本に書かれていないモンテレッジォ(back)

本に書かれていないモンテレッジォ

本に書かれていないモンテレッジォ

第一回(2018.06.18)
初めてモンテレッジォに行ったときのこと

 去年の今頃は、何をしていたのだろう。
 遡ってみると、悩んでいた。『本の生まれた村』(『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』のHP連載時のタイトル)の連載が始まって、ようやく第2章を出稿したばかり。2月に村の紹介サイトを見つけて連絡し、対応してくれたジャコモとマッシミリアーノの好意のおかげで現地を訪問できたものの、手持ちの材料がない。日本に帰る前に、言ったからには実行しなくては、と猪突猛進で出かけてみたものの、村は文字通り(から)だった。あらかじめ念を押されてはいたものの、いっしょにいった人たちと私、村の入り口で会った熊のようなグリエルモ、数名の村人にバールでおいしいピッツァを作って出してくれたティツィアーノしかいない。人がいないので、暮らしの動線がない。
〈これは、書きようがないかも〉
 おいしいご飯をいっしょに食べて、楽しく日曜日を過ごしました。おしまい。
 日記なら、そう書くところだろう。

 どこかに行っても、メモはほとんど取らない。写真をポストイット代わりに使っている。ときおり数字はメモすることもあるけれど、重要な数字なら後でも調べられるものだ。初めての場所でも、行く前にあまり資料をあたったりしない。人に会うときは、失敬のない程度に可能なら著作などを読んでおくこともあるけれど、たいていは待ち合わせの住所だけを手に行く。初めて見聞きするときの印象が肝心で、メモを見なくても心に止めておくことがあればそれが重要、と思うからだ。
 そもそもモンテレッジォには資料がなかった。行く前からものになるのかどうかはわからないので、まずは行ってみるのである。風景写真の数枚でも撮り、ヴェネツィアのベルトーニさんに報告できればそれで十分かも。

 山の中の石畳だけの無人の村に着いて、ううむ、となった。去年のポストイット写真を見てみると、
〈困惑〉
〈メモのしようがない〉様子がありありだ。
 うつむいて歩いていたのだろうか。やたら足元の写真が多い。

 初めての場所に行くとき、もしここに自分が家を造るなら、という空想の住まいに目星を付ける。それでモンテレッジォでも、私ならここ、という家の写真を撮っている。廃屋。平屋。ひと間か二間かも。独りなのだから、それで十分。窓は必要。日当たりも良くないと。
 周囲の建物は限界集落だというのにきちんと手入れがしてあり、たとえ山奥でも高値に違いない、という印象だったからだ(もちろん買うつもりで探すのです)。
 これかしらね、と私が言うと、マッシミリアーノが
「ここもなかなかいいけれど、交渉に手間取るでしょう。何軒かお勧めがありますよ。僕もやっと家を手に入れて、修復が終わったばかり」
 あれです、と外から見せてくれた。

 イタリアでも日本でも景勝地のホテルでは、〈海が見えるサイド〉〈都会サイド(道に面していて騒々しい)〉など、窓からの借景が謳い文句になっていることが多い。モンテレッジォで不動産紹介業をするのは、セールスポイントが難しそうだ。全方位が山だからである。この村では、何が家選びのポイントになるのだろう。
〈私ならここかしらね〉
 と言ってみたのは、同行してくれたジャコモやマッシミリアーノへの社交辞令だったわけだけれど、いつも会う人が二人か三人だけ、というところで暮らすのはさすがに気が引ける。人と会って話していくら、が仕事の私にとって、この村に暮らすと相手は自分自身ということか。向き合う準備ができていない。
 表へ出て山に囲まれ、家に入って山に囲まれる。
 想像してみて、ああこれは、と思った。

