デカメロン2020を待ちながら(Back)

デカメロン2020を待ちながら

朝日新聞、朝日新聞出版、イタリア文化会館、伊日財団、講談社、Jwave、集英社、集英社インターナショナル、週刊読書人、小学館、せとうちスタイル、東京創元社、ハルメク、文藝春秋、ほぼ日、読売新聞のご各位、<デカメロン2020>の24人の若者やこの連載をご紹介してくださり心からお礼申し上げます。
(敬称略、五十音順)

内田洋子
株式会社 方丈社


「24人から届いた20万字の「ラブリーレター」へ、今度は私が返事を書きます」(内田洋子さん)

ジョヴァンニ・ボッカチォの古典『デカメロン』のリアル・イタリア版として好評をいただいた連載『デカメロン2020』は、緊急事態宣言の緩和とともに、4月28日の日記をもって終了しました。
悩み、笑い、悲しみながらも希望をつないで書き続けた24人の若者たちは、その後どんな思いを持ち、どう過ごしているのか――。来る日も来る日もコロナ禍からの再出発を待っていた若者たち。
未来へ続く「小さな声」をつむぐエッセイです。



<Sie de matina>
©Soul Spritz Duo/Pietro Gallina & Danilo Maggi, 2015
Special thanks to: Dodo Cafe’ - Venezia, Italy


ヴェネツィアの運河からの船上ライブ
INDIEMOOD SESSIONS
©Video in exclusive for Rockol in collaboration with
Associazione Culturale Galleggiante Venice On Board,
Sonicyut & En Music Production, 2019
企画・運営:Francesca Chizzola 
撮影:Matteo Prodan
音声:Enrico Scussat


第1回(2020.06.22)
小さな声が重なり大きな歴史となる

 2020年の前半が終わろうとしている。瞬時だったのか、時はうしろで止まったままなのか。朝起きると、昨日よりも大変な1日が待ち構えている。新しい日を迎える楽しみがない毎日が続いた。
「その瞬間を逃さないこと。今日は昨日よりすばらしくて、明日よりはよくない、と考えること。そういうことを学んだの」
 いつ来るのかわからない明日を待ちくたびれた頃、アレッシアからメッセージが送られてきた。<デカメロン2020>に書いていた高校生だ。17歳になったばかり。モンテレッジォという、トスカーナ州の奥深い山の村に住んでいる。話し相手は、栗の木と石と空しかないようなところだ。
 少しあいだを置いて、シモーネからメッセージが届く。
「今ミラノに戻るのは終わりでも始まりでもなく、僕の道への一歩だ(前進か後退か、わからない)。未来に何を期待したらいいのだろう」。ロックダウンが解かれて、下宿先のヴェネツィアからミラノの実家へ帰る車中かららしい。車窓の中を斜めうしろへ雨が流れる。
「書きたいことがあるから、もう少し待っていてくれる? 今、羊飼いといっしょに内陸を移動しているところ!」。サルデーニャ島から、アニェーゼが短いメッセージを連打してくる。外出解禁になって、どこまで行ったのだろう。たくさんの特別を見聞きしたのだろう、きっと。目の届く限り続く草原と数千頭の羊。突然、現れる岩だらけの景色を思い出す。
 日本の夜が更けると、メッセージ着信のマークが点き、開けて読み、読んでいる端から次が届く。各地からの声無き言葉は、低く、でも途切れない。暗い海に向かって港口を知らせるために灯っては消える、灯台の光のようだ。24人が送る合図は短く、静かに繰り返す。気を付けて見ていないと、毎日流れてくる情報の波に飲み込まれて見失ってしまう。
 私の役割は、いつもそこに居て、もれなく受け取ることだった。
 1行しか書けない人がいる。大きな余白とともに送られてくる。かと思えば、毎日ページいっぱいの気持ちを送り続ける人もいる。「今日はこれだけ」。空ばかり撮る青年。鳥や犬の鳴き声だけのヴォイスメッセージが入る。あれ食べた、これも飲んだ。
 イタリアからの毎日の言葉を順々に読み、粛々と日本語にする。句読点も変えない。言葉の重複や行換えもそのままに訳す。延々と途切れのない文。終わりにしたくないのかな。訳しながら息苦しくなる。ニコニコ顔の絵文字だけの回のあと、ぱったりと連絡が途絶える青年がいる。どうしたのか。じっと待つ。
 あたりまえのことや焦点の合わない写真、雑音、余白が、私の手元に溜まっていく。
 言葉にならない気持ちは、残らない。
 私が40年余り続けてきた時事報道では、記事になるのは重大で、過激な、名の知れたできごとだけだった。でも、それでいいのだろうか。
 世の中は、普通の人々の毎日の繰り返しでできている。小さな声が重なって、今がある。当たり前かもしれないが、歴史は大事件の連なりだけではないのだ。

