デカメロン2020(Decameron2020)コラムcolumn

デカメロン2020(Decameron2020)

「デカメロン2020」©(Decameron2020)©

緊急非常事態宣言が発動されたイタリアを、
イタリアの若者が語る、描く、見つめる、歌う

 新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、非常事態宣言が発動されたイタリア。ヴェネツィア、ミラノ、ボローニャ、ローマ、モンテレッジォ、シチリア島などで暮らす17歳から29歳の若者たちが、ささやかだけど私たちにも届く声をつむぎ始めました。彼らが、耳をすませ、見て、感じて、触れた、いまのイタリアの姿を届けます。
 これから始める「デカメロン2020」は、1348年のペストの蔓延からフィレンツェ郊外に逃れた若い男女10人が10日間語りつくす古典『デカメロン』の「リアル・イタリア版」です。


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コラム


column16(2020.04.24)

諸行無常: ヴェネツィアにタコ

ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅地区、ローマ広場(Piazzale Roma)の運河に大きなタコが現れた。普段は、大陸とヴェネツィアをつなぐ陸上交通と水上交通網が交差する、もっとも水の動きが激しい地点である。
この時期は潮の流れが変わったり季節風が流れ込んだりして、内海の状況も変化する。通常でも、小魚の群れやクラゲを目にすることも多い。
「タコは初めて」
船乗りたちが驚く。
3月初旬からの全土封鎖で、ゴンドラや観光船、大型客船、個人舟の運航は止まり、タクシー船や運搬専門船、水上バスも航路と本数を限って運航されている。そのため干潟全域の水底は、かき混ぜられることが少ない。
©venezia_non_e_disneyland
https://www.instagram.com/p/B_XbV6aAPqN/?igshid=lqqnbr6qml76


column15(2020.04.24)

本の危機

現時点ですでに、イタリアの出版業の70%が従業員の仮解雇、自宅待機扱いの、給与企業補償対象にする予定、とされる。2020年度の新刊出版数はすでに減らされていて、21000タイトルが予定されている(2019年度のイタリアの出版業社数 :1、564社、刊行タイトル数:75000。前年度より数値は伸びていた)。

データ:2020年4月15日
Osservatorio dell'Associazione Italiana Editori-AIE の調査結果による。


column14(2020.04.23)

いつだってどこだってできる
感染とスポーツ

<フィナーレ・リグレ・テニスクラブ>(イタリア、サヴォーナSavona) がフェイスブックにアップしたテニスの練習風景が、またたくまに世界中に打電されて話題を呼んでいる。
ヴィットリア・オリヴェーリ(13)とカロラ・ペッシーナ(11)が、向き合って建つそれぞれのマンションの屋上をコートと見立てて、打ち合い練習をしている様子が映っている。


column13(2020.04.21)

疫病と物流と安全と

1348年の大流行以降、繰り返してペストや疫病に侵されたヴェネツィア共和国では、感染を拡大させないためには防御と封鎖あるのみ、と隔離島を作った。隔離は船員だけではなく、当然、積荷も対象となった。感染を防ぐには、<絶対の安全>が必要だからである。
ヴェネツィアに残存する建物では造船所跡に次ぐ最大の床面積の建築物が、隔離島ラッザレット・ヌオヴォの<テゾン・グランド Tezon Grando (大倉庫)>である。1500年代に建立。本島に入港する前に40日間、防御のための隔離と待機をする船団と乗組員とともに、異国から運んできたさまざまな荷がこの大倉庫に一時保管されていた。
主に東方の異国からの積荷からの強い臭いが混じり、消臭と殺菌のために、1日に数度、ビャクシン(ヒノキ科の針葉樹の一種)とローズマリーが燃やされた。
この全長102メートル、幅22メートルの巨大な長方形の大倉庫には、貨物が荷主と出荷予定先で仕分けて収蔵された。詳細な預かり証明の記録が現存する。
倉庫の壁には、荷物が運ばれてきた日付けや荷主名、出荷予定先、荷の内容、直前の寄港地(コンスタンチノープルかキプロス島)などが書かれた当時のまま、赤い文字で残っている。
船の鉄製の部品の錆を利用し、色止めに卵の白身を混ぜ合わせて使われた。当時の消毒には石灰が利用されていた。
壁に残る貨物についての記載には、四方を額縁のように三角形△を並べて囲ったものがある。この三角形は<オオカミの歯>と呼ばれ、古くから海の男達の魔除けとして使われてきた。貨物の記録をオオカミの歯で囲んで、<無事に隔離を終えて、出荷できるように>との神からの加護を祈ったのである。