〈島と同じではないの!〉
 私は島が好きなのです。
 着くのも発つのも、船がなければ難しい。しかしまた着いたら着いたで、閉ざされた空間での暮らしにはさまざまな制約がある。人間関係も難しい。どこにいても人間関係は各様にやっかいなのだけれど、島は閉ざされているので良くも悪くも凝縮され、実に濃厚な味わいになる。
 わけあって6年間船上生活をしたことがあり、島との縁は深かった。モンテレッジォを島として考えてみることにした。そうすると暮らし方や考え方もわかりやすいのかもしれない。
〈陸の孤島、とよく言うことだし〉
 そう単純なことではない。陸は陸で海は海、ということをだんだんに思い知ることになっていく。

書店員の皆様へ(2018.06.25)

書店員さん達からのお言葉はプリントアウトし、細かくたたんで守り札にします。
この話を本にまとめてお伝えできたことが光栄です。嬉しすぎ。
みなさん、どうもありがとうございます。
今日は雨です。
村の行商人達が嵐の中を本を運んだときのエピソードを思い出します。
宿賃を節約するためと、本を守るために馬の下で眠ったことや、湿らせないために回廊にリヤカーを置かせてもらう許可を得てそこで見張りをしながら寝たことなど。
やれ辛い、やれ暑い、やれ儲からない、やれいじめられた、など愚痴ったりしない。それより下がない、という暮らし。
一冊の本に助けてもらえるかもしれない人へ一刻も早く届けてやりたい、というミッションの気持ち。
日本の同業のみなさんからのお言葉をすべて、モンテレッジォに伝えます。
書店員さんたちからのお言葉は、山の子供達にとっての贈り物です。素晴らしいプレゼントをどうもありがとうございます。
家庭の事情で義務教育のあと、働きに出る子達がいます。日本で自分たちの先祖のことが紹介され、評価され、このようなお言葉をいただけて、あの子たちのこれからの強いエールになります。出自を恥じたり、寒村に生まれた運命を恨むようなところがありました。<そんなことは一切ない。どんな人にも役目と出番と意味はあります。皆にもあります!>
2017年12月16日に船橋からスカイプで小学校と繋がって、一人一人と話したのを思い出します。気を付け、の姿勢で立ち自己紹介をして、どの子もきれいな格好をしていた。
みなさんのことを必ず日本で話すので、村のことをみなさんも自慢できるよう見直してくださいよ、と言いました。
6歳のレオ!
じっと画面の向こうから見ていたのを思い出します。チビチビですよ、6歳は。
ありがとうございます!

内田洋子

第二回(2018.07.24)
栗の粉を水で捏ねるには、技が必要

教会と塔。周囲360度の緑は、すべて栗!
 山を掃除するマッシミリアーノ。

「初めての場所に行くとき、何からどのように取材しますか?」
 インタビューでよく尋ねられる。マスコミの同業者であっても、出版社や新聞社に所属している社員記者とフリーランスの記者とでは、仕事の仕方が異なる。
 フリーランスの記者でも、受注して取材に出る場合と自主的に動くときとでは、さらに異なる組み立てになる。私の場合は、後者。
 自営の通信社(写真と記事を日本のマスコミに売っています)なので、ネタの揃えが会社のブランドとなる。ネタは誰にも知られていないものをどこよりも早く掘り出して、記事にして売ることが商売の肝心要だ。有名な事件を後追いする方法もあるけれど、自分がニュースにして世に出せる頃にはすでに旬が終わってしまう。せっかちなので、耳にしたら、後先考えずにまず走る。私は疑り深いところがあり(職業病です)、自分で確かめてみるまでは信じない。
 モンテレッジォは、まさにそういう〈聞いた、走った、見た、驚いた、書いた〉の典型的なネタだった。いつもと違ったのは、行く先が古代だったり中世だったり、至近でも第二次世界大戦あたりだったりしたことである。

