大正六年、十一月、秩父渓谷行。翌七年一月、二月、伊豆半島、土肥に長逗留。このころより歩く人はというとその本分をはたすように歩き回っている。くわえるに相変わらず作歌、文筆ともに旺盛というのだ。
 五月、第十二歌集『渓谷集』、七月、第十一歌集『さびしき樹木』、散文集『海より山より』と前後して刊行。
 五月、京都に遊び、比叡山の山寺に籠もり、さらに大阪、奈良、和歌山を経て、熊野勝浦、那智に行き、鳥羽、伊勢に遊ぶ。この旅では、「比叡山にて」と題する一連が出色だ。

 わが宿れる寺には孝太とよぶ老いし寺男ひとりのみにて住持とても居らず。
比叡山ひえいやまの古りぬる寺の木がくれの庭のかけひを聞きつつ眠る (『くろ土』以下)
酒買ひにじいをやりおき裏山に山椒さんしょつみをれば独活うどを見つけたり
 その寺男、われにまされる酒ずきにて家をも妻をも酒のために失ひしとぞ。
言葉さへ咽頭のどにつかへてよういはぬ酒ずきをはせざらめや
酒に代ふるいのちもなしと泣き笑ふこのゑひどれを酔はざらめや

 この寺男の孝太(伊藤孝太郎)老爺との触れ合いが泣かせるのだ。牧水は、毎晩、酒で身を持ち崩したこの老爺と杯を交わすのだ。
「爺さんの喜び樣は眞實まつたく見てゐるのがいぢらしい位ゐで、私のさす一杯一杯をおがむ樣にして飮んでゐる。ういふ上酒は何年振とかだ、勿體もつたいない〳〵といひながら/……/いつか一度思ふ存分飮んで見度いと思つてゐたが、矢つ張り阿彌陀樣あみださまのお蔭かして今日旦那に逢つて斯んな難有ありがたいことは無い/……/この分ではもう今夜死んでも憾みは無い、などと言ひながら眼には涙を浮べて居る/……/私は自分で飮むのは忘れて彼に杯を強ひた。今夜死んでもいいなどといふのを聞いてから、急に飮ませていいか知らと私も氣になり出したのであつたが、いつの間にか二本の壜を空にしてしまつた」(「山寺」)
 酒が出てくると、歌はもとより、文もまたより、良い調べになる。ところで何事も過ぎるとなると、それこそ寺男の老爺ではないが、問題が起きているのだ。ついては前回「罹病禁酒」の二首をみたが、ここに「或る頃」と題する一連がある。

 このまゝ酒を断たずば近くいのちにも係るべしといふ、萎縮腎といふに罹りたればなりと。
酒やめてかはりに何か樂しめといふ醫者いしゃがつらに鼻あぐらかけり
 やめむとてさてやめらるべきものにあらず、飲みつやめつ苦しき日頃を過す。
癖にこそ酒は飮むなれこの癖とやめむ易しと妻らすなり
酒やめむそれはともあれながき日のゆふぐれごろにならばとせむ
朝酒はやめむ昼ざけせんもなしゆふがたばかり少し飲ましめ
こころからにや少しすごせばただちに身にこたふる様なり、悲しくて。
酒なしに喰ふべくもあらぬものとのみおもへりしたひめしのさいに喰ふ
うまきものこころにならべそれこれとくらべ廻せど酒にしかめや
人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ

 どうだろう。まず前書にある「萎縮腎いしゅくじん」とは、「腎臓が硬くちぢむ疾患。また、その状態。高血圧性の細動脈硬化あるいは慢性腎炎の結果として起こり、腎機能は損なわれる」(広辞苑)という恐ろしい病気である。そこで医者に即座に禁酒を命令される。しかしこれが止められるものでない。牧水は、酒、こいつをどうしても止められない理由をあれこれと挙げてやまないのだ。それこそもう酔っ払い管をまくように。牧水は、こんなふうに書いている。
「一度口にふくんで咽喉を通す。その後に口に殘る一種の餘香餘韻よこうよいんが酒のありがたさである。單なる味覺のみのうまさではない。/無論口であぢはふうまさもあるにはあるが、酒は更に心で噛みしめる味ひを持つて居る。あの「醉ふ」といふのは心が次第に酒の味をあぢはつてゆく状態をいふのだと私はおもふ。斯の酒のうまみは單に味覺を與へるだけでなく、直ちに心の營養となつてゆく。乾いてゐた心はうるほひ、弱つてゐた心はよみがへり、散らばつてゐた心は次第に一つにまとまつて來る」(「酒の讃と苦笑」)
 こんなぐあいで止めるに止められない。どうしょうもなく息の止まるときまで酒を飲みつづけるのだろう。ぐたぐだしいばかりのそんな繰り言をきいていてもいたしかたない。しかしこのころこんな歌がみえるのである。

 雑詠
ふらふらと眩暈まめひおぼえて縁側ゆころげ落ちたり冬照る庭に
見つめゐてなにか親しとおもひしかころげ落ちたり冬照る庭に

 そんな「ころげ落ちたり」なんて。なんだかちょっと不吉なきらいでないか。それはさてそんな身体でありながら、渓を探る、そのことに懸命になっているのだ。
 十一月中旬から、十七日間におよび、上州伊香保から沼田を経て、利根川上流に遊び、さらに信州松本辺りを探っている。この際の連作「みなかみへ」百五十九首の大作を詠む。

 小日向附近に到り利根は漸渓谷の姿をなす、対岸に湯原温泉あり、滞在三日
大渦のうづまきあがりなだれたるなだれのうへを水千千みずちぢに走る
わが行くは山の窪なるひとつ路冬日ひかりて氷りたる路
ちちいぴいぴいとわれの真うへに来て啼ける落葉が枝の鳥よなほ啼け
 谷川温泉は戸数十あまり、とある渓のゆきどまりに当る、浴客とても無ければその湯にて菜を洗へり
をあらふ村のをみな子ことごとく寄り来てあらふ温泉いでゆふち
 吾妻川の上流にあたり渓のながめ甚だすぐれたる所あり、世に関東耶馬溪とよぶ
せまり合ふ岩のほさきの触れむとし相触れがたし青き淵のうへに

 十一月終わり、この地方ではもう初冬だ。牧水は、ひとり寒冷な渓谷をめぐる。なぜそんなにまでして渓へとなるのだろう。このときの紀行にそのゆえんを手短にふれている。
「元来私は峡谷の、しかも直ちに渓流に沿うた家に生れた。そして十歳までを其処そこで育つた。そんなことのあるためか、渓谷といふと一体に心をかれ易い。それもこの二三年来、身体が少し弱つて、何といふことなく静かな所〳〵をと求めるやうになつてから、ことにそれが著しくなつた。岩から岩を伝うて流れ落つる水、その響、岩には落葉が散り溜つて黄いろな秋の日が射してゐる…………、さうした場所を想ひ出すごとにほんとに心の底の痛むやうな可懐なつかしさを感ずるのが常となつてゐる」(「利根の奥へ」)
 どんなものだろう、なんとなし坪谷川の淵で無心に釣り糸を凝視する繁少年の息遣いが聞こえてくる、そのようでないか。しかしなんたる渓への愛ではあることか。じつはこのときの渓についてまた前出の紀行「渓をおもふ」にこんなふうに書いてもいるのである。
「みなかみへ、みなかみへと急ぐこゝろ、われとわが寂しさを噛みしむるやうな心に引かれて私はあの利根川のずつと上流、わづか一足で飛び渡る事の出来る様に細まつた所まで分け上つたことがある。/狭い両岸にはもうほの白く雪が来てゐた。断崖の蔭の落葉を敷いて、ちよろ〳〵、ちよろ〳〵と流れてゆくその氷の様になめらかな水を見、斑らな新しい雪を眺めた時、何とも言へぬこゝろに私は身じろぎすら出来なかつた事を覚えてをる。いま思ひ出しても神の前にひざまづく様な、ありがたい尊い心になる。水のまぼろし、渓のおもかげ、それは実に私の心が正しくある時、静かに澄んだ時、必ずの様に心の底にあらはれて私に孤独と寂寥のよろこびを与へて呉れる」
 こうにもなるとその渓恋はというと、もうほとんど信仰とこそいうべきだろう。


  第十二回(2018.01.05)

鳥の声


 前回は、牧水の異常ともいえる、酒恋と渓恋におよんだ。
 大正八年、三十四歳。この年も席あたたまる暇なくほとんど旅の空である。なんとも元旦から家を飛びだしている。

  犬吠埼にて
 岩かげのわがそばに来てすわりたる犬のひとみに浪のうつれり (一月三日)

 犬の瞳に浪を写す。ちょっと表現主義的ではないか。それはさてつぎつぎに旅はつづくのである。三月、信州伊那地方へ。

   駒が嶽の麓
  名は歌の会なれど旧知多く揃へる事とておほかた徹宵痛
  飲の座とはなるなり。
 ちぢこまるわれに踊れと手とり足とり引きいだしたれ酔人ゑひどれ
 いつしかに涙ながしてをどりたれ命みじかしと泣き踊りたれ

 こんなふうに酔い旅が多くあったろう。だけどもまた静かな山の上の湖を好んで歩いているのだ。
 五月、榛名山上湖に遊ぶ。ここでは山の湖ではなくて、ちょっと視線をずらし、いとおしい山の鳥をみよう。

   山上湖へ
   草津を経て榛名山に登り山上湖畔なる湖畔亭に宿る、鳥多
   き中に郭公最もよく啼く
 みづうみの水のかがやきあまねくて朝たけゆくに郭公くわくこう聞ゆ
 となりあふ二つの渓に啼きかはしうらさびしかも郭公聞ゆ

