本が生まれた村(back09)

第九話(2017.11.30)

夏のない年

©UNO Associates INC.
 車から降りると、草いきれに包まれる。夏も中盤である。
 モンテレッジォ。
 数度訪れただけなのに、懐かしい場所へ戻ってきたようで気持ちが(なご)む。

 <本を売り歩こうと思ったのは、豊かな森を資源にした製紙工場があったからではないか。いや、名うての出版社があったのかもしれない。あるいは、教育熱心で読書好きな土地柄だったのかも>
 山村が本と関わってきた経緯は簡単にわかるだろう、といざ現地へ行ってみると、あるのは石と栗の木と坂道だけだった。老舗(しにせ)出版社はおろか書店やキオスクも、学校もなかった。そもそも人がいなかった。
 現在モンテレッジォの人口は、三十二人である。男性十四人、女性十八人。そのうちの四人が九十歳代だ。就学児童も六人いるものの、村に幼稚園や小・中学校はない。
 食料品や日用雑貨を扱う店もない。薬局や診療所もない。銀行もない。郵便局は、三十年ほど前に閉鎖されてしまった。鉄道は通っていない。バスもない。
 村は老いて、枯れている。
 <こういう村から、なぜ本が?>
 これまで訪れるたびに帰路の時間に()かされて、村の人たちとの話を途中で切り上げなければならなかった。他愛のない世間話かもしれなかったが、後ろ髪を引かれた。村は小さく、十分もあれば見て回れる。しかし、知りたいのは景観や略史ではなかった。 
 バールの奥でぽつんとひとり、新聞を読んでいた中年男性。ときどき顔を上げては親しげな、あるいは乞うような目でこちらを見ていた。
 路地端の椅子に座っていた老人。着古した帽子や服の中で痩せた体が泳いでいた。足の間に挟んだ杖に上半身を預け、身じろぎもせずに空を見ていた。道標の石碑のようだった。前を通るとき小さく会釈すると、あっ、と口を笑いかけるように開け何か言いかけた。
 ビニル製の玉暖簾(のれん)が下がる玄関前に座っていた老女。こんにちは。老女は耳に震える手を添え、聞き返そうとした。娘なのか嫁なのか、家から出てきた五、六十代の女性から、「奥でお茶でもいかがです?」と、愛想良く招待された……。
 ひとり一人の影は細く遠くへ伸び、山間に静かに重なっている。

 「貸し家なら、見つかりますよ」
 バールのカウンター向こうで、店主ティツィアーノが洗いものをしながらぼそりと言った。

 「春過ぎから、他所に移住した人たちが三々五々、村に戻ってきます。八月半ばには子連れの家族も集まって、人口は二百人を超えるのです」
 村祭りに合わせて帰郷するのだ、とジャコモは言った。
 「いや、一堂に会するから祭りになるのです」
 マッシミリアーノは嬉々として、だから夏にぜひ、と誘った。
 祭りには、村の名産品の市が立つ。村の自慢の品は、本である。各地に散らばっていった村人たちが、本に呼ばれて帰ってくる。夏の村祭り、古本市に行けば皆に会えるのだ。本の行商人の末裔(まつえい)たちに。

