影を歩く(back01)

影を歩く


  第一回(2017.02.01)

 

 話はいつしか吸い込まれるように、影の中へと入っていった。
「影を歩いてみたいのです」
 そう言うと、向かい合った人も、何かを思い出すような顔つきになった。
 むかし、『感光生活』という連作短編集をつくった。あのころは、光の当て方によって、日常が別のものに見えてくる、その面白さに取り憑かれていたような気がする。あのとき、光とは言葉のことだった。
 すると今、わたしの言う影とは、実体が背負う沈黙のことだろうか。確かにわたしは言葉に疲労した。傍らにいる人とはむしろ沈黙を共有したい。会話のなかで、話が途切れる間の悪さを、わたしは内心、美しいと思う。そのとき、向き合うわたしたちを隔てる、見えない水打ち際がようやく見えてくる。
 古語辞典で「影」をひくと、筆頭の意味に「光」と出てくる。日の光、月光、光り輝くものを、古の人間は「影」と捉えた。月影とはすなわち月の光のことでもあった。いつから光と影とは明確に分かれたのだろう。二つを再び一つの混沌に戻してやることは可能だろうか。あるいは今、光のあたっているところを退かせ、影に入っているものらを前面に押し出してみるのは。
 でもそれは怖いことでもある。影は影として、そっとしておいたほうがいい。そう思いながら、影へ踏み出す。低い声で語ろう。影が騒ぎ出さないように。


「たいへん、たいへん、たいへんなことになってる」
 子供が言った。せりふを棒読みしているみたいな言い方で、大変な感じはあまりしなかった。
 何が大変なのかと、隣りの部屋へ行く。
 言葉も出なかった。絨毯の上、かなり広範囲に渡って、灯油がこぼれている。直径70センチほどの濡れた楕円形だ。
 灯油の臭いが強く漂い、石油ストーブが傾いていた。「満杯にしたばかりだ」と夫が言った。意外なことだった。わたしは「カラだと思っていた」。
 もう春が近いので、ストーブの灯油をからっぽにしようと、先日、炊ききったばかりだったのだ。それを二人で確認したのに、そのあと、数日、寒い日が続いた。夫は悪魔のような親切心をおこして、誰にも告げずにタンクを満杯したのだった。
 タンクを引き上げると、ばかに軽い。ほぼ全量がこぼれ出たことになる。絨毯は簡単にははがせないタイプなので、とりあえず洗浄するしかない。いらなくなった布や古いタオルで油をすいとったあと、新聞紙を何枚も重ね、上から全体重をかけて、てのひらで押していく。置けばたちまち油がしみる。そんなことを、果てしなく繰り返す。
 灯油はわたしの掛け布団の端にもついてしまった。しかし夫や子供の布団は災難を免れていた。
「ああ、よかった」と子供が言った。自分の蒲団に灯油がかからなかったことを、素直によろこんでいる。わたしもそう思う。かからなくてよかった。しかし子供を少し遠く感じた。
 掛け布団のカバーは即座にはずしたが、そのまま洗濯機にいれると、洗濯機自体に臭いが移る可能性がある。それで手荒いしたが、臭いなどとれない。スーパーのビニール袋を二重、三重にして、そのなかにカバーを丸めこむ。
 捨てるしかない。捨てるにあたっては、匂いの他に、もっと理由が必要だった。古い、触った感触がとても悪い、そうわたしは、このカバーが好きではない。実は好きではなかった。
 長いつきあいの恋人に飽き、他の人と結婚したいと願うようなとき、人はきっと同じように人を捨てる。いや「このわたしは」と言い直すべきだろう。
 蒲団本体は、近所に新しくできた洗濯屋にもちこんだ。「蒲団丸洗いします。今なら最安値!」と書かれたポスター。希望が燃える。
「灯油をこぼしてしまって」とわたしは正直に告白した。「隅の方だけだし、全部じゃないんです」。
 ちょっと顔をくもらせた店員は、「大丈夫です」と請け負ってくれた。しかしそのあと、「ちょっと待ってくださいね」と言い、工場へ電話をかけた。そこからが少し、こみいってきた。長い説明と交渉が続き、結局、クリーニング代を考えると、処分して新しく買ったほうがいいかもということになった。
 灯油はどこへ行っても、その臭いが問題になる。
「ごめんなさい、なかなかとれないなんですよね。これだけ分離して洗うことになりますし、そのあとがまた、やっかいなんです」
「でも、この臭い、いつかは取れるでしょう? 取れますよね」
 自分で聞いておきながら、そのいつかがいつなのか、誰にも答えられないとわかっている。
 それから幾日も、手洗いをしては干し、洗っては干して。臭いはとれないどころか、広がっているような気がする。ここもあそこもいたるところに、わたしは灯油の幻臭をかぐ。
 ついに蒲団を捨てた。羽毛のかさは減り、だいぶ古かった。丸洗い二回分で、シングルの掛け布団が買える。臭いを刷新して生活をやり直そう。ゴミ袋に蒲団を入れ、全体重を乗せて、ぎゅうぎゅうと蒲団を押し込める。やわらかい蒲団の肉。何を捨てようとしているのか、一瞬わからなくなる。
 ファブリーズを使う。竹酢を使う。アルコール除菌をする。お茶がらをまく。コーヒーのかすをまく。洗剤で洗う。熱い湯でふく。扇風機をまわす。
 しかし一週間、二週間、臭いはとれない。
「いつか、いつかはとれるでしょう?」
 さあね、わからない。「いつか」って、永遠に属するなかで、もっとも頼りないコトバ。  
 この部屋を捨ててもよいが、それはこの家族を捨てることも同義だ。彼らがわたしを部屋ごと捨てていいのだけれども、灯油をこぼしたくらいで別れるわけにはいかない。そして灯油をこぼす前と、こぼした後で、何か微妙なものが違ってしまってしまったとしたら、それがわかるのは、もっとずっとあとのことだろう。
 とりあえずわたしたちはいっしょにここにいる。誰も何も言い出しはしない。何も言わないことが家族を延長していくということ。灯油をこぼして結束する家族って美しいけど、少なくともうちのことじゃない。家族はわたしを少しも責めないが、積極的に何かをするわけでもない。責任がわたしにあるということを、微妙に感じさせる空気が家族のなかにある。
 家の毛布をかきあつめ、セーターを着て眠るわたし。
「大丈夫?」と家族は聞くが、自分の毛布を差し出すなどということはしない。蒲団は安いのを買ってもいいが、すぐに春は来るだろう、もうすぐにと思うわたしは、どこか自分に罰を与えているようでもある。
 二週間、三週間。臭いは消えたかと思うと、風向き加減で、不意に強く臭う。灯油自体は大事なエネルギー源なのに、その臭いときたら、どうしてこんなに忌み嫌われるのだろう。「覆水盆に返らず」を、わたしは全身でくまなく理解する。灯油はタンクには戻らない。そしてわたしも、もう元のわたしではない。
 やがてわたしは臭いと一体化する。微妙に少しずつ臭いが消えるとしても、抜本的解決をしない限り、おそらく臭いは消えはしない。だがわたしは変わりながら慣れていく。慣れながら変わっていく。灯油の影をうっすらとまとい、臭いにまみれて生きていくのだ。灯油をこぼしてよかったのかもしれない。こぼさなければ、こんなポジションに立つことはなかった。