現在、試験や手術、問題に立ち向かう人を励ます際に、<オオカミの口に飛び込め!>(In bocca al lupo!)
と言うが、これも魔を遠ざける<オオカミの歯>からの転用なのかもしれない。


column12(2020.04.14)

イタリアの農業と季節労働者

2020年1月に発生した新型コロナウイルス感染拡大の影響で、イタリアの農業、追っては食糧難へと、国民の生活を脅かす深刻な事態となっている。農作業者の激減により、種や苗植え、収穫作業に手が回らないからだ。農協(Coldiretti)の発表によると、現状のままでは40%の果実と野菜が収穫されないまま廃棄処分となる見通しだ。
事態が深刻化しているのは、全土の農業従事者総数110万人のうち、37万人を外国人労働者が占めている。春夏の収穫に必要な作業者数は25万人とされ、通常から特に北部イタリアで多くの人材が必要とされる。感染被害の最も深刻な地帯である。
イタリア農業総連盟によると、37万人の外国人労働者の内訳は、最多がルーマニアからの季節労働者で10万7000人、次いでモロッコ3万5000人、インド3万4000人、アルバニア3万2000人。これはあくまでも、移民局に申請、登録された合法移民の数である。記録されていない不法労働者数は農業部門だけでも、全土で20万人を超える、と推算される。「イタリア国民だけで農業が成り立っていたのは、1970年代まで」(農業総連盟)。
外国人労働者の大半は季節労働者で、疫病の感染拡大防止のためにそれぞれの国へ帰還している(したことになっている)。
農業労働力の不足は、イタリアだけではなく欧州に共通する問題だ。ヨーロッパ委員会は2020年4月5日までに、いわゆる<緑の通路>と呼ばれる条例を発動し、欧州内を外国人季節労働者が自由に移動するのを許可した。
イタリアの農業食料水産資源省テレーザ・ベッラノヴァー大臣は、東欧諸国の関係各省責任者と討議し、特にルーマニアからの季節労働者が即時、イタリアへ戻れるように滞在許可証の期限付き延長などを決めている。
それに対し、コロナ禍以前から「イタリアはイタリア国民のもの」を政治理念に掲げてきた北部連盟が激しく反対。「疫病感染対策に、政治への意見、人種や貧富、職業、国境などの差はない。人命が最優先」と、首相が強く警告した。
そもそも、コロナ禍以前に、外国人移民の受け入れの抑制と難民排除の目的で北部連盟が中心となって通過させた改正移民法が、現在、外国人労働者の緊急呼び出しの足かせになっている。
農業省大臣は、「外食産業、観光業、土木建築業などの<就労待機者>にも、業種を超えて農産業を就労の場として検討してもらいたい。この非常事態を、農業従事者の労働環境を合法化し正規契約へと整えていく好機としたい」と、している。


column11(2020.04.11)

復活祭

イエス・キリストは、ゴルゴダの丘で十字架にかけられて処刑された。3日後に予言した通り復活した。これを記念した祝日である。
<春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日>に祝われるため、毎年、日付が変わる。

土地ごとの習慣や行事がある。
イタリアでは、平和の象徴であるハトを形どった<コロンバ(ハト)>菓子を食べる。
動かない卵から新しく生命が誕生することから、卵は死と再生の象徴とされる。殻をいろいろな色で塗ったゆで卵を飾ったり、贈ったりする。
高さ数10センチメートルもあるような、大きな卵型のチョコレートが、彩り美しく包装されて売られる。特に子供たちに贈る。中が空洞になっているチョコレートを割ると、オモチャが出てくる。