 ヴェネツィアに住んでいた頃、干潟も含めてあちこちに国立公文書館があるのを知った。大きな建物がどれも満杯だという。共和国時代にさかのぼる、千年分のヴェネツィアの公的な記録を収蔵している。民事や刑事の係争にはじまり、税務や不動産登記簿、治政に関わるすべての議事録が収められている。その数量は、収納書棚を並べると70キロメートルにも及ぶという。どの国にも公文書館はあるが、ヴェネツィアの所蔵数量は世界最多を誇る。
 散歩の途中で通りかかると、公文書館の玄関扉が開いていた。覗き込んで声をかけると奥から青年が出てきて、
「ここは、過去から未来への旅の入り口なんです」
 うれしくてたまらない、という研究者の顔で言った。今でも専属の専門家達が常在し、丹念に千年の記録を整理して守っている。
 公文書館に残された1600年代の領収書は、1枚の紙切れにすぎないかもしれない。しかしそこに記されるのは、成立した交渉ごとの証であり誰かが手にした幸運の記念だ。一片の紙の向こうには、記録に残らなかった大勢の人々の声がある。

 2020年、疫病がやってきた。世の中が同じ理由で、大きな試練に面している。たくさんの消してはならない声がある。


第2回(2020.06.29)
いくつものミラノが待つ店


 いつもそばにいた大切な人やペット、物が、ある日消えてしまう。次の日から、周囲の景色が変わる。失ったピースに、代えはない。穴が空いたまま四季を一巡し、しかたなく、いなくなってからの毎日がこれからの日常の風景になっていく。
 前と今、これから。いくつもの時間が並び、進む。パラレルワールドのように。

 2020年1月30日、イタリアのローマで、ヨーロッパで最初の新型コロナウイルス感染者が出た。3月に全土封鎖令が発動されたものの感染拡大は収まらず、連日1,000人を超す死者が続出する事態に陥った。イタリアには、人口1,000人未満の町村が2,000近くある。毎日ひとつずつ、小さな村が丸ごと消滅していったようなものだった。
「イタリアの医療が優れておらず、医療崩壊が起きたからでしょう」
 そう一次元には言えない。北イタリアの医療水準は、欧州連合と同レベルである。その証拠に平均健康寿命は長く、日本に次いで長寿世界2位だ。しかし近年の財政困難により、非常時に備えての数千単位でのICUベッドや人工呼吸器の用意は十分ではなかった。さらに、当初、感染症対応がまだできていなかった病院にも病人が行っために、医師や看護師が感染し医療施設自体が感染源となってしまった。
 また、多くのイタリアの家庭では、週末ごとに2、3世代が集まって食事をする習慣がある。親の近くに住んだり、同居の率も高い。祖父母が孫を学校へ送り迎えもし、放課後もいっしょに過ごす。結果的に、重症化しやすく致死率も高い老人から先に感染が広まっていった。イタリアの長所である家族主義と温かな人間関係も、あだとなったところもあるかもしれない。

 厳しい状況が続くある朝現地のニュースを見ていると、ウイルス感染専門医とアナウンサーの一問一答が流れてきた。
――先生、私達は、これからどのように挨拶すればよいのでしょう? もう抱きしめたり、頬にキスしたりできないのでしょうか。
 医師はふと黙り、
「愛情いっぱいの挨拶があってこそのイタリア、ですのにね……」
 いったん口をつぐんでから、
「健康なイタリアに戻れるよう、大切な人のために我慢しましょう」 
 カメラに自ら頬を寄せるようにして、笑った。

 祖父は病み、在宅で祖母が看ている。通りを挟んだ向いに住んでいるのに、会いに行けない。「永遠に祖父母といっしょにいられるわけではないのに」。アレッシアはとうとう堪えきれなくなって、自宅に居ながらもさらに自主的に厳しい隔離をしたあと、全身を消毒して祖父母に会いに行く。「祖母の焼くパンは最高」。レシピと焼きたてのパンの写真が送られてくる。