 


  第二回(2017.03.09)

三つの穴

 都内随一といっていい広大な敷地のなかに、存外、深い森が広がっていた。園内を横切って、ひとつ先の駅まで歩く。それがここ数年の習慣になった。
 園内には舗装されたまっすぐな本道のほかに、あまり知られていない裏道がある。歩行者の多くは駅までの近道でもある本道を行くが、わたしは好んで裏道を行く。カーブあり坂道ありの、獣道めいた土の道。周囲には木が鬱蒼と生い茂り、昼間でも天井が枝葉で覆われている。そこから木漏れ陽が多少は差し込むものの、本道に比べれば、だいぶほの暗い。そのせいで道がドーム状に感じられ、巨大ないきものの胎内を縫って歩くような感覚があった。
 以前、誘って一緒に歩いた人に、「昼間でもちょっとこの道は怖いわ」と言うと、「きみは大丈夫だ、襲われるのは若い女だけだ」と真面目な顔で言い切られた。それはそうでしょうけれどもと会話は続かなかった。彼はわたしを安心させようとしたのだろうか。何をどのように言われたところで、この道を行く怖さは減らないし、そもそもわたしは怖さを欲していた。何かの予兆のように広がる、清々しい怖さを。
 歩くことで気持ちを整えたり、あるいは切り替えたり、怒りを鎮めたり哀しみをなだめたり。時には思い出したくないようなことを思い出したりもするが、それもまた心の整理のうち。道を歩いていて何を思い出すのかは、自分でも皆目わからない。
「ご存じですか? あの公園にはあまり知られていない裏道があるんですよ。それがちょっと独特で、なかなか面白くてね……」
 わたしはよく、何か秘密でもあかすように、あるいはまた隠れた秘境を教えてあげるというような調子で、得意げになって道のことを口にした。なかには「へえ」などと聞き上手になってくれる人もいるが、ほとんどの人は無関心だ。それに気付いたとき、わたしは最初、なぜだろうと思い、やがてそれをなぜだろうと思う自分のほうがおかしいのだと気付いた。
 裏だろうが表だろうが、誰も「道」などに興味はない。忙しい日常のなかで、遠回りの道行きなど、誰がわざわざ好んでするものか。そう、頭でわかっているにもかかわらず、わたしは道のことになると、相手を問わず熱心に語りかけ、次第に道へと誘いかけるようなことをしてしまう。わたしの道がたりを聞かされる人の目から、いつしかふうっと光が失われ、かわって何か奇異なもの(わたしのこと)を見るような色が浮かぶのを見て、このごろでは、ようやく自分を戒めるようになった。道のことなど、安易に語るまいと。
 二十年近く前、妊婦だったわたしは、毎日、同じ道を散歩していた。高齢の妊婦だったこともあり、妊娠中毒症をさけるためにも適度な運動が必要とされていた。それには歩くことが一番いいと言われ、おかげで無事、自然分娩をすることができた。
 森の道を、ただ行って帰ってきた無為の日々。裏道歩きは、およそ半年間続き、わたしはひたすら理想的な妊婦になるべく、禁欲的な生活をおくっていた。塩分をとりすぎてはいけない、アルコールもだめ、カルシウムが失われるので、毎日一杯のミルクは必須。すべておなかの子に理想的な環境を提供するため、わたしは胎児の「育成器」となって、胎内環境の美化に努めた。妊婦でありながら修行僧のようであった。その禁欲生活には、ぎらぎらするような高揚があった。思い出すと、自分のことながら不気味なものを見るような思いがする。
 森の道をわたしが行くとき、胎児には木々の影が落ち、木漏れ陽がふりそそいだはずだ。しかし今、青年となった彼の額に、そのような痕跡はまったくない。
 森の中の道は参道に似て、その参道を行くわたしの中の参道を通って出てきたあの子は、二重の参道のなかを通って生まれてきた。森の産んだ子だといってもいいが、わたしはただ、道を歩いただけだ。