©UNO Associates INC.
 そういうわけで今日、夏のモンテレッジォにやってきた。鬱蒼(うっそう)と繁る雑草で、道は緑色に染まっている。村へ続く坂道沿いの食堂へ入る。すでに帰郷しているジャコモたちと、そこで待ち合わせている。
©UNO Associates INC.
 陶製のタイル敷きの玄関ポーチは広く、三、四卓を囲んで先客たちが談笑している。着いたばかりなのだろう。それぞれの足元に、旅行(かばん)やリュックサックが見える。客どうしは知り合いらしく、テーブル越しに近況を尋ね合う声が行き交う。老若男女入り混じり、各々のイタリア語のリズムや抑揚は微妙に異なって、いろいろな楽器の重奏を聞くようだ。
©UNO Associates INC.
 中に入って、驚いた。悠々、百人は入れるのではないか。食堂というより宴会場である。けれどもテーブルクロスが掛かっているのは窓のそばの数卓だけで、残りの数十卓は木の面をむき出しにしたまま放り置かれている。塩胡椒(こしょう)やオリーブオイル酢の瓶や卓上用の造花の束、使いさしの蝋燭(ろうそく)が、一卓にまとめ置いてある。もうずいぶん長い間、使われていないのだろう。
 三十二人の生活に、いつこの広い食堂が必要なのだろうか。
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 窓際に座りぼんやり考えていると、女子中高生の年頃の三、四人が入ってきて、私にもじもじと小さな皿を差し出した。焼きたてらしい菓子が載っている。ひと目で手作りとわかる素朴さで、優しい甘さがほのかに香る。
 「古本市によくいらっしゃいました」
 少女二人は、ジャコモとマッシミリアーノの娘、と自己紹介した。すると背後から、 「弟です」「僕は村に住んでいます」「わたし、トリノから来たの」「私はこの子の姉です」「おれはいとこ」……。
 わらわらと現れた小学生たちと年長の少女たちに連れられて食堂を出ると、道を挟んで向かいの高台から「おーい」 と声がした。ジャコモが父セルジォとベランダに並んで手を振っている。
©Constanza Maucci
 村に入る。広場から路地伝いに、古本の露天商たちが台を連ねている。本の山の前で、子供たちが笑ったり泣いたり。犬が走る。店主と客たちの雑談。本を(めく)る紙の()れる音。
 乾涸(ひから)びて硬くなった村の隅々まで温かい血が流れ始め、村が息を吹き返す。

 露店をひと通り見たあと、村の外周に沿って小道を伝い、ジャコモの家に着いた。満面の笑みで、老父セルジォが私を出迎えた。
©UNO Associates INC.
 「どうです。村一番の眺めです。明朝あなたが窓を開けてご覧になる景色を、私もいっしょにここから楽しみますよ」
 眼下の食堂の向こうに、山が十重二十重(とえはたえ)に連なっている。
 「今、上っていらした小道を抜けて、あそこの脇を入る。それが、隣村ポントレモリへの近道です。村から行商へ出かける男たちが通った道でした」
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 セルジォは、食堂の横を指差して言った。低木や雑草が密生し、道など見えない。山(すそ)に沿う本道では、遠回りだったのだろう。(やぶ)に頭から(ねじ)り入って進むような、獣道である。