驚きの! 黄緑色のものは、ネキのみじん切りです。

「これを食べると、気持ちがね、小学校の夏休みに飛ぶんだよ」
 目の前の料理は、すみませんが、美しくなかった。手で()ねたのがあまりに明白な、不揃いの小さな塊は灰色がかった茶色をしている。市販されている乾麺だけでも、常時イタリアには400種余りのパスタがあるとされている。手打ちパスタも入れると、料理好きの数だけの種類があるだろう。
 現存するほとんどのパスタを食べてきた、とひそかな自信があったが(あるときマスコミにほとほと嫌気がさしてしまい、ふつりと止めて、それから十数年間イタリアで農業に従事していたことがありました)、これは初めてだった。

 栗の粉を水で練り、丸めただけのパスタは寂しい外見だったが、ひと口噛み締めると、どうだろう!?

 天を仰いても栗。

 じわりと甘く、噛むとほんのり塩味がする。ころんとした塊の表面は、塩茹でしたときにやや溶け、とろりと本体に絡まっている。噛み締めれば噛み締めるほど、栗の味が奥の方から滲み出てくる。

 周囲に栗の木、口の中に栗の粉。
 皿の上に残った、栗ニョッキから溶け出た粉とオイルをパンをちぎって拭った。それだけでも十分に滋味深い味だった。無駄なものを省いた後に残るのは、核心だ。料理もその通り。栗の粉と水と塩だけで作った料理は、相当の自信がないと出せないはず。

 モンテレッジォ村の人たちの、この揺るぎない確信は単なる唯我独尊なのか。あるいは、頑固な純朴者なのか。

若いときは、栗って、実は青々しい柔らかな皮なのですね。

 この一帯にある他の山村には、どんな郷土料理があるのだろう。
 肉も魚どころか、野菜すら栗の粉のニョッキには合わされていなかったのに、食べ終えると福々とした気持ちになった。
「ね、幸せになるでしょう? 栗のニョッキ!」
 シンプルであればあるほど、どこにでも誰とでもいつでも溶け込めるものだ。記憶に残るのも、凝ったものではなく単純明快なものだろう。
 そうか。モンテレッジォ村の人々は栗なのだ。
 イガで防御し内に硬く身を潜めるが、いったん殻を破り外面を剥くと、ほっこりと甘い中身が出てくる。

第三回(2018.08.10)
聴く人たち

 本にまとまるまで、いくつもの過程がある。自分のやる気や時間、経済的な事情もさることながら、最も重要なのは見聞きしたことを話す相手がいるかどうか、だと思う。それから、私の場合は締め切り。

 日本に帰る二日前に行ったモンテレッジォ村は、どう転ぶかわからないままだったが、〈掘ればきっと何か出てくる〉という強い印象が残った。それまで見たことがあった、離島の内陸部や鉄道の通っていない山岳部とまったく異なったのは、道の敷石に至るまでモンテレッジォは丁寧に手入れが行き届き、〈実際には村にいなくても、いる〉という気配が濃厚に感じられた点だった。
 現在の住人は32人(うち90代が4人、新生児が2人)なのに、毎日村の入り口にあるバールは開業している。リグリアのある山奥に暮らしたとき、そこは300名くらいの人口だったが、バールはなかった。
「コーヒーなど、家で飲めばいいだろ?」
 吝嗇で有名な土地柄そのものの返事に、異郷へ来たことを実感したものだった。
 ところが、モンテレッジォのバールはいつも開いている。店主はティツィアーノとサンドロが交互に引き受けている。