 森の道の途中に、赤壁の小屋を見つけたのは一ヶ月ほど前のことだ。二十年前にはなかったもので、正方形のその建物は、小さいながらもがっしりとした造りにみえた。トイレならトイレ、事務所なら事務所と、何か看板でも出してくれればいいのに、その小屋は小屋であるほか何も主張しない。
 ある日、その小屋から、若い青年が出てきた。赤いチェック柄のシャツを着ていて、夏ならそのかっこうのままで、近くの山へ登りに行けそうだ。
 ちょうど道に出てきたところにぶつかったので、「あの小屋、なんなんですか」と聞いてみた。即座に「管理事務所ですよ」という答えが帰ってきた。すると青年は、管理職員というわけか。言われてみると何もかもが腑に落ちた。自分も以前から、管理事務所だと思っていたような気がした。会話はそれ以上、続かなかった。ぶっきらぼうな青年の言い方が、それ以上の質問をこちらに慎ませたところもある。しかし管理事務所とはなんだろう。人が常駐しているのか、物が置いてあるのか、寝泊まりはできるのだろうか。あとになって疑問が次々わいてきた。
 うんと若いころの話だが、帰りが遅くなってしまって、駅から自宅へ帰る途中、交番から出てきた青年に襲われそうになったことがある。最初は親切なひとだった。 「こんな遅い時間に、女性の一人歩きは危険ですよ、わたしは私服警官です。いま、ちょうど、勤務交代したところですから、送っていってあげます」。交番には奥に一部屋があり、そこから出てきたので、いったんは信用した。しかしどうしても態度に怪しさがぬぐえず、わたしはとっさに近くの家の戸をたたき、大きな声で助けを求めた。
 そのときもまだ、「僕は警官ですよ、僕は警官ですよ、嘘じゃありませんよ」と男は叫んでいた。しかし家のなかから人が出てくると、叫びながらも逃げてしまった。
 翌日、警察から確認の電話がかかった。交番の警官はパトロール中で不在だったらしい。ただ、鍵はかけていったはずなので、人が自由に出入りしていたというのは、警察のミスだったと謝罪された。私服警官というのもありえないと言われた。
 もっとも小屋から出てきた青年に、怪しさというものは、ひとかけらもなかった。
 別の日、その管理事務所から、妙齢の女性が出てくるのに行きあった。わたしは歩みをゆるめ、彼女を待って、「あの小屋、なんなんですか」と再び聞いた。
 女性はトイレ、トイレですよと言った。駅までの長い道にトイレがないから、もたないで困っていたの。出来てよかったわ。あたし病気をしたあと、下半身の筋力がすっかり落ちてしまって、気づかないうちに、尿や便が漏れてしまうの。この年になって、パットやおむつのお世話になるとはね。女性は初めて会ったわたしに、いきなり、そんなことを話し始めるのだった。
 管理事務所だと思っていたが、トイレと言われると、トイレに見えた。そう、わたしは、最初からトイレと思っていた。うなづきながら耳を傾けた。女は女というだけで、仲間になる。若い頃は恋敵にもなりえよう。しかしある年齢をすぎてみると、女は個を保つ一方で、誰もが平べったくなり、目鼻を失いながら、次第に女という集合体になっていくような気がする。
 そのとき女性のした話は、珍しいものではなかった。わたしの母がまさに同じ状態だった。だから母は遠出というものをしなくなった。今のおむつやパットはよくできていて、表面がさらさらだから、漏れても本人は少しも気づかないのだと母は言った。ときどき母が臭うことがあって、おかあさん、臭うわよ、というと、そうお? と本人は悠長にかまえている。自分の臭いは臭わないのだ。それはひとつの救いかもしれない。
 母は半世紀のうちに溜まりに溜まった物に囲まれて暮らしている。娘のわたしが片付けと称して、勝手にそれらを処分しようとすると怒る。穏やかに、母の気持ちに沿ってと思うのはほんの一瞬で、いつも、娘は家ごと処分したくなり、母は布切れ一枚にも固執する。
 あるとき、帰りがけにふと見ると、母はストーブがガンガンとたかれた部屋で、じっと横になっていた。はっとした。一瞬、母が死んだように見えた。けれどそのほっぺたは、熱にあてられて真っ赤だった。ワックスをぬられたりんごのようだ。てかてかと真っ赤に光っていて、わたしはそれをじっと見下ろした。
 あのプラスチックのような母のほっぺた。わたしは女性に言葉を返す。
「大変ですね、母も同じなんです。だからわかります。それにしても、トイレだったんですね。このあいだ、『管理事務所だ』なんて、言う人がいて」
 口にすると、自分の声が憤慨に聞こえた。なぜあんな嘘を言ったのかしらと思う。小さなことだからこそ違和感が募る。青年の顔を、もうわたしは覚えていない。
「ああ、トイレの前には管理事務所だったこともあるのよ。管理事務所になる前は、穴が三つ空いてるだけだった」
「穴が三つ」
 わたしと女性は、一瞬見つめ合い、互いの目のなかに、暗い三つの穴を探した。