 渓の児、牧水は鳥好きである。ここにいたるまで多く引かなかったが、じつによく鳥を詠んでいるのである。たとえば大正四年夏、蓼科山麓の春日温泉に遊んだ折に「尾長おなが」「杜鵑ほととぎす」「鶺鴒せきれい」ほか、ほんとうに楽しげに鳥たちと戯れているのだ。つぎのような賑やかな歌はどうだろう。

 ほととぎすけすひよ鳥なきやまぬ狭間はざまの昼の郭公くわくこうのこゑ (『砂丘』)

 牧水は、鳥について「私は山深い所に生れて幼くから深山の鳥のさまざまな声に親しんで来た」として書く。
「多くの鳥の中で筒鳥と、郭公と、而して杜鵑と、この三つの鳥はいつからとなく私の心のなかに寂しい巣をくつてゐた。私の心が空虚になる時、私の心が渇く時、彼等は啼いた。私の心がさびしい時、あこがるる時、彼等は啼いた。私の心が何かを求めて動く時、疲れて其処に横はる時、彼等は私と同じい心に於て私の心にそのまことの声を投げて呉れた」
(「山上湖へ」)
 なんという鳥愛であろう。まだまだ旅はつづく。八月、九十九里浜、十一月信州沓掛温泉、十二月、上総八幡崎へ。
 大正九年、三十五歳。二月、伊豆松崎、天城越え、湯ヶ島温泉、四月、秩父、五月、群馬、長野、岐阜、愛知へ。

  上州吾妻の渓にて
 飛沫しぶきよりさらに身かろくとびかひて鶺鴒せきれいはあそぶ朝の渓間に

 まさにこの鶺鴒がそっくりそのまま牧水ではないか。牧水は、それにつけ鳥好きではないか。
 八月、年来の希望だった田園の生活に入るため、静岡県沼津町在楊原村上香貫かみかぬきに転居(参照「香貫山」)。生活は落ち着いたが、懐中は寒く苦しかった。鳥達のように自由でありたいが、先立つものに事欠くのである。

  貧窮
 居すくみて家内やぬちしづけし一銭の銭なくてけふ幾日いくひ経にけ
 む
 三日みかばかり帰らむ旅を思ひたちてこころ燃ゆれどゆく銭
 のなき

 いつもまったく路銀は足りないのだ。そしてまた糊口をしのぐために多忙をきわめる。にもかかわらず草鞋を履いてしまう。牧水は、ここまでみてきた歌集『くろ土』の三年間で百八十日も旅の空にあり、五百五十九首の旅の歌を詠んでいる(参照『若山牧水新研究』大悟法利雄)。


上高地
 大正十年、三十六歳。三月、第十三歌集『くろ土』、七月、紀行文集『静かなる旅をゆきつ』を刊行。この年も方々に旅した。なかでも九月中旬より十月末まで、信州白骨温泉、上高地、焼嶽に登った後、飛騨に出て高山に遊び、さらに富山、長野、木曽を遍歴した。牧水は、ただもうひたすら渓を歩きつづけること、ほとんどまったく頂を踏んでいないようだ。だがむろんその気になれば登っているのだ。

   上高地付近
  上高地付近のながめ優れたるは全く思ひのほかなりき、
  山を仰ぎ空を仰ぎ森を望み渓を眺め涙端なく下る
 いわけなく涙ぞくだるあめつちのかかるながめにめぐりあひつつ (『山桜の歌』以下)
 またや来むけふこのままにゐてやゆかむわれのいのちのたのみがたきに
 まことわれ永くぞ生きむあめつちのかかるながめをながく見むため
 なんともちょっと大振りすぎる表現にみえるがどうか。いまからざっと一世紀近くまえの上高地はかくも神々しかったのだろう。

 やま七重ななへわけ登り来てくばかりゆたけき川を見むとおもひきや (梓川)

 牧水は、梓川あずさがわにもつよく心動かされている。
「下駄を借りて宿の前に出て見ると、ツイ其処に梓川が流れていた。どうしてこの山の高みにこれだけの水量があるだらうと不思議に思はるゝ豊かな水が寒々と澄んで流れてゐる。川床の真白な砂をあらはに見せて、おほらかな瀬をなしながら音をも立てずに流れてゐるのであつた」(「上高地温泉/或る旅と絵葉書」)
 つぎに焼嶽やけだけ(二四五五㍍)登頂(牧水の登った一番高い山だ)をみる。牧水は、じつはこのとき良い案内者を得られない。
「大正三年大噴火の際に出来た長さ十数町深さ二三十間の大亀裂の中に迷ひ込んだ。初めは何の気なしにその中を登っていたが、やがてそれが迷路だと知った時にはもう降りるに降りられぬ嶮しい所へ来ていた。そしてまごまごしていれば両側二三十間の高さから霜解のために落ちて来る岩石に打ち砕かるるおそれがあるので、已むなく異常な決心をしてその亀裂の中をい登ったのであった」(「焼嶽の頂上/或る旅と絵葉書」)
かくして命からがら登頂している。

   焼嶽頂上
  上高地より焼嶽に登る、頂上は阿蘇浅間の如く巨大なる噴
  火口をなすならずして随所の岩蔭より煙を噴き出すなり。
 群山むらやまのみねのとがりのまさびしくつらなれるはてに富士のみね見ゆ
 岩山の岩の荒肌ふき割りてきのぼる煙とよみたるかも

 焼嶽を下りて、飛騨高山から飛騨古川町に遊ぶ。その途上、鮎の簗漁やなりょうを見て詠む。

   野口の簗
  そのすゑ神通川に落つる飛騨の宮川は鮎を以て聞ゆ、雨そ
  ぼ降る中を野口の簗といふに遊びて
 たそがれの小暗き闇に時雨降り簗にしらじら落つる鮎おほし
 かきたわみ白う光りて流れ落つる浪より飛びて跳ぬる鮎これ

 牧水は、おそらくふるさとでは簗漁をしなかったろうが、このとき坪谷川の鮎釣りを思い出したろう。幼い日のこんな景を浮かべつつ。

 われいまだ十歳とをならざりき山渓やまたにのたぎつ瀬に立ち鮎は釣りき
 釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を (『黒松』)


  第十三回(2018.02.07)

山桜の花


 前回は「鳥の声」と題して、もっぱら牧水の愛でた渓の鳥にふれた。ついでは渓の花としよう。牧水は、渓を彩る可憐な花を好んだ。なかでも牧水が愛し多く詠った花、すなわち牧水フラワーは、春の渓に美しく咲く山桜となろう。
「……ほんたうの山桜、単弁の、雪の様に白くも見え、なかにかすかな紅ゐを含んだとも見ゆる、葉は花よりも先に萌え出でて単紅色の滴るごとくに輝いてゐる、あの山桜である。これは都会や庭園などには見かけない、どうしても山深くわけ入らねばならぬ」(「梅の花桜の花」)
 大正十一年、三十七歳。一月、伊豆土肥温泉に滞在。さらに三月から四月にかけ、伊豆湯ヶ島温泉に逗留。この折に天城山(一四〇六㍍)に遊んで、もっぱら山桜をその咲き始めから散り際まで堪能し二十三首の多く詠んでいる。
 山桜は、野生の桜の代表し、和歌に多く詠まれる、「吉野の桜」はこの種である。里桜のソメイヨシノと異なり、花期がいくぶん長くのどかに心おきなく観察できるのだ。とはいえ花に嵐の喩えもある。花のさかりのときは、いついかなるときも、短くすぎるのである。

  山ざくら
 三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ。附近の渓より山に山桜甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此処にまとめつ

うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花
瀬瀬せぜ走るやまめうぐひのうろくづの美しき春の山ざくら花
とほ山の峰越をごしの雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき

それにつけても、なんでまた山深くへ分け入って山桜を仰ぎ愛でんとまで、するものだろう。ほかでもない、山桜が幼い日に坪谷の渓に春の到来を告げた花、だからである。ついてはこの花の見頃を綴った一文にこのようにある。
「私は日向の国尾鈴山の北側に当る峡谷に生れた。家の前の崖下を直ぐ谷が流れ、谷を挟んで急な傾斜が起つてほぼ一里に渉り、やがて尾鈴の嶮しい山腹に続いて居る。
  …………
 尾鈴からその連山の一つ、七曲ななまがりたうげといふに到る岩壁が、ちやうど私の家からは真正面に仰がれた。幾里かにわたつて押し聳えた岩山の在りとも見えぬ襞々にほのぼのとして咲きそむる山ざくらの花の淡紅色は、躍り易い少年の心にまつたく夢のやうな美しさで映つたものであつた。
  …………
 その頃、幼いながらに詠んだ歌にそのこころが残つている」と。そしてつぎの二首を引き回想しているのだ。

 母恋しかゝるゆふべのふるさとの桜咲くらむ山のすがたよ
父母よ神にも似たるこしかたにおもひでありや山ざくら花 (「追憶と眼前の風景」)

 マザコン牧水である。「母」の面影は「桜」、切ろうに切られぬ、「桜」の花影は「母」。つづいて「神にも似たる」とはなに? それはそのさきに祖父の代に坪谷の渓に移り住んだ一族のことをいうのだ。でそのありようはまさに濡草鞋党、流浪風情にほかならなくあるが、そこに「山ざくら花」をそえ、それをさながら貴種流離譚にしたてているおもむきだろう。
 というところで山桜について、ちょっと横道をしてみたい。ここにこんな山桜を詠う今日の女の詩人がおいでになる。それは堀内幸枝(一九二〇~)である。