 店に入るとすぐ右側に小さなカウンターがある。二人も並べばいっぱいだ。カウンターを挟んで、流し台、端にレジと並ぶ。背後には四人掛けのテーブルが⒋、5卓ランダムに配してある。
 ところが、店にはいつも客がいる。歩ける人は、時間ができると店に寄る。バールであって、バールでない。そこは居間であり、会議室であり、待合室、遊戯所、荷物預かり所、交番だった。医者も銀行も薬局も学校もない村で、寄り合う場はライフラインも兼ねている。数百年に渡っての付き合いだ。人間関係は濃厚だろうが、難しいこともあるだろう。
 プレスの効いたシャツの袖口を、定規で計ったように同幅に折り返し、自家製ピッツァを出してくれたティツィアーノは、私が何か尋ねない限り、自分からはひと言も話さない。いるけれどいない、というこの手のタイプの人は、都会のカウンター向こうに多い。冷たいようで、実はいつも待機している。
 〈まるで東京やミラノのショットバーに来たみたい〉
 私が思わず言うと、そうですか、という目を一瞬こちらに合わせて、
 「私は、ミラノから移住してきた者です」
 ティツィアーノが訳ありに短く答えた。初めて会ううえ、これからまたミラノにマッシミリアーノたちと帰る間際である。〈いったいなぜ〉〈いつから〉〈ミラノでは何を?〉と、次々に尋ねてみたかったが堪えた。代わりに、

〈あの、すみませんが、しばらく村に住んでみたいので家探しを手伝ってもらえませんか〉
 と言ってみた。バールは、村の情報拠点なのだ。〈求む貸家〉の貼り紙のつもりだった。
 おう、と、彼は一瞬驚いたがすぐ、
「わかりました。いくつか心当たりがあります。話してみましょう」
〈それでは、ミラノの話はそのときにまた〉
 暇乞いのコーヒーを飲み、ミラノへ発った。
 ネタになりそうだが、その在り処がまだ見えてこない。そういう状況で材料について話す相手がいるかどうかで、原稿の運命は決まる。
 誰に話そうか。
 東京に戻って、ある書店員さんに村のことを話した。『本屋大賞』に関わる人で、モンテレッジォというイタリアの奥地で同じ趣旨の文学賞がある、ということをぜひ知らせたかったからだ。
 私から話を聞くとその人は早速、Premio Bancarella(露天商賞)のサイトを見てみたという。
「イタリア語なのでよくわかりませんでした。でも知りたい。ぜひ調べて、書いて!」

 高速道路を降りた道角にいたヘミングウエイの顔が浮かぶ。
〈Vai Yoko, vai! (Go Yoko, go!)〉
 村のことをちょっと書いてみてもいいですか、とジャコモとマッシミリアーノにメールで打診すると、間髪を入れずにそう返事が来た。
 1行だけの返答はエールだ。いや、消えゆく村に何かとっかかりができるかもしれない、という悲願だ。
〈行け!〉を胸に、話を聞いてくれそうな人を思い浮かべてみる。

 そして最初に訪ねたのが、方丈社だった。生まれたてで、ノンフィクションを刊行する。 四人で囲むといっぱいになる机について、窓を向いて座る編集者と営業担当者の背を見ながら、訪れてきたばかりのモンテレッジォ村のことを社長と編集者に話し始めた。ほとんど何も知らないというのに。
 それでも二人は、「ほう!」とか「へえ!」を話の合間に挟んでは、延々と続く私の報告を丁寧に聞いてくれた。
 ネタの表面を掠っただけなので、広く深く説明できない。しかし
話を聞いてもらっているうちに、どの部分をどう調べると話になるのかが見えてくる。心の中でメモする。話を続ける。質問が出る。答えられない。勉強するべき分野が出てくる。心にメモ。聞き役の短い感想から、イタリア屋の自分には明白なことであっても、日本ではあまり認識されていないことがあるのを知る。心の中に留め置く。

 二時間余り話しに話して、二人はただひたすら聞いてくれたのだった。
「連載で行きましょう」
 本にするために。本を売る人たち、読む人たち、作る人たちに勇気を出してもらうために。
 話し終えた私に、社長が言った。
 どうしよう。
 二人とは嬉々満面で別れたものの、帰路の電車内で俯いた。心に留め置いたメモは膨大でかつ広範囲だった。
〈行け、ヨーコ! 行け!〉
 連載が決まった、と報告すると、
あっという間に各地に散らばる村人たちに一斉に転送され、異口同音に返事があった。
 取材し終えるのはいつになるのか皆目見当が付かない。ならば、同時進行で書いてみよう。締め切りごとにネタが揃うのかまったくわからなかったけれど、GOなのだ。
 東京で待っていてくれる編集者と社長を拠点に、探検へ出発する気分だった。

