影を歩く(back02)

影を歩く


  第六回(2017.08.19)

敗ける身体

 家の近くにテニススクールがあり、練習する人々の姿を金網越しに見ることができた。小さな子どもから、おじいさん、おばあさんまで、様々な年齢の人がラケットをふっている。練習試合をすることもあって、次第に足を止め観るようになった。五歳になる息子も夢中である。自分もテニスをやりたいと言う。
 スクールには同じアパートに住む中学生の男の子も通っていて、息子がテニスをやりたいというのは彼の影響もあった。ひいらぎくんという。うちと同じ一人っ子で、息子はひーちゃんと呼んで慕っている。
 スクールの前を通ると、たまに柊くんがレッスンを受けているところに遭遇する。なんだか頼りなげで強そうには見えなかった。それは柊くんの両親も認めていて、自分たちの息子が試合で勝ち進むとは、いついかなるときにも考えられないのだと、そこまで言わなくてもという率直さでお母さんが話してくれた。
「でも、勝つこともあるんでしょう」
 柊くんが気の毒になって聞いた。
「たまにね。でも敗けることのほうが多いです。勝ったときには必然という気がしなくて、敗れたときには必然という感じがするんですよ」などという。
「応援にはよく行かれるんですか」
「まあね。最初は、もう中学生だし、親が応援なんてと思ったんです。会場も遠いし、朝が早いし」
「ええ」
「ところが選手のお母さんたちが、皆熱心で。試合の前に早朝練習をしたりする。それに参加するのは選手だったら当然のことなんです。始発もまだという時間帯ですから、どうしたって親が車を出さなきゃならない」
「親も大変ですね。でも柊くん、中高一貫で大学まで行けるんでしたよね。好きなことに思う存分、打ち込めていいじゃないですか」
「だから困ってるんです。結局勉強なんか、そっちのけ。大学まで行けるからこそ受験勉強じゃない勉強をしてほしかった。うちはテニスは、スポーツを楽しむ程度でよかったんです」
「選ばれし者は大変ですね。柊くん、選手なんでしょう」
「選手になったり、ならなかったりです。柊はいつも何も言わないの。たんたんとしているのは、いいところでもあったのですが、何を考えているのか、まったくわからない」
「テニスは好きなんでしょう」
「やめるとは言いませんから、好きなのかしら。自分が産んでも、子どもって別の人間。あたしだったら、こんなこと、やってられないってやめちゃうところですよ」
 小学生のとき、柊くんは、ひいらぎの「ひ」は、ひよわの「ひ」だと友達から悪口を言われた。昔も今もほっそりとした印象は変わりなく、首と手足がとりわけ長い。そしてちょっと猫背だ。成長の途上にある今は、背の伸びに対して、体重が追いつかない時期なのかもしれない。コートに立つと、確かに勝つとは思えないのだ。と言うか、なんとなく不安になってくる不思議な身体。
 小学生なんかでも、そこにいるだけで何かをやりそうだと感じさせる子どもがいる。スクールでの練習試合風景を見ていると、確実なストロークで球を打ち返し、めりはりがあって安定感がある。たとえ相手に敗けたとしても、その身体は、コートに立つだけで積極的に物を言っていた。簡単にいえば「存在感」というものがあった。一種の役者で、身体表現が豊かなのだ。独創的な演技でなく、むしろパターン化された演技ではあるが、点を決めたときには拳を固めてガッツポーズ、ゲームに勝てば身体全体で喜びを表す。時には何もなかったかのように、喜びを抑制し、しかしその実、勝者となったことを自分自身で隈なく味わっているというふうの冷静な子どももいた。テニスの試合には独特の決まった「仕草」がある。テレビでテニス番組を観るようになってそれに気づいた。プロの選手たちも、同じような仕草をしている。子どもたちはそれを自然に模倣しているのかもしれない。
 比べて柊くんは、身体で感情を表すには至っていない。勝つということにあまり熱心でないようにみえる。敗けても諦めが早いのか、たんたんとして見える。勝つか敗けるかのスポーツでは、前提として相手に打ち勝とうとする覇気が必要で、本来ならばその意志が、ときに身体から透けてみえるようなのが、よしとされるのだろう。
 先日、アパートの中庭で、柊くんのお父さんとすれ違った。
「テニス、がんばってますか?」
 柊くんの様子を聞こうとしただけなのだが、お父さんの、告白めいた愚痴が長く続いた。
「いやはや、中学の部活動、予想外に大変です。週のうち、休みは一日だけ。帰りも遅くなります。スクールにも通っていますから一週間は目一杯です。塾にも通わせたかったんですが、生活はもはやテニス一色。楽しむなんて範囲は超えました」
「いま、何年生でしたっけ」
「二年です。テニス部、各学年二十人くらいいて、学年をはずして選手、いわゆるレギュラーを決めるんですが、そのレギュラーはたった六人」
「あとの子はみんな補欠というわけですか」
「補欠の枠は一名、あとの子どもたちは、そう、なんといったらいいのだか。ただの部員です。部内戦をやって選手を決めるらしいんですが、全員があたるわけでもないらしく、どんな仕組みで選んで入るのかはよくわかりません。選手になれるのはごく一部でも、全員の底上げと称して、部員はみんな学外のテニスクラブに入ることを強制されます」
「お金もかかりますね」
「スポーツに補欠は必須のものでしょうから、それ自体は仕方がないと思うのです。でもね、学校という場で、卒業するまでこれだけ浮かばれない子どもたちを出し続けるのは日本の部活動の悪しき特徴じゃないかと思うこともありますよ。もはや柊が選手になれるかどうかの問題じゃないんです。すべて選手が優先され、補欠以下は部活に出ても打てないこともある。しかしどんなことがあっても応援だけはさぼるわけにはいかない。団体競技の掟です」
「はあ。テニスって団体競技なんですか」
「学校単位で戦う団体戦もありますからね。ぼくは昔から体育会系の団体の理屈というのがどうも苦手で、それでもスポーツをやりたかったんで、水泳をやったんです。水泳にも、競技会というのはあって、学校の代表だの、タイムがどうのってのは多少ありますけど、ぼくはあんまり競争に興味が持てなくて、ただ、泳ぐのが好きだった。幸い、それが許されるクラブだったんです。先輩も後輩もなく、アメリカ人の神父が顧問の先生で、クラブ活動といっても、ただ、楽しく泳ぐだけ。あまいです。でもそれのどこが問題なんです? そんなのがあってもいいでしょう。積極的に上を目指して戦いたい者は、学外のクラブがあるんですからそこでやればいい。まだらでいいのに、統一しようとするから無理が出て苦しくなる。そんなわけでぼくは中高通じて水泳を楽しみました。柊は、ぼくと似たところがあるし、やつは、団体としての規律を常に求められる体育会というのが苦手だろうなあとなんとなく思ったものですから、そしてテニスは基本的に個人競技だから、柊に向いているのではないかと本人にすすめたんですよ。だけど部活動となれば、結局、体育系はどこも同じようなものだったようです」
「ふーん」
「やつを見ていて思うんですが、勝負事には向いていないのかもしれない。なにがなんでも勝つという覇気がないのです。そのせいで、居場所がないのかもしれませんね。近頃はなんだか暗い顔をしている。おそらくテニス部では浮いてるんじゃないかと」
「あはは。独立独歩の柊くんらしいじゃないですか。色々考える子ですからね」
「中高一貫、大学までつながっているとなると、文武両道の名のもと、学校のほうも名をあげたいということがあるんでしょうか。試験前は部活動が禁止されているんですが、試合が近くに控えていればそんな規則もとっぱらわれます。夏休みも、部活動、合宿、試合とあって、選手でなくっても家族旅行なんてできません。一人抜けるのはご法度なんです」
 柊くんのお父さんは、そこではっとしたように、「ああ、すみません、つい長話の愚痴になってしまった。やるのは本人ですから、親はもう引っ込みますよ」と詫び、そそくさと去っていった。

