歩く人 牧水

歩く人

牧 水

「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」。ーー旅を愛し、酒を愛し、何より歌を愛した歌人若山牧水。43年の生涯で約9000首(未発表含む)の歌を残し、いまでも全国各地の多くの人々に愛されている。国民的歌人ともいえるその魅力、その源泉はどこにあるのか? 詩人の正津勉氏が、牧水を「歩く人」と、とらえなおし、旅の巨人、歌の巨人のたたずまいを探る。


はじめに
 ――名は人を現す。
 そのようによく、いわれたりする。だがどうだろう、牧水という名ほどにその人らしい名前、があるだろうか。ちょっとほかに、いそうにもない。
 戸籍名は、若山繁(しげる)。ごくごく平凡なそこらに、ごろごろと転がっている、よくみる名前でしかない。
 それが牧水なると、それこそ聖なる名のごとく、じつに素晴らしい。とりかかりにこの、名前を糸口に、これからはじめる。
 牧水、なんともこの歌人にぴったりで、これより考えようもない。どこだか大正文化ロマンチックらしくあって、くわえて新興文芸アイドルスターっぽくある。いやじっさい見事なること、このうえない名ではないか、牧水。
 どうしてこの名を思いついたのか? 牧水は、「もっとも愛していたものの名二つを繋ぎ合せたものである」として明かしている。「牧はまき、すなわち母の名である。水はこの渓や雨やから来たものであつた」(「おもいでの記」所収。以下同じ)と。
 しかしなぜ「もっとも愛していた」ものが、ほかではなく「母」と「水」であったのか。そしていかに牧水という命名をして、のちに歌人として名声をえたものか。そこらあたりから迫っていくことにしたい。

 


  第一回「マザコン・牧水」(2017.02.27)


 明治十八(一八八五)年、八月二十四日、牧水は、宮崎県東臼杵(うすき)郡東郷村大字(おおあざ)坪谷(つぼや)(現・日向市)、山の奥深い峡谷の地に、医師若山立蔵(りゆうぞう)、母マキの長男に生まれる。うえに年の離れた三人のお姉さんあり。末っ子だ。
 待ち望まれていた男の子であれば、もう猫可愛がり、親の愛をいっぱい受けて育っている。むろん父にも愛された。だがそれにもまして「母が私を愛していた事は並ならものであった」というのである。
 どうしてか? どうやらお父さんはというと「医を業としていながら、多くは自宅に落ち着かず、何(なに)か彼(か)か、事業といふ様なことを空想して飛び歩いていた」というような変わったお人らしかった。でここにいう「飛び歩」きようだが、どこだかのちの牧水をしのばせるか。
 そんななんだかんだで、なおさら幼な子は母がかりに、なったとおぼしくある。まずはこんな歌をみられたし。

母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ (海の声)
ふるさとは山のおくなる山なりきうら若き母の乳にすがりき (路上)

 いやなにほんと、べたべたのこの母恋ぶりといったら、おかしくないか。ちょっとキモすぎでは? だけどこのとおり母は子を愛すること、ひとしく、おなしに子は母を愛したのである。繁坊は末っ子の跡取り。頭の芯から、まるごとお母さん子だったのだ、骨の髄まで。
 そしてこのお母さんが、それは素晴らしい、いいお人らしかった。このことでは以下のような歌文をみられたい。

歯を痛み泣けば背負ひてわが母は峡の小川に魚を釣りにき (路上)

「私は五歳(いつつ)位いから歯を病んだ。……。そんな場合、おいおい泣きわめいている私を抱いて一緒に涙を流しているのは必ず母であった」「或時はまた声も枯れ果て、ただしくしくと頬を抑えて泣いていると、母は為かけた仕事を捨てておいて私を背に負いながら釣竿を提げて渓へ降りて行った。そうして何か彼か断(た)えず私に話しかけながら岩から岩を伝って小さな魚を釣って呉れた」
 いつだって「私を抱いて一緒に涙を流」してくれる。いかにもこのお母さんらしいこと、「私を背に負い」家の隣の渓へ「魚を釣」りに、「断えず私に話しかけながら」ゆくと。いやほんとうに、なんという良いお母さんだったら、つづけていうのだ。
「いま思えばその頃の母は四十前後であったろうが、どうしたものか私には二十歳前後の人に想像せられてならない。母というより姉の気がした。更に親しいおんなの友達であった様にも思われてならないのである」
 ここはちょっと、この心の動きは怪しくは、ないだろうか。なんといったらいいものか。いまにいたってまだ、しっかりと臍の緒で繋がりあった、ふうなままでいる。そのようなへんなあんばい。まったくもって、この母と子との仲はまあ、おかしいのだ。
 ふつうではない。どうかするとそんな、母子相姦的、ともみられるほど。けったいなのだ。
 というところから、こう断って、すすめることにする。マザコン、万歳である! じつにこのことが牧水をそれまでにない、あたらしいモダンなほんとう、さっそうたる新進ならしめたのである。マザコン、立派なりだ! あえていうならば、その甘さは、つよさなるあかしだ。

 


 若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。

 正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。