歩く人 牧水
歩く人
牧 水
「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」。―― 旅を愛し、酒を愛し、何より歌を愛した歌人若山牧水。43年の生涯で約9000首(未発表含む)の歌を残し、いまでも全国各地の多くの人々に愛されている。国民的歌人ともいえるその魅力、その源泉はどこにあるのか? 詩人の正津勉氏が、牧水を「歩く人」と、とらえなおし、旅の巨人、歌の巨人のたたずまいを探る。
第二十回・最終回(2018.08.23)
生命を如何に徹底的に酷使して
昭和三年、牧水、四十三歳。一月、「創作」新年号に載る随筆「流るる水(その二)」。これが胸を塞ぐのだ。
「ろくにまだ足もきかない癖に、いや
はつふゆ
朝宵に囲炉裡にかざすもろ手なり瘠せたるかなや
などとはちょっと哀しすぎないか。そしてこの一文のおわり「晴れた日には浜から遠く信州伊那の赤石山脈一帯の雪が望まるる。よし、よし、この夏あたり其処の山にも登つてゆき峰から峰の雪の上を這ひずり廻つて来ませうぞよ」なんぞと元気めかしぶり。いやはやなんとも辛いかぎりでは。さらにおなじ新年号の「創作社便」においていう。
「何事もむだではなかつた、と思ふ癖を此頃わたしは持つ様になつた」として「ついで故、もう一つの此頃の癖をも書きつけておかう。それは、自分自身を自然の一部だと思ふ様になつた事である」と。いったいどうしてこの境地にいたったものだろう。
三月初め、脚力を試そうと、草鞋を履いている。御殿場から長尾峠を越えて箱根に遊び、吹雪を衝いて小田原に出て、東伊豆の温泉を回り、天城越えをして湯ヶ島温泉へ。なんともこの一週間の旅で一日に「朝二合昼二合夕方四合締めて一升(!)」と定めていた酒が度を過ごし衰弱したとかいう。でそれにもかかわらず七月中頃よりなんと、まだその間に近くに小旅行を繰り返しつづけ、なおひどく症状悪化をみることになるとか。じつにこの頃の歌が凄まじいのだ。
合掌
妻が眼を盗みて飲める酒なれば
うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる
曇を憎む
つばくらめ飛びかひ啼けりこの朝の狂ほしきばかり重き曇に
降るべくは降れ照るべくは照りいでよ今日の曇はわれを狂はしむ
「盗みて飲める酒」、「盗み飲む酒」、「酒の壜は」、「狂ほしき」、「狂はしむ」……。こんなふうではさぞ、妄想譫妄(?)、ひどかったのだろう。
八月下旬、甲斐下部温泉に静養に行くも、湯治客で混雑のために二泊で帰宅。九月初め、連日つづけていた日光浴のために両脚の足裏に火傷が出来て臥床。口内炎、下痢発熱、全身発疹。もうその刻はギャロップで迫っている。
九月十三日、急性腸胃炎兼肝臓硬変症(肥大性肝硬変)で重態。むろんのこと酒毒過剰摂取のせいである。ときに長女の石井みさきの『父、若山牧水』によると十三日から十六日までに付添看護婦が食餌記録表によると、毎日一〇〇〇cc(!)の酒が病人に与えられたと。みさきは書いている。「勿論酒の味などあまりなかったが、酒をきらしては昼も夜もどうしても眠れず、言はば一種の注射のようなものであった」と。ついては妻喜志子の回想にもある。「お酒だけは不断に要求して止まなかった」(「病床に侍して」)と。
九月十七日朝、容態急変。家族、親戚、友人、門人らから末期の水代わりの酒で唇を湿されつつ、永眠。享年四十三。法名、古松院仙誉牧水居士。いまからみれば若死にではあろうが、明治大正期の平均寿命は四十歳代、であればまあ相応なところであった。
さてその遺体であるが、十二分にアルコールが浸み込んでいて、死後変化が遅かったという。主治医の報告にある。「
遺骨は、かの千本松を植成した名僧増誉上人が開いた庵、沼津市の千本山乗運寺に葬られた。没後、発見された遺詠とされる、二首。
最後の歌
酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を
芹の葉の茂みがうへに登りゐてこれの子蟹はものたべてをり
いやじっさいほんとうに喉から手が出るほど「酒」がほしかったのだろう。そうしてそれこそ「子蟹」のようにも「もの」ならず一杯やりたかったのやら。いじましく切ないといおうか、じつになんとも凄まじすぎる。
昭和四年八月、母マキ死去。享年八十一。マキは、生前、「自分が死んだら繁の分骨を私の胸に抱かせて埋めてほしい」と告げていた。遺族は、むろんその願いを叶えている。マザコン牧水、死んでもお母さん児のままだ。
没後、「創作」は、いちはやく死去の年の十二月号に「若山牧水追悼号」を編んでいる。これが短期日の編纂ながら、じつに充実した内容である。ここではそのなかから本稿に関わりが深い幾篇かをみてゆくことにする。まずは生涯の師尾上紫舟の挽歌から。十一首のうち二首。