 思い出していたのは、学校時代のことだ。わたしもそうだった。何が何でも勝ちたいという気持ちの薄い子どもだった。運動会などで組別対抗の競技に出ても、敗けて悔しかったとか、勝ってうれしかったという鮮明な記憶がない。ただ、スポーツは得意で、陸上競技が好きだった。だから柊くんのお父さんと似ている。ちょっと自慢すると短距離とハードルでは学校代表メンバーに選ばれたこともある。中学校のときの話。最終的にはタイムが伸びなくて、わたしは補欠になった。
 補欠として、みんなと一緒に遠いところまで行って(遠い、暑かった、というほかは、記憶が残っていない)競技会に出た。誰からも声をかけられることなく、ずっとむしろのうえに座っていた。出番はなかった。青空が広がっていた。太陽がわたしを照りつけていた。わたしはただ待っていた。誰かが負傷したら出番が来る。けれどそんなことは期待することでもないし、考えられなかった。わたしは出たいとも思わなかった。全身で、「控え」を生きた。複雑な思い出だが、味のある経験だったとも思う。しかしあんなことばかりだったら、それもおかしい。数えるくらいでいい。たまに出番も来るというのがいい。わたしはそう思う。
 スポーツには、光のあたる選手もいれば、その影に必ずレギュラーになれない子というのが多数、出る。レギュラーになれなかった子などが、後年、部活動の思い出を語り、それでも学ぶ事が多かったなどと話すのを見たり聞いたり読んだりすると、なんだか、いたたまれないような気持ちになったりする。耐えることを学んだか。悔しさを学んだのか。
 人生で自分に光が当たる場面など、誰だってそう多くはないのはわかっている。だがスポーツをすることを目的として一つの集団に参加したにもかかわらず、時間のほとんどを、スポーツの実践よりも、トレーニングや待つこと、応援することだけで終わるなんて、やっぱり少し変じゃないか。選手は選手であることを極めればいい。そうではない子どもも、ときには選手の影から脱し、太陽のもとで輝けるような、そういうゆるさが部活動にあればいい。
 夏。高校野球の季節になって、今年もテレビでつい見てしまう。声援している子どもたちが映る。太陽が照りつけるなか、真っ黒になって大声をはりあげている。チームが敗けると泣いてしまう女の子もいる。すごいなあと思う。偉いなあと思う。そんなふうに一体感を持てることを羨ましいとも思う。
 柊くんが試合に出て、そしてそのときたまたま勝ったとしても、こぶしを上下に激しく振って、ガッツポーツをするところを想像できない。そんな柊くんの姿を見てみたいような気もするが、スクールでの柊くんはいつも電信柱だ。柊くんはお決まりのポーズをすることに対して、恥ずかしいという気持ちを持っているんじゃないかな。そしてその恥ずかしさのようなもの、自意識のようなものが有る限り、コートに立つ柊くんは、今後も弱々しく、とても勝ちそうには見えないのであろう。だけど、わたしは知っている。柊くんは精神的に決してひよわな子どもではないということを。
 コートに立って目立つ子どもがいる。目立たず弱々しく見える子どももいる。最初から敗けているような身体。大人でもいる。最初から敗けている、なんだか頼りなく見える、受け身の身体。勝ちそうな身体は目を引くが、わたしは敗けそうな身体にも興味をひかれる。むしろそういう身体に惹きつけられるといってもいい。スポーツの局面では話題にされない弱い身体。なぜ、そんな身体が気になるのだろう。
 どうやって人に勝ったらよいのかを、わたしは誰にも教えられない。教わったこともない。勝とうとしたことがないから。こんな母親を持った息子は、勝つということを目標に掲げてがんばれるだろうか。
 勝ち負けのことを考えていたとき、わたしは唐突だが戦争のことを思った。わたしは日本が戦争に敗けたことを結果としてよかったと思うが、他の人はどうだろう。勝とうと思ったことは間違っていたと、あのとき勝とうとした人は天皇以下、言うべきだったと思う。もしいったん戦争を始めたのならば、そこに発生する必然の流れは、敗けてもいいではなく、どうしたって勝つことだろう。戦争を始めてはいけない。コントロールがおそらくできなくなる。
 いや、話は、テニス部のことだった。
 スポーツの話をしていたのだった。
 スポーツと戦争はまったく別のものである。勝ち負けの話が戦争のところにまで行ってしまうのは変だと思う。思うがどこか、つながっているような気もする。わたしは勝者と敗者のでないスポーツを退屈だと思うし、他人の勝ち負けを鈍感に楽しむ。どうしたって、勝負をつけるという運命から人間は逃れられないし、それを時には見たい。自ら参入していくこともある。それがわたしたちという人間。
 だがうまく解決がつけられないのだ。スポーツにかかわらず、勝ち負けということが自分にふりかかってくるとき、なぜわたしは勝つという積極的な目的に自分をあわせることができず、そこから逃げる傾向があるのだろう。弱いのか、ずるいのか、本当は敗けたくない卑怯者なのか。嘘つき、偽善者、矛盾だらけの人間。自分が勝つことよりも敗けていると見える状態を楽しんだり、安心したり、好む傾向すらあるような気がするのはなぜなのだろう。
 大昔、勝ったわけでもないし逃げたわけでもないのに、「勝ち逃げした」と非難されたことがあった。スポーツではない、別の場面だ。何が勝つことで負けることか。あのとき、いたたまれない気持ちになった。怒りも虚しさもあわれさもあって、それを言った彼女との縁を、わたしは喧嘩をすることもなく切ってしまった。喧嘩すればよかったと思う。
 柊くんは今朝も、大きなテニスバッグに、教科書もノートもラケットも靴も弁当も詰め込み、一人、家を出る。お母さんが言うには、背中の肉が千切れそうなほど重いのだそうだ。相変わらず、親に何も言わず、テロリストにもならず、その背中は黙々と駅へ向かう。何を考えているのか。わからない。こっちもかける言葉がうまく見つからない。その身体は、身体よりも大きいバッグに覆われ、もはや勝ちも敗けもない。押し潰されそうになりながらも決して潰れない。歩いているのは柊くんというよりバッグだが、それでも動いている、前へ進んでいる。


