歩く人 牧水

歩く人

牧 水

「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」。―― 旅を愛し、酒を愛し、何より歌を愛した歌人若山牧水。43年の生涯で約9000首(未発表含む)の歌を残し、いまでも全国各地の多くの人々に愛されている。国民的歌人ともいえるその魅力、その源泉はどこにあるのか? 詩人の正津勉氏が、牧水を「歩く人」と、とらえなおし、旅の巨人、歌の巨人のたたずまいを探る。



  第十六回(2018.05.17)

みなかみへ㈢


 さて、どうやら新しい草鞋の履き心地は良さそうだ。老番人を案内役に丸沼から密林の径をゆく。もみつが、など巨大な針葉樹が群生する。また見渡す限り唐檜とうひが茂る一角もある。この樹種は初見だ。「日の光を遮つて鬱然とそびえて居る幹から幹を仰ぎながら、私は涙に似た愛惜のこころをこれらの樹木たちに覚えざるを得なかつた」
 牧水は、樹を仰ぎ見て、さきにみた草鞋への別れの挨拶ではないが、涙を溜める人だ。そういえばたしか以前にもこんな一首があったものである。

 木にれどその木のこころと我がこころと合ふこともなし、さびしき森かな (『死か芸術か』)
 山に入り雪のなかなるほほの樹に落葉松からまつになにとものを言ふべき 

 こんなふうに「木のこころと我がこころと合ふ」ようにつとめ、「朴」や「落葉松」と、ともに語らんとつとめるお人なのだ。さて、長い坂を登りつめるとまた一つの大きな蒼い沼がある。そこは目指してきた菅沼((一七〇一㍍))である。そのさきを行くとどうだ。道端の青い草むらを噴きあげてむくむくと噴き出す水流。するとやおらじじがおっしゃる。これぞ菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水なるぞ。このときの牧水の狂喜ぶりったら。
「それを聞く私は思はず躍り上つた。それらの沼の水源と云へば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。
 ばしや〳〵と私はその中へ踏みこんで行つた。そして切れる様に冷たいその水を掬み返し掬み返し幾度となく掌に掬んで、手を洗ひ顏を洗ひ頭を洗ひ、やがて腹のふくるゝまでに貪り飲んだ」
 さながら甘露のようか。おいしい水をたらふく。ふっと息を吹き返すのだ。
「午前十時四十五分、つひ金精こんせい峠の絶頂に出た。真向ひにまろやかに高々と聳えてゐるのは男体山なんたいさんであつた。それと自分の立つてゐる金精峠との間の根がたに白銀色に光つて湛へてゐるのは湯元湖であつた。……。今までは毎日毎日おほく溪間へ溪間へ、山奧へ山奧へと奧深く入り込んで来たのであつたが、いまこの分水嶺の峰に立つて眺めやる東の方は流石に明るく開けて感ぜらるゝ」
 金精峠(二〇二四㍍)、片品村と日光の境に位置する峠の絶頂に立つ。ようやく長い夢を果たし終えたのだ。いやこの終幕が大泣きものだ。老人には優しい牧水! ちょっと長く引いておく。
「其処に来て老番人の顔色の甚しく曇つてゐるのを私は見た。どうかしたかと訊くと、旦那、折角だけれど俺はもう湯元に行くのは止しますべえ、といふ。どうしてだ、といぶかると、これで湯元まで行つて引返すころになるといま通つて来た路の霜柱が解けてゐる、その山坂を酒に酔つた身では歩くのが恐ろしいといふ。
「だから今夜泊つて明日朝早く帰ればいゝぢやないか。」
「やっぱりさうも行きましねヱ、(註、C―家の人夫に)いま出かけにもああ(今日中には帰れと)云うとりましたから……。」
 涙ぐんでゐるのかとも見ゆるその澱んだ眼を見てゐると、しみ〴〵私はこの老爺が哀れになつた。
「さうか、なるほどそれもさうかも知れぬ、……。」
 私は財布から紙幣を取り出して鼻紙に包みながら、
「ではネ、これを上げるから今度村へ降りた時に二升なり三升なり買つて来て、何処か戸棚の隅にでも隠して置いて独りで永く楽しむがいゝや。では御機嫌よう、左様なら。」
 そう云い捨つると、彼の挨拶を聞き流して私はとっとと掌を立てた様な急坂を湯元温泉の方へけ降り始めた」