2020年6月20日撮影/Alessia Antoniotti    


 匂いは、遠くの記憶に連れていってくれる。
 私はふだん、ミラノの南部に住んでいる。運河が残る古い地区だ。郊外へ続く道沿いに、古い店が並ぶ商店街がある。歴史ある、といっても高級な銘品を扱うような店ではなく、ごくあたりまえの生活必需品を売る店ばかりだ。一帯は、職人が工房を兼ねて住んだ下町だった。パン屋や惣菜店は店の奥が厨房になっていて、そこで店主が手作りしたものを店頭に並べて売っている。今でも裏表のないあけっぴろげで気やすい雰囲気が残っている。
 私は、毎日の買い物をこの商店街で済ませてきた。焼きたてのパンで買い物をしめくくるとほんのりと温かい紙袋を抱えて、きまって立ち寄る店があった。
 文房具店。創業して百年余り。
 女店主は3代目で、その本人が当時すでに80歳を超えていた。小さな店で、入ると甘い匂いがした。カウンターはガラスケースになっていて、その向こうに女店主がひとりで立ち、客の注文をていねいに聞いた。近所には新しい事務用品店もあるのだが、遠くからこの店まで鉛筆やノートを買いに来る人たちがいた。老いた女店主は、界隈の皆の母であり祖母だった。
 天井までの造り付けの何段もの引き出しは木製で、封筒やノート、包装紙、ハトロン紙や画用紙など、ありとあらゆる紙の商品が折れ曲がらないように薄い引き出しに整理されている。
 母親に手を引かれて入ってきた男の子は、やっとカウンターに頭が届くかという小さな身体を緊張で固くしている。
 女店主は、今どきこんな、と思うような昔風の絵が表紙になったノートを引き出しから取り出した。
「お母さんも小さいとき、このノートで勉強したのよ!」
 光が差したような笑顔になり、母親は言った。
 店の引き出しには、いくつものミラノが静かに重なっていた。親は子供に同行するふりをして、<あの日>に会いに来ていたのかもしれない。
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第3回(2020.07.06)
ネコは疫病の守り神

 2020年2月25日の午後、北イタリアの3州が<感染拡大危険地域>に指定され翌日にも移動規制がかかる、と報道されると、数時間後には町から食料品が消えた。
 <ちょっと、これ見て!>
 ミラノの友人から、携帯電話に写真が送られてきた。郊外に住む彼女は、夫婦共働きで2人の子供がいる。ふだんは週に一度程度、まとめ買いをしている。移動制限の発動に備えて、帰路、スーパーマーケットへ車で寄った。市街地から遠く、車でないと行けない場所にある。でも、旗艦店で品揃えも豊富。本から衣料品を含む日用雑貨全般に家電まで扱っている。念のために買い置きを少々、と立ち寄ったのである。

©UNO Associates Inc.

 送られてきた画面の中には、商品が何ひとつ残っていない棚が写っていた。一角だけではなく、店舗丸ごとが空っぽなのだった。
  ミラノに始まったパニックは、たちまち北部各地にも広まった。
 それでも、買いに行ける人はまだよかった。感染予防のためにクレジットカードや電子支払いが義務付けれらると、現金しか持たない人々は文字通り干上がった。さらにロックダウンが数週間に及ぶと、仕事を失い生活が立ち行かなくなる人が激増。政府から給付されるはずの買い物引き換え券は、待てども届かない。感染リスクが高いため外出はご法度の高齢者や、幼児を抱えたひとり親はどうなる。
 経済、年齢、健康、家庭環境など、あらゆる類いの弱者からまず、窮していった。
 教会などによる炊き出しや配給のほかに、路上に置いたカゴへ缶詰や乾物の食料品を入れていく助け合いが自然と広まったり、個人の善意でパスタひと袋、オイル1本というふうに余分に買い物をし食料品店へ置いていく救済のしくみが民間に自然に生まれたりして、急場をしのいだ。

©UNO Associates Inc.

 弱者は、人間だけではなかった。
 観光客がいなくなって飲食店も閉まり、残飯の消えたヴェネツィアのカモメは飢え、杭に留まり買い物帰りの人の提げ袋を虎視眈々と狙っている。肉食のカモメも混じっている。いよいよ食い詰めたら、小動物など一撃で丸呑みだろう。
 ついに路地奥までにもカモメが餌を求めて飛んでくるようになった頃、岸壁の縁沿いに動物保護団体により、餌が置かれるようになった。保護する目的も当然のことながら、カモメを救う深意はネコにあった。空腹に耐えかねたカモメに、よもやネコが襲われてはならない。ネコは、住民が共有する宝物だからである。

©UNO Associates Inc.

 海運業で繁栄していたヴェネツィア共和国は、13世紀から東方の異国と往来する船団には必ずネコを同乗させてきた。積載する荷をネズミから守るためである。単なる小動物としてではなく、正式な乗船メンバーとして名簿に記載された。船の守り神として最大の敬意を払われ、ネコの世話を専属にする船乗りが選ばれて同乗した。
  そして14世紀後半、ヴェネツィアはペストの大流行に襲われる。ネズミを介して疫病が感染するとされ、共和国総督はわざわざパレスチナとシリアから攻撃的な特質を持つ猫種、トラ猫を輸入した。ネズミがあふれるヴェネツィアでは、ネコは感染拡大を抑えるための国策だったのである。
 以来どの時代にもネコはヴェネツィアの魔除けの守り神となり、野良ネコであっても最良の環境で暮らせるように、常に保護団体が世話を続けている。

©UNO Associates Inc.