  第七回(2017.10.14)

柿の木坂

 柿の木坂に住む同僚を訪ねたことがある。その家の庭には柿の木があった。訪ねる前から彼女には言われていた。
「迷ったら、大きな柿の木がある家だと言って。たいてい、わかるから」。
 よほどに目立つ木なのだろうと思った。
 その日のことはよく覚えている。
 夏の盛りの頃だった。地図の読めないわたしは、案の定迷い、吹き出る汗をぬぐいながら、道ゆく人にたずねていた。
「大きな柿の木がある家なんです。ご存知ないでしょうか」
 すでに見たことがあるかのように、わたしは聞いた。想像のなかで、確かにそれは、屋根を覆うほどに枝葉を広げていた。
 近くまで来ていることは確かだった。
 三人に聞いたが、三人共にわからない。最後の一人はとても綺麗なおばあさんで、古くからこのあたりに暮らすという親切な人だった。
「柿の木は、昔、この一帯にたくさんあったのよ。農家が多くてね。秋になると、柿の赤い実があっちにもこっちにも。近頃はすっかり見かけなくなったわ。今は広い庭を持つお屋敷ほど、相続のときに切り売りされてしまう。一軒の敷地が、カステラのように細長い三つの土地になったり、時にはそのあとに素早くアパートが建ったり。住民もだいぶ入れ替わったはずよ。柿の木だけじゃ、わからないわね。他に情報はないの?」
「住所があります」
 最初から素直にこれを言えばよかった。
「なんだ、柿の木坂じゃないの、ここからはちょっと歩くわ。六、七分かしら。このあたり、初めて?」
「ええ。初めて来たんです」
 飯田橋にあった小さな雑誌社。わたしたちは、編集長を加えた、たった三人で、さまざまな印刷物の編集を手がけていた。タウン誌、パンフレット、個人の詩歌集……。細かい仕事が、途切れもなくあった。
 同僚といっても、彼女はわたしよりも一回り上。けれど中身は、わたしほどもすれておらず、純粋でお嬢さんのようなひとだった。
 わたしたちは、どちらも独身だったが、わたしには結婚の予定もないままつきあっている人がいた。彼女には、その影もなかった。そもそも男性とは、つきあったことがないと言う。同性から見ても魅力のある人だけに驚いてしまった。お茶くらいは飲めても、怖くて深い関係にはふみこめないのだそうだ。
 そんな彼女が、ときどき、とてつもなく激しい「性夢」を見るというのだから、聞かされたときにはこれまた驚いた。セームなどと言われても、即座に意味すらわからない。なんて虚しい二文字熟語だろう。
 どんな夢なの? と聞いたが、恥ずかしいと言って何も教えてはくれない。とにかくそれは、目覚めたあとも痕跡がはっきりと肉体に刻まれているほどの、たいへん生々しい経験なのだという。
「へええ。わたしもそんなリアルな夢、見てみたいわ」
 好奇心からそう言ったが、妄想の肉体より、実際のほうがいい。彼女を現実のなかへ押し出したい気持ちだったが、夢を語るときの彼女は、まさに夢見る人。誰のどんな言葉も聞かないというふうだ。自らそれを夢と言っておきながら、リアルな実体験だと考えているふしもあり、聞いたこちらが困惑する。
 あの日は結局、約束していた時間に、少し遅れて到着した。携帯電話も、広く出回っていないころのことだ。
 辿り着いたそこは、古いが風情のある平屋の日本家屋。時代はバブルに湧く頃だったから、ひっそりと取り残された感じもあった。木製の外門には木の屋根までついている。家のぐるりを背の高い緑の生け垣が囲っていた。生け垣の向こうには庭が広がり、その中央に、きっと柿の木がある。ここからはまだ、何も見えないけれど。柿の木はどこかしら。柿の木は。
「遅かったわねえ、心配していたのよ」
 彼女の声がして、玄関の戸ががらがらと開いた。到着するまでのことは口にしないで、ごめんなさいとあやまった。
 招き入れられた玄関脇で、「柿の木は」と尋ねようとすると、わずかに早く、彼女が言った。
「あれよ、あれが柿の木よ」
 指差す方向には庭があると思われたが、言い方が曖昧で、よくわからない。だが確かに樹木の一部は見える。たくさんの木のなかから、柿の木を選べと言われて、わたしは正確に言い当てることができるだろうか。そのとき初めて、自分が柿の木のことを、まるで知らないというということに気がついた。
 奥から彼女のお母様が出てきた。
