妄想書評

妄想書評

小説家、絲山秋子さんによる不穏な書評です。
「担当者から送られてきた架空の本のタイトルリストから、毎月本を選んで内容や感想をでっちあげるという企画です。著者と出版社名は私の方でこしらえました」(第1回目より)
つまり、評された本はこの世に存在しないのです。
誰も知らない、知られるはずのない世界から届く、絲山さんの脳内のみを通り越してやってくる実在の「書評」。お楽しみください。


  第七回(2019.11.11)

『にっぽん家具屋紀行(6)イケア前橋編』
『なんでもボイルマン』
『あなたは、右手で右手の爪を切れますか』


「珍渦虫」をご存じですか。読み方は「ちんうずむし」、海底に住む生物です。肉眼でも見えるどころか5センチくらいの大きさのものもいます。見た目は、それほど変わっているわけではないのですがなんというか、肉片っぽいのです。脳がありません。眼もありません。肛門がありません。循環器官、生殖器官を持ちません。生態には不明な点も多く、どの生き物の仲間なのかもわかっていないのです。
それでも、実在するのです。日本にも生息しているというのです。
あんまりじゃないですか。
妄想書評で突拍子もない嘘をつこうとはりきっていたのに、気持ち良く走ってきたらラリアットをかまされた気分です。
現実というものはいつだって、私たちの想像の翼をへし折ろうと狙っているのです。この世は地獄、現実は悪夢。私はいつもそう呟いて自分を落ち着かせています。この世は地獄、現実は悪夢。大好きな言葉です。繰り返し唱えていれば、なんとなく吹っ切れてきます。絶望に見切りをつけたら尻尾を巻いて逃げましょう。妄想の世界が待っています。

『にっぽん家具屋紀行(6)イケア前橋編』伊瀬先欧太(いせさき・おおた)著 帳尻コーポレーション
「イケア前橋」を検索すると、広大な原っぱに小さな看板が立っている画像が大量に出て来ます。外壁に描かれた風景画があまりにリアルなため、写真に撮ると建築が風景そのものに見えてしまうのです。このため「イケア前橋は実在しない、何年も前から予定地のままになっている」という噂が生まれたのだとか。日常にすっかり溶け込んで、いつも利用している私ども群馬人としては信じがたい話です。
イケア前橋は家具店としては日本で初めてのデジタル無人店舗ですので、ごくまれに入店できない方もいます。脳と視覚のアップデートが3次元で止まってしまっている方はサービス対象外です。4次元以上であれば大丈夫なのですが一部のハイテク家具については購入に制限があるそうです。6次元以上の会員であれば商品の圧縮とドローン配送が無料になるとのこと。札幌と広島に昨年出来た店舗も同じシステムだそうです。
「次元の異なる人々が混在する社会にあって家具屋も時代の曲がり角に立っているのだ」と人気ライターの井瀬先欧太氏は語ります。そして「イケア前橋ばかりではなく、前橋南インターや北関東自動車道の存在までうさんくさいと否定する人は3次元界隈から脱出できずに苦しんでいるのかもしれない」という、ちょっと意地悪な感想も。人を小馬鹿にした態度がこの人のキャラというのはわかりますが、『にっぽん家具紀行』を楽しみにしている読者にはアナログ層も多いはず。さすがに今回は少し大人げないと思いました。

『なんでもボイルマン』爆森点一(ばくもり・てんいち)著 疑似餌書房 
「古くなった弦を茹でて復活させる」という方法は、ベーシストなら誰でも知っています。「こめかみに梅干しを貼る」とか「首にネギを巻く」のと同じように、やったことはないけれどいつか試してみようかな、とうっすら思っているものです。
著者の爆森氏は、楽器の弦に飽き足らず、印鑑やロープ、精密部品、彫刻、仏具、ゴム製品、装飾品など片端から茹でてしまう、文字通りの「なんでもボイルマン」。茹で方さえ間違えなければ、製品の品質は飛躍的に向上します。そしてミョウバンや十円玉、チョークなどを少量加えることで得られる効果も驚くばかりです。第二部は、こだわりグッズを油で煮るという「延命アヒージョ法」、第三部は「電気めっきで人生が変わる」となっていて、どこから読んでもワクワクします。爆森さんはいずれ、イグノーベル賞をお獲りになるのではないでしょうか。私はひそかに応援しています。

『あなたは、右手で右手の爪を切れますか』生駒井千種(いこまい・ちくさ)著 ロマネスコ文庫 
秋も深まり冷え込みが厳しくなるこの時期、心あたたまる恋愛小説を読みたいという方にお勧めしたいのが生駒井千種さんの新刊です。私はこの方の描く人物が大好きなのですが、今回の主人公の鰤美(ぶりみ)も、幸せになりたいと願うすべての女性の心をとらえて離さない無理難題系ニート女子。もちろんタイトルも彼女一流の無理難題から来ています。鰤美の性格を一言で言えば、おおらかでちょっぴり計算高く、天然なのにあざとさもあって、しっかり自分を持っていながらどこかつかみどころのないクールな癒やし系、そんな、私たちのすぐそばにいてもちっともおかしくない非凡な女性です。
鰤美は、ひょんなことから豪華客船でのクルーズ旅行に参加します。偶然同じ船に乗っていたのが初恋の相手であるフランツ・フォン・シュピツェニッヒ。運命の再会に二人の心は激しく燃え上がります。けれども、かつて夢と義侠心に溢れた青年だったフランツは、今や誰もがつき合いを避けるほどの立派な老害になっていて……。二人はどうやって困難を克服していくのか、大人の恋物語に注目です。読んでいるうちに、自分もいつかきっと、右手で右手の爪を切れるようになるという希望が胸に灯ります。いえ、左足の爪だって左足で切ってみせる、そんな強い気持ちがホットフラッシュのように溢れてくるのです。

 

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 絲山秋子(いとやま・あきこ)
1966年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、住宅設備機器メーカーに入社し、2001年まで営業職として勤務する。2003年「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞、2004年「袋小路の男」で川端康成文学賞、2005年『海の仙人』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、2006年「沖で待つ」で芥川賞、2016年『薄情』で谷崎潤一郎賞を受賞。近著に『夢も見ずに眠った。』(河出書房新社)、『絲的ココロエ–––「気の持ちよう」では直せない』(日本評論社)。