影を歩く(第一回)

影を歩く(第一回)


  第一回(2017.02.01)

 

 話はいつしか吸い込まれるように、影の中へと入っていった。
「影を歩いてみたいのです」
 そう言うと、向かい合った人も、何かを思い出すような顔つきになった。
 むかし、『感光生活』という連作短編集をつくった。あのころは、光の当て方によって、日常が別のものに見えてくる、その面白さに取り憑かれていたような気がする。あのとき、光とは言葉のことだった。
 すると今、わたしの言う影とは、実体が背負う沈黙のことだろうか。確かにわたしは言葉に疲労した。傍らにいる人とはむしろ沈黙を共有したい。会話のなかで、話が途切れる間の悪さを、わたしは内心、美しいと思う。そのとき、向き合うわたしたちを隔てる、見えない水打ち際がようやく見えてくる。
 古語辞典で「影」をひくと、筆頭の意味に「光」と出てくる。日の光、月光、光り輝くものを、古の人間は「影」と捉えた。月影とはすなわち月の光のことでもあった。いつから光と影とは明確に分かれたのだろう。二つを再び一つの混沌に戻してやることは可能だろうか。あるいは今、光のあたっているところを退かせ、影に入っているものらを前面に押し出してみるのは。
 でもそれは怖いことでもある。影は影として、そっとしておいたほうがいい。そう思いながら、影へ踏み出す。低い声で語ろう。影が騒ぎ出さないように。


