歩く人 牧水

歩く人

牧 水

「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」。―― 旅を愛し、酒を愛し、何より歌を愛した歌人若山牧水。43年の生涯で約9000首(未発表含む)の歌を残し、いまでも全国各地の多くの人々に愛されている。国民的歌人ともいえるその魅力、その源泉はどこにあるのか? 詩人の正津勉氏が、牧水を「歩く人」と、とらえなおし、旅の巨人、歌の巨人のたたずまいを探る。



  第十二回(2018.01.05)

鳥の声


 前回は、牧水の異常ともいえる、酒恋と渓恋におよんだ。
 大正八年、三十四歳。この年も席あたたまる暇なくほとんど旅の空である。なんとも元旦から家を飛びだしている。

  犬吠埼にて
 岩かげのわがそばに来てすわりたる犬のひとみに浪のうつれり (一月三日)

 犬の瞳に浪を写す。ちょっと表現主義的ではないか。それはさてつぎつぎに旅はつづくのである。三月、信州伊那地方へ。

   駒が嶽の麓
  名は歌の会なれど旧知多く揃へる事とておほかた徹宵痛
  飲の座とはなるなり。
 ちぢこまるわれに踊れと手とり足とり引きいだしたれ酔人ゑひどれ
 いつしかに涙ながしてをどりたれ命みじかしと泣き踊りたれ

 こんなふうに酔い旅が多くあったろう。だけどもまた静かな山の上の湖を好んで歩いているのだ。
 五月、榛名山上湖に遊ぶ。ここでは山の湖ではなくて、ちょっと視線をずらし、いとおしい山の鳥をみよう。

   山上湖へ
   草津を経て榛名山に登り山上湖畔なる湖畔亭に宿る、鳥多
   き中に郭公最もよく啼く
 みづうみの水のかがやきあまねくて朝たけゆくに郭公くわくこう聞ゆ
 となりあふ二つの渓に啼きかはしうらさびしかも郭公聞ゆ

 渓の児、牧水は鳥好きである。ここにいたるまで多く引かなかったが、じつによく鳥を詠んでいるのである。たとえば大正四年夏、蓼科山麓の春日温泉に遊んだ折に「尾長おなが」「杜鵑ほととぎす」「鶺鴒せきれい」ほか、ほんとうに楽しげに鳥たちと戯れているのだ。つぎのような賑やかな歌はどうだろう。

 ほととぎすけすひよ鳥なきやまぬ狭間はざまの昼の郭公くわくこうのこゑ (『砂丘』)

 牧水は、鳥について「私は山深い所に生れて幼くから深山の鳥のさまざまな声に親しんで来た」として書く。
「多くの鳥の中で筒鳥と、郭公と、而して杜鵑と、この三つの鳥はいつからとなく私の心のなかに寂しい巣をくつてゐた。私の心が空虚になる時、私の心が渇く時、彼等は啼いた。私の心がさびしい時、あこがるる時、彼等は啼いた。私の心が何かを求めて動く時、疲れて其処に横はる時、彼等は私と同じい心に於て私の心にそのまことの声を投げて呉れた」
(「山上湖へ」)
 なんという鳥愛であろう。まだまだ旅はつづく。八月、九十九里浜、十一月信州沓掛温泉、十二月、上総八幡崎へ。
 大正九年、三十五歳。二月、伊豆松崎、天城越え、湯ヶ島温泉、四月、秩父、五月、群馬、長野、岐阜、愛知へ。

  上州吾妻の渓にて
 飛沫しぶきよりさらに身かろくとびかひて鶺鴒せきれいはあそぶ朝の渓間に

 まさにこの鶺鴒がそっくりそのまま牧水ではないか。牧水は、それにつけ鳥好きではないか。
 八月、年来の希望だった田園の生活に入るため、静岡県沼津町在楊原村上香貫かみかぬきに転居(参照「香貫山」)。生活は落ち着いたが、懐中は寒く苦しかった。鳥達のように自由でありたいが、先立つものに事欠くのである。