 


  第三回(2017.04.17)

不思議な矢印

 銀座の地下街を歩いていた。銀座線に乗って家に帰ろうと思った。銀座線は、山手の渋谷と下町の上野を結ぶ。電車が走っているのは暗い地下でも、沿線の駅名は、地上へあがればそのままあたたかな地名となる。下町から山手へ、山手から下町へ。次第に変わる空気感を、駅名はにじむように教えてくれる。
 銀座駅は、路線のちょうど中ほどにある。柄の違う二つの土地の、銀座はまさに結び目といっていい。文字通りそこは、人々が集い、まざりあう「座」で、はなやかなイメージが全線を照らす。
 丸の内線、日比谷線、銀座線の、三線が乗り入れていることもあって、駅自体、混乱のうずのなかだが、その分、迷う人のために、親切な案内も行き届いているはずだ。
 そんな場所で、わたしは迷った。入った口が悪かったのかもしれない。どこかのビルの地下が入り口になっていて、実際の乗り場にはだいぶ歩かなければならないということがわかった。わたしの知る銀座駅中央のにぎやかさに比べると、あたりの歩行者も、まだ、まばらだ。
 至る所に方向を示す矢印があった。銀座の地下は、矢印だらけといってもいい。しかし混乱を招きそうな場所ほど、人間工学的にうまく作られていて、標識ひとつで、人をスムーズに誘導する。
 あまり、あらがったりうたがったりせずに、素直に表示に従っていけば、必ず目的地にでられるだろう。それをわたしは今までの経験から知っていた。少なくとも信じてはいた。これは自分がさんざん道に迷ったことから得た、教訓のひとつだった。
 素直に考えればたいていそっちへ行くだろうというところを、なぜか一人、逆に行ってしまい、迷ったり、遅刻したり。そのあげく、あきれられたり、うとんじられたり。そんなことが幾度もあった。
 頭でっかちだったと思う。自分のからだを、ある自然な流れ――それは土地や道がかもしだす流れかもしれないし、人の動きがつくりだす流れかもしれない――にうまく乗せることができず、余計なことを考えてしまう。そしてとんでもない方向へ行ってしまう。
 よく、道案内に出てくる言葉に「道なり」という言葉がある。まっすぐでなく、微妙に曲線のある道などに使われる。「道なりに歩いてきてください」というのは、「この道にはカーブもあるけど、とりあえず道にそって歩けば着きますよ」ということだ。
 その「道なり」で、道をそれて失敗したことがあり、以来、道に心を素直に添わせることを胸に刻んだ。刻んだはずだが、しかし迷った。
 言い訳のようだが、今回に限ってはわたしだけが悪いとも思えない。
 頼って歩いてきた、その案内の矢印が消えた。途中で消えたのだ。消えたそこには何もなく、わたしはただ、途上に捨てられた。
 えっ。ここはどこ? どっちへ行けばいいの?
 とたんに足がとまってしまった。かなり歩いてから、人に教えてもらい、来た道をまた、てくてくと戻った過去の記憶が、脳裏に浮かぶ。同じことはもうしたくない。わたしは消えた矢印とともに、自分もまたこの世から消えてしまったような気がした。
 少し先に階段があった。階段をあがってしまったら終わりだと思った。何が終わるのか、よくはわからないが、階段をあがることには、ある勇気が必要だった。突き進む勇気、そして間違ったときには引き返してくる勇気。たかが地下鉄の駅まで行く話が、なにやら大げさなことになってきた。
 とにかくわたしは、階段の手前まで行っては戻り、また数歩、歩いては戻った。
 自分ながら何をしているのかと思った。
 すると、後ろから、「小池さんじゃない?」と声がかかった。かつて高校でいっしょに過ごした同級生。ものすごく、久しぶりだ。数年前に同窓会をやって、メールのやりとりが始まったが、それも最近は途絶えていた。彼女は仕事の途中だという。銀座にある弁護士事務所で長く秘書をしている。銀座は彼女の「庭」といっていい。
「どうしたの?」
 うろうろしているわたしを見ていたのではないか。
「実は迷ってしまって。銀座線に乗りたいのに、行き先を示す矢印が、突然消えちゃったのよ」
 迷っているとだけ言えばよかった。なのにわたしは矢印を責め、東京メトロを心のなかでうらみ、しかし声には、面白いことを見つけたという、よろこびが響いていたかも。
「消えた?」
 彼女はいぶかしく問い、次の瞬間にはそれを忘れたように明るく言った。
「銀座線は、この階段のずっと先よ。途中まで行くよ。時間があったら、お茶するのにザンネン」
 ああ、そうなのか。階段をあがればよかったのか。わたしはぎくしゃくとした自分の体をだいて、彼女といっしょに階段をのぼる。するとその先に矢印が見えた。ドーナツの形をした銀座線の黄色も。
 ああ、現れた! ほっとすると同時にうらめしかった。すっかり矢印に心乱されたわたし。あまり頼るのも考えものだが、初めてのルート、確実に目的地に近づいていることを、わたしは逐次、確信したかった。
 そういう感覚を支えてもらうためには、一定の間隔で出てくる矢印が必要で、わたしが「消えた!」と不安を覚えたのも、おそらくその間隔が多少なりとも開いたのだろう。そう、間隔が開いたにすぎない。
「ありがとう、また会いたいね」
 いつとも決めない別れの言葉。もう永遠に会わないかもしれない。
 わたしは彼女と別れ、改札を入ったが、矢印が消えたあたりに、もうひとりの自分を置いて来たような気がして、心のなかがすうすうとした。その「わたし」は、彼女と出会わず、階段もあがらず、矢印が消滅した一点の穴に吸い込まれ、向こうに開けた世界で生きる。まったく別の新しい町。ま新しい人生。
 あのとき、助けてくれた杉本さんは、高校のとき、葛飾のお花茶屋に住んでいた。当時、地図をもらい、何人かで遊びに行く約束をした。その日、わたしは無事、杉本さんの家へ行き着いたが、杉本さんはいなかった。
 お花茶屋は遠いところだ。いるはずの人がいなかったこともあり、わたしは、地の果てへ流れ着いたような気がした。仕方なく家へ戻ったが、あとで電話がかかってきた。
「約束した日は明日だよ。明日も来るのが大変だったら、もう来なくてもいいよ」
 杉本さんは、わざわざ来てもらって、とっても悪かったという調子で言ってくれた。
 わたしはその明日、なにも用事がなかったけれど、もう来なくていいと言われた気がして行かなかった。実際、そのとおりのことを彼女は言ったが、拒絶から出た言葉でないのは明らかだった。間違えたのは自分なのだから、もう一度行く、行きたいと言うべきだった。しかし一気に気力が落ちた。自分をのろい、もう来なくていいというその言葉にすがった。
 葛飾区には、今でも高校生のころの自分がいるだろう。お花茶屋のあたりを、ふらふら歩いているだろう。