 離島ジュデッカ島に住んでいた頃、私は毎朝、島内の市立図書館へ通っていた。
 運河沿いの道を折れ路地に入ると、いつもきまってあちらに茶色、向こうに黒、その先にはまだらのネコが寝そべっていた。冬の朝は陽溜まりに、夏は路地沿いの家の庭木が落とす影に、ネコたちはじっとしていた。同じ道を、2列に並んで手を繋いだ幼児達が歩いていく。「ネコだ!」「あ、ミャー!」「ゴロゴロゴロ」。次々と上がる歓声に、ネコは身じろぎもしない。その脇を近所の住人だろうか、プラスチック容器を持った老人が通り、小声で何かネコに話しかけながら容器から小皿に取り分けた餌をネコのそばへ置いていく。
 供物を前にしたネコたちは、目を開いて私が通り過ぎるのをじっと待っていた。ネコの途切れた先に、図書館はあった。
 <今日もネコが皆さんを待っていたでしょう? ネコの自由に敬意を払いましょうね。もし怪我や病気のネコを見かけたら、すぐ図書館までお知しらせください。

ヴェネツィア市役所>

 図書館の玄関には、そう貼り紙がしてあった。


第4回(2020.07.13)
心が荒れるのも生きている証拠

©GlobalNews 2020年3月14日配信

 3月末、ロックダウンが続くイタリアで、あらかじめ決めておいた時間にバルコニーや窓の前に立ち、人々が揃って歌った日があった。
 「こんな時勢でも、イタリア人は陽気だよな」
 皆が声を張り上げて歌う様子がニュースで流れると、他国はそう驚いた。言外に、暢気に歌っている場合なのか、と揶揄する調子があった。
 その日、約束の夕食時に合わせて、私もビデオ電話でイタリア各地を順々に訪れては様子を見ていた。窓際で、歌に合わせて鍋をお玉で叩いたり鍋ぶたをシンバルのように鳴らしたりする老女がいる。自分は歌わないけれど、バルコニーに立ち周囲を見ている人がいる。突然、中庭に向かって朗々と独唱を始める男性がいる。たちまち、「うるせえ!」バーン! 窓を閉める音が続く。両隣からは苦笑いが聞こえてくる。こちらの窓で振る手に、あちらのバルコニーからは高く上げた両手で<OK>が返ってくる。
 付き合いはないけれど、あの家では老夫妻が二人きりで暮らしているのを知っている。以前から、怒声や言い争いの絶えない家がある。向かいのベランダには、数日前からの洗濯物が干し放しだ。生まれたばかりの赤ちゃん。寝たきりの病人。共同生活の下宿生達。
 歌は、互いの安否を確かめ合うためなのだった。
 バルコニーと窓と同じ数の生活がある。

 ローマの高校生シルヴィアは、いい年をした大人達がバルコニーに出て、声を張り上げて国歌を斉唱したり旗を振り合ったりする意味が、まったく理解できなかった。「芝居じみてる」。同調などまっぴらごめん、と思っていた。
 疫病前からシルヴィアは、住んでいる建物の屋上に出て、景色を眺めたり考えごとをしたりするのが好きだった。屋上は住人全員の共有スペースで、シーツのような大きな洗濯物を干すのにも利用できる。外出禁止の最中は、洗濯を干しに来る人達と鉢合わせしないように、日が暮れるのを待ってひとりで屋上へ行くようにしていた。布製の靴でそっと歩いているのにもかかわらず、すぐに下の階の住人から<足音がうるさい>と、苦情が来る。
 でも、フラッシュモブ合唱を何度か目の当たりにするうちに、この苦情もバルコニーの歌と同じなのだ、と気が付いた。屋上に来て、空に向かって思い切りタバコをふかしている男性がいる。以前のシルヴィアならすぐに、「受動喫煙させないで!」と、血相を変えて抗議しただろう。でも今は、もう怒らない。文句も悪習慣もすべて、生きている証拠だからだ。

 疫病禍よりずっと前、私は、限られた空間の中で過ごしていたことがある。6年余り、家を引き払って船で暮らしていた。寝泊まりできるのは8人だったが、各人に専用の個室があるわけではなく、船長と甲板長以外は船底に身幅分の板を並べて文字通り雑魚寝だった。
 港に着くごとに、さまざまな人が乗り込んできた。友人が恋人を連れて、数回ミラノで会っただけの仕事仲間が数名で、教師と小学生達、予告なしに訪れたひとり、初老の夫婦。
 新しく乗船した人達をどこまで乗せていけるだろうか。船は古式木造帆船で、航路も、よって日程も風まかせだった。
 「ひと夏、お世話になってもいいかな?」
 ほとんどの人は期待に目を輝かせてそう言いながら乗船し、そして一人の例外なくわずか数日のうちに下船していくのだった。
 周りを海に囲まれた船は、特殊な空間だ。乗ってすぐは、誰もが興奮してよく話し、よく眠り、飲み食いする。やがて自分のことを話し尽くしてしまうと、他人の話を聞く気も失せてしまう。甲板に出ても、見渡す限り変わらない海原と空が広がるだけだ。

©Scaccini L./UNO Associates Inc.