「まあまあ、よくいらっしゃいました。娘がいつもお世話になっておりまして」
「いえいえ、お世話になっているのはわたしのほうです」
 言葉どおり、わたしは彼女に、すごく世話になっていた。神経質で鬼のような編集長の叱責を、彼女は常に、間に立ってかばってくれた。編集長には、よく言えば入念、いわば執拗で偏執的なところがあり、部下二人のやり方が少しでも気に入らないと、すぐに感情を爆発させる。彼女自身もよく叱られていた。苦労を知らない人だと思っていたのに予想外に打たれ強く、すぐにメソメソするわたしなんかとは違って、きつく叱られるのがうれしいみたいだった。わたしマゾだもんとニコニコして言うその顔は、少し紅潮し輝いている。怒る編集長のほうが滑稽に見えたくらいだ。
 暑かったでしょう。水出し緑茶を、あなたのために作ったの。暗い廊下を伝って居間へ通される。庭に面したガラス戸が全面開け放たれていた。
 庭の中央に、ひときわ大きな木が一本立っている。つやつやと濡れたような濃い緑の葉っぱが、ざわざわと音をたてている。正面から眺めるそれは、幹の太い、実にりっぱな木だ。
「あれが柿の木ですよね」
 わたしは確かめるように聞いた。
「そうよ、あれが柿の木よ」
 彼女も少しほこらしげに答えた。
 秋になれば、たくさんの実をつけるのだろう。
 お酒を飲むと、彼女はいつも、「子供を産んでみたかった」と悔やむのが常だったが、そうよ、あれが柿の木よ、というその声には、自分の子供をほこらしげに自慢するような響きもあった。
 昼でもひんやりとした暗い居間。そこから眺める庭は、緑が異様な迫力を帯び、前のめりになってこちらに向かってくる。
 柿の木の根本には、小さな池があり、池には石の橋がかかっていた。
 居間から眺める庭の姿は、まさに一枚の絵のようである。
 お茶と和菓子をいただいたあと、彼女とお母様とつれだって、三人で縁側から庭におりた。わたし用の小さなサンダルまで用意されていた。
 庭に立つと、不思議なことに、居間から眺めていたときの奥行きが消えた。庭はとたんに平板になった。どうしたのだろうとわたしは思った。数歩、歩けばすぐに行き止まりになる。おもちゃのような庭だった。池は暗い水たまりにすぎず、鯉が泳いでいるように見えたのはとんでもない錯覚で、池の上にかかる橋も石ではなく発泡スチロール。
 そして中央のシンボル、柿の木は、細い幹から細い枝をひわひわ伸ばし、わびしい姿で立っている。
 また遊びにいらしてくださいませね。お母様はそうおっしゃったが、二度目はもう、ないような気がした。おそらく彼女も同じことを思ったはずだ。その後わたしを誘うようなことはなかった。
 ただ一度、あのときだけ。なぜ彼女はわたしを呼んだのだろう。交友を深めたかったというより、何かを見せたかったのではないか。家だろうか。母だろうか。庭だろうか。柿の木だろうか。
 彼女とわたしの間には、それから薄い幕ができたような感じだったが、仕事の上では支障なかった。わたしたちは、少なくとも表面上は、すべてが前と変わらないという態度で、協力的に働いた。
 彼女はそれから雑誌社をやめ、わたしも数ヶ月遅れて職場を去った。手帖にはしばらく彼女の連絡先を残したが、携帯、そしてスマホへと移行するうち、彼女の連絡先は、木の葉が枝から離れるがごとく、ごく自然に、剥がれ落ちた。
 夢に柿の木が出てきたことがある。そう、あれは確かに柿の木だった。その木の下で、わたしは意外な人物と抱擁をかわしていた。郵便局の郵便受付にいる男性だ。名前も知らないし、話を交わしたこともない。なのになぜか抱き合っている。わたしたちは、固く結ばれていた。肌と肌、頬と頬とが触れ合うだけで、燃え上がるような快感が身体を突き抜ける。
 行為の途中、下から見上げる柿の木は、実に豊かな枝を伸ばし、青空が見えないくらいに葉を茂らせていた。こんなに鮮やかに生い茂っていても、これは夢、きっと錯覚。本物の柿の木は、もっと粗末で寂しい姿をしている。抱き合っているこの人だって、実際につきあったら、とてもつまらない人かもしれないし、とても恐ろしい人かもしれない。
 そう思いながらも、わたしは彼との行為をやめられない。ついに実をつけない柿の木の下。深まるばかりの快楽に身を委ねていた。