第四回(2018.09.03)
村のDNA

 連載が決まって、喉元に心臓が上がる。五臓六腑がフツフツと音を立てるような感じ。肝を据えて、とはよく言ったものだ。

 実際にモンテレッジォ村を訪れるまでは、さまざまな家族の歴史を並列に書き、〈同時進行で読む、あるイタリアの歴史〉という構成にすればよいのではないか、と漠然と考えていた。本を主軸にした、村人たちのサガ。大きなショッピングモールに並ぶ個々のショップの品々をひとつずつ見ていく感じ、か。
 ところが実際に行ってみると、もちろん村人たちの話は十人十色で興味深いのだが、今生きている人たちが自慢に思うのは自分たちの父であり祖父であり、祖先だった。自慢に思う理由は、毎年春になると家族のために働き、それがやがて本の行商へと移ったときには、読者と出版社が追加されて、変わらず黙々と働いたことだった。
 立身出世した特別なリーダーがいて皆がその後をついていった、ということでもないらしかった。村人はまとまって、代が変わっても迷うことなく本を売り歩き続けた。モンテレッジォ村のDNAと考えようか。『種の起源』を思う。過去にはさまざまな植生があった周囲の山々は、現在は栗が単種で植生している。土壌や気候との相性、運、同種だけで生存していく楽さと難しさを想像する。長い時間の流れの中でみれば、昆虫も植物も牛馬も、そして人間も世界を作る要素のひとつだ。植物は水と太陽に合わせ、微生物や昆虫、動物が生態系を作る。そして人間。世知以前に、この地で生きるということの根源を探れば、モンテレッジォの人たちの骨肉を成すものがわかるのではないか。
 直接に会って話せる相手はごく限られている。でもそれだからよりわかりやすいのではないか。会える人こそ、この地のエキスだと思おう。
 事件が起こって取材する、という方法ではなく、まるで植物や鉱物、動物、気象の調査員の気持ちになった。環境調査のような、あるいは考古学の遺跡発掘のような。標本採集に行こう。あるときはルーペで微に入り細に入り、またあるときは目を閉じて指先で触れるだけ。六感での第一印象を原稿にしよう。これは、歴史という樹海に分け入っていく探検なのだから。

 瞬時の印象をメモするとその言葉で感想が固定してしまうかも、と写真を撮った。子供達と会うかもしれないので、ポラロイドも用意した。今の子達はイタリアでも、昭和っぽいモノに弱い。会って、その場で撮り合い、すぐに写真が出てくる。余白に日付とひと言書き、相手にプレゼントする(渡す前に、ポラロイド写真をデジカメで記録しておくけれど)。するとお互い、撮影したときのことはけっして忘れないものだ。

今なのにもう〈昔〉になってしまった、今日の出会いのことを。
 名刺入れに入るサイズなのが取材資料的には、また最高。

「次回、村にいらっしゃるときは、うちでアルバムをぜひご覧ください」


 バールの店外に出したテーブルに陣取り、朝から前を通る子供達とポラロイドごっこをしているのを隣席からずっとニコニコと見ていた、セルジォが言った。ジャコモの父。90歳。彼ひとりで、三章分くらいの話が聞けそうだった。モンテレッジォ初心者の私には、ハードルが高過ぎる。
 夏の本祭り頃にぜひ!