 春になると小川の水がとけましよう/長く長くつづきましよう/ひなの日は/やらかい日ざしに/真白い蝶がまいましよう/わたしは小川のふちで/長い髪をゆいましよう

 ひな酒に赤くほおを染めましよう/それから/髪に桜をかざして/平安期の乙女みたいに/あなたに会いに行きましよう
         (「ひなの日は」『夕焼けが落ちてこようと』昭五七)

 甲斐の国、山梨。春、裏富士を見上げる街道筋の山麓は、梅から桜へ、桜から桃と、花は咲きつづく。御坂峠を下って甲府に向かう国道一三七号線。この国道の中ほど、山沿いに市之蔵村(現、一宮町)はある。堀内さんは「この村に生まれ、この村しか知らない私は」と、山深い村の幼い日とつましい暮らしを偲ぶ好随筆「市之蔵村」で書いている。
「籾がらの煙が山峡の空へ一本細く立ち上がり、やがて村の屋根屋根に、ゆっくりと春霞のように広がってくる」。ひなの日、雛の節句は、ここらの村では月遅れの四月三日に行うそう。この祭に桜を飾る。富士山麓一帯だけに自生する丈の低い富士桜(マメザクラ)を。この桜は厳しい寒気の中で咲くために、小輪一重で、花柄が長く下向きに花をつけると。
 ひなの日。鄙の娘だった堀内さんは夢に見るのだ。「平安期の乙女みたいに」。山桜は、このように山深くに育った者に格別なのである。
 このことでは坪谷の渓の少年にとってもそう。いわずもがな、なおさらなり。ほかでもなく山桜は母の面影よろしくあれば。


  第十四回(2018.03.20)

みなかみへ


「私は河の水上みなかみといふものに不思議な愛着を感ずる癖を持つてゐる。一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があつて小さな瀬を作りながら流れ出してゐる、といふ風な処に出会ふと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であつた」(「みなかみ紀行」)
 大正十一年晩秋、ようやくのこと待ちに待ったときがきた。十月から十一月、牧水は、信州・上州・下野の三国を巡り、利根川の支流、吾妻川から片品川を遡り、源を探る二十四日間の旅に出る。のちに「みなかみ紀行」として綴られる行脚である。いよいよこの人の渓探索も大団円を迎えるのである。それがどんな旅であったろう。まずあらかじめ断っておけば、およそ一世紀近くまえ、それぐらい昔のことなのである。であればこの行程のほとんどは徒歩でとおしている。
 十月十四日、沼津の自宅を出発。信州は北佐久の歌会に参る用有り。だけどそれは表向きでひそかに胸中にしていた。所用果てた後は上州へ出てそれから、利根川を遡り水源を訪ねようと。牧水は、さきにみたが三年前、七年十一月中旬、上州伊香保から沼田を経て利根川上流を目指すも、奥地は雪深くして断念した経緯があるのだ。ところでここまで紹介してこなかった、旅の出で立ち、それがいかがな様子かみることにしょう。
 古い旅装の写真が残る。下から草鞋、脚絆、股引、着物は尻はしより。洋傘を背におおい、頭に鳥打ち帽。傘は杖代わりになり、獣避け用にもよし。晩年にはそのうえに被るおあつらえのマントふうの一葉。腰には旅の必需品を一切合財納める合財袋なる黒っぽい袋。なかには財布、煙草、地図(参謀本部謹製五万分の一図)、磁石、梅干(腹下しの薬代わり)、酒筒(必携)などなど。このとおり生涯一貫しつづけた。 
 だけどどうだろう、この格好はというと、たとえば洋靴がときの主流になっておれば草鞋へのその固執なんぞは、あまりにも旧弊すぎ、といぶかられるか。しかしそこにこそ、濡草鞋ぬれわらじよろしい気骨というか心意気、ありとみられよう。あえていえば、西行に芭蕉に連なる墨染の漂白の徒、たらんという。
 十一月十六日、歌会の翌朝、草津軽便鉄道で若い弟子たちと沓掛を経て、星野温泉泊(以下、旅中に同行する弟子をはじめ、宿先まで来訪する門人、などとの交流がとても面白いのだが本稿の性格から割愛)。十七日、弟子の一人、K君を誘い、終点、嬬恋つまごい泊。
 十八日、嬬恋から自動車で草津温泉へ。牧水は、このとき高温入浴治療法の時間湯と、湯揉み唄について、詳述する。じつはここで引用しないが、さきの旅でハンセン氏病の湯治者に出会って胸を塞いだというような場面があるのだ。そのひどく熱い湯のたぎりに目が潤んでならない。

  枯野の落葉
 たぎり沸くいで湯のたぎりしづめむと病人やまうどつどひめりその湯を
 湯を揉むとうたへる唄は病人がいのちをかけしひとすぢの唄

 十九日、草津温泉から徒歩で沢渡温泉へ。ときに浮かぶのはつぎのような文である。
「浅間東北麓の焼野の眺めは壮大である。今の世智辛せちがらい世の中に、こんな広大な「何の役にも立たない」地面の空白は見るだけでも心持がのびのびするのである」(寺田寅彦「浅間越え」『寺田寅彦随筆集 第五巻』岩波文庫)
 だだっ広い六里ヶ原の向こうにそびえ立つ、煙を噴く浅間山の仰ぎ見、ここは急ぎ脚で九十九折りの坂を駆け下りる。どれほどかすると渓を挟んで小雨こさめ村と生須なます村なる小集落に出会す。

  ありとしも思はれぬ処に五戸十戸ほどの村ありてそれぞれに学校を設け子供たちに物教へたり
 おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨の里とうにぞありける (小雨村)

  学校にもの読める声のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて
 人過ぐと生徒等はみなせ寄りて垣よりぞ見る学校の庭の (大岩村)
 われもまたかかりき村の学校にこの子等のごと通る人見き
 先生のあたまの禿もたふとけれ此処に死なむと教ふるならめ (引沼村)

 ほんとほとんど涙の歌でないかこれは。牧水は、ときにゆくりなく十一歳まで学んだ渓の児らが集う郷里の坪谷尋常小学校の幻を見る思いだったのだろう。「われもまたかかりき」。それにしても「先生のあたまの禿もたふとけれ」とは牧水らしくないか。いやほかに誰がこのように詠えるだろう。
 それはさて渓は吾妻川の奥なのである。というところで思はれるのは愚かしい、いま現在この下流の川原湯あたりで工事開始された八ッ場ダム、ほんとなんとも愚かしすぎる挙である。早晩、そこいらいったい小雨と生須も水底の廃墟となってしまおう。でそれでそこから径を急ぐほどに脚が止まってしまう。いやほんと目を疑うしかない。
「眼につくは立枯の木の木立である。すべて自然に枯れたものでなく、みな根がたのまはりを斧で伐りめぐらして水気をとゞめ、さうして枯らしたものである。……。この野に昔から茂つてゐた楢を枯らして、代りにこの落葉松の植林を行はうとしてゐるのであるのだ」
 楢を根絶やしにして、落葉松を植えるという。なんとこれが国営事業であるらしい。なんでまたそのような無残なことをやらかすのか? それは帝国陸軍が満州進出するにあたり、鉄道を敷く際に枕木に落葉松が要るという戦略目的という。そして現今の軽井沢あたりは白秋(牧水の親友だ)の有名な愛唱詩よろしい別荘地の樹影なのである。

  からまつの林を過ぎて、/からまつをしみじみと見き。/からまつはさびしかりけり。/たびゆくはさびかりけり。 (「落葉松」『水墨集』大一二)

 そこらをこの詩を愛する者は思うべきだろう。後述するが晩年、牧水は、沼津の千本松の伐採に猛反対した、エコロジーのパイオニアだ。

  啄木鳥と鷹
 落葉松からまつの苗を植うると神代振り古りぬるならをみな枯らしたり
 楢の木ぞなににもならぬしこの木と古りぬる木々をみな枯らしたり
 木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ

 この怒り、この苦さ。牧水は、でそこでいきなり歯軋はぎしりするようにして、分岐の標識を見て、急にコースを変更して花敷温泉への径を辿るのだ。さきに牧水は「高い崖の眞下の岩のくぼみに湧き、草津と違つて湯が澄み透つて居る故に、その崖に咲く躑躅つつじや其の他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花を敷いてゐる様だから花敷温泉といふのだ」と聞き興味を持っていた。とはいえこの変更は立ち枯れの楢を見ての決定だったのだろう。
 かくして草鞋を脱いだ旅籠はどうか。花敷温泉、湯に花ではなく、雪が降っていた。

  雪の歌
 ひと夜寝てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり
 上野と越後の国のさかひなる峰の高きに雪降りにけり

 二十日、四万温泉行。花敷から昨日歩いた径を戻り、どれほどか「やがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打続いた暮坂峠の大きな沢に出た」のである。
 暮坂峠(一〇八八㍍)。この峠を詠む詩が胸に沁みる。というところでその詩「枯野の旅」を引くことにしよう。牧水は、いわずもがななかなか多才で自由詩も幾篇かものしているのである。


  第十五回(2018.04.17)

みなかみへ㈡


 大正十一年晩秋、十月から十一月、牧水は、信州・上州・下野の三国を巡り、利根川の支流、吾妻川から片品川を遡り、源を探る二十四日間の旅に出る。のちに「みなかみ紀行」として綴られる行脚である。
 十月二十日、暮坂峠(一〇八八㍍)にいたる。この峠を詠む詩が胸に沁みる。というところでその詩「枯野の旅」を引くことにしよう。これがすこぶるよろしくあるのだ。