 「マウッチというのが私どもの姓ですが、モンテレッジォには同じマウッチ姓の家がいくつかありましてね。本の行商をしたマウッチ家もありましたが、うちは本との関わりはありませんでした」
©Associazione “Le Maestà di Montereggio”
 売ったのはこれでした、とセルジォが差し出した写真には、茶色く()びた剃刀用の替え刃が写っている。<Ghelfi>と、刻字が読める。
 今、九十歳のセルジォから三代前のマウッチ家には、1800年初め頃に事業で成功を収めた女性がいた。嫁ぎ先のゲルフィ家が、パリで剃刀の替え刃の製造販売を始めて大きく当てたのである。
 1800年代は、<男子たるもの(ひげ)>という風潮だった。職業や年齢、身分にかかわらず、誰もが髭を(たくわ)えた。髭は、成熟した男らしさと知性のシンボルだったからだ。古代ローマでは、少年が成長していくとき髭を剃らせなかったという。髭をあたって初めて、少年は成人になった。髭剃りは、男になる儀式だったのである。
 髭の品格は、剃刀にかかっている。「ゲルフィの切れ味は抜群」と、評判を呼んだ。1800年の男の顔を担ったのである。ゲルフィ社は代替わりし、並み居る競合に負けまい、と新商品を考案した。研ぎ石である。
 「剃刀で成功した親戚から勧められて、私の祖父はモンフェッラートという、ジェノヴァからトリノへ向かう途中の村へ移住し、研ぎ石製造を始めたのでした」
 セルジォの話を聞きながら、私は(うな)っている。
 石でできた村モンテレッジォを出た村人が、移住した先でも石から生きる(かて)を得たなんて……。
 採石して、切り揃える。ごく単純な製品である。それでも、「マウッチ製のは違う」と、よく売れた。石を見る目があったのか。石の活かし方を心得ていたのか。やがてマウッチは、皮革製のベルトに独自に開発した(のり)で研ぎ石を貼り付けて売るようになった。
 何せ町じゅうが、髭面で(あふ)れていた時代である。理髪店で髭の手入れをすることは、男の身だしなみの基本だった。理髪店は、こぞってマウッチ製の研ぎ石を買った。決して革ベルトから()がれない、堅牢な石。簡素極まりないが、実直で信頼できる石。研げば、刃は切れ味を発揮した。主役の値打ちを引き立てるような、石。 
 「石を売って得たお金でモンテレッジォの高台に家を建てたあと、立派な石造の墓を造ったのでした」
 富を得ても、向かった先はパリでもロンドンでも、フィレンツェやミラノでもなく、故郷モンテレッジォだった。生きた証として(のこ)したものは別荘や贅沢品ではなく、帰る家と先祖を(まつ)るための墓だった。
 石から生まれて、石に還る。墓を守る。祖先を敬う。歴史を伝える。
©Associazione “Le Maestà di Montereggio”
 「祖父はそこそこの財を成しましたが、早くに妻を亡くしてしまう。四人の幼子を抱えて立ち往生し、とうとう研ぎ石工場を廃業してモンテレッジォに戻りました」
 しかし山村には男寡(おとこやもめ)の子育てを助ける手はあっても、新事業を繁盛させる土壌はなかった。貯えで食い繋ぐ生活が続き、マウッチ家は少しずつ傾いていった。それでもセルジォの祖父は自宅の一部を村に提供し、そこに村で初めての学校ができたのだという。
 「祖父は村の未来のために、子供たちに読み書きの楽しさを遺したかったのだと思います」
 石が、本へと道を(つな)ぐ。

