歩く人 牧水

歩く人

牧 水

「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」。―― 旅を愛し、酒を愛し、何より歌を愛した歌人若山牧水。43年の生涯で約9000首(未発表含む)の歌を残し、いまでも全国各地の多くの人々に愛されている。国民的歌人ともいえるその魅力、その源泉はどこにあるのか? 詩人の正津勉氏が、牧水を「歩く人」と、とらえなおし、旅の巨人、歌の巨人のたたずまいを探る。



  第三回「ぬれ草鞋わらじ党末裔・牧水」(2017.04.28)


 第一回マザコン・牧水、第二回ワイルドボーイ・牧水。というタイトルのもとに牧水の生誕と幼時をめぐって、ちょっとふつうではない母性と自然への親和をみてきた。そこにいま一つこの少年をやがて牧水にする点があるのだ。まずは「おもいでの記」のつぎの記をみよう。
「『濡草鞋を脱ぐ』といふ言葉が私の地方にある。他国者が其処に来た初めに或家を頼つて行く、それを誰は誰の家で濡草鞋をぬいだといふのである。その濡草鞋をぬいだ群が私の家には極めて多かつた。/私の家自身が極く新しい昔に於て濡草鞋党の一人であつたのだ」(濡草鞋)
「濡草鞋を脱ぐ(解く)」とは、「志を立てて目的の地に行き、最初頼つて落着いた処をいふ」(『隠語大辞典』)の謂。
 若山家は、祖父けんかい(武蔵川越在の農家の出で、生薬屋の奉公人から、肥前は平戸でシーボルトに仕え西洋医学を学ぶ)が、慫慂しようようする人があってか風の吹くままに流れ着いたこの地で医業を営んだことに始まる。ということは「濡草鞋党」、つまり「他国者」であったのである。このことが少年に与えた影響は少なくない。「山師、流浪者、出稼者、多くは余りかんばしからぬ人たちが入れ替り立ち替りやつて来た」。父は、つまるところこれら濡草鞋の群れの世話や口車に乗り財産を失してしまったのだ。それではその児はどうなのか。
「母の朝夕の嘆きを眼の前に見てゐるので、理も非もなく彼等をよくない人たちだと思ひながら、私は知らず知らず彼等他国者にいてゐた。……。いま思へば彼等はみないはゆる敗残の人々であつたのだ。そして私は彼等の語る世間話と、いつとなく読みついてゐた小説類とで、歳にはませて早くも世間といふものを空想することを覚えてゐた。ちやうどそれはをりをり山の頂上から遙かに光つてゐるものを望んで、海といふものを空想してゐたと同じ様であつたらう」
 このとき外への憧れが繁少年に沸き立っている。渓谷の世界しか知らぬ少年は、濡草鞋、他国者、後ろ暗い「敗残の人々」が「語る世間話」に目を輝かせる。そこから「世間といふものを空想する」「海といふものを空想してゐた」というのである。この渓から広い世界へ出て行かん。いつかそのように思いつのりつづける。ここに歩く人牧水の第一歩が印された。峡を背にし、海へ向かう。それはいつか。
「私の村から海岸に出るには近いところでは僅に五里しかないのであるが、四辺あたりを包む山嶽の形から宛然さながら二十里も三十里も離れた、山深い所の様に思はれてならなかつた。で、母に連れられてなど、附近でもやや高い山の頂上へ行つて、あれが海だ、と指ざされると、実に異常のものを見る様に、胸がときめいた」(「海」)
 明治二十四年、六歳。母に連れられて耳川を舟で下り、美々津みみつで初めて海を見る。

あたたかき冬の朝かなうす板のほそ長き舟に耳川くだる (砂丘)

「うす板のほそ長き舟」は、高瀬舟。「耳川(美々津川)」は、椎葉村の奥、三方山に源を発し東へ流れる。宮崎平野を流れ、日向灘に注ぐ。耳川の早瀬を下り、日向灘へ悠然と入る。それがどんなに想像を超えた体験であったものか。「初めて海を見て驚く驚愕おどろきは全ての驚愕おどろきの中にあつて最も偉大な崇高なものであらうと思ふ」として書くのだ。
「眼の前の砂丘を越えて雪のやうな飛沫を散らしながら青々とうねり上る浪を見て、母の袖をしつかと捉りながら驚き懼れて、何ものなるかを問ふた。母は笑ひながら、あれは浪だと教へた。舟が岸に着くや母はわざ〳〵私を砂浜の方に導いて更に不思議に更に驚くべき海、大洋を教へてくれた。その時から今日まで、海は実に切つても切れぬ私の生命いのちの寂しい伴侶みちづれとなつて来てゐるのである」(「耳川と美々津」全集第十巻)
 けっして大袈裟ではない。ここであえて私事におよべば、むろん昭和も戦後ながら、これはそのまま北陸は奥越の山深くに育った筆者の正直な感想でもあるのだ。このときに初めて海を目にした洟垂れ小僧は大きく声を飲んだものだ。「えっけぇ(おおきい)!」
 渓から、海へ。そのことが現実になるのは、それからおよそ五年あとである。
明治二十九年、十一歳。坪谷尋常小学校を卒業。近くに高等小学校がなく四十キロ離れた延岡高等小学校に入学、故郷を離れる。県立延岡中学時代と合わせて八年間を当地で過ごすことになる。この間、文学に目覚め、各種紙誌に盛んに投稿。やがてもっぱら歌の道を歩み始めるようになる。明治三十四年、作歌を始めた年の一首にある。

家にいます母の寝醒や如何あらんあかつき寒き秋風の声 「秀才文壇」(明三四・一一)

 母恋しい。しかしもう戻れないのだ。渓恋しい。

 

Buck number


 若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。

 正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。