「枯野の旅」

 枯草に腰をおろして/取り出す参謀本部/五万分の一の地図

 見るかぎり続く枯野に/ところどころ立てる枯木の/立枯のならの木は見ゆ

 路は一つ/間違へる事は無きはず/磁石さへよき方をさす

 地図をたたみ/元気よくマツチ擦るとて/大きなる欠伸あくびをばしつ

 乾きたる/落葉のなかに栗の実を/湿りたる/朽葉くちばがしたにとちの実を/とりどりに/拾ふともなく拾ひもちて/今日の山路を越えて来ぬ

 長かりしけふの山路/楽しかりしけふの山路/残りたる紅葉は照りて/餌に餓うる鷹もぞ啼きし

 上野かみつけの草津の湯より/沢渡さわたりの湯に越ゆる路/名も寂し暮坂峠
(「枯野の旅」『樹木とその葉』以下、詩篇の引用は同作)

 二十一日、四万温泉から歩いて中之条駅へ、電車で沼田へ。晩、郵便局で師の来訪を知った土地の門人ら若者計六名の来訪あり。酒杯を交わし歓談。
 二十二日、沼田から立ち枯れの野を歩き、法師温泉へ向かう。途中、三年前にこの近くは湯桧曽ゆびそまで来て断念した旅に思いいたす。なんという渓恋ではあるか。「湯檜曾の辺でも、銚子の河口であれだけの幅を持つた利根が石から石を飛んで徒渉出来る愛らしい姿になつてゐるのを見ると、矢張り嬉しさに心は躍つてその石から石を飛んで歩いたものであつた。そしていつかお前の方まで分け入るぞよと輝き渡る藤原郷の奧山を望んで思つたものであつた」
 二十三日、法師から歩いて湯の宿温泉へ。二十四日、湯の宿から歩いて沼田へ。夜、歌会。
 二十五日、沼田から片品川に沿って歩き、老神温泉へ。さきに行くほど「いたゞきかけて煙り渡つた落葉の森、それらの山の次第に迫り合つた深い底には必ず一つの溪が流れて瀧となり淵となり、やがてそれがまた随所に落ち合つては真白な瀬をなしてゐるのである。歩一歩と酔つた気持になつた私は、歩みつ憩ひつ幾つかの歌を手帳に書きつけた」として詠むのだ。

  岩蔭の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉
  苔むさぬこの荒溪の岩にゐて啼く鶺鴒いしたたきあはれなるかも
  高き橋此処にかかれりせまりあふ岩山のかひのせまりどころに

 二十六日、老神から歩きだし途中、吹割の滝を見て、東小川村で土地の長者、「C―家」(註、千明家)に立ち寄る。そして明日向かう丸沼で同家か鱒の養殖をやる番小屋宿泊の許諾をえて、番人宛ての添手紙をもらう。この晩は白根温泉泊。ここで問題がある。「何はとももあれ、酒を註文した。ところが、何事ぞ、無いといふ」。そこでこんな仕儀になっている。

  破れたる紙幣とりいで/お頼み申す隣村まで/一走りて買ひ来てよ

  その酒の来る待ちがてに/いまいちど入るよ温泉いでゆに/壁もなき吹きさらしの湯に

 二十七日、案内人を雇って、大滝川沿いに白根山の北麓丸沼を目指す。口に梅干しを一つ含んで。

  朝ごとに/つまみとりて/いただきつ

  ひとつづつ食ふ/くれなゐの/酸ぱき梅干

  これ食へば/水にあたらず/濃き露に卷かれずといふ

  朝ごとの/ひとつ梅干/ひとつ梅干

 山は険しく渓は深い。案内人は語った。ここらの山はすべてC―家の所有であり、周りの山の木を昨年一括して、ある製紙会社に売り渡した。代価四十五万円、伐採期間四十五個年間、一年に一万円ずつ伐り出す割に当ると。
「遠近の山の山腹は殆んど漆黒色に見ゆるばかり真黒に茂り入つた黒木の山であつた。常磐木の森であつた」。牧水は、そのさきに立ち枯れの森に怒ったが、まさに斧を知らない、ここの樹の美しさに息を呑むのだ。しかしこの山の木も遅くとも四十五年後にはすべて切り倒され裸になってしまう。牧水は、唇に唾を溜めて詠む。

  あきらけく日のさしとほる冬木立木々とりどりに色さびて立つ
  散りつもる落葉がなかに立つ岩の苔枯れはてて雪のごと見ゆ
  わが過ぐる落葉の森に木がくれて白根が嶽の岩山は見ゆ

 しばらく川沿いの山路を行くと白根山北麓の堰止湖、大尻沼(一四〇〇㍍)に辿りつく。
「その古沼に端なく私は美しいものを見た。三四十羽の鴨が羽根をつらねて静かに水の上に浮んでゐたのである。思わず立ち停つて瞳を凝らしたが、時を経ても彼等はまひ立たうとしなかつた。路ばたの落葉を敷いて、飽くことなく私はその静かな姿に見入つた」と。早速、鳥の歌を詠む。

  登り来しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
  樅黒檜黒木の山のかこみあひて真澄める沼にあそぶ鴨鳥
  見て立てるわれには怯ぢず羽根つらね浮きてあそべる鴨鳥の群
  岸辺なる枯草敷きて見てをるやまひたちもせぬ鴨鳥の群を

 青い沼に静かに遊ぶ鴨の群れ。これこそ天然の饗宴であろう。牧水は、なんともいえぬ仕合わせをおぼえる。さらに驚かされた手つかずの景がある。
「私たちの坐つてゐる路下の沼のへりに、たけ二三間の大きさでずつと茂り続いているのが思ひがけない石楠木しゃくなぎの木であつたのだ。深山の奥の霊木としてのみ見てゐたこの木が、他の沼に葭葦の茂るがごとくに立ち生うてゐるのであつた。私はまつたく事ごとに心を躍らさずにはゐられなかつた」と。つづき石楠花を詠むのだ。

  沼のへりにおほよそ葦の生ふるごと此処に茂れり石楠木の木は
  沼のへりの石楠木咲かむ水無月にまた見に来むぞ此処の沼見に
  また来むと思ひつゝさびしいそがしきくらしのなかをいつ出でゝ来む
  天地あめつちのいみじきながめに逢ふ時しわが持ついのちかなしかりけり

 それからまた歩きだして、しばらく丸沼(一四二八㍍)にいたる。今晩は沼の紅鱒養殖場の番人小屋泊。ここでの、うら侘びしい老番人とのやりとりが人情味あって泣ける。「昨夜の宿屋で私はこの老爺の酒好きな事を聞き、手土産として持つて来たこの一升壜は限りなく彼を喜ばせたのであつた。これは早や思ひがけぬ正月が来たと云つて、彼は顔をくづして笑つたのであつた」。そこへ三人のC―家に雇われた人夫が入り込んできて、うむなく今晩ここに泊まらせてくれと炉端へ腰をおろす。
「幾日か山の中に寝泊りして出て来た三人が思ひがけぬこの匂ひの煮え立つのを嗅いで胸をときめかせてゐるのもよく解つた。そして此処にものゝ五升もあつたらばなア。」と老爺に促す。
「お爺さん、このお客さんたちにも一杯御馳走しよう、そして明日お前さんは僕と一緒に湯元まで降りようぢゃアないか、其処で一晩泊つて存分に飲んだり喰べたりしませうよ。」と。
 二十八日、出発後、二週間、いよいよもって源を訪ねる旅も終わりにちかい。牧水は、履き潰れた草鞋わらじを草むらに置いて、腰に下げた新しい草鞋に履き替える。

 草鞋よ/お前もいよいよ切れるか/今日/昨日/一昨日をとつひ/これで三日履いて来た

 履上手はきじやうずの私と/出来のいいお前と/二人して越えて来た/山川のあとをしのぶに/捨てられぬおもひもぞする/なつかしきこれの草鞋よ 

 なんという草鞋愛であろう。ここでさきにも引いた「草鞋の話旅の話」を覗くことにしょう。
「いゝ草鞋だ、捨てるのが惜しい、と思ふと、二日も三日も、時とすると四五日にかけて一足の草鞋を穿かうとする。そして間々まま足を痛める。もうさうなるとよほどよく出来たものでも、何処にか破れが出来てゐるのだ。従つて足に無理がゆくのである。
 さうなつた草鞋を捨てる時がまたあはれである。いかにも此処まで道づれになつて来た友人にでも別れる様なうら淋しい離別の心が湧く。
『では、左様なら!』
 よくさう声に出して言ひながら私はその古草鞋を道ばたの草むらの中に捨てる。独り旅の時はことにさうである。
 私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ様に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都会には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。
 で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである」
 牧水は、たしかに短躯で五尺そこそこ、それで足袋も小さく九文半(約二四センチ)の寸法が宜しいと。ついでながら大きい足としては六尺をゆうに越す巨人(岡本潤命名)とも称された光太郎となろう。巨人が履いていたゴム長靴が遺っている。これがなんとも十三文半(約三二センチ)、靴屋の宣伝用に置かれた一足を譲り受けたものだとか。だけどこれでも小さすぎ我慢をして履いたというのだ。


  第十六回(2018.05.17)

みなかみへ㈢


 さて、どうやら新しい草鞋の履き心地は良さそうだ。老番人を案内役に丸沼から密林の径をゆく。もみつが、など巨大な針葉樹が群生する。また見渡す限り唐檜とうひが茂る一角もある。この樹種は初見だ。「日の光を遮つて鬱然とそびえて居る幹から幹を仰ぎながら、私は涙に似た愛惜のこころをこれらの樹木たちに覚えざるを得なかつた」
 牧水は、樹を仰ぎ見て、さきにみた草鞋への別れの挨拶ではないが、涙を溜める人だ。そういえばたしか以前にもこんな一首があったものである。