 横で静かに父セルジォの話を聞いていたジャコモが、古い書類のコピーを見せてくれる。村の公文書だ。学校の略史が記されている。
 イタリア半島が王国として統一されたのは、1861年のこと。1868年付けの公文書には、モンテレッジォの教師として男性の名前が残されている。おそらく周辺の山村を一校区にまとめ、村を巡回して教鞭を取っていたのだろう。当時、学校に行けるのは男子に限られていた。
 そして1877年、五年間の義務教育制度が制定される。
 翌年の公文書によれば、モンテレッジォの人口は八百五十六人。男子校と女子校がそれぞれ専属の教師を伴って創設されている。男子校三十二人(六歳以下三人、六〜十歳 二十二人、十歳以上 七人)、女子校は十八人(六〜十歳 十三人、十歳以上 五人)。
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 飛んで、1911年。学校の記念写真が残っていて、六十六人の生徒が写っている。
 マウッチ家の中の、小さな学校は、その後も1940年くらいまで続いたという。
 「男の子と女の子が入れ替わりでやってきて、(にぎ)やかに勉強していたのを覚えています」
©UNO Associates INC.
 ここを勢いよく滑り下りたりしてね、とセルジォは感慨深い面持ちで階段の手すりに手を載せている。

 モンテレッジォは、長らく自給自足や物々交換だった。春になると山を越えて北イタリアの荘園農地へ出稼ぎに行き、秋の収穫を終えると村に戻り家族と冬を過ごす男たちも多かった。モンテレッジォに限らず、農耕地が少ない寒村ではどこも似たりよったりの暮らしぶりだっただろう。
 1800年代のある年を境に、村人は行商へ出かけていくようになった。モンテレッジォのささやかな産業革命だったのかもしれない。マウッチ家の先祖が他所で剃刀や石を売り始めたのも、ちょうど同じ頃だったのか……。
 時代の移り変わりを考えていると、
 「でも農業から商業へ突然に生き方が変わったのには、何かよほどの事情があったからではないかと思いまして」
 ジャコモがイタリアの地図を広げる。
 「それまでモンテレッジォの経済は、この一帯に依存していました。マラスピーナ家をはじめとする、荘園領主の土地でした」
 仕える先の情勢が、そのまま従属する町村の先行きも決めた。運命共同体である。
 「史実を調べていて、1816年が<夏のない年>だったと知りました」
 <夏のない年>。1816年、北ヨーロッパ、アメリカ合衆国北東部およびカナダ東部の各地で、五月の霜に続き六月の吹雪(ふぶき)や深い積雪、七月八月には河川や湖の凍結、30度を超える温度から零下まで数時間に激変するなどしたため、農作物がほぼ全滅する事態となった。この異常気象は、1815年までの数年間にカリブ海やインドネシア、鹿児島、フィリピンで火山が次々と噴火し、大量の火山灰により太陽光が遮断(しゃだん)されたために起こったとされている。
 北イタリアでは、麦と桑が全滅した。つまり、主食と産業の要だった絹が忽然(こつぜん)と消滅してしまったのである。
 「それまでモンテレッジォが頼りにしてきた農地では、働き口どころか農業そのものがなくなってしまったのです」
 夏がなかった年は、その後の秋も冬も雨が降り続いた。中国やインドでは、大雨で洪水が起こりコレラが蔓延(まんえん)した。疫病、飢餓、鬱屈(うっくつ)。人々は(おび)えていた。
 「モンテレッジォの人々は、もともと糊口(ここう)(しの)ぐのには慣れていましたから」
 <何かを売りに行かなければ>
 まず村人たちが(かご)に入れて担いだのは、聖人の祈祷入りの御札と生活暦だった。カレンダーのようなものだが、月齢や日食、占い、季節ごとの行事など、暮らしに役立つ情報が書き込まれてあった。
 天変地異に(おのの)き飢餓に苦しむ人々にモンテレッジォの行商人たちは、神からの加護と、大地と天に暮らしの拠り所を再び見出して、との励ましを届けたのである。中世、人々が世の中の好転を感謝し聖地巡礼に歩いたのと同じ道を伝って。
 ああ、そうだったのか。
 ジャコモたち有志が結成した組織の名前を思い出し、今さらに膝を打つ。名前は、『モンテレッジォの<マエスタ>(聖母子像)』である。
 母が子を抱き、守るように。
 それこそが、荘厳(マエスタ)なこと。
 <痛恨の後には、また喜びも訪れる>
 モンテレッジォに古から伝わる、心根(こころね)に出会う。