 記念に夫人と並んで写真を撮った。

 「私の話もなかなか面白いのよ」

 ジャコモの母が、写されながらそう言った。


 たしかに。同じ歴史でも、男から見た版と女版がある。


第五回(2018.10.01)
ヴェルディが守ったこと

 仕事柄、交通手段を見つけて切符を購入したり、宿の手配をするのは日常茶飯のこと。アクセスが良い場所に行くときは、行きの電車だけ手配して後は到着してから探すことが多い

モンテレッジォから北を見る。山の向こうに大農地が広がる

 さて、モンテレッジォ。山の奥。車で行くと楽々だが、距離感は実感しにくい。地形も掴めない。大きな農地、高い山々とひと続きの風景のようで、土地ごとにある風土の違いを感じられないままに境を越えてしまう。電車やバスの時刻に拘束されないという利便性と引き換えに、見逃す要素は多い。小さなニュアンスにこそ、書くヒントが隠れていることが多い。行間というか、空気というか。本を担いで北上した村人たちが見た風景を味わうには、自分も同じように歩いてみればいい。

ピアチェンツァからパルマへの農地

「無理でしょう。ほとんどが獣道になっていますからね」
 張り切る私をマッシミリアーノは笑った。村から栗の木々の間を這い登り、道なき道を毎日走ってしている彼は、栗の実の棚卸ができるのではないかと思うくらいに山々の状況を把握している。両親は村に住まなかった。村から北上していく途中にある町に、取次や出版社を興した五人組を先祖に持つマッシミリアーノは、その町ピアチェンツァで生まれて育った。

ピアチェンツァの麦。見渡す限りの地の恵み

 偶然だが、私も二十数年前にピアチェンツァ郊外の荘園領主の元領地に建つ田舎家に暮らしたことがあった。ミラノから車で一時間もかからないのに、大自然が広がり、イタリアの中でも最も温和で朗らかな気質だとされる人々が暮らす土地だった。地名はあるものの人家は数軒で、広大なピアチェンツァ一帯のこと、マッシミリアーノに言っても知らないだろう、と思っていた。
「もちろん知っていますよ! じゃあ仲間ですね!」
 息を吐く間も惜しいように、次々と郷土料理の名前を挙げた。味覚の故郷が同じだと、それだけで大きく安堵する。主義主張まで同じような気がするのが面白い。

ピアチェンツァ一帯は、イタリアの味覚の起点。パルメザンチーズ、リコッタ、旬の青菜などを詰めて焼いたパイ

「それでもやはり、僕の味蕾はモンテレッジォの素朴な料理です」
 マッシミリアーノは、ミラノに出て大学では法学を勉強した。弁護士資格を有する。ミラノの弁護士に多い、論法では常に先手を打ち相手に隙を見せない、あの独特な尖った感じが彼には少しもない。仕事は何を、と問うと、
「〈ヴェルディの家〉で働いています」
 言われてびっくりした。難関のミラノ国立大学法学部を出て、競合の多い法曹関係の生え抜きかと想像していたからだ。モンテレッジォの村興しのために民間企業から協賛金を得たり運営したりするのは簡単ではなく、長けた人間力と管理能力が必要なはずだ。ほぼ一人で担っていると聞いて、広告代理店などで働いているかと考えていた。

正面に見えるのが、ヴェルディ夫妻の霊廟

 ヴェルディ?! あの音楽の?
「たまたま募集がある、と聞きましてね」
 受けたら、採用された。管財やさまざまな契約の管理を任されている。
〈ヴェルディの家〉は、ミラノにある。
 ジュゼッペ・ヴェルディは音楽家としてだけではなく、朗々と雄大な音楽で民心をまとめて、イタリアがひとつの国家となるよう導いた功労者でもある。ピアチェンツァの近くにあるレ・ロンコーレという小さな農村で生まれた。父は農業に従事。ヴェルディの音楽の原点は、この大地を取り巻く自然にある。