木々は新芽を付け、花が咲き、鳥がさえずる。
心にも、春は息吹く。
死して、また生きる。
2020年の復活祭は、4月12日である。


column10(2020.04.03)

墓地

長い間、イタリアでは墓は町の中に設置されていた。多くの墓地は、教会が管理する敷地に建立されていた。
そのしきたりを抜本的に変えたのは、ナポレオン・ボナパルトである(ナポレオン1世)。1804年に『フランス民法典』、いわゆる『ナポレオン法典』を公布。それ以前に領土内の各地に存在した、慣習法や封建法を統一した民法典である。人々はすべて法の前には平等であることを唱え、自由経済を認めた近代的な考え方を基軸にした斬新な法となった。
1804年にナポレオン一世は、元老院によりフランス皇帝と宣言され、イタリア王も兼任する。ナポレオン法典はイタリア王国でも施行され、それまで町の中にあった墓地を郊外へ移転するように決められた。公衆衛生学の観点からだった。
墓地は、見晴らしがよく風通しと日当たりのよい場所に設置すること、とされた。墓を確保できるよう予約をすることは禁じられ、墓石も墓碑もすべて同一にすること、とされた。
それは、すべての死者は平等に扱われるべき、とするナポレオン法典の基念に沿うものだった。


column09(2020.04.03)

最後の敬礼

4月2日17時、フィレンツェ市郊外のトレスピアーノ霊園に、軍警察の装甲車9台が連なって到着した。ベルガモ市で新型コロナウイルスに倒れた50人の遺体を載せての弔い行列である。北イタリアであまりに多くの犠牲者が出たため、各都市で埋葬できる範囲を超えてしまい、他都市で葬られることになった。
どの人も誰に見舞われず、病と闘い、苦しみ、最期を看取られることもなく、隔離病棟で亡くなった。疫病感染での死亡者はすべて、本人の遺志に関わらず火葬される。荼毘に付される際も、見送る親族はない。
霊園にパトカーの鎮魂のクラクションが響く。イタリアが喪に服す。

https://video.repubblica.it/dossier/coronavirus-wuhan-2020/coronavirus-firenze-arrivate-sui-camion-militari-50-salme-da-bergamo/357339/357899
©Scheon G. の動画 から

column08(2020.03.30)

「アルバニアは忘れない」

「私達は裕福ではないかもしれないが、過去のことは忘れない。アルバニア国民とアルバニアは、困っている友人を決して見捨てたりしないことをイタリアに表したい」
アルバニア首相エディ・ラマはそう述べ、アルバニアが医師と看護師総勢30名をイタリアに向けて派遣した。北イタリアのロンバルディア州に送られる予定。

さかのぼれば古代ローマ時代からずっと、ローマ帝国はアドリア海に面するアルバニアを地中海支配にとって重要な拠点として捉えてきた。時を経ても常にイタリアとアルバニアは、オーストリアやハンガリー帝国、英国やギリシャとの間の複雑な政治的に囲まれながら、援助と占領、支配、従属、依存、独立、支援を繰り返してきた。イタリアのファシスト政権下ではアルバニアからの抵抗運動もあったものの、水道や道路、新しい産業へのインフラ整備が成され、アルバニアの近代化が大きく進んだ。
 アルバニア人の多くがイタリアに対して好意を持つ、とされる。

1991年にアルバニアで共産党が政権を失うと、国民が一斉に国外に脱出を図った。同年8月9日。アルバニアから南イタリアのプーリア州バーリの港に、大型船で2万人の難民が上陸。
「彼らは皆、人間です。絶望した人間です。送り返すわけにはいきません。私達イタリアは、彼らにとってただ一つの希望なのです」
 当時のバーリ市長エンリコ.・ダルフィーノはそう述べ、全員を受け入れた。



column07(2020.03.30)

