歩く人 牧水

歩く人

牧 水

「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」。―― 旅を愛し、酒を愛し、何より歌を愛した歌人若山牧水。43年の生涯で約9000首(未発表含む)の歌を残し、いまでも全国各地の多くの人々に愛されている。国民的歌人ともいえるその魅力、その源泉はどこにあるのか? 詩人の正津勉氏が、牧水を「歩く人」と、とらえなおし、旅の巨人、歌の巨人のたたずまいを探る。



  第四回(2017.05.29)

「海と、恋と」


 明治二十九年、十一歳。牧水は、故郷坪谷の峡谷を後にし、延岡高等小学校、延岡中学時代と合わせて八年間を当地で過ごす。この間、文学に目覚め、各種紙誌に短文、短歌、俳句を盛んに投稿。やがてもっぱら歌の道を歩み始めるようになる。しかしいまからみれば牧水の才をもってしても、ここでは引用しないが、それらはいまだ習作の域をでるものでなかった。
 牧水が、ほんとうに牧水になる。そこにはなによりも故郷と母からの、それこそ肉を引き剥がすほど、つよい離別が求められたのである。
 三十七年、十九歳。早稲田大学文学科高等予科に入学。医師の跡取りであればこの選択をめぐりはげしい両親の反対があったはずだ。それをなんとか説き伏せ言いくるめたか。
 四月、上京。いよいよふるさとの母と渓を背にすることになる。教室では北原白秋と親しくなり、のちに二回も下宿を共にする。また土岐ときぜん麿まろほかの知遇を得て文学的修練を積む。だがこの稿の性格からそのへんの詳しい経緯はおこう。
 ここで挙げるべきは恋である。牧水の一世一代の恋愛だ。二十代も初め誰もが恋に悩む年頃だ。われらが牧水も例外ではない。それどころかその恋はひどく悩ましくも狂おしいものであった。あらかじめ言っておこう。じつにこの恋が歌を詠ませるのだ。はては牧水を並ぶものもない稀な歌人にする。
 三十九年、二十一歳。六月、帰省の途次、神戸で偶然、とある女人と出会っている。園田小枝子である。このときは友人の仲立ちで知り合っただけだが、おそらく頻繁な音信が行き交ったのだろう。翌四十年春、突然に小夜子が上京、もうたちまち火が付いているのだ。
 牧水研究の第一人者、大悟法利雄『若山牧水伝』にある。
「(小枝子は)牧水よりも一つ年上である。生れたのは瀬戸内海のある海岸町、まことに不思議な両親をもち、まだ何もわからぬ幼女時代に既に幾回ともなくその戸籍が転々としているような数奇な運命の下に成人した。そして十六七歳ぐらいで結婚し、二人の子供さえもっていたが、胸を病み、家を離れて須磨の療養所に入った経験があった。……彼女はそれから家庭にかえらず、四十年の春あたり東京に出て来たのであるが、彼女は非常に美しかった」
 小枝子について、およそ子細なところは不明にする。牧水は、どことなく妖女めき妖しい「数奇な運命」の「非常に美し」い女人に惹かれてゆく。しかしこの六月、学生なればやむなく彼女をひとりおいて帰省することになる。ところで当時はまだ宮崎県には鉄道がない。阪神地方からは細島(現、日向市)阪神間を往復する海路によった。ときに恋に憑かれた牧水は胸内を歌に託する。

 白鳥しらとりかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 教科書に載る余りにも有名な歌。あきらかにこれはその船上でなったものだろう。「空の青海のあを」にも「染まずただよふ」ばかりの「白鳥」。いわずもがな牧水自身でこそあろう。
 またこの帰省に際し九月下旬の上京までの間に中国、九州、近畿の諸地域を旅した。このとき誰もが挙げるいま一つの歌を詠んでいる。

 幾山河越えさり行かば寂しさのてなむ国ぞ今日けふも旅ゆく

「幾山河越え……」。これは永遠の旅人たらんという宣言の一首である。
 掲歌のこの二首。辛い恋に喘ぐ者が吐いた胸のつかえ。おぼえずしらず溜息吐息さながらこぼれた三十一文字。それがそのまま生涯を物語る名歌となっていること。巷間に言う諺どおり、恋は人を詩人にする。それこそ牧水がそうだ。
 さらにもっと恋の火は燃え上がりやまない。この年末、二人は安房根本の海岸で十日余り滞在。その折の歌にある。

 ああ接吻くちづけうみそのままに行かずいかずとりひながら果てはてよいま
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざくちを君

 ほんとうにこの恋の海を真っ直ぐ詠む歌の輝きはどうだろう。まさに青春の絶唱である。だがこの恋愛については本稿の性格からやはり子細はおこう。ここでは一点にかぎり私見をおよぶ。
 じつはこの恋というと、いうならばあえてする母からの離反であったということだ。またこの際の海であるが、これはおなじように渓からの解放だったとみられる。おもうにそれは歌人誕生への大きな通過儀礼であったのだろう。
 小枝子。この素性の不明なる惑乱の女人。牧水は、この恋に文字通り溺れた。そうしてふるさの母とそしてたにから身を剥がさんと図ったとおぼしい。小枝子は、ときにさながら前章でみた、繁少年が幼時に「濡草鞋」なる他国者に空想した「世間といふもの」と「海といふもの」の、いわば化身だったのだろう。
 まだまだ苦しい恋の迷い旅はつづく。

 

Buck number


 若山牧水(一八八五〜一九二八)
草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日 これで三日履いて来た……。旅と、酒と、歌を、愛した歌びと。一世紀前の大歩行者。

 正津 勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。72年、第一詩集『惨事』(国文社)刊行。81年、米国オークランド大学客員詩人。代表的な詩集に『正津勉詩集』、『死ノ歌』(思潮社)があるほか、小説『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助』『河童芋銭』、評伝『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、エッセイ『脱力の人』(河出書房新社)『詩人の死』(東洋出版)など幅広い分野で執筆を行う。山関係の著述に詩集『嬉遊曲』『子供の領分|遊山譜』、評伝『山水の飄客 前田普羅』エッセイ『人はなぜ山を詠うのか』(アートアンドクラフツ)『山に遊ぶ 山を想う』(茗渓堂)ほか多数。近著に『乞食路通』(作品社)がある。