 そのあたりから、自分の鼓動が波間に聞こえるようになる。親しいはずの妻や夫、恋人や親友が息をする音までが疎ましくなってくる。小さな仕草も見たくなくなる。身を離したいと思っても、空間は限られている。本当に逃れたいのは、誰からなのか。
 生きている証となる音が耳に障るようになると、その人との関係はもうおしまいなのだった。
 <客は魚と同じ。3日経つと、臭う>
 イタリア語の格言にある。


第5回(2020.07.20)
ふたつの窓

 感染防御でいよいよ外出ができなくなると、外とのつながりは窓だけになった。
テレビやコンピューターの画面も、遠くにあるものを間近かに寄せて見せる窓のようなものだが、開くことはできない。風に揺れる木の葉音や雨に打たれる道の匂いは、こちらには流れてこない。モニターの中の平たい眺めは確かに現実に起きていることなのに、見ているうちに似非の世界のことのように思えてくる。
 そんなときは、窓から外を見た。

 


 私はもともと窓が好きで、仕事用の机も食卓も台所も、すべて窓に向けて置くようにしている。どこに住んでもそれは変わらず、1日のほとんどの時間を窓から外を見て暮らしてきた。
 数年前のある昼前、いつものように窓のそばに立ち、息抜きがてら外を見ていた。よく晴れて、ミラノの中心にある大聖堂の聖母マリア像が光っているのが見える。母親に手を引かれて学校から帰ってくる小学生や買い物袋を提げた人、昼休みを兼ねてバールへ食事に行く公共市場の店主などが、眼下の広場を渡っている。 
 角の停留所で路面電車から降りた銀髪の女性が、こちらの建物に向かって歩いてくる。はち切れそうな皮革製の書類カバンをたすき掛けにし、胸元には大きな紙袋を抱えている。ネギの頭がのぞいている。建物の正面までやってくるとふと顔を上げて窓際にいた私に気付き、その人は立ち止まって挨拶の代わりに紙袋を高く持ち上げて見せた。上階の住人、イルダだった。
 思った通り、イルダは私の住む5階でエレベーターを止めて降りた。挨拶をし直して大荷物に手を貸そうと踊り場で待ち構えていた私にイルダは、
 「『女の子は、窓のそばに立って外を見るものではありません』と、母にいつも(たしな)められたのよ」
 18世紀みたいだけど、と笑った。
 独り暮らしで外食の多いはずのイルダが、食べきれないほどの食材を買い込んだりして、と不思議に思いながら買い物の荷を台所まで運んだ。
 「今日から二人分になるので」
 戻りかける私に、うしろからイルダが照れたように早口で言った。それまでときどき建物の玄関口や郵便受け前で見かけることがあった人と、正式にいっしょに暮らし始める第1日目なのだと知った。大人の事情を抱え、職場で長らく同僚でい続けた二人は、今はもう七十をとうに超えている。
 翌日から、私はますます窓辺に立つのが楽しみになった。わずか1時間の昼休みなのに、毎日二人はわざわざ家へ戻って昼食を取る。買い物を済ませてイルダが少し前に戻り、彼が遅れて帰ってくる。
 いつもの時間になっても、イルダが帰ってこない日があった。
 <何かあったのだろうか>
 イルダを待ちながら出そびれてしまった買い物に行こうと、広場へ出ていった。買い物を済ませてうちの建物の前へ戻ると、開け放った窓からイルダが身を乗り出すようにして外を見ていた。早々に帰宅して、待ちきれず。
 銀髪の二人の華やいだ気持ちが、額縁から空へ飛び出すように見えた。
 