尋ね来て小さく座りし少年の君が姿の消えむ日あらめや
そのかみの西行芭蕉良寛の列に誰置くわれ君を置く
明治三十八年、二十歳。五月、牧水は、初めて紫舟を尋ねる。
ついで引用したいのは、作家で歌人の岡本かの子(一八八九~一九三九)、じつにこの女人である。紫舟は、西行を先達に挙げた。でこのことを承知してかどうか、仏教に造詣の深い女史は故人を、つぎのように称賛しているのだ。
「然し何と云つても牧水さんは自然詩人であつた。たゞし西行とは異を感じる。西行は何処までも宗教的人生観を根底に持つて後に自然に向つた。牧水さんは自然と直面である。その間に何の思想も観念も介在しない。その点、西行よりより純粋な自然詩人であつたと思ふ。自然を御飯のやうに喰べた。お酒のやうに呑んだ。自然が用捨なく牧水さんに溶流し傾倒し一致したのは当然である。古今の大牧水さんこそわが国古今唯一の詩人であると極言出来る。歌人に自然の秀歌がいくばくはあるにしても牧水さんほど徹頭徹尾自然と自家の歌を終始せしめた人は無い。……。否、牧水さんこそとりもなほさず自然そのものであつたと云へる。自然の子であり親であり同朋であり恋人である牧水さんが死んで日本の自然も淋しいことであらう」(「牧水さん」)
いやさすがに、かの子なる、かなであろう。じつに素晴らしい悼詞である。「牧水さんが死んで日本の自然も淋しいことであらう」。これだけでじゅうぶんに濡草鞋の牧水、全体を単刀直入にいいつくしている。
さらにまた挙げるべき方はというと、もっとも近しかった友となろう。それは土岐善麿である。善麿は、つぎのように正しくも亡き友の酒について糺すのである。
「牧水は遂々酒に命を襲はれた。――
といふやうに考へることは、彼に対してあまりに粗雑過ぎる。彼は酒と融合同化してしまつたのだ。その「酒」は、舌にあまく、腸に沁みたに相違ないが、彼の長からぬ生涯を通じて思へば、あの芭蕉や西行の感じた「寂しさ」が彼にとつては「酒」に象徴されてゐたのだ。
寂しさにおのおの耐へて在り経つゝいつか終りとならむとすらむ
かういふ晩年の一首を読んでも、彼の「寂しさ」は純真に東洋的な、伝統的なもので、西洋的の哲学思想とか、新しい社会思想とかいふことの要素は、殆んど彼に没交渉のものだつた。彼が徹頭徹尾日本固有の三十一音詩にその表現形式を定めて、他を顧みることの無かつたのも、むしろ当然だし、自然だといつていゝ」(「牧水追憶」)
なにしろその生涯に詠んだ酒の歌は三百首にあまるという。どんなものだろう、これがまた「酒」を語ることでもって、それでだけで友の人となりまでを、いっていないか。さらにはその根本をなすものについて、まことに見事にいいつくしていよう。
そしてさいごに未亡人、若山喜志子ということになる。これには一言もいらない、ただもう沈黙するだけだ。
かたちに添ふかげとし念じうつそ身をわれはや君に捧げ来にしを 喜志子(「納棺のをりに」)
「其の享けてきた生命を如何に徹底的に酷使して(好き意味に)死んで行つた彼の人であつたかと云ふことが、今更のやうに身にしみて考へさせられました」(喜志子「創作社便」)
ここまですべて「創作」誌「若山牧水追悼号」のみをみてきた。だがここにきていま一つ悼詞を挙げておきたくなった。それは川端康成(一八九九~一九七二)である。川端は、『伊豆の踊子』(「文芸時代」大一五・一、二)執筆時、しばしば牧水を湯ヶ島温泉で目にしたらしい。康成は、そこでまず故人の風貌におよぶ。「牧水氏の丸顔には詩歌の魂であるべき童心そのものの柔い美しさがあつた。しかしまた、詩歌の道の智恵そのもののやうな厳しい美しさがあつた。一言でいへば東洋風の悟りをかたどつた木仏を思はせる姿であつた」として綴るのである。
「直ぐまざまざと思ひ出すのはあの白い股引きを出し尻はしよりした山帰りの姿である。喜志子夫人の立派さに引き換へて牧水氏は小柄であり、体は年より老けて見え、百姓然とし、村夫子然とし、いかにもみすぼらしかつた。あの童顔の厳しい美しさがなければ、名歌人とは信じられない程だつた。しかし、それが旅人の姿、旅に色づいた顔であることは、行きずりの一目で感じられる今西行の面影であつた。季節は忘れたが、その山帰りに牧水氏は花やかな花でなく、質朴な花を手にさげていた」(「若山牧水氏と湯ヶ島温泉」「サンデー毎日」昭三・一一・二五)
よくみておいでだ、「今西行」、それはさてとして。さすがに眼光の鋭い作家ではある。
若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。
正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。