 木にれどその木のこころと我がこころと合ふこともなし、さびしき森かな (『死か芸術か』)
 山に入り雪のなかなるほほの樹に落葉松からまつになにとものを言ふべき 

 こんなふうに「木のこころと我がこころと合ふ」ようにつとめ、「朴」や「落葉松」と、ともに語らんとつとめるお人なのだ。さて、長い坂を登りつめるとまた一つの大きな蒼い沼がある。そこは目指してきた菅沼((一七〇一㍍))である。そのさきを行くとどうだ。道端の青い草むらを噴きあげてむくむくと噴き出す水流。するとやおらじじがおっしゃる。これぞ菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水なるぞ。このときの牧水の狂喜ぶりったら。
「それを聞く私は思はず躍り上つた。それらの沼の水源と云へば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。
 ばしや〳〵と私はその中へ踏みこんで行つた。そして切れる様に冷たいその水を掬み返し掬み返し幾度となく掌に掬んで、手を洗ひ顏を洗ひ頭を洗ひ、やがて腹のふくるゝまでに貪り飲んだ」
 さながら甘露のようか。おいしい水をたらふく。ふっと息を吹き返すのだ。
「午前十時四十五分、つひ金精こんせい峠の絶頂に出た。真向ひにまろやかに高々と聳えてゐるのは男体山なんたいさんであつた。それと自分の立つてゐる金精峠との間の根がたに白銀色に光つて湛へてゐるのは湯元湖であつた。……。今までは毎日毎日おほく溪間へ溪間へ、山奧へ山奧へと奧深く入り込んで来たのであつたが、いまこの分水嶺の峰に立つて眺めやる東の方は流石に明るく開けて感ぜらるゝ」
 金精峠(二〇二四㍍)、片品村と日光の境に位置する峠の絶頂に立つ。ようやく長い夢を果たし終えたのだ。いやこの終幕が大泣きものだ。老人には優しい牧水! ちょっと長く引いておく。
「其処に来て老番人の顔色の甚しく曇つてゐるのを私は見た。どうかしたかと訊くと、旦那、折角だけれど俺はもう湯元に行くのは止しますべえ、といふ。どうしてだ、といぶかると、これで湯元まで行つて引返すころになるといま通つて来た路の霜柱が解けてゐる、その山坂を酒に酔つた身では歩くのが恐ろしいといふ。
「だから今夜泊つて明日朝早く帰ればいゝぢやないか。」
「やっぱりさうも行きましねヱ、(註、C―家の人夫に)いま出かけにもああ(今日中には帰れと)云うとりましたから……。」
 涙ぐんでゐるのかとも見ゆるその澱んだ眼を見てゐると、しみ〴〵私はこの老爺が哀れになつた。
「さうか、なるほどそれもさうかも知れぬ、……。」
 私は財布から紙幣を取り出して鼻紙に包みながら、
「ではネ、これを上げるから今度村へ降りた時に二升なり三升なり買つて来て、何処か戸棚の隅にでも隠して置いて独りで永く楽しむがいゝや。では御機嫌よう、左様なら。」
 そう云い捨つると、彼の挨拶を聞き流して私はとっとと掌を立てた様な急坂を湯元温泉の方へけ降り始めた」

 ――以上。急ぎ脚で「みなかみ紀行」の足跡を辿り直してきた。そうしていまわたしはある感懐をおぼえている。ここにそこらのことを一言しておきたくある。
 牧水が歩いた行程。信州上田に発して上州を横断して下野の日光に至る、いまその道は「日本ロマンチック街道」と呼ばれている。なんたる恥知らずな命名なろうか。しかもこれがなんとも「みなかみ紀行」を参考にしたルートだという。さきにロマンチック街道はマイカーで素通りしたことがある。だがぜったい歩きたくないし、みなさんをお誘いなどしない。
 いったいわたしらのこの一世紀余のめったやたらな景観破壊といったらなんなのだか。牧水が歩いたのは、ロマンチック街道なんかではない、いまだ斧を知らない、あくまでも山道でしかありえない。
 ここでわたしは唐突に想起するのである。前田普羅、渓恋の同志を。普羅は、長く富山に住んだ。その関わりもあり富山から神通川を遡行し奥飛騨の渓谷をしばしば探って、のちにその成果のほどを句集『飛騨紬ひだつむぎ』(昭二二)として上梓している。
 普羅は、まずもってどんな気組みで飛騨の渓谷を探索しつづけたのか。句集の「序 『奥飛騨の春』前記」に記す。
「飛騨にあこがれて行く人は、北からでも又南からでも只まつしぐらに高山町まで飛び込んだゝけでは、飛騨はほんとうの姿を見せて呉れまい。此等これら残された太古の飛騨高原を渓谷から渓谷に越す時にのみ「飛騨の細径」は真実の姿と心とを見せて呉れるのである。飛騨へ行くのは「飛騨に入る」と云ふのが当たる。東西南北、どちらから入つても、嶮峻な大山脈を越さねばならぬ。然し一度この高原には入つて仕舞へば、黒土の山につけられた細径と小径が高まつて出来た峠とは、小鳥の啼く湿原と耕された台地と又樹木に隠された往昔おうせきの人の通つた飛騨街道とにめぐり合はせて呉れる」
 これぞおなじに牧水も一貫する探索の仕方でこそあろう。そしてまた自然への向かい方を示唆するものだ。ついてはともするとわたしらは、あまりにも安易に一直線「只まつしぐらに」目的地を到達することで、よしとしてしまってはいないか。
 むろんそこには近年の四通八達ともいうべき、ロマンチック街道はいわずもがな、とんでもない交通機関の発達があってのことだ。だがじつはそれこそがわたしらから、ほんとうに自らの足で土を踏む愉みを奪ってしまう、そのことにつながったとはいえないか。ついては句集の「後記」にこうある。その驥尾きびに「昭和二十一年十一月三日憲法公布/祝賀の東京放送を聞きつゝ」と付記して。
「時勢は飛騨をいつまでも山奥として残しては置くまい、又飛騨を横断してゐる汽車は必要な産業地点で人を降ろしたり乗せたりしてゐるが、そのほかは割合に飛騨奥山として残されてゐる」「山々、渓谷、小鳥の声、栗の木の多い雑木林、イチイ、モミ、ツガの森林、それらを貫く古い時代の通路、廃坑、廃坑への古径、チロルの山家に似た木造家屋なぞが、やさしい飛騨人をはぐくんで居る」
 いやこれをどのように読んだらいいものやら。それから七十年余り経った飛騨渓谷はどうだ。こちらもさきに神通川を遡って徒渉としょう実見しているのである。なんとといまやほんとまったく許されないありさまなのである。ともすると人はいうものだ。失ったものは、失うべくして、失ったのだと。それはだが逃げでしかない。
 どんなものであろう。ひるがえって考えてみれば「みなかみ紀行」の牧水もこの渓恋の同志とおなじ思いでなかったか。あやまってはいまい。
 ところでこちらは趣味で山遊びをするものだ。そこでもっぱら歩くことは、みてきた紀行ではその終幕のあたり、そこらを主にしてきた。主峰の白根山(二五七八㍍)を中心に、すなわち大尻沼、丸沼、菅沼から金精峠、いったいの山稜となる。するとさすがに往時の面影がしのばれる。
 大尻沼には、鴨の群れが遊ぶ。だがむろん丸沼には番人小屋は跡形もないのだ。そうしてあの菅沼はどうだろう、「やがて腹のふくるゝまでに貪り飲んだ」、というような牧水とはちがう。当然飲用不可。まったくもうロマンチック街道そのものでしかない。
 となるといまとなっては紀行をそれと感受するには街道ではなく山道をゆくしかないだろう。というところで横道とまいり当方のおすすめ、菅沼の茶屋近くの登山口から白根山を目指し二時間余りの弥陀ガ池、なかなかのその一景をここに紹介しておこう。
 火口湖、それほどまで大掛かりなものでない。弥陀ガ池、いやずいぶん小作りというのか。山上や山腹のそこにそっと、なにやら掌編の佳品さながら、ひっそりとある池畔や沼沢。おもうに牧水が佇んだのは、このような湖の水辺ではないか。そこにそうしていると牧水も好きだったろう、なんともいえない詩の一景がのぞまれるのだ。それは山村暮鳥(一一八八四~一九二四)である。

 自分は山上の湖がすきだ/自分はそのみなぞこの青空がすきだ/その青空に白銀しろがねの月がでてゐる/ひるひなか/その月をめぐつて/魚が二三尾およいでゐる/ちやうど自分達のやうだ/おゝ人間のさびしさは深い (「山上にて」『梢の巣にて』大一〇)

 それはさて思われるのだ。牧水は、それにしてもなぜこんなにも源をこいねがってやまないのであろう。ほかでもない、渓の児、だからである。みなかみを探ることは、それこそ幼い日の坪谷の渓を歩くこと、ふるさとを辿ること。それはそしてまた母の温かい胎に帰ることであった。


  第十七回(2018.06.7)