 ロベルタに招かれて、ミラノの北に住む彼女を訪ねた。
 母方がユダヤ系という出自でありながら、惨悽な運命を奇跡的に生き延びた人である。山奥の小さな村の夏祭りで偶然に知り合っただけの縁だったが、何度かやりとりを繰り返すうちに、
 「ぜひ、いらっしゃい」
 ということになったのだった。女どうしであり、年齢も相当に離れているし、共通の知り合いもなく、ロベルタにはその身上から生き残れた近親者は一人もおらず、私もイタリアにあてのない異国人なので、互いに気が楽だったのだろう。
 「元気なうちに、誰かに話しておきたくて」
 80歳を超えたロベルタはそう前置きをすると、静かな五月雨のように、でも映画のハイライトシーンのように劇的に、記憶を手繰って話し始めた。
 居間で話を聞きながら、次第にいたたまれなってくる。70年以上前に封印したあらゆる感情が、少しずつ揮発して室内に満ちていくようだ。胸苦しくなり窓の外を見ようとするが、天井までの引き戸の窓にはカーテンが幾重にも掛かっていて外の様子を(うかが)えない。
 壁には立錐の余地もなく、絵が掛かっている。大きさも額も、作風も時代もまちまちだ。きっと、どの絵にも(いわ)れがあるのだろう。壁を飾ることもなく暗闇に潜んでいた絵画といっしょに、今はもういなくなってしまった前の持ち主達の魂が連れ出されて、この家で今やっと一堂に会しているように見えた。
 壁の中央に似た絵が3点並んでいる。3作でひとつの作品なのかもしれない。簡素な線と数色だけの色使いで描かれているのは、家だった。地面があり、家が建っていて、空が広がっている。人も動物も草木もない。朝なのか昼なのか、わからない。ただそれだけ。
 子供が描いたような絵ですね、とロベルタに気軽な感想を言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
 3作とも、描かれた家には窓がなかった。


第6回(2020.07.27)
小学生の男の子

 日常生活の平穏は、同じことを繰り返せる毎日にある。同じ家にきまった人と暮らし、起床から就寝まで、それぞれ習慣になっていることを順々にこなしていく。コロナ禍以前も家に居て1日を過ごしていた人もあれば、毎日出かけていく先があった人もいる。残る人にも出ていく人にも、自分で采配できる自由があった。
 外出禁止になって、それまで身体の一部のように思っていた家や人、物や音が失せた。自由がなくなったとたん、見慣れた光景が一変した。
 <同じなのに、違う>という毎日が始まった。

 近所に小学生の男の子が住んでいる。昨年、小学校に入学したばかり。毎朝その子が登校するのを見届けて、私の1日は始まった。
 部屋の窓から、男の子の家の門塀が見える。
 雨の日は、まず黄色の小さな傘がのぞく。続いて揃いの黄色の長靴の、小さなつま先で濡れた道を踏んだかと思いきや、また引っ込んでしまう。先に表に出ている母親は、少しも急かさずに黙って待っている。
 むしむしする暑い朝、「いやだいやだいやだいやだ」。悲壮な声だけが聞こえてくる。青いピカピカの水筒が路上に転がり出てくる。母親は静かに拾い上げ、門の後ろにいる男の子に渡す。でも、出てこない。
 今朝は、ごねずに50メートルほど歩いていったのを見て、私は我がことのように安堵していると、男の子はつと立ち止まりびくとも動かなくなってしまう。母親は顔色も変えずにゆっくり男の子のところまで引き返して、うつむいている子の横に立ちじっと待つのだった。あの調子では、学校に着くまでにまだいくつもの山と谷があるだろう。
 毎朝、男の子の姿が見えなくなるまで、私は気が気ではなかった。うっかり登校風景を見過ごしてしまうと、その日をうまく始めることができなかった。
 男の子から、小学校最初の1年間の朝のドキドキをおすそ分けしてしてもらっていたのである。私の大切な日課だった。
 そしてこの春、新型コロナウイルスが襲いかかった。学校は、いっせいに休校となった。
 <でも、きっと大喜びしているだろう>
 まず男の子のことを考えた。少し長めの春休みを過ごせば、もう2年生に進級だ。
 けれどもコロナのせいで学校は再開されず、2年生の春は訪れなかった。駄々っ子を見ないまま、ほっとするようなさみしいような、これまでとは違った毎日が続いた。
 ある日の昼過ぎ、子供が声を張り上げているのが聞こえてきた。
 <あの子だ!>
 母親としっかり手を繋いだ男の子が、母親の顔を見上げながら一生懸命に話している。何かと思えば、それは足し算なのだった。
 「ぼくね、むずかしい計算ができるようになったんだよ!」
 1足す1、1足す2……。時々立ち止まっては順番を思い出し、1足す5、1足す……。
 「そうなんだ、すごいねえ。よかったじゃない!」
 初めて耳にする母親の弾む声で、外出禁止が解けて小学校が再開したのを知った。


©Alessia Trombin/UNO Associates Inc.