  第四回(2017.05.31)

清水さんは、許さない

 すれ違いざまの痴漢にあった。
 若い頃の話。夏であった。スカートの上から、いきなり下半身に手が押し当てられ、その手は下から上へ、ずりあげられた。
 男は悪気もなく、逃げるでもなく、そのままの速度で歩き去った。瞬間、氷付き、何もできなかった。ショックを覚えた瞬間というものは、ほぼ完全なかたちで冷凍される。こうした瞬間映像記憶保持能力というものは、特殊なものではなく、どんな人にもあると思う。ただ普段は忘れていて、それが何かの拍子に、顔を現すだけだ。
 背広を着て、黒いメガネをかけた、至極平凡なサラリーマンだった。背が高く、有能そうにすら見えた。優しそうな顔といってもよかった。仲間たちと連れ立っていたが、彼らは彼がすれ違った女に何をしたのかを、まるでわかっていないようだった。怒りと恐怖で振り返ったとき、その人は、へらへらとわたしを見て笑った。顔の細部は溶けてしまった、はずなのだが、へらへらというその笑い顔だけは、空気中を漂う微生物のごとく、思い出せば眼前に、ふわふわと現れいでる。焦点を結ぶ前に、わたしは振り払ってしまう。
 以来、「人とすれ違う」という行為の意味が変わった。すれ違うとは刺し違えるに等しい、どこか常に緊張を伴うものになった。