<スプリッツ>
spritz

北イタリアのヴェネト州名物のロングドリンク、アペリティフの名称。
基本は、発泡白ワインのプロセッコとビッテル(食欲増進の効能のある薬草を材料とした、苦味のあるアルコール飲料)に炭酸水を1-1-1で混ぜ合わせて作る。
1800年前半に一帯を統括していたオーストリアの人々が、イタリアワインを炭酸水で薄めて飲んでいたのが、スプリッツの始まりとされる。ドイツ語のspritzen(ふりかける、という意味)が名前の由来である。
現在では、アペリティフの一種としてイタリア全土に広まっている。
ヴェネト地方では、土地ごとに組み合わせを変えた定番外のスプリッツが、何種類もある。発泡白ワインではなくスティルワインにしたり、ソーダ水よりも炭酸の強いセルツにしたり、ビッテルではなくカンパリやアペロルという他のアルコールを組み合わせたり、オレンジを入れたり、と組み合わせは際限なくある。

 発祥の地のヴェネト地方では、
「スプリッツ、飲む?」
は、もはや単なるアペリティフへの誘いを超えて、他の人とともにスプリッツをはさんで過ごすひと時の代名詞となっている。人間関係を築き、守っていくための重要な日課だ。
 よほどの悪天候でない限り、ヴェネツィアでは人々はスプリッツを片手に店外に出て、数人が集まって立ったまま歓談するのが普通である。
 なぜ立ち飲みなのか。
 ヴェネト地方のヴェネツィア共和国は古くから海運業で栄え、ひきもきらず人々や物の出入りがあった。ヴェネツィア人達はワインを片手に屋外に出て、町を行く人々をそれとなく、しかし逐一観察していた。
 「店内にのんびり座っていては、新しくやってきた人達や誰と誰が連れ立っているのか、など確認ができないでしょう? 広く遠くまで監視の目を届かせようと、店の外で立ち飲みをしたのです」 (ガリバルディ通りのバールマン談)。


column06(2020.03.27)

感染と悪事

1348年にペストが爆発的に感染拡大する以前に、1258年4月ヴェネツィア共和国では、医師と専門家学会の常設を決め、共和国外からも医師達を集めて常雇いにして、同チーム内で定期的に解剖学研究や共和国内の薬局の検査と管理を遂行してきた。共和国内はもちろん、船や海外の統治領下にも衛生管理を担う拠点を設け、各地の疫病についての情報をリアルタイムで把握し、本国への上陸阻止を図り、国民の安全と健康を守ってきた。保健衛生学の始点である。
しかし疫病の中でもペストは鎮静しては再び発生し、感染を繰り返した。海運業を主産業とし、主な疫病の発生地である東方からの大型船が入港する地であり、金銭、人材、情報の一大拠点だったヴェネツィア共和国は、加えて検疫制度を制定。感染者と分けるために、<隔離島>とは別に<検疫島>も設置する(コラム1参照)。

隔離島での患者の治療、食費、隔離滞在中の雑費などの運営経費は、共和国が塩の売買で得た利益で賄われた。島には、妻帯を条件に管理責任者が元首に指名され常駐した。隔離島に送られてくる際、患者達の所有物すべてを管理責任者が一覧にして記録し、患者の死亡後には遺族へ返納していた。
感染の現場を一括して担う重責で、貧困者や身寄りのない人などの弱者に対する差別や不適切な対応があってはならない、と元首は厳しく命じ、その人選も厳重だったが、中には悪事を働く輩もいた。
感染者数を上乗せして報告し、生じた差の食料や費用を着服したり、死亡した患者の財産をせしめたりしたのである。死亡患者達の財産を私物化し、さらにせしめた遺品のリネン類を高値で転売した者があった。
「人間として許されない」と、激怒した元首は無期懲役の刑で投獄する前に、罪人を国じゅうの路地という路地、広場を引き回しにして、処した。
La Peste a Venezia, Boccardi V., Venezia, Supernova Edizioni, 2016


column05(2020.03.25)

以下、東京イタリア文化会館協力。
https://www.iictokyo.com/blog/

3月25日はダンテの日(Dantedì)!
Buongiorno a tutti!