  第八回(2017.12.06)

傷とレモン

 さびしいとき、少女のようにレモンを買い、二個でも三個でもテーブルにころがしておく。それをつかんだり、料理に使ったり、お湯に浮かべたり。そんなふうに物に寄りかかり、自分をなだめて生きる日もある。
 レモンには充実した確かな重みがあり、大きさもちょうどてのひらに収まるので、つかんでいるだけで虚ろが満たされる。こころとは、ときに宇宙大に広がるものだとしても、普段は片手で囲えるほどの小さな容量なのかもしれない。
 物は絵に描いてみるといい。レモンは何によって、レモンなのか。それが身にしみてよくわかる。
 一つは色だ。レモンイエロー。さわやかな黄色は、若い緑が成熟した色でもある。
 近くの店では、国内産のレモンが、半ば青いまま売られている。一個百円程度。ダンボールにごろごろ山のように入っていたのが、日に日に減っていき、やがて底のほうに青いカビの生えた腐りかけのものが見えてくる。ああ、よかった。レモンは腐る。国内産レモンには斑点もあるし、凸凹していて、かたちも不揃いだ。だがワックスや農薬の心配はない(そう、表示してあるので、とりあえず信じている)。
 かつて梶井基次郎が、小説のなかで描いたレモンには、確か、絵の具で塗り固めたようなという形容があった。だから黄色一色の、絵に描いたようなレモンだったのだろう。いま、そういうものを探せば輸入レモンになる。防カビ剤使用の表示が必ずついている。売れ残ったとしても、いつまでも腐らない。オブジェとして以外、使い道はなさそうだ。
 レモンが何によってレモンなのか。その二は形象だ。単なる紡錘形ではない。片方の先端が乳房の先のように尖っていて、もう一方の先端は凸凹に盛り上がり、ヘソに似た突起をつけている。それこそは枝がもぎとられた痕跡で、その部分を見ているとレモンの樹の全体が想像される。見えない樹はレモンを失ったが、レモンもまた、母体である樹を失い、樹から離陸してここまで来た。レモンの充実とは、そういう旅の果てにある。
 何かのかたまりを作ろうとするとき、それが詩であれ、掌編であれ、レモンは無意識のなかに置かれたひとつの基準となるだろう。あの大きさ、硬さ、香り、感触、酸っぱさ、苦み。美しいもののあの重さだったと、梶井は書いた。抽象的なそれが、するりと具体物になって眼の前に現れた不思議。とりあえずそれにはレモンという名前がついている。
 わたしたちは、どうしたって甘いものでなく、すっぱいもの、苦いものに真実を見出そうとする傾向がありそうだ。
 甘みというものに罪の意識が入るようになったのはいつからだろう。戦後、甘さは生きるために求められた。白い砂糖は、和食を作る上でも、庶民の家では必需品だったはずだ。今は違う。白い砂糖がいかに健康を損なうか。ネット上にはそんな情報があふれるように出ている。
 だが、悪いものを排除しただけのものは、料理にしろ、作品にしろ、いかなる場合も貧相でぎすぎすしている。要は配分で、微量の毒は精神を健康にする。あるいは少しの毒を許す構えが。ストレスがたまると、わたしは添加物の入った身体に悪そうなものが食べたくなってくる。そして実際、少し食べる。あらゆる市販品を裏返しては、成分分析表示を確かめる自分を、ふと検閲官のようだと感じるので、時にはそうしてジャンクフードを食べることで、精神のバランスをとっているのかもしれない。
 ところでレモンは、近頃、塩とタッグを組まされている。大人気「塩レモン」がそれだ。飴から調味料まで、あらゆるところに塩レモンは顔を出す。塩レモンには、どこからも文句は出ないはずだというドヤ顔の風情がある。
 レモンがここまで食のメインステージにあがってきたのはなぜなのだろう。甘いモノを食するとき、わたしには、持たなくてもいい罪の意識のようなものがわくが、レモンはそれを、舌の上でも観念の上でも、やわらげる。
 罪を浄める聖なるレモン。突き上げるようなあの酸っぱさは、甘さばかりを求める精神に、否応なくムチを打つ。レモンがあるだけで、普段のテーブルも祭壇になる。
 もし水彩画で描くのなら、影をつけよう。そしてその影には青い色を使おう。黄色には青、紺がにあう。好みの問題かもしれないけれど、わたしはこの取り合わせに音律的な調和を感じる。色とは音のない音楽だが、黄と青の和音には、冴え冴えとした清潔な響きがある。
 阿部謹也(1935—2006)は、ヨーロッパ中世を研究しながら、日本の世間を考察した優れた歴史学者だ。「禁欲」とは、欲望とりわけ性欲などを捨てることでなく、それを上回る欲望によって、現世でのあらゆる欲望が色褪せてしまうことだと書いている(『ヨーロッパを見る視角』)。わたしにとっての詩を書くことがまさにそうだ。詩を書きあらわすことや、詩的現象の発見が、この世でのあらゆる欲望を凌駕する。麻薬といってもいいが、近頃では、生きる「癖」に近いものだと思うようになった。爪を噛むように詩を書いている。悪癖といってもいい。病いであろう。