 近世の普通の人々の生活光景は、どうだったのだろう。
 ルネサンス時代への過渡期、宗教画から離れて、市井(しせい)の人々が主役として描かれるようになった。中でもよく知られる、十六世紀のボローニャ派画家アンニーバレ・カルラッチの『職業』という作品群を見てみる。
 (おけ)を売る人、堆肥(たいひ)を担ぐ人、香、籠、帽子、(はかり)漏斗(じょうご)、野菜、肉、パン、ソーセージ……。一人一種で、食材や加工食品、日用雑貨や服飾品、道具を肩に担いで行く人たちが並ぶ。その様子は歩く商店だ。
 中の一枚に、<本を売る人>がいた。籠いっぱいに本を詰め、それでも足りず服のポケットにも入れている。一冊を広げて前に掲げ持ち、口元に笑みを浮かべて歩いている。
 おや? どこかで見たことがあるような……。
©UNO Associates INC.
 「モンテレッジォの広場にある本の行商人の石碑は、この名作を元にして彫ったものなんです」
 ジャコモが笑った。
 1501年ヴェネツィアで、アルド・マヌツィオが活版印刷で文庫版を出版してからわずか数十年で、こうして籠に入れて売り歩かれるほど本が暮らしの中に浸透していたのか、と興味深い。
 しかし絵に残されているとはいえ、義務教育制度ができるのは1877年になってからのことである。1500年代にすでに読み書きができる人たちの数は、かなり限られたものだっただろう。それでも本の行商が職業として成り立つほどに、本は売れていたのだろうか。
 モンテレッジォの行商人が、売り歩いたのは本ではなかった。聖なる御札だった。小さな紙片で、お守りのようなものだ。買っても、聖人の絵の下に書かれた祈祷文を読めない人がほとんどだった。御札や暦売りがやって来ると人々は広場に集まり、行商人が御札に書かれたことを説明したという。しかし、行商人にも文字の読めない人もいた。御札を預かり受けるとき神父から説法を聞いて、まるで自分が読んでいるかのように熱心に説明したのだろう。
 御札や暦を商材に選んで売り歩いたのは、貧しさのあまり売る物がなく、御札を運びながら自分への加護も祈っていたのかもしれない。
 本と祈り。聖なる道、か。
 聖なる頂点、ローマ教皇について調べてみようか。
 ヨーロッパの歴史は、キリスト教の歴史である。本の歴史も、すなわちキリスト教の歴史なのだ。
 中世から近代にかけての教皇たちを調べてみると、地元アペニン山脈からリグリア海への一帯出身の教皇がいた。大理石の採石地のカッラーラと隣接するサルザーナという町に生まれた、ニコラウス五世だ。
 1447年に教皇に登位するとすぐ、ローマの復興事業に取り掛かっている。まず、サン・ピエトロ大聖堂の再築構想を掲げた。キリスト教の教会建築として世界最大、床面積23,000平米が、倒壊寸前の危機にあったからだった。在位期間が八年間と短かったため工事は中断したが、このローマ復興計画を皮切りに、教皇の地元カッラーラからは莫大な量の白い大理石がローマへと搬出されていったのである。
 1448年にはニコラウス五世はさらに、バチカン図書館を創設する。代々の教皇から引き継がれたラテン語や古代ギリシャ語、ヘブライ語の古写本350点から始まった。
 ニコラウス五世は、『キリスト教関連の写本なら、金に糸目を付けずに買い上げる』と布告を出していたらしい。蔵書を増やすために、ヨーロッパ全域の富裕者や教会、知識人たちから稀少な写本を買い集めようとしたのだろう。
 教皇は、生まれ故郷から石を買ってローマ再建に取り組み、同じ石で図書館を創設した。
 石が本を呼び、抱えて守る。
 聖母子像。荘厳(マエスタ)なる……。

 籠いっぱいに聖人の守り札を詰めて、モンテレッジォの村人たちは行商の旅に出た。往路は神のご加護を届けるために。そして帰路には、各地で聞いたキリスト関係の本の情報を詰めて。神の言葉を運ぶ行商人には、神々しい本の情報が届いたのかもしれない。
 本の行商とは、本を売るだけの商売ではなかったようだ。現代の書店が、本を売るだけの場所ではないように。


(第十話 12月18日掲載)

プロフィール
内田洋子 Yoko Uchida, Journalist

ジャーナリスト。イタリア在住。
1959年神戸市生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒業。
通信社ウーノ・アソシエイツ代表。2011年『ジーノの家 イタリア10景』で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『ジャーナリズムとしてのパパラッチ イタリア人の正義感』『ミラノの太陽、シチリアの月』『イタリアの引き出し』『カテリーナの旅支度 イタリア 二十の追想』『皿の中に、イタリア』『どうしようもないのに、好き イタリア 15の恋愛物語』『イタリアのしっぽ』『イタリアからイタリアへ』『ロベルトからの手紙』『ボローニャの吐息』『十二章のイタリア』『対岸のヴェネツィア』。
翻訳書にジャンニ・ロダーリ『パパの電話を待ちながら』などがある。
『Webでも考える人』連載エッセイ 《イタリアン・エクスプレス》

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