毎年3月25日はダンテの日(Dantedì:「ダンテディ」)として、この偉大な人物にちなんだ各種イベントが執り行われます。ダンテの没後700年を来年に控え、今年のダンテディはより一層の盛り上がりを見せています。

ダンテ・アリギエーリ(1265-1321)は、ルネサンス期の先駆者である政治家・詩人で、現代イタリア語の父ともいわれています。1321年に完成した彼の代表作『神曲』はイタリア文学の最高傑作であると同時に、世界に二つとない偉大な作品とされ、今日まで読み継がれています。

ミケリーノ《ダンテ、『神曲』の詩人》フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

ところで、ダンテが生まれたのは1265年5月21日から6月21日の間、亡くなったのは1321年の9月13日から14日にかけてといわれています。
それではなぜ3月25日がダンテの日として祝われるのでしょうか?

『神曲』に描かれる、この偉大な詩人の旅が行われたのは、1300年と推測されています。さらに、作品の中にちりばめられている手がかりを集めると、その日付まで絞り込むことができるのです。

例えば、「地獄篇」第1歌第37行から40行にかけて、ダンテは、一頭の豹が目の前に立ちはだかった際の状況をこう描いています。


時は朝のはじまる暁、
太陽は、神の愛がはじめてあの美しい宇宙を
動かした時にもともにあったあの星座を従えて
昇ろうとしていた。


「神の愛がはじめて(…)宇宙を動かした時」とは、天地創造の時を指します。そして天地創造がなされた時、季節は春で、太陽は牡羊座とともにあったとされています。よって、ここに言及される「星座」は牡羊座、これは春分の日の朝を描写したものであると推測できるのです。

また中世ヨーロッパでは、一年の始まりは現在のように1月1日からではなく、キリストの生誕にちなむ12月25日とする場合と、キリストの受胎告知にちなむ3月25日とする場合がありました。ダンテが生きた当時のトスカーナでは、一年の最初の日は3月25日とされていました。

これらをはじめとする多くのヒントをもとに、諸説ありますが、ダンテが「暗い森の中をさまよっている」自分に気づいたのは、1300年3月25日とされています。

地獄篇の冒頭。気が付くと深い森の中におり、恐怖にかられるダンテ。ギュスターヴ・ドレ による挿絵。


「ダンテの日」3月25日とは、彼の誕生日や命日ではなく、現代でも我々を驚嘆させ続ける、あの旅の始まりの日だったのです。

<参考文献>
ダンテ・アリギエリ/原基晶訳 『神曲 地獄篇』 講談社、2014
https://ladante.it/



1)ダンテの日、ロゴ入り画像
https://www.iictokyo.com/blog/wp-content/uploads/2020/03/LOGO-768x768.jpg


2)ミケリーノの絵画
https://www.iictokyo.com/blog/wp-content/uploads/2020/03/1280px-Dante_Domenico_di_Michelino_Duomo_Florence-768x577.jpg




column04(2020.03.25)

医療崩壊で、ジェノヴァに感染専門の病院船現る

ANSA
2020/3/23打電

北イタリアのジェノヴァ港コロンボ埠頭に、リグリア保健所とイタリア市民保護局との協力で、<病院船>が錨泊した。大型船 を7日間で病院に改築し、派遣された感染病専門医療チームにより、今日から新型コロナウイルスの感染者の隔離治療を開始した。増え続ける感染者を受け入れる収容能力がぎりぎりで、医療崩壊を避けるための対策である。すでにジェノヴァ市内の病院から四人の患者が搬送され、客室を改装した病室で隔離され、治療に入っている。続いて25人が搬送される予定で、当面は100人を受け入れて、市内の病院のベッドを空ける調整を進める。収容できる患者数は350名。イタリアはこの<病院船>への改築のノウハウを無料で他国にも伝授する用意がある、としている。すでにトランプ大統領も、アメリカの豪華客船を同様に病院船に改築することを検討し始めている、という(リグリア保健所代表、Luigi Carlo Bottaro弁)。
「病院船での隔離入院で、患者は海を見ながらヨードと湿り気のある空気を吸えるため、呼吸器系にも楽なはず」(同上)。

http://www.asl3.liguria.it/


column03(2020.03.23)