 ――以上。急ぎ脚で「みなかみ紀行」の足跡を辿り直してきた。そうしていまわたしはある感懐をおぼえている。ここにそこらのことを一言しておきたくある。
 牧水が歩いた行程。信州上田に発して上州を横断して下野の日光に至る、いまその道は「日本ロマンチック街道」と呼ばれている。なんたる恥知らずな命名なろうか。しかもこれがなんとも「みなかみ紀行」を参考にしたルートだという。さきにロマンチック街道はマイカーで素通りしたことがある。だがぜったい歩きたくないし、みなさんをお誘いなどしない。
 いったいわたしらのこの一世紀余のめったやたらな景観破壊といったらなんなのだか。牧水が歩いたのは、ロマンチック街道なんかではない、いまだ斧を知らない、あくまでも山道でしかありえない。
 ここでわたしは唐突に想起するのである。前田普羅、渓恋の同志を。普羅は、長く富山に住んだ。その関わりもあり富山から神通川を遡行し奥飛騨の渓谷をしばしば探って、のちにその成果のほどを句集『飛騨紬ひだつむぎ』(昭二二)として上梓している。
 普羅は、まずもってどんな気組みで飛騨の渓谷を探索しつづけたのか。句集の「序 『奥飛騨の春』前記」に記す。
「飛騨にあこがれて行く人は、北からでも又南からでも只まつしぐらに高山町まで飛び込んだゝけでは、飛騨はほんとうの姿を見せて呉れまい。此等これら残された太古の飛騨高原を渓谷から渓谷に越す時にのみ「飛騨の細径」は真実の姿と心とを見せて呉れるのである。飛騨へ行くのは「飛騨に入る」と云ふのが当たる。東西南北、どちらから入つても、嶮峻な大山脈を越さねばならぬ。然し一度この高原には入つて仕舞へば、黒土の山につけられた細径と小径が高まつて出来た峠とは、小鳥の啼く湿原と耕された台地と又樹木に隠された往昔おうせきの人の通つた飛騨街道とにめぐり合はせて呉れる」
 これぞおなじに牧水も一貫する探索の仕方でこそあろう。そしてまた自然への向かい方を示唆するものだ。ついてはともするとわたしらは、あまりにも安易に一直線「只まつしぐらに」目的地を到達することで、よしとしてしまってはいないか。
 むろんそこには近年の四通八達ともいうべき、ロマンチック街道はいわずもがな、とんでもない交通機関の発達があってのことだ。だがじつはそれこそがわたしらから、ほんとうに自らの足で土を踏む愉みを奪ってしまう、そのことにつながったとはいえないか。ついては句集の「後記」にこうある。その驥尾きびに「昭和二十一年十一月三日憲法公布/祝賀の東京放送を聞きつゝ」と付記して。
「時勢は飛騨をいつまでも山奥として残しては置くまい、又飛騨を横断してゐる汽車は必要な産業地点で人を降ろしたり乗せたりしてゐるが、そのほかは割合に飛騨奥山として残されてゐる」「山々、渓谷、小鳥の声、栗の木の多い雑木林、イチイ、モミ、ツガの森林、それらを貫く古い時代の通路、廃坑、廃坑への古径、チロルの山家に似た木造家屋なぞが、やさしい飛騨人をはぐくんで居る」
 いやこれをどのように読んだらいいものやら。それから七十年余り経った飛騨渓谷はどうだ。こちらもさきに神通川を遡って徒渉としょう実見しているのである。なんとといまやほんとまったく許されないありさまなのである。ともすると人はいうものだ。失ったものは、失うべくして、失ったのだと。それはだが逃げでしかない。
 どんなものであろう。ひるがえって考えてみれば「みなかみ紀行」の牧水もこの渓恋の同志とおなじ思いでなかったか。あやまってはいまい。
 ところでこちらは趣味で山遊びをするものだ。そこでもっぱら歩くことは、みてきた紀行ではその終幕のあたり、そこらを主にしてきた。主峰の白根山(二五七八㍍)を中心に、すなわち大尻沼、丸沼、菅沼から金精峠、いったいの山稜となる。するとさすがに往時の面影がしのばれる。
 大尻沼には、鴨の群れが遊ぶ。だがむろん丸沼には番人小屋は跡形もないのだ。そうしてあの菅沼はどうだろう、「やがて腹のふくるゝまでに貪り飲んだ」、というような牧水とはちがう。当然飲用不可。まったくもうロマンチック街道そのものでしかない。
 となるといまとなっては紀行をそれと感受するには街道ではなく山道をゆくしかないだろう。というところで横道とまいり当方のおすすめ、菅沼の茶屋近くの登山口から白根山を目指し二時間余りの弥陀ガ池、なかなかのその一景をここに紹介しておこう。
 火口湖、それほどまで大掛かりなものでない。弥陀ガ池、いやずいぶん小作りというのか。山上や山腹のそこにそっと、なにやら掌編の佳品さながら、ひっそりとある池畔や沼沢。おもうに牧水が佇んだのは、このような湖の水辺ではないか。そこにそうしていると牧水も好きだったろう、なんともいえない詩の一景がのぞまれるのだ。それは山村暮鳥(一一八八四~一九二四)である。

 自分は山上の湖がすきだ/自分はそのみなぞこの青空がすきだ/その青空に白銀しろがねの月がでてゐる/ひるひなか/その月をめぐつて/魚が二三尾およいでゐる/ちやうど自分達のやうだ/おゝ人間のさびしさは深い (「山上にて」『梢の巣にて』大一〇)

 それはさて思われるのだ。牧水は、それにしてもなぜこんなにも源をこいねがってやまないのであろう。ほかでもない、渓の児、だからである。みなかみを探ることは、それこそ幼い日の坪谷の渓を歩くこと、ふるさとを辿ること。それはそしてまた母の温かい胎に帰ることであった。

 

Buck number


 若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。

 正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。