 以前、ミラノで小学校の授業参観に行ったことがある。入学したての1年生の国語の時間だった。担任の教師は黙りこくっている子供達を見回してから、おもむろに黒板いっぱいにチョークでグルグルと渦巻きを描いた。続いてその下に波線を引き、「テンテンテンテン」と独りごちながら長い点線を打ち、次にぐるりと円にカクカク正方形、そして周囲の余白にはいろいろな色のチョークでたくさんのビックリマークを書き込んだ。黒板に花火が上がったようで、6歳児達は目を見張っている。
 「では、宿題を出します」
 突然、教師からそう言われて、皆は緊張している。
 「好きな色と線でノートのページをいっぱいにすること!」
 ホッとしている子供達を教師が連れていったのは、図書室だった。低い本棚にぎっしりと本が並んでいる。もう読み書きができる子もいれば、本なんて、と、あさっての方を見ている子もいる。
 教師はそばの本棚から1冊を手に取って開くと、本に顔を埋めて深く息を吸い込んで見せた。
 「いい匂いのする本は、きっと好きになる本ですよ」








私は、空がとても好きです。月の出ているとき、星も、空のすべてが好きです。でももし私の思いどおりに空を変えることができるなら、もっと空が好きになるでしょう。
 ある夜に、たとえば、月はひとつだけではなく三つ欲しいです。丸い月と四角い月、三角の月です。丸い月は、ボールのように、灯台の光る目のように、空を速く回ります。また別の夜には、私が自分で描いたとおりに星を並べてみたいです。たくさんの星で私の名前と私の子の名前、それからその母親の名前を並べて書いてみたいです。空の真ん中に星を留め置いて、ほかの星たちにその周りを手をつないでぐるぐる回るように頼みたいです。皆が上を見るでしょう。打ち上げ花火よりもずっと美しいショーになるに違いありません。
 それから、一番速いのは誰なのか、星たちに空の端から端を走ってもらいましょう。星をじっとさせずに、いつもあちこちに動いてもらいたいのです。
 星の行進も見てみたいです。10万個の星が並ぶのです。先頭には、白い旗のように月がいるのです。

©Silvia Creanza/UNO Associates Inc.



読み書きできるようになったら最初に読む本。 イタリア児童文学作家、ジャンニ・ロダーリさん生誕百周年に敬意を表して。


ジャンニ・ロダーリ著 Fiabe Lunghe Un Sorrisoより
©翻訳:内田洋子

Fiabe Lunghe Un Sorriso, Rodari Gianni, Editori Riuniti, Roma, 1987
©2010 Edizioni EL ©2020 Kodansha Ltd.



関連Link : https://www.iictokyo.com/blog/?p=12459

  ©Edizioni EL - Via J. Ressel, 5 - 34018 San Dorligo della Valle (TS) , Italy



第7回(2020.08.03)
家族であるということ

MADONNA DEL CARDELLINO, 1506
Firenze, Galleria degli Uffizi
#Raffaello2020
©Ministero per i Beni e le Attivita’ Culturali e per il Turismo

 マンマミア。
 映画のタイトルに使われて広く知られるようになったこの言葉は、イタリア語である。私のお母さん。直訳すると、そうなる。
 イタリアにいると、しょっちゅう耳にする。日常のいろいろな場面で発せられる「マンマミア!」には、言外にさまざまな思いが含まれる。
 「あのね、今日、先生にほめられたの」小さな女の子が報告する。「マンマミア! わあ、すごい。おりこうねえ」
 「さっき自転車で転んでしまって……」「マンマミア! 大変! お怪我はありませんでしたか?」
 「金曜日の夕食に、わが家に友達を6人ほど招待したいのだけれど、どうかな?」「マンマミア! うれしいっ!」
 もし私が訳している文章に<Mammamia!>が出てきたら、ひと晩やふた晩はかけて考えたい。不測の事態に驚き、怖がり、絶句し、あるいは喜ぶ。まるでイタリアそのものを表すすべての感情が凝集する、<!>だからだ。訳し落とす日本語を探しながら、言葉が発せられた状況や人物をあれこれ空想しているうちに、言葉では書かれていないいくつもの物語が浮き上がってくる。イタリアの毎日は、無数のマンマミアでできている。
 イタリアのマンマは、家族の核心だ。無償の愛情を注ぎ、いつも家族を見守っている。イタリア人がつい「マンマミア!」と叫ぶのは、母親が一番の心の拠りどころだからだろう。そしてマンマは、もちろん聖母マリアに直結している。誰をも包む、慈しみと赦しの象徴だ。あるいは、哀しみの。
 マンマが登場するのならパパもいるのかというと、いない。「僕のパパ!」とは、誰も言わない。そもそもそういう常套句がない。