 レモンにも禁欲主義のおもかげがある。なにしろ、台所のテーブルを聖なる祭壇にしてしまうのだし、わたしたちの多くが、甘みより、そこにある酸味や苦味に、価値あるいは安心を見出しているのならば、これはもう、社会全体を覆う、禁欲という名前の別種の欲望といっていいものかもしれない。
 阿部は同書でこうも書いている。「教会でいう禁欲とは、天国に入りたいという欲望のために現世のあらゆる欲望が色褪せていく状態を意味しています」。レモンの本質は過激なものである。梶井が書いたとおり、それはいつか爆発するだろう(と考えてみることが解放だ)。
 レモンといえば、こうしていつも梶井基次郎の「檸檬」だった。だが、イタリア人の作家、ピランデッロが書いた「シチリアのレモン」(『カオス・シチリア物語』に収録)という短編も忘れられない。
 かつて婚約を交わした相手、テレジーナが歌手として大成功。それを見届けて、自分との格差に身をひくフルート奏者ミクッチョの物語だ。
 運の開けた彼女に、はるばる田舎から逢いにきた彼。彼女の美声を最初に発見し、応援を続けたあげく、こうしてナポリまで留学させたのは、そもそもミクッチョだった。
 だがテレジーナの母、マルタおばさんは、彼を見ると驚き、いかにも申し訳なさそうに応対する。会わなかったあいだ、テレジーナとミクッチョの間には、本人たちにもどうにもならない深い溝が生まれていたのだった。
 テレジーナは帰宅すると、別室の広間で紳士たちと華やかにおしゃべり。ミクッチョは厨房に隣接した暗い小部屋で、マルタおばさんと向き合い、テレジーナが、自分とは違う世界に住んでいることをはっきりと知る。
 別れ際、彼女にと持ってきた一袋のレモン。その「袋の口をほどき、片方の腕で囲いを作って、みずみずしく芳しい果実を、テーブルの上に空けた」。その「女」はもう、自分の婚約者ではない。だから「これはぜんぶ、マルタおばさんだけにあげる」と言って。
 ミクッチョが帰ったあと、ようやく会食が終わり、小部屋をのぞくテレジーナ。もうそこに、ミクッチョはいない。「帰ったの?」とびっくりするが、「かわいそうに……」と言ったあと、すぐにうち変わって笑顔になる。そうして彼が自分にレモンを持ってきてくれたのだと母から知らされると、「うわあ! すてき」。母が止めるのも聞かず、残酷にも華やかな客人たちの待つ広間へ声をあげながら走っていくのだ。「シチリアのレモンよ! シチリアのレモンですよお!」。
 哀しい話だ。あらすじでは、到底救いとれない複雑な感情が描かれている。ごろごろとテーブルに散らばったレモンの、その一個一個に、ミクッチョの感情が詰まっているような気がする。
 原題は、Lumie di Secilia 本文注には、「『レモン』の原語lumiaルミーアは、レモンによく似たシチリア産の柑橘類で『シトロン』に近い。果実は香りが強く、酸味と苦味があって飲料や香料として用いられる。ピンクの花をつける」と出ている。レモンにもいろいろな種類があって、ピランデッロが書いたシチリアのレモンは、このルミーアのようだ。
 ちなみに原題で探すと、この短編は、作者によってコメディ(喜劇)にもなっていて、ユーチューブには、字幕こそないものの映像があがっている。イタリア語がわからなくとも、短編を読んでおけばだいたいはつかめる。ただし、短編とコメディでは、味わいがだいぶ違う。短編にはレモンの酸っぱさ、悲しさがつまっているのに対し、劇のほうではミクッチョの怒りが押し出されていて、かつての婚約者同士もいがみ合う敵同士。だいぶ単純化されていて、がっかりする。レモンも小道具以上の存在感を示していない。モノクロだから、色も確かめられない。それでも物語の雰囲気や、家具とか部屋の構造などがわかって参考にはなる。
 ああ、だれか、この一本を短い映像にしてくれないか。ラストシーンでは、くれぐれもレモンを主役にしてほしい。
 何かの作品を映像化しても、たいていはがっかりすることのほうが多い。でも、タヴィアーニ兄弟がオムニバス形式で作った映画『カオス・シチリア物語』はすばらしかったことは付記しておこう。
 ピランデットの描く世界は、抽象と具象が入り乱れていて、読んでいると、さまざまなイメージが、下腹のあたりから、わいてくるのだ。
 婚約が破られたことを悟るミクッチョの悲しみに、レモンの取り合わせは効いている。わたしたちは、ミクッチョの感情を舌の上で想像する。そのときレモンの酸っぱさが、口中に広がり、喉を通過し、からっぽの胃を、きりきりと痛めつける。わたしも読んで傷ついた。けれどレモンは、まるで花のようでもある。彼の悲しみを祝福する花だ。  ならば傷は宝だろうか。どんな人も、言葉にしないが傷をもって生きていて、その傷は、束の間忘れることはできてもけろりと治るものではなく、おそらく一生、かかえていくものだろう。しかし最初、痛みでしかなかったそれも、歳月を重ねるうちには、いくぶん和らぎ、変容し、まぎれもない「自分自身」の一部となっていく。そこまで見届けることができたなら、もう甘い砂糖はいらないかもしれない。傷口にしみるレモンのほうが、むしろ甘く感じられるだろう。