買い物

<人は食なり>。
3月12日に全土封鎖の首相令が発動されて以来、現時点(3月23日)で許されている外出は、生活必需品と食料、医療関係品の買い出しのみとなっている。買い物に行くにも、さまざまな規制がある。
各家庭(共同生活している場所)につき1人。
店内では、レジも含み、他人との距離を1メートル以上空けられる状態であること(店外で待機する場合の行列も同様)。
店舗によっては、支払いは現金不可。
規制強化で、大型店舗の入り口で検温義務。

ミラノを州都とするロンバルディア州で、スーパーマーケットで買い占め騒動が起きたのをきっかけに、北イタリアを中心に各地でも同様のパニックが起きた。食料店への供給は途切れることなく潤沢であるが、食料品店の前には常に行列ができている状態が続いている。

首相令発動と同時に、
緊急事態にあっても、国民には<Made in Italy>の安全で確かな食材を過不足なく供給保証する、とイタリア農業協同組合 COLDIRETTI
https://www.filieraitalia.it/
とイタリア食料供給連盟 FILIERA ITALIA https://www.filieraitalia.it/
が発表した。

バールやレストランなど、あらゆる外食産業(ケイタリングも含む)が休業となったため、封鎖前は国民の10.4%が外食していたが(600万人強)、現時点で在宅しているほぼ全国民が自宅で食事を取るようになっている(Federazione Italiana Pubblici Esercizi https://www.fipe.it/
インターネット電話やインスタグラムなどのSNSの投稿のテーマの大半が、<食>に集中している。インターネット電話でつながりながら仮想食卓を共にするのは、すでにごくあたりまえの情景となっている。

自宅待機になり自宅で食事や料理をすることは、孤独感、閉鎖感、不安などから気を紛らわすのに効果大。欠点は、肥満と栄養のバランスが崩れること。

現時点で、イタリア国民38%の買い物行動が、毎日の必要食材ではなく、買い置きのためとなっている。各住居は、食材で飽和状態となっている。
買い物品目の動向からも明らかである。
全土封鎖になる直前から外出禁止の出た直後までの、買い物内容の動向は以下の通り(2020年3月9日~2020年3月15日 Nielsen: https://www.nielsen.com/it/it/

2019年同時期と比較して:
  パスタ  + 65、3%
  小麦粉  +185、3%
  トマトピューレ  +82,2%
  長期保存可能 牛乳Uhtタイプ  +62、2%
  ツナ缶詰  +56、0%
他にも<感染特需>として:
  家庭用ゴム手袋(販売最多記録)  +362、5%
  洗剤  +49、7%
  アルコール  +169、2%

また、アルコール飲料(主にワイン)の購入も都市部では軒並み、2020年2月1か月と2020年3月1日~18日の期間で比べて、+220%~+240% との報告がある(https://www.winelivery.com/)

食材店、特に都市部の大型店舗では、店外での順番待ちが2時間以上にも及び、高齢者や障害、疾病者などの負担と感染リスクを無くすために、自治体の福祉課やイタリア生活協同組合、ボランティア団体などが、買い物と配達代行サービスを始めている。


参照:日刊紙<ラ・レプブリカ>
2020/3//21 および、
 Coldiretti /Ixe’ 、Filliera Italia、Federazione Italiana Publici Esercizi、Nielsen、
  Coop Lombardia、Esselunga、 Supermercato24、Cosi’Comodo, Sole365,Gigante, Mercato’, Emisfero Ipermercati, Pam Panorama,
  Amazon Prime Now, Glovo, Uber Eats, to.market,
 Giacomo Milano, Ideal Frutta など。


column02(2020.03.21)