つく〴〵寂しく、苦しく、厭はしく


 やっとのこと長く宿願の「みなかみ紀行」を無事に果たしえたのだ。しかしながらむろん、これをもって旅は終わりだという、ようにはまいらない。いやまだもっと歩き歩き倒さなければならぬ。それはしかしどこかで、つぎのようにも感じることがまま、なくはないのであるが。
「それにしてもどうも私には旅をむさぼりすぎる傾向があつていけない。行かでもの処へまで、われから強ひて出かけて行つて烈しい失望や甲斐なき苦労を味ふ事が少なくない。
 然しそれも、「斯ういふ所へもう二度と出かけて来る事はあるまい、思ひ切つてもう少し行つて見よう。」といふ概念や感傷が常に先立つてゐるのを思ふと、われながらまたあはれにも思はれて来るのである」(「草鞋の話旅の話」)
「旅をむさぼりすぎる」。わからないではない。これこそ旅に憑かれた無宿人さながらの濡草鞋である者の思いなろう。ここにいうとおりだ。「旅を貪りすぎる」
 大正十二年、三十八歳。五月、第十四歌集『山桜の歌』刊行。七月、鳥好きの牧水、仏法僧コノハズクの鳴き声を聴きにその棲息地として有名な愛知県新城町の鳳来寺山へ。このときの文章が素晴らしいのだ。
其処そこへ、心おぼえの啼声が聞えて来た。まさしくあの鳥である。仏法僧の声である。月を負うた山の闇から、闇の底から落ちて来る、とらへどころのない深い〳〵声である。聴き入れば聴き入るだけ魂の誘はれてゆく声である。玉をまろがすと言つては明るきに過ぎ、きぬを裂くと言つては鋭きに過ぐる。無論、ブツポウソウなどの乾いた音色ねいろではゆめさら無く、郭公、筒鳥の寂びた声に較べては更に数段の強みがあり、つやがある。眼前に見る大きな山全体のたましひのさまよひ歩く声だとも言ひたいほど、何とも形容する事の出来ない声である。
『ア、啼く、啼く、……』
 私はいつか窓際にすり出て、両手を耳にあて、息を引きながら聴き入つた。相変らず所を移して啼く。一声二声啼いては所を変へる。暫くも同じところに留らない。ともすれば、山そのものが動いてゐるかとも聞きなさるることすらある」(「梅雨紀行」)
 なおここ当山には十五年六月にも再訪している(参照「鳳来寺紀行」)。八月、鳳来寺山行からこのかた健康がすぐれず西伊豆海岸古宇こう(現、沼津市)にしばらく逗留することになる。
 九月一日、牧水は、このときここ当地で関東大震災に遭遇しているのだ。ときに牧水の反応は俊敏であり、なんといちはやく「創作」十月号「大震大火紀念号」に着手発行にこぎつけいるのだ。これがいまみてもじつに貴重な記録となりえているのである。このときに東京の版元や印刷所が壊滅して諸誌ともに十月号休刊となっている。そんななかでほとんど唯一活字になったからである。しかもその内容が一介の歌誌と思えぬほど充実しており、「震災地歴訪記」「避難民日記」「人と事と」「父母を訪ねて」、などなどほか社人十本の報告を掲載なるという。これだけでもじゅうぶんに斬新な手法で牧水編集長の敏腕は素晴らしくあるといえよう。牧水は、この号に「地震日記」を寄せる。
「三度、四度と震動が続いた。……。先づ私の心を襲うたものはツイ眼下から押し広まつて行つてゐる海であつた。海嘯つなみであつた。
 不思議にも波はぴたりと凪いでゐた。その日は朝からの風で、道路下の石垣に寄する小波の音が断えずぴたり〳〵と聞えてゐたのだが、耳を立てゝもしいんとしてゐる。そして海面一帯がかすかに泡だつた様に見えて來た。驚いた事にはさうして音もなく泡だつてゐるうちに、ほんの二三分の間に、海面はぐつと高まつてゐるのであつた。約一個月の間見て暮した宿屋の前の海に五つ六つの岩が並び、満潮の時にはそのうちの四つ五つは隠れても唯だ一つだけ必ず上部一二尺を水面から拔き出してゐる一つの岩があつたが、気がつけばいつかそれまで水中に没してゐる。
此奴こいつは危険だ!』
 私は周囲の人に注意した。そしてまさかの時にどういふ風に逃げるべきかと、家の背後から起つて居る山の形に眼を配つた」
 いやなんともこの、動物的な瞬発力、といったらどうだ。

  余震雑詠
 夜に昼に地震なゐゆりつづくこの頃のこころすさびのすべなかりけり

 家族は無事だ。たしかにそれは幸なことだったが、新聞社や版元が潰れ、稿料が入らず手許は不如意、どうしょうもなく窮するばかり。「すさびのすべなかりけり」。でこのあと誘いの声がかかって、十月末から十一月中旬、甲府を通り、念場ヶ原、八が嶽山麓を踏み、信州へ入り、松原湖、千曲川上流に遊び、秩父渓谷を歩く(参照「木枯紀行」)。


  松原湖畔雑詠 信濃南佐久郡なる松原湖畔の宿屋に同国の友人数名と落合ひ数日を遊び暮しぬ
 無事なりきわれにも事のなかりきと相逢ひていふそのよろこびを (『黒松』没後昭和十三年刊行、以下)
 酒のみのわれ等がいのち露霜のやすきものを逢はでおかれぬ

 一夜ふとした事より笑ひ始めて一座五人ほとほと背骨の痛むまでに笑ひころげぬ
 ひとことかいふただち可笑しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ
 笑ひこけてへその痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞいふ

 こもごも「無事なりき」「笑ひこけて」とはいい。なにしろ大震災後の一同再会であれば。十一月六日、鹿の湯温泉へ。そこで鯉の味噌焼で一杯やっていると、宿に「裁判官警察山林官連合」なる一行が来て邪険にされる。それで夕闇寒きなかを一里ほど歩き、湯沢の湯へ。たとえばそんな災難もあるが、こうして旅に出て酒を飲めれば、ともかくご機嫌なのである。


  野辺山が原 八が嶽北側の裾野を野辺山が原といふ、念仏が原より更に広く更に高き高原なり
 昨日見つけふもひねもす見つつゆかむ枯野がはての八が嶽の山
  千曲川上流
 入りゆかむ千曲の川のみなかみの峰仰ぎみればはるけかりけり(その一、市場村附近)
 とろとろと榾火ほだび燃えつつわが寒き草鞋の泥の乾き来るなり(その二、大深山村附近)
 居酒屋の榾火のけむり出でてゆく軒端に冬の山晴れて見ゆ。
 寒しとて囲炉裏の前にうまや作り馬と飲み食ひすこの里人は
(その三、梓山村附近)
 まるまると馬が寝てをり朝立あさだちの酒沸かし急ぐゐろりの前に

 後二首は、人と家の内に飼われる馬と眠るさまを驚き詠む。いやまだまだ意気盛んなるかようだ。しかしながらどこか疲労もみえなくもない。このときの旅にふれてこのように洩らしている。
「つく〴〵寂しく、苦しく、厭はしく思ふ時がある。
 何の因果で斯んなところまでてく〳〵出懸けて来たのだらう、とわれながら恨めしく思はるゝ時がある。
 それでゐて矢張り旅は忘れられない。やめられない。これも一つの病気かも知れない」(「草鞋の話旅の話」)
 さらにまたこの頃から旅の様相も大きく変わることになる。


  第十八回(2018.07.12)

銭金算段行脚


 大正十三年、三十九歳。この年頭の作が微笑ましい。まことに馬鹿正直というか超脳天気なるのか。

  新年述懐
 明けてわが四十といへる歳の数をかしきものに思ひなさるれ
 いつまでも子供めきたるわがこころわが行ひのはづかしきかな

 三月初め、亡父十三回忌に長男旅人を伴い十一年ぶりに帰郷。このときには牧水の名は郷里で知られていたので、いうならば初めての錦を着ての帰省といえよう。とはいえさきざきで郷党を前にして濡草鞋である身を意識させられたことやら。四月下旬、母マキを伴って沼津へ戻る(マキは一ヶ月後に帰郷)。


  旅中即興 故郷にて
 山川のすがた静けきふるさとに帰り来てわが労(つか)れたるかも(坪谷村)

「労れたるかも」、とは気になる呟きだ。だがすぐまた草鞋を履くことになる。六月、鳥の声を聞きに甲州身延へ(参照「身延七面山紀行」)。


  甲州七面山にて
 水恋鳥とひとぞをしへし燃ゆる火のくれなゐの羽根の水恋鳥と
 まなかひの若葉のそよぎこまやかにそよぎやまなく筒鳥きこゆ
 年ごとにひとたび聞かでおかざりし郭公は啼くよこの霧の海のなかに

「水恋鳥」とは、あか翡翠しょうびんの別称。めったにお目に掛かれない渓谷に棲む美しく珍しい鳥なのである。いっぽう「筒鳥」と「郭公かっこう」は「いつからとなく私の心のなかに寂しい巣をくつてゐた」という愛しい鳥。いやほんとうに鳥好き牧水の微笑みがみえるようだ。ついでに鳥に関わって、こんな美しい文がみえる。
「山も動け、川も動け、山も眠れ、川も眠れと啼き澄ます是らの鳥のはげしい寂しい啼声を聴く時は、自ずとこの天地のたましいがかすかに其処に動いてゐる神々しさを感ずるのである」(「夏を愛する言葉」)
 七月、紀行文集『みなかみ紀行』刊行。八月、上香貫かみかぬきから沼津市の西はずれ千本松に転居。九月、創作社発行所を兼ねた土地購入と住宅建築資金集めのために、短冊半折揮毫頒布の会、第一回を沼津で開く。以後、広く各地で催す。いやこれがこののちちょっと大事おおごと、いかんともしがたく、重荷におぼえるようになってくる。