 むかし、といっても一九九〇年のことだが、「櫻の園」という映画があった。女子校演劇部のある日の数時間を描いたもので、普段は忘れている。変なときに思い出すのは、劇中に流れていた音楽のせいかもしれない。モンポウの「ショパンの主題による変奏曲」が使われていて、元になっているのが、ショパンのピアノ前奏曲七番イ長調。これは太田胃散のCMにも使われたから、広く知られている。時間のねじを狂わせるような陶酔感があり、実際、あの映画に流れる時間を、伸ばしたり、縮めたり、巻き上げたり、溶かしたりと、調整することに成功していた。話自体が、創立記念日の、芝居を上演するまでの数時間という設定だが、映画そのものの上映時間は、せいぜい一時間と少しだった。
 次のような場面がある。
 三年の女子二人が、先生から呼び出され、進路指導室で演劇部の顧問を待っている。一人は演劇部の部長、清水さん。もう一人は、数日前に校外でタバコを吸い、警察に補導された杉山さん。杉山さんのせいで、演劇部恒例の記念公演、チェーホフの「桜の園」の上演が中止されるかもしれない。二人はおそらく、中止か続行かの結論を待っているのだ。
 ふと、話の流れで、清水さんが小学生のころの思い出を話す。同級生の男子に、生理のナプキンをとりあげられ、皆の前でからかわれた。「わたし、一生、許さないの。彼がどんなにえらくなろうと、わたしにとっては、あのときのままよ……生涯、恨んでやるの」
 許せない、ではなく、許さない。意志的で、生真面目で、思い詰めたような言い方には冷水を浴びせるような厳しさがあり、彼女はその言葉どおり、生涯かけてその男子を許さないであろうと観ている者に信じさせる。
 それを聞いていた杉山さんは、ふと彼女の顔を見やる。二人は正面でなく、90℃の角度に座っている。杉山さんは落ち着き払った真顔で言う。
「許さなくっていいんですよ、別に」。
 同い年なのに丁寧語を使っているのは、清水さんがきっと優等生だから。
 清水さんは、喫煙でつかまるような杉山さんを(正確には、事件のおこったとき、杉山さんはタバコを吸っていなかったのだが、仲間が吸っていてつかまった)、今までよくは思っていなかった。けれど今は、そんな不良性にひそかにあこがれているようだ。それはたぶん、清水さんが恋をしているから。
 彼女は演劇部にいる、背の高い女の子、倉田さんがとても好きなのだ。恋する清水さんは、自分の殻を破ってはばたきたい。はばたきたいが、自分の翼をまだ使いかねている。そんな青春期の重たさを、中島ひろ子という役者がうまく演じている。彼女は実際、鳩のような顔をしている。
 杉山さんは、そんな清水さんのことを、実はひそかに好きなのだったが、清水さんが自分でなく、倉田さんを好きなことをよく知っていて、片思いのポジションをけなげに保持している。
 髪にパーマをかけてきた清水さんに、杉山さんは、似合いますねと言い、倉田さん、なんて言っていた? と問いかける。どうしてそんなこと聞くの? と清水さん。ちょっと飛ばして、会話を書き留めてみると、
「だって清水さん、倉田さんのこと、好きなんでしょう」
「どういう意味?」
「どういう意味って、言葉どおりの意味だけど。だって、いつも見てるし……あ、でも、別に、レズとか、そういう意味じゃなくって」
 こんな繊細な言い方を、杉山という子はする。そうね、レズビアンとか、そんな言葉を使うと、彼女たちの「あいだ」が、何か違うものに変節してしまいそう。彼女たちは、自分たちの感情を安々と名付けたくはない。更地にしておきたい。いつも何かに名前をつけるのは、外側から来る力。わたしたちは、最初はみな、祝福された名無しだった。なにものでもないものだった。彼女たちの会話は、わたしたちにそんなことまで思い出させる。  杉山さんの清水さんへの恋情は、どこにも収まる場所を持たない。しかし杉山さんは、むくわれないからといって、あばれるわけでもない。自分の感情を、自分の内に、船の錨をおろすように沈め、孤独を抱く。
 ああ、真性の恋って片思いのことだな。のんきな両思いなんか、恋のうちに入らない。わたしは切実に、そう思う。
 杉山さんを演じていたのは、つみきみほという役者で、この映画の彼女は、誰よりも輝いていた。
 ここで、清水さんの言った、「許さないの」というせりふまで、ちょっと場面を巻き戻してみる。
 これを書いている今、わたしにも、許さないと決めた清水さん的なもの、男性への処罰感情が、心の底に眠っていることを認める。女は(わたしは、と言ってもいいが)、実は男が嫌いで、男も女が嫌い。そしてだからこそ、その逆もある。
 杉山さんの「許さなくていい」という言い方は、非常にぶっきらぼうだが、底のほうには慈愛のようなものがあり、観ている者の胸に広がる。女の子たちは決意している。
 けれど「許さない」などと言う清水さんを、たいていの大人は「処女の潔癖さ」などという言葉で片付けたがるだろう。だが許さないのは処女だけではない。処女であった女たちも、皆、許さない。大人になるのは、許すことなんかじゃない。
 経験は積み重なっていくが、処女であったということも経験のひとつで、処女でなくなったとしても、処女であったところがぬりつぶされていくわけではない。処女であったという事実がなくなってしまうわけでもない。それはそのまま、ある時代の感覚として、一人の女のなかに保持されていく。消えるのではなく、肉体の感覚として、わたしの一部となり、残り続けていく。
 時間は一人の人間のなかに、どのように積み重なっていくのだろうか。少なくともそれは、物語のような「線」ではない。起承転結を持つ流れなどではない。いつ、どこで、五歳のわたし、二十歳のわたしの、ある日あるときの感覚が飛び出してくるか、わからない。とすれば、人の時間は、螺旋状、あるいは渦巻き状か、いや、時間なんてそんなもの、そもそも最初から「ない」んじゃないか?

 このあいだ、近所の、新しくできた美容院へ行った。わたしの髪は、白髪だらけだが、もういい加減、髪を染めるのが苦痛になってきた。できたらもう、染めたくはないんです。このままじわじわと年老いていきたいんです。そう言うと、まだ三十代と思える美容師は、「染めなくていいです。そのままでかっこいいです」とぶっきらぼうに言う。
 え、そうなの? このままでいいのね?
 言葉に出さずにわたしは驚いていた。わたしはわたしの希望を控えめに述べ、それを簡単に肯定された。ただそれだけのことなのに、喜ぶより前に驚いてしまった。初めて「染めなくていい」という人に出会ったからだ。
 自分の思ったとおりに生きているように思われているが、わたしはそうではない。わたしは許されたような気持ちになった。解放された。わたしは白髪頭のおばあさんになったが、別のあるときは処女かもしれない。不気味ですね。でもそういうものですよ。
「染めなくていいんですよ」
「許さなくていいんですよ」
 杉山さんの声が重なって聴こえた。


  第五回(2017.06.29)