『デカメロン』
ジョヴァンニ・ボッカッチォ 著

『デカメロン』(古代ギリシャ語で「十日の(物語)」の意)は、1349年から1351年にかけてジョヴァンニ・ボッカチォによって書かれた、全100話からなる物語集です。10人の若い男女が、ペストの危機から逃れるためにフィレンツェ郊外に籠り、10日間に渡って10話ずつ物語を語り合います。

ボッカチオは前書きの中で、何年にも渡ってペストが蔓延した当時の惨状を描き、当時大切にされていた社会規範や慣習が、この感染症の大流行によって破壊し尽された様子を語っています。
その一方で、10人の若い男女を通じてもう一つの事実、つまり人類は己の力と知性によってどんな状況をも切り抜けられる、ということを示してもいます。

文責:イタリア文化会館
https://www.iictokyo.com/blog/ https://iictokyo.esteri.it/iic_tokyo/ja/istituto/chi_siamo/


column01(2020.03.16)

疫病とヴェネツィア共和国

 有史以来、人類が経験した最も恐ろしい疫病は、1340年代に広まった黒死病(ペスト)である。内陸アジアで発祥しそのあとヨーロッパを経由して世界へ感染が拡大していったとされるが、詳細はよくわかっていない。
 1347年の秋にジェノヴァ共和国の船団は、コスタンティノープルからシチリア島メッシーナ、マルセイユ、ジェノヴァ、スパラート、シチリア島ラグーザを経由してヴェネツィアという航路を取ったが、それがそのままペストの感染経路となったようだ。
ヨーロッパに上陸したペストは猛威をふるい、全人口の約3割が犠牲となった。
 ヴェネツィアには翌年春までにペストは伝播され、何万人もの死者が出た。町じゅうに死臭が充満したという。酢と薔薇水を鼻にあてて臭いを遮り、窓には蝋引きした布をかけ、北風が吹くときだけ窓を開けるように通達が出た。人との一切の接触を禁じた。運動も、頬ずりも抱き合うことも、セックスも。
 当局は国民に、毎日、足、手首、額を酢で洗うよう義務付けた。支払いの前には、必ずお金も酢で洗わなければならなかった。食事も厳しく管理され、肉や野菜、魚などの生食を避け、料理に酢を多用するよう勧めた。酢は寄生虫を殺し、食欲を増進させ、寝つきを良くして気持ちを明るくする効能がある、とされていたからである。食事療法は、9世紀頃に南部イタリアのサレルノで開校された医学学校の研究によるものだった。
 海運業で栄えたヴェネツィア共和国は、内海にある島(干潟)である。周囲に多くの干潟が点在する。そのひとつ、サンタ・マリア・ディ・ナザレ島で、ペストの感染者の隔離を行った。俗称ラッザレットと呼ばれる。感染者は40日間にわたって隔離された。40を意味するイタリア語、quarantaが<検疫>(英語quarantine)の語源である。その後、疫病の感染を事前に回避するために、ヴェネツィアに寄港する前に船を強制停泊させる、世界初の総合検閲所を設けた「隔離島」が作られた。
 船上で病人が出た場合は、海域に近づく前に黄色の旗を掲げて知らせることが義務付けられていた。
 1575年から76年に再びペストが大流行したとき、感染者や隔離待機者があっという間に増え、隔離島では到底収容しきれない事態となった。医療崩壊である。
 隔離された家族や検査や治療を希望する人たちが、3000隻余りの小船に分乗して8000人から1万人近く押し寄せたという。隔離島をぐるりと取り囲む3000隻の船に、毎朝焼きたてのパンや野菜、肉、魚、ワインなど、食物を届ける奉仕者も出た。
 数千人もいるはずなのに静まり返った海に、聖母マリアへの祈りや歌声があちこちの船から低く重なり流れたという。