  転居雑詠
 うとましきこれらの荷物いつのまにわが溜めにけむ家なしにして
 身ひとつにさらばゆかむと行かるべき軽々しき身にあるべかりしを

「身ひとつに」。それこそが濡草鞋の心意気なるはずだ。もっといえば非所有であることが。それなのにこんなにも「荷物」をかかえようとはという嘆息。自嘲。しかしながらこの松原の地は素晴らしいものがある。鳥がさえずるし、富士を正面に、浪が砕ける。


  沼津千本松原
 をりをりに姿見えつつ老松のうれのしげみに啼きあそぶ鳥
 ひよの鳥なきかはしたる松原の下草は枯れてみそさざいの声
 冬寂びしあし鷹山たかやまのうへに聳え雪ゆたかなる富士の高山

  千本浜の冬浪
 大海のうねりのはしの此処に到り裂けくつがへりとよみたるかも

 大正十四年、四十歳。一月、大阪で揮毫会、京都、神戸と回る。二月、随筆集『樹木とその葉』刊行。同月、揮毫会で得た金に銀行の借金で、沼津市市道町に約五百坪の土地購入。住居新築と、また新雑誌創刊を企図し、四月の信州佐久を皮切りに、岐阜、名古屋へ。以降、資金集め目的の揮毫旅行に明け暮れる。毎度の銭金算段の行脚だ。牧水は、ときにしきりと思い知らされただろう。
 これまでずっと万年借家暮らしつづきできた濡草鞋風情。そんなやつが家を持とうなどとは! それこそが誤りなろうぞ、と。このことではそのさきに「三界無宿の身で、……おしまひまでこれで押してゆくのかも知れない」(「貧乏首尾無し」)といっていたというのに。
 ほんとうになんとも「みなかみ紀行」とは大違いなるありさまでないか。まさに東奔西走の旅であって、なんとも艱難辛苦の行である。この間の揮毫行脚の大略は「創作」十月号の「創作社便」に語られているが、なかにこんな記述がみえる。そんな「酒気が切れると身の置所がないので日に三四度づつ飲む。飲めばすなわち寝る。その間に飼犬が二匹子を生んだ。子供たちのその二匹に命名して曰く、「ノム」と「ネル」」なりと。
 十一月、十二月、九州各地をあわただしく銭金算段行脚。その折に老母と二人の姉を伴って別府温泉に遊ぶ。これだけはこの旅で救いだったろう。牧水は、じつはそのときに母に打ち明けるようにした。
「「阿母さん、わたしも随分ともう酒を飲んで来たからこれから少し慎しまうとおもふよ。」母の返事は意外であつた。「インニヤ、酒で焼き固めた身体ぢヤかル、やつぱり飲まにやいかん。」」(「九州めぐりの追憶」)
 なんとそのように母マキがいったという。いやよくわかったお母さんであること。それにしもまあ飲みつづけたものである。
「今度の九州旅行は要するに大酒ぐらひのわたしとしての最後であつた。とにかく思ひおくことなく飲んで来た。五十一日の間、殆んど高低なく毎日飲み続け、朝、三四合、昼、四五合、夜、一升以上といふところであつた。而して、この間、揮毫をしながら大きな器で傾けつつあるのである。また、別に宴会なるものがあつた。一日平均二升五合に見つもり、この旅の間に一人して約一石三斗を飲んで来た、と数字に示された時は、流石のわたしも物がいへなかつた。
 が、これで安心してこの馬鹿飲みの癖をやめることが出来るといふものである。現にもうやめてゐる。やめなければならぬ所まで到達して来たのである。やれやれ長い道中であつたぞよといふ気持である」
 疲労は激しく、歌作も少ない。そんなやたらな移りゆきになんとも、どうにもはかなげな作がはさまる。ときにつぎのような夢を見るようになると、どういうかちょっと人は危ういのではないか。それもやはりまた「母」だというのである。


  
 鮎焼きて母はおはしきゆめみてののちもうしろでありありと見ゆ
 夢ならで逢ひがたき母のおもかげの常におなじき瞳したまふ
 かたくなの母の心をなほしかねつその子もいつか老いてゆくなる

 大正十五年・昭和元年、四十一歳。五月、前年から計画していた、牧水曰く、詩歌句を綜合する「各詩型に拠る日本詩歌界の鳥瞰図」たる新月刊誌「詩歌時代」創刊。大きな評判を呼ぶ。直接購読三千を数えるも、経費が大きく嵩みすぎ、当初から赤字で苦境に陥る。こうなると酒に救いを求めるしかない。じつはこのさきに「現にもうやめてゐる」と書いたばかりなのだが。


  
 かなしみて飲めばこの酒いちはやくわれを酔はしむ泣くべかりけり
 われはもよ泣きて申さむかしこみて飲むこの酒になにの毒あらむ

 なんてどうしようもない酒飲みでしかなくなっている。牧水は、なんでまたその赤字が深酒の原因ともなろうに、あくことなく雑誌の発刊に血眼になるのであろう。これまでも主宰誌「創作」の青息吐息の運営経緯はべつにして、「新文学」(明四一、計画段階で断念)、「自然」(明四五、一号で廃刊)の企画ほか、かなりの数の歌誌に参画し編集に関わっている。さきにもふれたが牧水の編集手腕は素晴らしいものがある。もっといえば濡草鞋特有でこそあろう人心収攬しゅうらん術はといったら。
 それはさて四十の声をきいて、またもや雑誌を出そうという。これはいかなる心がする挙ではあるのか。このことに関わっていま、わたしなりに手短にいうならば、このように考えられるのだ。
 どんなものだろう、それはあえて本稿の文脈でいうならば濡草鞋が大見得めいてする顔見せ興業のようなもの、とはみられないか。ときに浮かぶのは「何か彼か、事業といふ様なことを空想して飛び歩いてゐた」という父のことだ。いうにいわれぬ余人にはどうにも理解しがたいその屈託のほどである。それはそう、それこそひとり牧水のみならず「事業といふ様なことを空想」してしまう血統がさせること、なのだろう。そうしてその尻拭いの揮毫旅行もどこか旅役者の興業気分みたくあるのだ。
 それにしも「詩歌時代」のことである。なんともときの錚々たる顔ぶれが勢揃いするのである。まずもってこの創刊陣容はどうだろう。
 評論では、萩原朔太郎、窪田空穂、長詩では、高村光太郎、室生犀星……。散文詩では、吉田一穂……。俳句では、河東碧梧桐、村上鬼城、……。短歌では、吉井勇、金子薫園……。童謡民謡では、野口雨情、浜田広介……。
 第二号では、さらには柳田國男、相馬御風、またときの前線は革命的詩人の萩原恭次郎の名前まである。第三号では、芥川龍之介……、いやもうよそう。


  第十九回(2018.08.07)

千本松原


 大正十五年・昭和元年。八月、このとき牧水の日々に関わり深い問題が惹起している。それは静岡県当局による千本松原伐採処分問題である。これにいち早く沼津市に反対運動が起こっている。このことでは松原を愛してやまない牧水も黙していない。
 千本松原は、沼津市の狩野川河口から、富士市の田子の浦港の間約十㌔の富士海岸(通称、千本浜)に沿いつづく。ぜったいこの松の一本も伐らせはしまい。牧水は、ここぞとばかり「沼津千本松原」と題する文章を「沼津日日新聞」および「時事新報」に寄せて運動を支えるのだ。それがどのような論調であったものやら。以下、ちょっと長くなるがここに引いておく。
「松は多く古松、二抱へ三抱へのものが眼の及ぶ限りみつちりと相並んで聳え立つてゐるのである。ことに珍しいのはすべて此処の松には所謂いはゆる磯馴そなれまつの曲りくねつた姿態がなく、杉やけやきに見る真直な幹を伸ばして矗々ちくちくと聳えて居ることである」
 そしてこの松原はというと、よくある白砂青松ではない、そこにこそ特色ありという。たしかによくある白砂に青松なら風呂屋の壁絵的には美麗な一幅であるといえよう。だけどそれじゃいかにも俗悪キッチュというものでしかなかろう。ところが「此処には聳え立つた松の下草に見ごとな雜木林が繁茂してゐるのである。下草だの雜木だのと云つても一握りの小さな枝幹を想像してはいけない。いづれも一抱へ前後、或はそれを越えてゐるものがある」のである。さらにもっといえばそのバラエティのゆたかさったらない。
「最も多いのはたぶ、犬ゆづり葉の二種類で、一は犬樟いぬぐすとも玉樟たまぐすともいふ樟科の木であり、一は本当のゆづり葉の木のやゝ葉の小さいものである。そして共にかゞやかしい葉を持つた常緑樹である。その他冬青木もち、椿、ならはぜあふちむく、とべら、胡頽子ぐみくさなど多く、たらなどの思ひがけないものも立ち混つてゐる。して此等の木々の根がたにはささいたどりが生え、まんりやうやぶ柑子かうじが群がり、所によつては羊歯しだが密生してをる。さういふ所に入つてゆくと、もう浜の松原の感じではない。森林の中を歩く気持である」
 いやほんとなんと詳しくあることか。もともと渓の児なるところ、くわえてこれまで、さんざん山を歩いているのだ。でそこでこのように訴えをもってゆく。
「幾らの銭のために増誉上人(註、千本松を植成した名僧)以来幾百歳の歳月の結晶ともいふべきこの老樹たちを犠牲にしようといふのであらうか。
 私は無論その松原の蔭に住む一私人としてこの事を嘆き悲しむ。が、そればかりではない。比類なき自然のこの一つの美しさを眺め楽しむ一公人として、またその美しさを歌ひ讃へて世人と共に楽しまうとする一詩人として、限りなく嘆き悲しむのである。まつたく此処が伐られたらば日本にはもう斯の松原は見られないのである。あに其処の蔭に住む一私人の嘆きのみならむやである。
 静岡県にも、県庁にも、また沼津市にも、具眼の士のある事を信ずる。而して眼前の些事に囚はれずおもむろに百年の計を建てゝ欲しいことを請ひ祈るものである」(「時事新報」大15・9・14~16)
 いまこれをいかに読まれるだろう。これまでどうかするとしばしば牧水を難ずるあまりに、「社会的な視点や批判性が希薄だ」、というような批評を目にさせられてきたことがある。なるほどそこらは頷けなくもない。しかしおもうに山河彷徨者であれば、どうしたって自然破壊にだけは心底我慢できなかった、いやぜったいに濡草鞋残党としては。
 このことでは牧水の力もあずかって、いまもなお松原は守られている。牧水は、じつになんとも弁士として「千本松原伐採反対市民大会」において熱弁をふるっている。だけどどうもその弁の熱さのわりに聴取受けしなくて冷や汗ものだったとか。だがなにはともあれ松は伐られなかったのだ。しかしながらいま現在みられるそれは牧水の夢見ていたあるべき松原とはべつのものである。それこそかつての「森林の中を歩く気持」になれるそれとは。さきに引いた「沼津千本松原」の歌にある。