<ヴェルディの家>の憩いのコーナー

 イタリアの父、とも呼ばれるヴェルディは、自分の没した後に入る著作権なども含めた遺産で、家族に恵まれなかった音楽関係者のために終焉の住処と病院を建てるよう言い残した。自身が幼子と妻を病気で次々と失い、どん底の悲しみを味わった。音楽に身を捧げて、家庭を築かずに老いる人は多い。ヴェルディは孤り取り残された者の哀しみを、彼らが愛した音楽で労い看送ってやろう、と考えたのかもしれない。それが〈ヴェルディの家〉である。
 中庭の緑の影に包まれた屋内へ入ると、二百年前に飛ぶ。板敷きの温かみのあるコンサートホールは、声楽や楽器演奏の練習所や礼拝堂も兼ねている。建物は廊下続きで隠居音楽家たちの個室や大道具を作る部屋、衣装部屋、食堂、談話室、遊戯室と並び、ヴェルディ博物館を階下に控え病棟へと続く。丁寧に手入れのされた中庭があり、花壇向こうに霊廟。ヴェルディと後添えの妻が祀られている。コンサートホールの演奏や歌声は館内を粛々と流れ、中庭に舞い、霊廟へと静かに下りていく。

ジュゼッペ・ヴェルディの墓

 音楽を愛する人たちの憩いの空間であり、またその思いが墓参りのようにヴェルディにも届く。

 ああ、と感じ入る。

ミラノ中央駅

 豊穣の大地は、イタリアの心意気だ。ヴェルディは自分の生きて得た悲喜こもごもを音楽を通して還元したのだろう。得たものを分かつ。苦しいことも嬉しいことも。
 そういう大地をモンテレッジォの人たちは耕し、枯れたらそこへ根を張ろうとし、あるいは自分の足で踏みしめて乗り越え、各地へ行った。より多くの人たちと分けるために。

「ミラノから鈍行を乗り継いで来てみるといいですよ。旧荘園を縦断しますからね」
 マッシミリアーノに言われて、ミラノから電車に乗った。帰りの切符も宿も取らずに。

 鈍行はよく揺れた。ミラノを出て少し走ると、車窓からの風景は絵を貼ったように変わらない。停車駅ごとに、乗り込んでくる客が連れてくる匂いが少しずつ違った。乗り続ける人は私の他にはなく、乗っては降りてが続く。小物をスーパーマーケットのビニール袋や景品なのだろう、商品名が書かれたナップザックだけを手荷物に、自転車のように電車を使っている。

乗り換えの駅フィデンツァ。温泉ツアーのブームがあった

 乗り換えのために降りた駅は、昔から湯治で知られた温泉郷の近くだ。二時間近くある待ち時間に、駅を出て周辺を歩いてみる。
 駅舎には、〈温泉バカンス百周年記念〉と題した観光旅行の参加募集のポスターが貼ってある。温泉があるということは火山か。土壌がこれだけ豊かなのは、火山灰土ということもあるのかもしれない。

フィデンツァ駅の機械室にヴェルディの肖像画が!

地震もあるのか、と思いながら、アペニン山脈の古い村がつい最近地震で大きく損壊したことを思い出す。モンテレッジォとは同じ山脈続きだ。深い緑を抱いたまま、イタリアの背骨と呼ばれる山脈が開かれてこなかった背景を改めて思う。
 大地から湯が湧く。イタリアでは、治療目的で〈温泉休暇〉という有給が認められている。最長15日間。

<温泉休暇>の歴史展ポスターが、フィデンツァ駅に貼ってある

 そういえば、古代ローマ時代に遡っても、イタリアの人たちは風呂好きなのだったな。ローマ皇帝たちは、海を越えてアフリカやギリシャまで眺めの良い場所に湧く湯の源を探しにいっていた。今は農地となったこの一帯にも、ローマ皇帝に命じられて温泉探しをした者たちがやってきたかもしれない。
 馬の高い嘶きと蹄の音が聞こえてくるようだ。
 人々の心身を癒し、満たす。
 真の滋養を生む大地で働いた、歩いた村の人たちを思う。


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