西日のさす家

 村岡家に嫁として入ったとき、美沙子さんは二十八で、当時はかなり遅い結婚と言われた。婚家にはまだ、夫の妹たち、いわゆる小姑の義妹二人がいた。
 純和風建築の村岡家には、西に向いた部屋が二つあり、一つは一階の十畳の居間。もう一つは二階にある六畳間。いずれも西日が厳しく差し込む。当時、義妹二人は、二階のほうに暮らしていて、この家の西日は容赦がないと文句を言った。二人とも美沙子さんがやってきてから、ほどなくして嫁にいった。
 最初は下の義妹。会社で知りあった恋愛結婚だった。早く相手と一緒に暮らしたかったから、彼女は飛ぶように家を出ていった。
 上のほうの義妹はまるで違った。傍目にも不本意で、いやいやだった。美沙子さんは、それが自分のせいのような気がして胃が傷んだ。上の義妹は結婚をあせらされたのだ。第一印象から、好感を持てる相手ではなかったが、今行かないと、一生、結婚出来ないと言われた。自分でもそんな気がして行くことにしたのだ。もう少し実家にいたかったが、兄嫁のいる家に長くはいられなかった。
 美沙子さんは、二人が出ていってやっぱりほっとした。からっぽになった西日のさす六畳間を、美沙子さんは義理の両親から、自分の部屋として使ってよいと言われ、そこに鏡台と小さな本棚を置いた。学生のころから和歌が好きだった。歌の創作はできなかった。もっぱら読むのは、万葉集から中世に至る和歌である。特に好きだったのは式子内親王の御歌で、解説付きの薄い歌集を、嫁入り道具として携えてきたが、それを開く時間も、読む時間も、なかなか作ることはできなかった。
 夫の昭一さんは、鉄鋼会社に務めるサラリーマンで、和歌とか詩歌には全く興味がなく――かといって何か特別な趣味もなかったが――美沙子さんがそういうものが好きだと聞いても、ふーん、そうなのかと言うだけだった。けれど、二人は、そういうのでいいと思っていた。そういうのとは、夫婦だからって、なにもかも同じにしなくていい、ばらばらでいいということ。
 以来、半世紀。義理の両親、自分の両親をおくり、夫が退職し、子供たちも独立すると、美沙子さんはようやく、家族という束縛から自由になった。そう思ったときには、すでに十分年老いていて、夫の昭一さんには前立腺がんがみつかった。がんといっても、老衰に伴って、実にのろのろと進行し、痛みが出るということもない。そうこうするうち、もともと弱かった昭一さんの心臓のほうが、いよいよ悪くなって、日々の呼吸すら苦しくなった。食欲が落ち、筋肉が衰え、次第に寝ていることが多くなった。診断を受けると、余命数年を告げられた。
 運よく近所に、医者が見つかった。「在宅ホスピス」として、終末の緩和ケアを掲げる病院だった。なにもかもを飲み込んだ先生と、よく気がつく看護師さん、スタッフさんたちが、毎日のように家に寄ってくれる。美沙子さんは、家のなかで一番広い居間の窓辺に介護ベッドを置いた。酸素ボンベやポータブルトイレもレンタルで配備して、昭一さんをみることにした。そこまでを見越してから、ようやく二人の子供たちに連絡をした。
 いよいよ、おとうさん、先が短いのよ。
 のんきな娘も驚いてやってきた。どうするの? どうするのって、もういつ、いってもおかしくないそうよ。病院でなく、この家で看取ることにしたの。おとうさんもそれを望んだし。えっ、そんなこと、できるの? 大丈夫なの? おかあさんがきついでしょう。病院に入れたら? そのほうが楽でしょう?
 娘は四十五になっていたが、独身で、父親がもうすぐ死ぬかもしれないということを、どうしても実感できないようだった。介護するという現実にもついていけないようだった。
 長男からは電話があった。仕事がたてこんでいて、なかなか帰れない。許してくれ。金、送るよ。
 美沙子さんは、娘も息子もあてにはしていなかった。二人は可愛かったし、夢中になって育てはしたが、どちらも思いどおりにはならなかった。こうなればいいがという理想を、美沙子さんも持っていた。そして最後は、元気ならばそれでいいと諦めもしたが、諦めきれないものもあった。息子は十三歳年上の女性と結婚し、そのとき嫁は、すでに子供が産める年齢ではなかった。娘はいまだ独身だが、出産にはそろそろ限界の年齢だし、結婚や出産にまるで興味を持っていない。
 わかっている。子供たちの人生と、自分の人生とは違う。そんなことを口にしても、誰もどうすることもできない。口にするのは間違っているし、子供たちの人生を否定することになる。だけど、さびしい。いつのまにか、堂々たる年齢に至った子供たちを、美沙子さんは他人のように遠くに感じる。