 時雨すぎし松の林の下草になびきまつはれる冬の日の靄
 松原のなかのほそみち道ばたになびき伏したる冬草の色

 いまはもう雑木はおろかここにある下草もありえない。あたりいったいすっかり綺麗に取り除かれ整地されてしまっているのだ。あまつさえ松原と海岸の間には堤防が築かれて景観は台無しとくる。
 どうしてそのような人工的なことをするのか。というところでおなじ環境の問題のつながりで、ここにいま一人の名前をだしてふれることにする。そのさきにまたこんな詩歌人がいたのである。
 それは河東碧梧桐である。明治三十六年末、碧梧桐は、郷里松山に帰った折、「帰省句稿」と題して詠んでいる。

  高浜上陸
 故郷の赤土山や枯尾花 (「ホトトギス」明三七・三)

 冬枯れの丸裸の「赤土山」、そこに寒々として、「枯尾花」を点描する一景。それがのちに『続三千里』の旅にあって、ふとこの句の光景を浮かんでき、このように一信に綴るのである。「故郷の山は、自分の記憶に存する所が、大方禿山か草山であつた。……。朝鮮支那を連想する。制度文物の亡国的を想到する」(明四三・八・五)と。でこのときにしばしば喧伝された「朝鮮支那」の森林皆伐を引き合いに出し、つよく故郷の「亡国的」な景観への警告と植林の重要さにおよぶのである。
 このことではまた『三千里』の一信もみられたし。そこはどこかというと下野は足尾においてのことである。碧梧桐は、このとき田中正造翁が鉱毒問題を天皇に直訴した足尾銅山の惨状を直視するのだ。そうしてあるべき対策を思案してのべている。これぞまさに詩歌からの環境問題発言として嚆矢といえないか。「裏山に上つて、鉱山の赭禿あかはげたのと、草木の装飾の落寞らくばくたる町を瞰下みおろしながら、この足尾の山の中に一木一草たりとも、青いものを植えふやすといふことは、人間がせち辛い世の中に立つて、一善一徳を旦暮あけくれ積んで行くのと同じことだと思ふ」(明三九・九・一三)と。それにとどまらず日を置いて綴ってもいるのである。

  足尾の糸瓜忌の一巻に句を題せよという
 山に木を植うると子規忌とを忘れ得ぬ (同・一〇・六)

 碧梧桐と、牧水と。生涯にわたって多く山河を巡りつづけた両者。ともにまことの自然保護運動の先駆的存在なるといえよう。

  黒松
 黒松の黒みはてたる幹の色葉のいろをめづ朝見ゆふべ見
 黒松の老木のうれぞ静かなる風吹けば吹き雨ふれば降り

 歌集の題名になった、その評に格調の高さを、いわれる連作の二首。だけどどうもこちらには、これを早すぎる老境というか、あるいは長らくの疲労のため、ではとみられてならない。
 このことにもつながるが、はたして「詩歌時代」はというと、どのようになっていよう。やはりというべきだろう、資金不足のために経営不能、十月号六冊をもって廃刊決定、というありさまなのだ。しめておよそ一万数千円にのぼる印刷所への負債捕捉(ちなみにただいまの貨幣価値に換算して一千倍かもっとなろうか)にのぼるとか。そのためにこれからのち猛烈な揮毫旅行を余儀なくされるにいたるのだ。
 九月下旬から十二月上旬にかけ、妻同伴で北海道へ。福島、盛岡、青森などを経て、函館、札幌、岩見沢、旭川、幾春別、幌内、上砂川、深川、名寄、紋別、網走、北見、池田町、帯広、歌志内、夕張、小樽、ほか各地で揮毫会を行う(参照「北海道行脚日記」「北海道雑感」)。これが八十日に近い辛い長旅であるが、どうにもこうにも疲労が激しく歌作もいま一つ振るわないのである。それでここに引く歌はなさそうだ。ここでは一つのエピソードを引いておく。
 それは旭川第七師団赴任の軍人・歌人斎藤りゅう(二・二六事件に際し反乱幇助罪で服役)宅に宿泊した折のはなし。牧水は、このときに瀏の長女で十七歳の斎藤ふみに作歌を勧めたことだ。史は、のちに戦後を代表する歌人になる。
 これぐらいがこの長旅の功績といっていいか。疲れ果てて旅から帰った。その年の瀬のいつか詠んだ歌にある。

  椎の実
 ふるさとの母にねだらむとおもひゐし椎の実をけふ友より貰ひぬ (その一)
 椎の実の黒くちひさき粒々をてのひらにして心をさなし

 やっぱりお母さんである。「椎の実」は、軽めに炒って食べる。こちらもガキの頃にいただいたが、これがなんとも香ばしいのである。くわえて酒の肴にもいい。牧水、「心をさなし」児のままに、ときにきっと涙で食べ飲んだことやら。

  昭和二年元旦
 ふと見れば時計とまりをり元日のあかつきにして見れば可笑しき

 昭和二年、四十二歳。元朝に気づいたら時計が止まっている。なんとなし可笑しくありどこか不吉めいてみえる一首ではないか。やはりこの年初から不調なようすだ。朝昼の酒はダメと、節酒に苦しむのだ。このころ第一章で引いた「鮎つりの思ひ出」と題して、渓で遊んだ幼い日をしのび二十五首の多くを詠んでいる。ここにいたって浮かぶのはもっぱら、幼い日の郷里坪谷の思い出、ばかりとなって留めようもなさ。これをみるにつけよほど心も体も弱り切っていたとおぼしくある。ついてはつぎなる苦しげな歌もみえるのである。

  述懐
 たひらかにありがたき心われにあり苦しみあへぐわれみづからに
 身に近き友のたれかれを思ひみつ寂しからぬなし人の生きざま

 五月初め、またもや心身不調なところ借金返済のために揮毫旅行とあいなる。このたびはそれも植民地であった朝鮮までもというのだ。やはり安全弁としての妻同伴である。それがなんとも二ヶ月余りにわたって、釜山、光州、木浦、珍島、京城、金剛山、仁川、大邱、ほかをめぐる長丁場というのである(参照「朝鮮紀行葉書日記」「朝鮮紀行」)。だけどやはりこの旅にもこれはと引きたいような歌はみえないのである。それでもこの二首はまあいいか。

  旅中即興の歌 金剛山内、万瀑洞にて
 淵のかみ淵のしもにしたぎちたるたぎつ瀬のなかの淵の静けさ
  金剛山の渓間に山木蓮なる花あり、寧ろ辛夷に似て更に真白く更に豊かなる花なり
 たぎつ瀬にたぎち流るる水のたま珠より白き山木蓮の花

 どういうかやはり、渓の児であれば彼の地の詠をみても渓の歌、がよろしいようだ。七月中旬、朝鮮からの帰路、九州を旅し、坪谷に立ち寄る。牧水は、ときに山容や渓谷を写真に収め、老母と夫婦が並ぶ光景を撮らせた。そしてこれが最後の帰郷となることに。牧水は、このときおそらく最後の刻を間近におぼえていたか。
 月末、ほぼ三ヶ月近い長旅を終え、沼津に帰るが、体調が復さない。病床にありがちの、状態がつづくのだ。病人は、このときに引っ越し以来の夢である掘り抜き井戸を掘り当て大喜びする。つづいて池を掘り周りに草木を植えて鯉を飼うことに。というあたりどういうか、どうにもなんとも濡草鞋としてそれは心虚ろなろうこと不如意だったのではと、しのばれてならないのだ。
 病状は、はかばかしくなく「過労若しくは栄養不良から来た神経衰弱」というわからなさ。これがこのときの侍医による診断とのことである。十二月中旬、小康状態を得て富士裾野を巡る。

  裾野にて
 天地あまつちのこころあらはにあらはれて輝けるかも富士の高嶺は

 牧水は、このとき「富士の高嶺」に何事を願掛けしたろう。きっとおそらく、歩きたし歩きたし、とだけだったか。しかしながら長旅はもう無理というのである。もはやいくら糟糠の妻喜志子が祈願したところで。

 やみがたき君がいのちのうえかつゑ飽き足らふまでいませ旅路に 喜志子(『筑摩野』)


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 若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。

 正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。