  貧窮
 居すくみて家内やぬちしづけし一銭の銭なくてけふ幾日いくひ経にけ
 む
 三日みかばかり帰らむ旅を思ひたちてこころ燃ゆれどゆく銭
 のなき

 いつもまったく路銀は足りないのだ。そしてまた糊口をしのぐために多忙をきわめる。にもかかわらず草鞋を履いてしまう。牧水は、ここまでみてきた歌集『くろ土』の三年間で百八十日も旅の空にあり、五百五十九首の旅の歌を詠んでいる(参照『若山牧水新研究』大悟法利雄)。


上高地
 大正十年、三十六歳。三月、第十三歌集『くろ土』、七月、紀行文集『静かなる旅をゆきつ』を刊行。この年も方々に旅した。なかでも九月中旬より十月末まで、信州白骨温泉、上高地、焼嶽に登った後、飛騨に出て高山に遊び、さらに富山、長野、木曽を遍歴した。牧水は、ただもうひたすら渓を歩きつづけること、ほとんどまったく頂を踏んでいないようだ。だがむろんその気になれば登っているのだ。

   上高地付近
  上高地付近のながめ優れたるは全く思ひのほかなりき、
  山を仰ぎ空を仰ぎ森を望み渓を眺め涙端なく下る
 いわけなく涙ぞくだるあめつちのかかるながめにめぐりあひつつ (『山桜の歌』以下)
 またや来むけふこのままにゐてやゆかむわれのいのちのたのみがたきに
 まことわれ永くぞ生きむあめつちのかかるながめをながく見むため
 なんともちょっと大振りすぎる表現にみえるがどうか。いまからざっと一世紀近くまえの上高地はかくも神々しかったのだろう。

 やま七重ななへわけ登り来てくばかりゆたけき川を見むとおもひきや (梓川)

 牧水は、梓川あずさがわにもつよく心動かされている。
「下駄を借りて宿の前に出て見ると、ツイ其処に梓川が流れていた。どうしてこの山の高みにこれだけの水量があるだらうと不思議に思はるゝ豊かな水が寒々と澄んで流れてゐる。川床の真白な砂をあらはに見せて、おほらかな瀬をなしながら音をも立てずに流れてゐるのであつた」(「上高地温泉/或る旅と絵葉書」)
 つぎに焼嶽やけだけ(二四五五㍍)登頂(牧水の登った一番高い山だ)をみる。牧水は、じつはこのとき良い案内者を得られない。
「大正三年大噴火の際に出来た長さ十数町深さ二三十間の大亀裂の中に迷ひ込んだ。初めは何の気なしにその中を登っていたが、やがてそれが迷路だと知った時にはもう降りるに降りられぬ嶮しい所へ来ていた。そしてまごまごしていれば両側二三十間の高さから霜解のために落ちて来る岩石に打ち砕かるるおそれがあるので、已むなく異常な決心をしてその亀裂の中をい登ったのであった」(「焼嶽の頂上/或る旅と絵葉書」)
かくして命からがら登頂している。

   焼嶽頂上
  上高地より焼嶽に登る、頂上は阿蘇浅間の如く巨大なる噴
  火口をなすならずして随所の岩蔭より煙を噴き出すなり。
 群山むらやまのみねのとがりのまさびしくつらなれるはてに富士のみね見ゆ
 岩山の岩の荒肌ふき割りてきのぼる煙とよみたるかも

 焼嶽を下りて、飛騨高山から飛騨古川町に遊ぶ。その途上、鮎の簗漁やなりょうを見て詠む。

   野口の簗
  そのすゑ神通川に落つる飛騨の宮川は鮎を以て聞ゆ、雨そ
  ぼ降る中を野口の簗といふに遊びて
 たそがれの小暗き闇に時雨降り簗にしらじら落つる鮎おほし
 かきたわみ白う光りて流れ落つる浪より飛びて跳ぬる鮎これ

 牧水は、おそらくふるさとでは簗漁をしなかったろうが、このとき坪谷川の鮎釣りを思い出したろう。幼い日のこんな景を浮かべつつ。

 われいまだ十歳とをならざりき山渓やまたにのたぎつ瀬に立ち鮎は釣りき
 釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を (『黒松』)

 

Buck number


 若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。

 正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。