 夕暮れになれば西日がさす、そのときだけは眩しい部屋だった。おとうさん、眩しい?と美沙子さんは聞く。おれはかまわないよ。日あたりがいいのが一番じゃないか。
 西日は日あたりとは、微妙に違う。だが、そうですか、と言って収める。美沙子さん自身は西日が嫌いだった。それは西からさす、ただの光だ。なのになんと強いこと、熱いこと。畳が焼ける。室内も蒸し暑くなる。夏だと冷房代がばかにならない。焼けるというのは、もちろん燃えるという意味ではない。変色して物が消耗するということ。美沙子さんは、畳を長くもたせるため、西日が差し込んでくるたび、えんやこらしょと、窓を分厚いボロ布で覆った。趣味が悪くて、目を覆いたくなるものだったし、娘には汚いと嫌がられたが、そのためにカーテンやブラインドを新調するという発想を美沙子さんは持たない。はっきり言えば「どけち」だった。
 そんなボロ布でも最低限の効果はあり、窓を覆えば、室内には一気に影がさす。ほの暗さのなかに座っていると、美沙子さんはいつでも心が静まった。
 ねえ、あんた少し手伝ってくれない? もし、よかったら、ここへ帰ってきて、一緒に暮らさない? ある日、美沙子さんは、娘にたずねる。勇気がいった。あてにはしないと自分を戒めてはきたが、体がだいぶ、きつくなってきていた。
 だが娘からは即座に断られた。一緒には住めないわ。ごめんね、おかあさん。でも助ける。介護はするから。おかあさんだけにはさせないから大丈夫よ。
 娘には恋人がいた。恋人がいないことのない美しい娘だった。その美しさは、美沙子さんの自慢の種だった。けれどもその美しさが引き寄せるものは、どういうわけか、幸せではないように美沙子さんは感じていた。今度もきっと、結婚できない相手なのだろう。なぜなら、顔に影がさしているから。漠然とした予感にすぎないが、娘がよくない恋を始めると、目の端々に暗い影がうようよとわいてくる。若いころは、それが艶めいても見え、美沙子さんは執拗に、娘を攻め立てた。女として許せなかったのかもしれない。忠告を聞くような娘ではなかった。そんな影が今も兆している。この頃ではもう陰険なだけの影が。
 愚か者。最初に好きになった相手が既婚者だったことを、娘自身は何も言わなかったけれども、美沙子さんはとうに見通していた。あれから娘は何か癖になったように、そんな相手とばかりつきあうようになった。娘は苦しむ自分にうっとりしているのかもしれない。他人だったらよかったのに、その女は縁の切れない娘だった。
 娘さんには娘さんの人生があります、見守るしかないのですよと、遠い昔、新聞の人生相談に答える識者が言った。それは美沙子さんとは別の人の、別の相談に答えたものだったが、当時は美沙子さんのなかに、深く沈んだ。今はしらじらしく、通り抜けていく言葉にすぎない。血みどろの喧嘩をしてでも、やめさせればよかったと思う。なぜ自分はそれをしなかったのだろうと、美沙子さんは白い顔で考えている。
 娘は今、一日置きに来て、二時間ほど家にいて、美沙子さんと少ししゃべって帰る。何でもすると言うが役に立たない。タオルを畳んでくれるので、ありがとうと言う。仕事はうまくいっているの? 何をしているのかも知らないくせに、美沙子さんはそんなふうにたずねてみる。まあ、なんとかね。
 西日が強いのよねえ、ここ。なんとかしたいのだけれど。美沙子さんがそう言うと、昔っからだよねこの家、と娘は答える。おかあさんの好きな、あの布をかければいいじゃない。あれ程嫌っていたボロ布を、かければいいというので美沙子さんは驚く。あんたあれ、毛嫌いしていたじゃない。かけてもいいの? おかあさんらしくもないことを言うのね。ないより、ましでしょ。あれでいいじゃない。娘の声は、どんよりとしている。
 そうこうしているうちに、きつい西日も柔らかくなり、夜が来て、娘は帰っていく。誰かに会いにいくのだろうか。梅雨の時期の、月も出ない暗い夜を、「五月闇」って言うのだわと美沙子さんは思い出す。
 昭一さんは、もう口を開けなくなっていた。その目が、その体が、感知できるものは、光と影だけだった。ものの輪郭や、その具体的な状態は、かすんでぼんやりとしか見えないのだ。けれど朝と夕方に、光が差し込んでくるのはよくわかった。そんなとき、自分が窓辺にいることを嬉しいと思った。夕方の光はとりわけ強かったが、その光を嫌いではなかった。これが妻の言う西日に違いない。
 夫が眠ると、美沙子さんは好きだった歌集を開く。

 山深み春とも知らぬ松の戸に
       たえだえかかる雪の玉水

 ふと目についた式子内親王のこの歌に、美沙子さんの目は吸い寄せられた。若い頃にも読んだはずだが、記憶には残っていない。今はじめて、読むような気がする。「雪の玉水」と口にすると、硬く凝り固まったものが、水分を含んで柔らかくなり、今にもほろほろと溶けていく心地がする。
 山が深いので、まだ春が来たともわからないような松の庵の戸に、雪解けの水が落ちかかっている――。
 美沙子さんには、この松の戸が、自分のように感じられた。わびしい山奥の、誰の目にもとまらない松の戸。そこにふりかかる雪解けの水。うつらうつらとして、美沙子さんは歌と夢の境をさまよっている。
 同じとき、昭一さんは閉じたまぶたに、強い光が差し込むのを感じた。西日だ。西日に違いない。我が生涯を最後に照らす強い光。今は夕方。世界はこれからゆっくり夜に入っていくのだろう。
 左腿の上部側面には、激しい床ずれができていた。その傷の上を西日が通るとき、かすかに肉の腐臭がたつ。死にゆく人間が、最後に放つ間際の臭い。だが本人には決して臭わない。昨日来た医療スタッフが、褥瘡ケア用のぴったりとした治療テープを貼ってくれた。だから痛みは軽減されたが、それで治りが早まるというわけでもない。昨日より今日のほうがよくなっているというのは、未来を生きる者の話だ。
 本格的な夏がくる。その前にいくだろうと昭一さんは思う。死ぬときは一人だな。そう思うと、胸のなかが照らされたように明るくなった。

次へ >


 小池昌代(こいけ・まさよ)
1959年東京生まれ。詩と小説に従事。津田塾大学国際関係学科卒。詩集に『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『ババ、バサラ、サラバ』(小野十三郎賞)、『コルカタ』思潮社(萩原朔太郎賞)などがある。小説・エッセイに『屋上への誘惑』岩波書店(講談社エッセイ賞)、短編集『タタド』新潮社(表題作で川端康成文学賞)、長編小説『たまもの』講談社(泉鏡花文学賞)などがある。