  第九回(2018.02.09)

塩をまきに

「実は危篤なのよ」と母からは聞いていた。けれどその声にはどこかのんきな調子も漂っていて、実際、危篤と言われてからも、父は話したり微笑んだり、周囲の支えはあっても、一人で立ってトイレに行ったりした。
 一年前、妹が実家に戻ってくれ、終末医療を施してくれる地域の医療スタッフも見つかって、いわゆる自宅ホスピスとしての父のみとりが始まった。みとりといっても、その頃はまだ、みとられるひとも立って歩けた。わたしは思っていた。父はまだまだ、しばらく死なないと。
 ふがいない姉である。時折、実家に通うくらいで、何かしたというほどのことは何もしていない。大変だったのは、ひとえに妹だ。その彼女が言うにはそれぞれの役割があるのだから、おねえさんはおねえさんしかできないことで親孝行すればいいということだった。妹はときどき、その場にいる誰をも、一瞬で言いおさめるようなことを言う。
 それに甘んじたわけではないが、気が楽になったのは確かだった。わたしが文や詩を書くことを父はよろこんでいた。感想を言ったりすることは一度もなかったが、いつも無言の応援があった。
 親というのは、いやこれは、わたしの親に限ったことかもしれないが、批評家ではないので、中身や内容については立ち入らない。どこかに書いたという事実や、本になったという、目に見える結果だけをいつも静かによろこんでいる。批評家どころか読者にもならない。身内に読まれたら困るようなことをわたしは書いたから、読者になられてはわたしのほうが困るのだったが、その点、母も妹も無関心で、関心を示してくれるのは父だけだった。
 しかしたとえ読んだとしても、父は客観的に読むというのではないから、どちらかといえば「見る」ということになる。本の佇まい、あるいは掲載してある頁の佇まいを「見る」。あるいはわたしの名前をそこに確認して満足する−−―。
 数年前、わたしはある雑誌で、絵を描き、短文を書き、両方をあわせて載せるという、とてもめぐまれた連載をした。妹が言うには、父は最後、眠れなくなると、その雑誌の、わたしの描いた絵の頁を「見ていた」そうだ。絵は正真正銘、見ることのなかで完結する。しかし言葉は、読み、意味に変換し、イメージを立ち上げたりと、作業が複雑で忙しい。さらにそれが小さな活字だと、それだけでもう読む気を失う場合もある。絵と言葉があれば、言葉はこうして敗退し、よりプリミティブな位相にある「絵」が、末期の感覚にも、かろうじて訴えかける。
 死の床にある父に、わたしはかけるべき言葉がみつからなかった。それよりも、しわだらけの手の甲にクリームを塗ったり、懐かしい歌を歌ってみることのほうが、よほどに意味あることに思われた。言葉はそこでも、あたかかい沈黙に負け、無力なものとして退けられた。
 わたしの本やわたしの関係する雑誌の類が、実家にはたくさんあったが、それらは父が勝手に注文したり本屋で買い求めたものであった。同じものが何冊もあったのは、誰かに差し上げようとしたためだろう。だがそれも、父がいよいよ立ち上がれなくなれば、ただの無意味の山となる。
 そんなある日、わたしはできたばかりの、新刊書を持って、実家へ行った。
「お父さん、深川のことを書いた幼年記ができたのよ」
 枕元で父に報告する。生まれ故郷の深川を、誰よりも愛し誇りにした父は、話し好きで、べらんめえ口調というには、すこしばかり上品な物言いをしたが、「ひ」と「し」が混同し、顔つきからして、やっぱり最後の江戸っ子といっていい。わたしの幼年記は、そのような父の最期に、ぎりぎり間に合ったという安堵があった。
 しかし当人はこんこんと眠り続けていて、反応らしきものが返ってくるわけでもない。
「お父さん、わたしの本がもう、わからないみたいね」
 そう言うと、妹は、
「いよいよ最期となれば、本当に必要のないものと必要なものがはっきりしてくるのよ」
 妹は意地悪なことや皮肉を言う人間ではない。わたしの本などは、確かに父にとって、捨てられるべき地上の芥のひとつになったのだろうと納得できた。
 だがそんな妹も、「お父さんが眠れないときに見ていたから、おねえさんの絵の載った雑誌、お棺のなかに入れたら?」と提案してくれた。