 外出禁止の2カ月半を経て、家庭内の人間関係も変わった。結束をいっそう固めた家もあれば、決裂した人達もいる。誰よりもよく知っていたはずの親に、子供に、兄弟姉妹に、未知の面があったのを見つけてしまう。血が繋がっているからわかり合える、許される、と信じてきた。ところが、近ければ近いほど遠い、ということがあるのを知る。
 仕事を持つ持たないに関わらず、母親達はたいてい、こまごまと家と家族の世話を焼きながら、叱り付け、無条件に甘やかし、段取りを付け、仕切っている。独りで腹を立て、笑い、しんみりし、そしてくたびれている。
 父親はというと、そこにいる。まるで山のように。たとえ家事や子育て、稼ぐことを夫婦で分担していても、家の中で父親は定位置を持ち、黙ってじっとそこにいる。
  「父が生地から作るピッツァは、天下一品!」
 マルティーナは自慢した。
  毎朝、娘のために、絵入りのメモといっしょにエスプレッソ・コーヒーマシンを用意し続けた父親との日々を思い返す。ロックダウンを過ごす異国の下宿で独り、クラウディアは泣きべそをかく。
  家族で大掃除して見つけた旧式ラジオをボリュームいっぱいに鳴らし、踊ろう、と父親が母親の手を取って庭へ誘う。無口な父親しか知らなかったアレッシアは、女性として母親を思いやる父親を誇らしく思う。
  やっと繋がった電話なのに、父親は照れてヴァレンティーナに冗談ばかり言う。 長距離トラックを運転し続けてきた父親は、ほとんど不在だった。「豆と豚の背肉を煮させたら、(かな)う者なしよ!」。久しぶりに戻れた実家から、父親の手料理の写真が送られてくる。何日もかけて煮込んだ料理には、父親の<おかえり>が沁み込んでいる。
 いないようで、いつもいる。じっと動かないのに、全員の全部を知っている。
 でも、絶対君主ではない。母親が上手に舵を取り、父親を家の長としてもり立てているのである。

 ふとしたことで家庭内の均衡が崩れてしまうことはある。
 疫病は、弱者から襲いかかる。2カ月半に及ぶロックダウンにより、困窮した人達の人格や家庭が瓦解していった。ストレスに抗じきれず、家族に向かって不安をぶつける人達が続出した。弱者は、さらなる弱者を虐げる。子供や女性が標的にされた。家族である加害者とずっといっしょに家にいるため、外部へ助けを乞うことができない。外出が許されていた先は、家から200メートル以内での犬の散歩と薬局、食料店への買い出しだけだった。出かけても、暴君と化した家族が窓から一挙一動を見張っている。
 そこで、「1522タイプのマスクをください」と薬局で言えば、そのまま家庭内暴力の被害届として警察の代わりに薬局が受理し、救済に即応するSOSの暗号システムが作られたのだった。

 そうしたニュースを見ながら、リグリアの小さな村に住んでいたときのことを思い出す。海からすぐに山が連なり、尾根沿いにわずかな家屋が張り付くように軒を並べているだけで、広場も大通りもない、村とは名ばかりのところだった。舗装されていない道が、さらに山の中へと続いている。そこにアンナは住んでいた。4、5歳の息子がいたが、いつも怯えるように母親の後ろに隠れていた。そこそこの年齢だというのに、満足に言葉が話せなかった。
 ミラノの家庭裁判所からその山奥で暮らすように言われて、母子は村の教会の保護を受けながらそこで暮らし始めたばかりだった。山奥の一軒家で、人の往来もないようなところに住んだのは、身を隠すためだった。男の子の父親から、執拗に暴力を受けていた。彼が拘留されている間に逃げてきたのである。
 アンナに、過去についてそれ以上は尋ねなかった。辛い思い出と手を切り、新しい人生に馴染もうとしているところだったからだ。さっぱりと感じのよい女性だった。
 しかし数ヶ月後、誰にも告げずに突然、アンナは息子を連れてミラノへ戻ってしまった。出所する男を迎えに行った、と聞いた。
 マンマミア……。
 あの母親に、そういう父親。
 うまく言葉が出てこなかったあの男の子は、今頃どうしているのだろう。


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プロフィール
内田洋子 Yoko Uchida

1959年神戸市生まれ。
東京外国語大学イタリア語学科卒業。通信社ウーノ・アソシエイツ代表。
2011年『ジーノの家イタリア10景』(文春文庫)で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『ミラノの太陽、シチリアの月』(小学館文庫)、『イタリアの引き出し』(CCCメディアハウス)、 『カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想』(集英社文庫)、『皿の中に、イタリア』(講談社文庫)、 『どうしようもないのに、好き イタリア15の恋愛物語』(集英社文庫)、『イタリアのしっぽ』(集英社文庫)、 『イタリアからイタリアへ』(朝日文庫)、『ロベルトからの手紙』(文春文庫)、 『ボローニャの吐息』(小学館文庫)、『十二章のイタリア』(東京創元社)、『対岸のヴェネツィア』(集英社)、 『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』『もうひとつのモンテレッジォの物語』(方丈社)、『サルデーニャの蜜蜂』(小学館)。翻訳書に 『パパの電話を待ちながら』(ジャンニ・ロダーリ著、講談社文庫)などがある。