「たいへん、たいへん、たいへんなことになってる」
 子供が言った。せりふを棒読みしているみたいな言い方で、大変な感じはあまりしなかった。
 何が大変なのかと、隣りの部屋へ行く。
 言葉も出なかった。絨毯の上、かなり広範囲に渡って、灯油がこぼれている。直径70センチほどの濡れた楕円形だ。
 灯油の臭いが強く漂い、石油ストーブが傾いていた。「満杯にしたばかりだ」と夫が言った。意外なことだった。わたしは「カラだと思っていた」。
 もう春が近いので、ストーブの灯油をからっぽにしようと、先日、炊ききったばかりだったのだ。それを二人で確認したのに、そのあと、数日、寒い日が続いた。夫は悪魔のような親切心をおこして、誰にも告げずにタンクを満杯したのだった。
 タンクを引き上げると、ばかに軽い。ほぼ全量がこぼれ出たことになる。絨毯は簡単にははがせないタイプなので、とりあえず洗浄するしかない。いらなくなった布や古いタオルで油をすいとったあと、新聞紙を何枚も重ね、上から全体重をかけて、てのひらで押していく。置けばたちまち油がしみる。そんなことを、果てしなく繰り返す。
 灯油はわたしの掛け布団の端にもついてしまった。しかし夫や子供の布団は災難を免れていた。
「ああ、よかった」と子供が言った。自分の蒲団に灯油がかからなかったことを、素直によろこんでいる。わたしもそう思う。かからなくてよかった。しかし子供を少し遠く感じた。
 掛け布団のカバーは即座にはずしたが、そのまま洗濯機にいれると、洗濯機自体に臭いが移る可能性がある。それで手荒いしたが、臭いなどとれない。スーパーのビニール袋を二重、三重にして、そのなかにカバーを丸めこむ。
 捨てるしかない。捨てるにあたっては、匂いの他に、もっと理由が必要だった。古い、触った感触がとても悪い、そうわたしは、このカバーが好きではない。実は好きではなかった。
 長いつきあいの恋人に飽き、他の人と結婚したいと願うようなとき、人はきっと同じように人を捨てる。いや「このわたしは」と言い直すべきだろう。
 蒲団本体は、近所に新しくできた洗濯屋にもちこんだ。「蒲団丸洗いします。今なら最安値!」と書かれたポスター。希望が燃える。
「灯油をこぼしてしまって」とわたしは正直に告白した。「隅の方だけだし、全部じゃないんです」。
 ちょっと顔をくもらせた店員は、「大丈夫です」と請け負ってくれた。しかしそのあと、「ちょっと待ってくださいね」と言い、工場へ電話をかけた。そこからが少し、こみいってきた。長い説明と交渉が続き、結局、クリーニング代を考えると、処分して新しく買ったほうがいいかもということになった。
 灯油はどこへ行っても、その臭いが問題になる。
「ごめんなさい、なかなかとれないなんですよね。これだけ分離して洗うことになりますし、そのあとがまた、やっかいなんです」
「でも、この臭い、いつかは取れるでしょう? 取れますよね」
 自分で聞いておきながら、そのいつかがいつなのか、誰にも答えられないとわかっている。
 それから幾日も、手洗いをしては干し、洗っては干して。臭いはとれないどころか、広がっているような気がする。ここもあそこもいたるところに、わたしは灯油の幻臭をかぐ。
 ついに蒲団を捨てた。羽毛のかさは減り、だいぶ古かった。丸洗い二回分で、シングルの掛け布団が買える。臭いを刷新して生活をやり直そう。ゴミ袋に蒲団を入れ、全体重を乗せて、ぎゅうぎゅうと蒲団を押し込める。やわらかい蒲団の肉。何を捨てようとしているのか、一瞬わからなくなる。
 ファブリーズを使う。竹酢を使う。アルコール除菌をする。お茶がらをまく。コーヒーのかすをまく。洗剤で洗う。熱い湯でふく。扇風機をまわす。
 しかし一週間、二週間、臭いはとれない。
「いつか、いつかはとれるでしょう?」
 さあね、わからない。「いつか」って、永遠に属するなかで、もっとも頼りないコトバ。  
 この部屋を捨ててもよいが、それはこの家族を捨てることも同義だ。彼らがわたしを部屋ごと捨てていいのだけれども、灯油をこぼしたくらいで別れるわけにはいかない。そして灯油をこぼす前と、こぼした後で、何か微妙なものが違ってしまってしまったとしたら、それがわかるのは、もっとずっとあとのことだろう。
 とりあえずわたしたちはいっしょにここにいる。誰も何も言い出しはしない。何も言わないことが家族を延長していくということ。灯油をこぼして結束する家族って美しいけど、少なくともうちのことじゃない。家族はわたしを少しも責めないが、積極的に何かをするわけでもない。責任がわたしにあるということを、微妙に感じさせる空気が家族のなかにある。
 家の毛布をかきあつめ、セーターを着て眠るわたし。
「大丈夫?」と家族は聞くが、自分の毛布を差し出すなどということはしない。蒲団は安いのを買ってもいいが、すぐに春は来るだろう、もうすぐにと思うわたしは、どこか自分に罰を与えているようでもある。
 二週間、三週間。臭いは消えたかと思うと、風向き加減で、不意に強く臭う。灯油自体は大事なエネルギー源なのに、その臭いときたら、どうしてこんなに忌み嫌われるのだろう。「覆水盆に返らず」を、わたしは全身でくまなく理解する。灯油はタンクには戻らない。そしてわたしも、もう元のわたしではない。
 やがてわたしは臭いと一体化する。微妙に少しずつ臭いが消えるとしても、抜本的解決をしない限り、おそらく臭いは消えはしない。だがわたしは変わりながら慣れていく。慣れながら変わっていく。灯油の影をうっすらとまとい、臭いにまみれて生きていくのだ。灯油をこぼしてよかったのかもしれない。こぼさなければ、こんなポジションに立つことはなかった。

 

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 小池昌代(こいけ・まさよ)
1959年東京生まれ。詩と小説に従事。津田塾大学国際関係学科卒。詩集に『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『ババ、バサラ、サラバ』(小野十三郎賞)、『コルカタ』思潮社(萩原朔太郎賞)などがある。小説・エッセイに『屋上への誘惑』岩波書店(講談社エッセイ賞)、短編集『タタド』新潮社(表題作で川端康成文学賞)、長編小説『たまもの』講談社(泉鏡花文学賞)などがある。