 該当頁を開き、花でいっぱいのお棺に、最後、雑誌をさしいれた。
 それに気付いた叔母の一人が
「あら、その絵、誰が描いたの?」と言った。
 絵が好きな叔母だ。自分では彫刻をやる。
「わたしよ」
「あら、まあ、あなた、こんなの描くの。知らなかったわ。ゆっくり見たいわ。これっきり?」
「まだ、まだ、たくさんあるわよ」
 実際、父が買い集めた同じ雑誌が、家にはまだまだたくさんあるはずだ。
 お棺の中の父の頭越しに、そんな会話を交わしてみると、わたしたちからは、確かに生きている者の俗臭が立ち上り、そして父は、もはや、いない。花に埋もれた父は別人のようだったが、そんな父の死に顔を、わたしはもう幾度となく想像して、知っていたような気がした。
 十年以上前のことだが、一度、ある文芸誌に、わたしについての文章が載ったことがある。父はそれを好意的なものとすっかり勘違いし、喜々として本屋へ行き、買い求め、読んだ。そして驚き、がっかりした。「ひどいねえ」と一言、母に言ったと聞いた。だがわたしには一言も言わなかった。本人よりも父のほうが、ずっと傷ついたのではないかと今も思う。
 最後、父の身体には、免疫力が極端に落ちたせいか、むごい帯状疱疹ができていた。水疱がつぶれてそれが赤むけのまま、ついに治らず、あの世へ逝った。相当に痛かったのではないかと思う。
 娘たちが支えようとしても、その手をうるさい、とはらいのけ、自分でトイレにたとうとしたが、一度、どうにも立てないとわかって、「あれ?」とつぶやき、実に不思議そうな顔をした。「あれ、どうしたんだろ、この自分が立てない」。きっとそう思ったのではないか。立てないということが、どうにも納得できず、困惑しているという顔だった。
 生まれてきたときも、人間はそう思ったかもしれない。「あれ? どうして、自分はここにいるのだろう」。
 立とうとして、ついに一人では立てない赤ん坊に、父の「あれ?」が、重なった。自分の無力をとことん知って、やせ細り、枯れ木のようになり、ひざに痛みのコブを作って、父は死んだ。八十八歳。畳の上で。
 妹もわたしも、親の死を初めて経験したのだった。葬儀社のひとがやってきたが、電話をしたのはわたしだ。電話をかけたから、やってきたのだ。身内だけのごく小さな葬儀にしたつもりだったが、気づくと、親戚が大勢、集まり、いやそれも、連絡したからやってきたのだったが、作られた祭壇は、ずいぶんと立派なものとなった。菩提寺の御坊様がやってきた。こちらは葬儀社から連絡が回った。通夜は息子さんのほう、葬儀はその父親のご住職がやってきて、続けてお経をあげてくださった。戒名も含めると、驚きの金額。驚いているうちに、御坊様に渡す「車代」というのを忘れ、通夜の客に渡す塩入りの挨拶状も忘れ。
「あ、お清めの塩がない」
 自分の家に帰り着いて、中に入ってしばらくたってから、そんなことを思っても遅い。
 そしたら、わたしのあとから家へ帰ってきた家族が、
「扉の前に白いものがきらきらとしているけど、何あれ? あ、そうか、お清めの塩か」などと言う。
「え? 塩は忘れちゃったのよ。皆さんにお渡ししなくちゃいけなかったのに」
「だったら、あれは?」
 というから、扉をあけて見てみた。するとほんとに我が家の前にだけ、白いものがきらきらと光ってる。アパートの、どの部屋の前にもない。わたしの家の前にだけ。
「誰がまいたのかしら」
「塩に見えるけど、氷の小さな粒だね」
 お父さんがやってきたんだわ、とわたしは思う。会葬御礼の塩も忘れた娘のところに、自ら塩をまきにくる死者ってのも、まだ死んでないみたいでおかしいわね。
 東京に、四年ぶりの大雪が降った、五日後のことだった。

<< 戻る     最新記事へ >>


 小池昌代(こいけ・まさよ)
1959年東京生まれ。詩と小説に従事。津田塾大学国際関係学科卒。詩集に『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『ババ、バサラ、サラバ』(小野十三郎賞)、『コルカタ』思潮社(萩原朔太郎賞)などがある。小説・エッセイに『屋上への誘惑』岩波書店(講談社エッセイ賞)、短編集『タタド』新潮社(表題作で川端康成文学賞)、長編小説『たまもの』講談社(泉鏡花文学賞)などがある。